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魔王、落ちてました
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「謝らないからな」
あの後、イザルはシグムントの両脇に腕を突っ込んで家の中まで引き摺ってきた。
椅子に腰掛け、床にペタリと座ったシグムントを見下ろす。長い脚を組み、口を開くと同時に投げられたイザルの一言は、またしてもシグムントの涙腺に追い打ちをかける。
「……イザルっ……お、っ……お前が俺の討伐に手心を加えてくれたのは、っ……感謝しているがっ、い、今の俺の立場は、もはや死んだ方がまし……ひっく、っい、今の俺には、あ、赤子程度の魔力しかない……っこのままじゃ、俺は生きていくことは叶わぬうぅ……ひぅ、うっ……」
「死ぬなら俺の知らないところで死ね。それとも面倒を見ろと言う話か」
顔をべしょべしょにして泣く魔王を見下ろすだなんて、一月前のイザルなら絶対に想像もできなかっただろう。シグムントを前にしたイザルの表情は実に雄弁で、面倒臭いと分かり易く顔に書いてあるかのようだった。
組まれた長い足のつま先が、苛立ちを表すかのように忙しなく上下に揺れている。
シグムントは、鼻の頭を真っ赤にしてイザルを見上げた。このまま引き下がるには、どうにも諦めのつかない問題だったのだ。魔力が無いのなら、無いなりに今後の生き方を考えなくてはならない。苛立ちを隠さないイザルを前に、シグムントは覚悟を決めたように唇を引き結んだ。それは、今にも漏れ出てしまいそうな嗚咽を堪えているような顔にも見える。
「ぉ、……っ俺にっ……い、生き方を教えてくれっ!」
「は?」
突拍子もないことを宣ったシグムントの言葉を、イザルは本気だとは受け取らなかった。威嚇するかのように人相の悪い顔で目を向けたが、シグムントは変わらずに見つめ返してきた。
こいつ、本気か。イザルの眉間の皺は、ますますくっきりと影を作る。椅子に腰かけ、シグムントを見下す元勇者である己に、本気でそんなことを言うのかと思った。
小屋というには生活感のある空間で、二人きり。互いに容姿が上出来であるから、余計にその姿は名もなき宗教画の美しい一枚にも見える。しかし、この状況を表すなら、シグムントにとっては生きるための大切な交渉。イザルにとっては、己の身に降りかかった面倒である。
大きく出た割には、シグムントは早々に俯いた。イザルの呆れた視線が怖かったのではない、大きな声を久しぶりに出したせいか、気恥ずかしさを覚えたのだ。
久しぶりの交渉、とは言っても、魔王時代を思い出しても誰かに強く出たことはあまりない。故に、ちょっと今のは男らしかったかもしれないなどと、誇らしくも感じていた。
「角……あれがないと、俺は魔族として生きていくこともまともに出来ないだろう……」
「そんなに大事だったら、なんで取られやすい位置に生やすんだ」
「それは俺もそう思う……。いやしかし他に収まりのいい位置」
「いや、真面目に答えんな。魔力で角ごと消しちまえばいいだろうが」
「ああ‼︎ なるほど……イザルはとても頭がいいな。そんな発想があるとは‼︎ もっと早く知りたかったなあ」
「……」
穏やかな口調で語り、苦笑いを見せるシグムントは、イザルにとっては元魔王で信じるに値しない男のはずだ。白く小さな手が、恐る恐る左の側頭部に触れた。角を失った場所は、指先の僅かな刺激だけでも痛みを感じるらしい。美しい容貌を歪ませて痛みを堪える仕草は、とても演技をしているようにはみえなかった。
「おい待て、一応聞くが、……まさか治癒はしていないのか」
「ああ、したかったんだが……、力が上手く使えなくてなあ」
怪訝そうなイザルの前で、シグムントは指を一本立てて見せた。術を発動させるのかもしれない。そう警戒を滲ませたイザルの様子など気づきもせぬまま、柔らかそうな薄紅色の唇をむぐりとつぐんで、ふんっと意気込んでみせる。
シュポン、と間抜けな音がして、イザルが見つめていた細い指先に炎が灯った。火の大きさは、イザルが煙草を吸うときに使うマッチの火よりも心許ない。
頼りなく揺れている火を前に警戒するイザルへと、至極申し訳なさそうな表情で宣った。
「期待しているところに悪いのだが……これが今の俺の最大火力だ……」
「……まじで」
「まじが本気を意味するのなら、そうだろう。まじというやつだ」
嘘だろう。イザルは表情には出さなかったが、内心では驚愕していた。あの日魔王城で対峙したシグムントは、戦意こそ微塵もなかったものの、魔力量だけは目を見張るものがあった。魔王城内に蔓延る魔物も、十分に強かったように思う。深夜の国を統べる魔王シグムント。そんな大きな存在が、今や赤子の手を捻るよりも容易い存在に堕ちただなんて。
「触れるぞ、いいか」
「なぜ?」
きょとんとした顔で見上げてくる。目の前にいる魔王は、随分と幼げな印象だった。小柄だからそう思わせるのだろうか。シグムントから角を奪った時は精神的に限界だったせいか、気にもしていなかった。
イザルの手の大きさと、己の手の大きさをまじまじと見比べるシグムントには、警戒心というものがまるでない。
「……治癒してやるっていってんだ。黙って頭を差し出せ」
正直、そう言ったのもイザルの気まぐれだ。一見女とも見間違う儚げな容姿の男が、見窄らしい姿で目の前にいる。その事の発端が己であるからこそ、少しくらいは情けをかけてやってもいいだろうと思ったのだ。
妙な動きをしたら、即刻殺す。しかし、無害に等しい弱い魔族を殺すとしても、満身創痍のままでは後味が悪いだろう。命のやり取りは、基本的には平等であるべきだ。そこまで面倒臭い理由を連ねておいて、そういえば己がシグムントの角を奪った弊害に今現在見舞われているのだと思い至った。
身から出た錆が後に響くとは。そう、ゲンナリとした表情のイザルとは反対に、シグムントは治癒という言葉に目を輝かせる。
殊勝な態度で頭を下げるように、叩き折られた角の根元をイザルへ差し出す。まるで、撫でられ待ちの犬のようだ。イザルは辟易しながらも、左角があった場所へと手を伸ばす。
「っ、ん……は……」
イザルは慣れた手つきで治癒術を行使した。傷口を包み込むような柔らかな光に、シグムントの口からはあえかな吐息が漏れる。魔族は総じて治癒が苦手なものが多い。シグムントも使えないわけではないのだが、己へと行使する場合には精度を欠く。魔力もない今、それすらも叶わなかったのが現状だが。
角を折られ一月ほど。ジクジクと感じていた痛みが、久方ぶりに和らいだ。イザルの手から放たれた魔力は心地よく、シグムントは長いこと遠ざかっていた優しさを、その身に静かに感じていた。
魔力を失い、城から放り投げられたシグムントへと手を差し伸べるものはいなかった。だからこそ、感情が制御できなかったのかもしれない。
白く長い睫毛をじんわりと濡らし、小さく震える手を握り込むことで誤魔化す。そんなシグムントの姿を、イザルは黙って見つめていた。
身なりは、長旅の過酷さを物語っていた。深夜の国から太陽の国まで、どれほどの距離があるのかは、イザルがよく知っている。なけなしの魔力で必死で渡ってきたのだろうその姿に、思うところがあったのだ。
──── 考えもなしに情けなんてかけてしまったから、こいつは要らぬ苦労をしたのだろうか。
シグムントの薄い体には、そこかしこに傷があった。イザルは頭の治癒を終えると、椅子から立ち上がった。全ては治しはしない。元魔王という点においては、まだ信用できない部分が少なからずあったのだ。そうはいっても、シグムントに敵意のない今。いつまでも床に座らせておくわけにもいかないだろう。
イザルは頭を掻くと、部屋の中を見渡した。何か座れるようなものを探そうと思ったのだ。しかし、この家には椅子と机とベットが一つずつ。用意不足なのは気ままな一人暮らしで必要がなかったからだ。と、いうよりも。こんな状況に陥るなど、考えも及ばなかったのが本音である。
「イザル……」
「なんだよ」
「治癒をしてくれてありがとう。これ以上迷惑もかけられぬだろうし、俺はそろそろ行くよ」
イザルの小さな気遣いを汲んだのだろうか。シグムントはこれ以上迷惑はかけられないと、辞することを告げる。
またな、と言葉が続きそうな気軽さだ。元魔王が柔らかな笑みを浮かべることを、どれほどの人が知っているのだろうかと思った。
「生き方は教えなくていいのか」
「ふふ、教える気などないくせに」
シグムントは、そう言って友へと向けるような笑みを浮かべた。
イザルからしてみれば、今の穏やかな暮らしが消え失せるようなことをするつもりもない。当然、シグムントの命を生かしていたなどとバレて仕舞えば、次にアルガンに命を狙われるのはイザル自身だろう。
ふくふくと笑うシグムントから、なんとなく目を逸らす。
シグムントはよろよろと立ち上がると、裾を直すようにして宣った。
「太陽の国……いや違うな。もうここは国の中だから……、ああ、そうだ王様に会いにいこう」
「会いに……って、おい。まさか角をとり返すつもりか」
今のボロ雑巾のような状態を自覚していないのだろうか。とんでもないことを口にしたシグムントへと、イザルはギョッとした顔を向ける。
しかし、シグムントは違った。まるで間違いを正すかのような口調で、そうではないよ。と優しく否定をする。
「取り返すのは違うな。ええと、交換をしにいくのだ。」
「交換……何と」
「俺の生え変わった時の角と」
にこりと笑って、そんなことを言う。シグムントがインベントリから取り出したのは、随分と細い角であった。
「また生えてくるならいいじゃないか」
「残念ながら、これは人でいう乳歯のようなもの。大人の歯は折れたら戻ってこないだろう? つまりそういうことだ」
本当は屋根の上に投げて、健康を願うつもりだったんだが。シグムントは取っておいて良かったなどと間抜けなことを抜かす。
こんな細い角では角笛くらいしか作れないだろう。しかし、呆れた目を向けるイザルとは違い、シグムントの目は実に真剣であった。
「魔力を溜め込むための左角だ。あれは人が持っていていいものじゃない」
「素直にお前の首を跳ねときゃあ良かったな」
「ああ、だがそんな怖いことを言うのはやめてくれ。せめて言うなら、俺の聞こえぬ場所で頼む」
陰口としてなら許容範囲だ。とだけ宣ったシグムントは、インベントリに角を戻す。所々滲み出る、この人間臭い発言は一体なんなのだ。イザルの中での魔王のイメージがどんどんと塗り変わっている最中、当の本人は覚束ない足取りで玄関へと向かった。
「親切にしてくれてありがとう、イザル。治癒、とても感謝している。では達者でな」
「おう……」
まさか魔王を見送る日が来るとは。イザルの顔は、わかりやすく腑に落ちてはいないようだった。片足を引きずって出ていく姿を見送る。汚れた外套が扉の隙間を撫でて消えるのを見届けると、イザルは疲れたようにため息を吐いた。
「……なんなんだ」
シグムントは、ここが太陽の国だと理解していた。しかし地図も無く、当てどころもわからぬままに彷徨うにしては、ここは広すぎる。きっと城に辿り着かずに野垂れ死ぬのが関の山だろう。この国は半魔には優しくない。それは魔物や魔族にも同じこと。
シグムントの顔立ちは酷く美しい。殺されなくとも、おそらく奴隷にされてしまうかもしれない危険を孕んでいる。それなのに間抜けな元魔王は、どうやら手にした長い棒を旅の共にするようだ。
窓越しに見る華奢な姿が棒で身を支える。髪の色も相まって、後ろから見たら爺様のような足取りだった。
シグムントはお人好しだ。こんな目に合わせたイザルを罵らず、既に運命を受け入れている。
もしイザルが同じ目に遭わされたら、口汚く罵って、そして相手にも己と同じ苦労かそれ以上のものを背負わせるだろう。
再び窓の外を見た。そこにもうシグムントの姿はなかった。窓越しに見える空は曇り始め、今にも大雨が降り出しそうだ。遠くに雷のような光も見てとれる。
「ああ、……もう……」
諦観混じりの声を漏らすのは、随分と珍しいことだった。
イザルはワシワシと自分の頭を掻いた後、小さく息を吐いて玄関を飛び出した。窓の外から姿を探した時点で、もう面倒ごとは避けられなくなっていたのだ。
これは気まぐれだ。責任を取るとかそう言うんじゃない。シグムントを殺さなかった時と同じ。なんとなく、そういう気分だったからにほかならない。
決して走りはしなかった。シグムントを探すのは、あくまでも散歩のついでだ。足跡は、イザルの靴の跡よりもずっと小さい。生き方を教えろと言ったくせに、魔族らしからずこちらを慮って無かったことにしやがった。
平たい靴底の跡。旅には向かぬ身なりでここまで来た、間抜けな元魔王。そんな頼りない足跡を残す奴が、一人で一体何をしでかそうとしているのか。
雷がなり始める曇天。シグムントが死んだらお前のせいだと責められているようで、イザルはちょっとだけ嫌だった。
あの後、イザルはシグムントの両脇に腕を突っ込んで家の中まで引き摺ってきた。
椅子に腰掛け、床にペタリと座ったシグムントを見下ろす。長い脚を組み、口を開くと同時に投げられたイザルの一言は、またしてもシグムントの涙腺に追い打ちをかける。
「……イザルっ……お、っ……お前が俺の討伐に手心を加えてくれたのは、っ……感謝しているがっ、い、今の俺の立場は、もはや死んだ方がまし……ひっく、っい、今の俺には、あ、赤子程度の魔力しかない……っこのままじゃ、俺は生きていくことは叶わぬうぅ……ひぅ、うっ……」
「死ぬなら俺の知らないところで死ね。それとも面倒を見ろと言う話か」
顔をべしょべしょにして泣く魔王を見下ろすだなんて、一月前のイザルなら絶対に想像もできなかっただろう。シグムントを前にしたイザルの表情は実に雄弁で、面倒臭いと分かり易く顔に書いてあるかのようだった。
組まれた長い足のつま先が、苛立ちを表すかのように忙しなく上下に揺れている。
シグムントは、鼻の頭を真っ赤にしてイザルを見上げた。このまま引き下がるには、どうにも諦めのつかない問題だったのだ。魔力が無いのなら、無いなりに今後の生き方を考えなくてはならない。苛立ちを隠さないイザルを前に、シグムントは覚悟を決めたように唇を引き結んだ。それは、今にも漏れ出てしまいそうな嗚咽を堪えているような顔にも見える。
「ぉ、……っ俺にっ……い、生き方を教えてくれっ!」
「は?」
突拍子もないことを宣ったシグムントの言葉を、イザルは本気だとは受け取らなかった。威嚇するかのように人相の悪い顔で目を向けたが、シグムントは変わらずに見つめ返してきた。
こいつ、本気か。イザルの眉間の皺は、ますますくっきりと影を作る。椅子に腰かけ、シグムントを見下す元勇者である己に、本気でそんなことを言うのかと思った。
小屋というには生活感のある空間で、二人きり。互いに容姿が上出来であるから、余計にその姿は名もなき宗教画の美しい一枚にも見える。しかし、この状況を表すなら、シグムントにとっては生きるための大切な交渉。イザルにとっては、己の身に降りかかった面倒である。
大きく出た割には、シグムントは早々に俯いた。イザルの呆れた視線が怖かったのではない、大きな声を久しぶりに出したせいか、気恥ずかしさを覚えたのだ。
久しぶりの交渉、とは言っても、魔王時代を思い出しても誰かに強く出たことはあまりない。故に、ちょっと今のは男らしかったかもしれないなどと、誇らしくも感じていた。
「角……あれがないと、俺は魔族として生きていくこともまともに出来ないだろう……」
「そんなに大事だったら、なんで取られやすい位置に生やすんだ」
「それは俺もそう思う……。いやしかし他に収まりのいい位置」
「いや、真面目に答えんな。魔力で角ごと消しちまえばいいだろうが」
「ああ‼︎ なるほど……イザルはとても頭がいいな。そんな発想があるとは‼︎ もっと早く知りたかったなあ」
「……」
穏やかな口調で語り、苦笑いを見せるシグムントは、イザルにとっては元魔王で信じるに値しない男のはずだ。白く小さな手が、恐る恐る左の側頭部に触れた。角を失った場所は、指先の僅かな刺激だけでも痛みを感じるらしい。美しい容貌を歪ませて痛みを堪える仕草は、とても演技をしているようにはみえなかった。
「おい待て、一応聞くが、……まさか治癒はしていないのか」
「ああ、したかったんだが……、力が上手く使えなくてなあ」
怪訝そうなイザルの前で、シグムントは指を一本立てて見せた。術を発動させるのかもしれない。そう警戒を滲ませたイザルの様子など気づきもせぬまま、柔らかそうな薄紅色の唇をむぐりとつぐんで、ふんっと意気込んでみせる。
シュポン、と間抜けな音がして、イザルが見つめていた細い指先に炎が灯った。火の大きさは、イザルが煙草を吸うときに使うマッチの火よりも心許ない。
頼りなく揺れている火を前に警戒するイザルへと、至極申し訳なさそうな表情で宣った。
「期待しているところに悪いのだが……これが今の俺の最大火力だ……」
「……まじで」
「まじが本気を意味するのなら、そうだろう。まじというやつだ」
嘘だろう。イザルは表情には出さなかったが、内心では驚愕していた。あの日魔王城で対峙したシグムントは、戦意こそ微塵もなかったものの、魔力量だけは目を見張るものがあった。魔王城内に蔓延る魔物も、十分に強かったように思う。深夜の国を統べる魔王シグムント。そんな大きな存在が、今や赤子の手を捻るよりも容易い存在に堕ちただなんて。
「触れるぞ、いいか」
「なぜ?」
きょとんとした顔で見上げてくる。目の前にいる魔王は、随分と幼げな印象だった。小柄だからそう思わせるのだろうか。シグムントから角を奪った時は精神的に限界だったせいか、気にもしていなかった。
イザルの手の大きさと、己の手の大きさをまじまじと見比べるシグムントには、警戒心というものがまるでない。
「……治癒してやるっていってんだ。黙って頭を差し出せ」
正直、そう言ったのもイザルの気まぐれだ。一見女とも見間違う儚げな容姿の男が、見窄らしい姿で目の前にいる。その事の発端が己であるからこそ、少しくらいは情けをかけてやってもいいだろうと思ったのだ。
妙な動きをしたら、即刻殺す。しかし、無害に等しい弱い魔族を殺すとしても、満身創痍のままでは後味が悪いだろう。命のやり取りは、基本的には平等であるべきだ。そこまで面倒臭い理由を連ねておいて、そういえば己がシグムントの角を奪った弊害に今現在見舞われているのだと思い至った。
身から出た錆が後に響くとは。そう、ゲンナリとした表情のイザルとは反対に、シグムントは治癒という言葉に目を輝かせる。
殊勝な態度で頭を下げるように、叩き折られた角の根元をイザルへ差し出す。まるで、撫でられ待ちの犬のようだ。イザルは辟易しながらも、左角があった場所へと手を伸ばす。
「っ、ん……は……」
イザルは慣れた手つきで治癒術を行使した。傷口を包み込むような柔らかな光に、シグムントの口からはあえかな吐息が漏れる。魔族は総じて治癒が苦手なものが多い。シグムントも使えないわけではないのだが、己へと行使する場合には精度を欠く。魔力もない今、それすらも叶わなかったのが現状だが。
角を折られ一月ほど。ジクジクと感じていた痛みが、久方ぶりに和らいだ。イザルの手から放たれた魔力は心地よく、シグムントは長いこと遠ざかっていた優しさを、その身に静かに感じていた。
魔力を失い、城から放り投げられたシグムントへと手を差し伸べるものはいなかった。だからこそ、感情が制御できなかったのかもしれない。
白く長い睫毛をじんわりと濡らし、小さく震える手を握り込むことで誤魔化す。そんなシグムントの姿を、イザルは黙って見つめていた。
身なりは、長旅の過酷さを物語っていた。深夜の国から太陽の国まで、どれほどの距離があるのかは、イザルがよく知っている。なけなしの魔力で必死で渡ってきたのだろうその姿に、思うところがあったのだ。
──── 考えもなしに情けなんてかけてしまったから、こいつは要らぬ苦労をしたのだろうか。
シグムントの薄い体には、そこかしこに傷があった。イザルは頭の治癒を終えると、椅子から立ち上がった。全ては治しはしない。元魔王という点においては、まだ信用できない部分が少なからずあったのだ。そうはいっても、シグムントに敵意のない今。いつまでも床に座らせておくわけにもいかないだろう。
イザルは頭を掻くと、部屋の中を見渡した。何か座れるようなものを探そうと思ったのだ。しかし、この家には椅子と机とベットが一つずつ。用意不足なのは気ままな一人暮らしで必要がなかったからだ。と、いうよりも。こんな状況に陥るなど、考えも及ばなかったのが本音である。
「イザル……」
「なんだよ」
「治癒をしてくれてありがとう。これ以上迷惑もかけられぬだろうし、俺はそろそろ行くよ」
イザルの小さな気遣いを汲んだのだろうか。シグムントはこれ以上迷惑はかけられないと、辞することを告げる。
またな、と言葉が続きそうな気軽さだ。元魔王が柔らかな笑みを浮かべることを、どれほどの人が知っているのだろうかと思った。
「生き方は教えなくていいのか」
「ふふ、教える気などないくせに」
シグムントは、そう言って友へと向けるような笑みを浮かべた。
イザルからしてみれば、今の穏やかな暮らしが消え失せるようなことをするつもりもない。当然、シグムントの命を生かしていたなどとバレて仕舞えば、次にアルガンに命を狙われるのはイザル自身だろう。
ふくふくと笑うシグムントから、なんとなく目を逸らす。
シグムントはよろよろと立ち上がると、裾を直すようにして宣った。
「太陽の国……いや違うな。もうここは国の中だから……、ああ、そうだ王様に会いにいこう」
「会いに……って、おい。まさか角をとり返すつもりか」
今のボロ雑巾のような状態を自覚していないのだろうか。とんでもないことを口にしたシグムントへと、イザルはギョッとした顔を向ける。
しかし、シグムントは違った。まるで間違いを正すかのような口調で、そうではないよ。と優しく否定をする。
「取り返すのは違うな。ええと、交換をしにいくのだ。」
「交換……何と」
「俺の生え変わった時の角と」
にこりと笑って、そんなことを言う。シグムントがインベントリから取り出したのは、随分と細い角であった。
「また生えてくるならいいじゃないか」
「残念ながら、これは人でいう乳歯のようなもの。大人の歯は折れたら戻ってこないだろう? つまりそういうことだ」
本当は屋根の上に投げて、健康を願うつもりだったんだが。シグムントは取っておいて良かったなどと間抜けなことを抜かす。
こんな細い角では角笛くらいしか作れないだろう。しかし、呆れた目を向けるイザルとは違い、シグムントの目は実に真剣であった。
「魔力を溜め込むための左角だ。あれは人が持っていていいものじゃない」
「素直にお前の首を跳ねときゃあ良かったな」
「ああ、だがそんな怖いことを言うのはやめてくれ。せめて言うなら、俺の聞こえぬ場所で頼む」
陰口としてなら許容範囲だ。とだけ宣ったシグムントは、インベントリに角を戻す。所々滲み出る、この人間臭い発言は一体なんなのだ。イザルの中での魔王のイメージがどんどんと塗り変わっている最中、当の本人は覚束ない足取りで玄関へと向かった。
「親切にしてくれてありがとう、イザル。治癒、とても感謝している。では達者でな」
「おう……」
まさか魔王を見送る日が来るとは。イザルの顔は、わかりやすく腑に落ちてはいないようだった。片足を引きずって出ていく姿を見送る。汚れた外套が扉の隙間を撫でて消えるのを見届けると、イザルは疲れたようにため息を吐いた。
「……なんなんだ」
シグムントは、ここが太陽の国だと理解していた。しかし地図も無く、当てどころもわからぬままに彷徨うにしては、ここは広すぎる。きっと城に辿り着かずに野垂れ死ぬのが関の山だろう。この国は半魔には優しくない。それは魔物や魔族にも同じこと。
シグムントの顔立ちは酷く美しい。殺されなくとも、おそらく奴隷にされてしまうかもしれない危険を孕んでいる。それなのに間抜けな元魔王は、どうやら手にした長い棒を旅の共にするようだ。
窓越しに見る華奢な姿が棒で身を支える。髪の色も相まって、後ろから見たら爺様のような足取りだった。
シグムントはお人好しだ。こんな目に合わせたイザルを罵らず、既に運命を受け入れている。
もしイザルが同じ目に遭わされたら、口汚く罵って、そして相手にも己と同じ苦労かそれ以上のものを背負わせるだろう。
再び窓の外を見た。そこにもうシグムントの姿はなかった。窓越しに見える空は曇り始め、今にも大雨が降り出しそうだ。遠くに雷のような光も見てとれる。
「ああ、……もう……」
諦観混じりの声を漏らすのは、随分と珍しいことだった。
イザルはワシワシと自分の頭を掻いた後、小さく息を吐いて玄関を飛び出した。窓の外から姿を探した時点で、もう面倒ごとは避けられなくなっていたのだ。
これは気まぐれだ。責任を取るとかそう言うんじゃない。シグムントを殺さなかった時と同じ。なんとなく、そういう気分だったからにほかならない。
決して走りはしなかった。シグムントを探すのは、あくまでも散歩のついでだ。足跡は、イザルの靴の跡よりもずっと小さい。生き方を教えろと言ったくせに、魔族らしからずこちらを慮って無かったことにしやがった。
平たい靴底の跡。旅には向かぬ身なりでここまで来た、間抜けな元魔王。そんな頼りない足跡を残す奴が、一人で一体何をしでかそうとしているのか。
雷がなり始める曇天。シグムントが死んだらお前のせいだと責められているようで、イザルはちょっとだけ嫌だった。
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