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第1章 魔王の再臨/プロローグ

第8話 魔王の降臨

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 目が覚めるとサティのベッドで眠っていた事に気付いた。
 そしてベッドの縁でサティとアレファンデルがベッドに突っ伏して眠ていた。
 …そうか、昨日おかしくなってサティが俺を眠らせてくれたんだ。
 体を起こし、寝起きの頭を軽く振るとアレファンデルが目を覚ました。
「…起きたか…大丈夫か…?事情は昨日の夜俺の部屋に飛び込んできたサテーンカーリに聞いた。何があったか覚えてるか?」
 アレファンデルが俺に声を掛けながらサティを起こすとサティは眠そうに目を擦りながら体を起こした。
「サティ、ベッドを使ってしまってすまない。…昨日の事は覚えてるが、何故そうなったのかは分からない。」
「その時強い破壊衝動に駆られたり、自分の中に乱暴な欲求があったんじゃないか?」
「あぁ、…頭の中に全て壊さなければという言葉が浮かんだ。」
「やっぱりな……」
 俺はそんな事は望んでいないのに。
「サティ、怖い思いをさせてすまない…」
「モロク…あのね、あの時モロクの目が急に光って真っ赤に血走ったように見えたから凄くビックリしちゃった…。だけど僕はもう大丈夫だよ。モロクは普段怖い事する訳ないもん。」
「信じてくれてありがとう、サティ…」
 頭を抱えてどうしたものかと溜息を吐くとアレファンデルが落ち着いた声で話し出した。
「モロク、少し嫌な話になるが聞いてくれるか。」
 顔を上げるとアレファンデルが真剣な顔で俺を見ていた。
 その顔を見て俺が頷くとアレファンデルは決心したように姿勢を正して話し始めた。
「少し俺の話になる。竜人族の皇族は巫師シャーマンの家系だ。俺はその第6皇子として生まれ、その時に大祖母の祈祷のお告げに従い知識の門番になる事を生きる目的として定められ育った。修行や勉強は辛い事も多かったし、知識を得る為の色んなでは嫌な思いや不快な行為を沢山させられた。そうして門番として数百年学び勤めていたが、ある日ふらりと集落に訪れたモロクと偶然知り合って…色々話している内にモロクは俺を気に入ったと言ってどうにかして自分のアジトに連れ帰ろうとした。しかし俺達竜人族は知識を持ち、集め、守る者。特に知識の門番という役割を担っている者は家族との生活は勿論、結婚なども許されず誰のものにもなってはならないという掟があった。それでもどうしても俺を連れ去ろうとするモロクに対して元々魔力も体力もある竜人族が集団で抵抗した結果、モロクは激しく消耗したようだった。だがモロクを倒すあと一歩というところで突然モロクが豹変した。それまでとは比べ物にならない程に凶暴になり集落を壊滅させる寸前まで暴れ回った挙句、モロクはついに俺を捕らえ、集落の皆が負傷して唸り声を上げるその前で無理矢理俺を……情けねェ話だが俺はその時あまりの事に気を失っていたようだ。次に気がついた時には俺はモロクのアジトの中にいた。そしてモロクは『やった事は覚えているが何故あの場であんな事になったのか自分でも分からない』と言っていた……気持ちのいい話じゃねェし、俺としても恥ずかしい話だが……」
 アレファンデルはぎゅっと目を瞑ってフードを深く被った。
 これまで前の俺やオボロンが言っていた事の詳細がやっとわかった。
「俺がいくら知識の門番といっても魔王についての知識はそれまでの歴史と俺が見て知っている事、それと前のモロクが喋った事しか知らない。だからこれはあくまで俺の予想だが、人魚のランタンを作った時に今まで使った事のない量の魔力を一気に使ったから魔王としての防衛本能…つまり身の危険を感じて凶暴化し、破壊衝動に駆られたんじゃねェかと考えてる。魔王に幼少期ってモンがあるかは定かではないが少なくともお前は産まれてまだ数ヶ月の餓鬼だ。魔力が不安定なのは当たり前と言えば当たり前なんだろう。魔力の安定は精神の安定が必須になるが、特に今のお前は人間や動物の赤ん坊とは違って泣き叫んだりはしないだけで喜怒哀楽…それ以外のものも含めて自分の感情というものが分かってないんじゃねェかと思う。これまで魔王として何度も生き返り色んな知識を持ったまま産まれる今のお前の感情は例えるなら塗り絵みたいなモンだ。外枠はあるが感情はない。自分で見つけて塗ってくしかねェんだよ。この数日間お前を見ていて俺が気付けたお前の感情は怒りだけだ。喜びも少しは見えたかもしれない。でも喜びも完全な喜びの感情とは違いそうだ。この魔力と感情のコントロールが上手く制御出来る様になれば凶暴化の可能性が下げられるんじゃねェかと思う。確か前のモロクがそれをコントロールする為のアミュレットを使ってから大分安定していた筈だ。前のモロクが手記の何処かにアミュレットについて書いてあると言ってたような気がする。そのアミュレットがあれば本当の死の危機になるまでは凶暴化が抑えられるかもしれない。」
 アレファンデルは杖を持って呪文を唱えた。
「『ハシバミの葉 愛風まなかぜ 鷦鷯ミソサザイの唄に乗せ 巡れ巡れ』……」
 そして手の中に現れた手記を俺に手渡す。
「アミュレットについて書かれてるページを探してみろ。昨日みたいな不測の事態を避ける為に早めに持ってた方がいいだろうからな。」
「…わかった。」
「あ、…あの、…ごめん、僕その本苦手みたい…」
 それまで黙って話を聞いていたサティが少し青ざめて俺達から遠ざかった。
「なるほど、手記は呪いも掛かってるから妖精には良くないのかもしれねェな。」
「…すまない、サティ。では俺達は移動して中身を確認してくる。」
「ご、ごめんね…」
「いや、俺こそ昨日から部屋を占領して悪かった。」
「ううん、また色々わかったら教えてね。」
 サティに頷いてから俺達は俺の部屋に移動してすぐに手記を開いてページを捲りながらアミュレットが記載されているページを探す。
 そしてページを捲る事数分、手記の丁度真ん中ほどのページにアミュレットの記載を見つけた。
「あった。」
 俺がそのページを開くとアミュレットの意味する事と装着方法、そして魔法陣が描かれている。
 どうやらこのアミュレットは『グルムドゥムのくつわ』という魔具で魔力の抑え方について研究した3代目が作ったアミュレットらしく、4代目も前の俺も使ったと書かれていた。
「また魔法陣か…何だかその手記を見てると面倒臭ェ魔法陣とかしっかり描いてあって…あいつ意外とマメだったんだなと思えてくる。俺にはガサツな面しか見せなかった癖に。それとも結果的に自分の事になるから真面目に記したのか…?」
 アレファンデルはチッと舌打ちをした。
「図はバングルのようだが何故轡なんだ…?」
「あぁ、このアミュレットの一部にこのアミュレットと同じ名前の魔物の馬に使っていた轡が使われてるらしい。その馬は駿馬だったが扱いが難しく強力な魔力を持っていたが故に暴走すると誰の手にも終えなかったそうだ。だがある時、その馬をどうにか乗りこなそうとする強者が現れて呪いをかけた轡でもってその馬を操り乗りこなしたそうだ。魔力の暴走と暴れ馬を掛けたんだろうが、洒落になんねェ話だな。」
「また呪いか…」
 手記の本文に目を通すと、グルムドゥムの轡は体の中の魔力の偏りを整え、均衡に保つ為の護符として常に身に付けておく事をすすめる、と書かれていた。
「アレファンデル、体の中の魔力の偏りとは…?」
「ん?あぁ、…魔力は本来、頭、右手、左手、胴体、右足、左足と6つのパーツに均等に配分され、均等に消耗するんだが、パワーバランスを間違うと片手だけとか頭だけ消費されちまったりする。多分、昨日のお前がその状態だったんだろう。ウィーゴもサツキもまだ魔力が有り余ってるって言ってたからな。要するにまだ魔力の使い方がヘタクソなんだろう。」
「そうか…ならすぐに必要だな。」
 魔法陣に手を翳すと魔法陣が宙に飛び出し、くるくる回ったかと思うと垂直に起き上がり、まるで引き出しのような動きをしたかと思うと中からゴールドのバングル型の魔具が落ちてきた。
 本の装着方法を見ると外れないようにロックする為に呪文がいるらしい。
「…見覚えのあるモンが出てきやがった。本当に代々受け継いで使ってんだな。」
 アレファンデルはグルムドゥムの轡を見てごくりと喉を鳴らした。
「注意書きがある…1.外れないようにロックの呪文を唱えたら唱えた本人以外がこれを外そうとすると強力な呪いが掛かる。2.何重にも呪いが掛かった魔具の為、耐性のない者は装着していない状態でこれを見ると呪いが移る。3.魔具の名は口に出すだけで呪いが掛かる恐れがある4.これを使うと馴染むまで5から7日間程度呪いの干渉による副作用がある。実際に代々魔王に出た副作用は容姿の変形、全身の苦痛、吐く息の毒性化、自我の喪失、猛烈な破壊衝動、魔力の暴走など…」
「使う前にこの屋敷にいる奴全員に説明がいりそうだな。万が一毒が誰かに影響するならそれを防ぐ術を探さねェと。」
「もしかしたらサティの加護が有効な手立てになるかもしれない。サティは防御や封印の加護が使える筈だ。」
「そうか、お前達契約してるんだったな。サティの特性は聞いてるか?」
「いや、実はあまり知らない。」
「オイオイ…それなのに契約したのかよ?…まぁいい。丁度いいタイミングだからちゃんと聞いておけ。」
 アレファンデルの言葉を頷き、手記とグルムドゥムの轡を置いて再びサティの部屋に向かった。
 サティの部屋をノックするとすぐにサティが扉を開けてくれた。
「サティ、聞きたい事がある。手記は俺の部屋に置いてきた。」
「え?うん、どうぞ。」
 再びサティの部屋に3人で集まる。
「サティと契約はしたが、サティの加護について聞いてなかった。詳しく教えてくれないか?」
「あっ、そういえば僕も説明してなかったよね。後付けでごめんね。えっとね、僕は翠玉石エメラルドと虹の妖精で、僕の加護は儀式の上では永遠の幸福の加護を授けることができるよ。前のモロクとアレファンデルにしたみたいにね。それと、魔法や身体効果の加護としては防御や封印、力の増減魔法ポンプに特化してるんだ。火山の時にモロクの腕に熱くならない加護をかけたのとか、人魚の声を止めた加護とかが分かりやすいかな。他には光を生み出したり、反対に光を奪ったりも出来るよ。目に作用することも。ただ、飛ぶ時と一緒で光に関するものは妖精の姿じゃないとできないけどね。あと、モロクと僕は契約してるからモロクへの加護は通常よりずっと効果が高い状態で加護を授ける事ができるよ。」
「おいおい、サテーンカーリ、お前にもあるじゃねぇか。俺にはできない特技。」
「え?」
「前に俺と張り合おうとしてただろ?あんな事しなくても俺は多少戦えはするが防御みたいな方は苦手だ。俺は怪我してから治すとか壊れてから直すことしかできねェ。要は痛い思いをした事後でしか助けてやれねェって訳だ。お前はその痛い思いをさせずに助けられる。しかも増減魔法ポンプは術者の力にも繊細さが求められる。俺にはどっちも無理だ。」
 アレファンデルがサティの頭を撫でるとサティは嬉しそうにありがとうと言った。
 アレファンデルと視線が合い、自然と頷き合う。
「サティ、例えば部屋の空間ごとや洞窟丸ごと封じ込める事はできるか?」
「うん、それは全然できると思うよ。封印の応用だけど僕みたいな能力の妖精は蜂のような役割もしてて、花粉が他の森に飛んで行かないように森全体に見えない壁を作って森の中だけで受粉させたりしてるんだよ。」
 森全体に壁を作る事ができるのなら一部屋くらいは余裕だろう。
 しかし、それは花粉の話だけかもしれない。
「質問を変えるが…万が一、俺の魔力が暴走したら俺を部屋ごと閉じ込める事はできるか?」
「…それはハッキリ言って五分五分だと思う…。僕は契約者だからモロクの魔力の影響は受けにくくなってはいるし、モロクからの攻撃も威力は半減くらいはするだろうけど……、それでもモロクはだし力の差は雲泥の差があるから…予測はできないなぁ……というか、この話って何の話?」
「俺もアレファンデルも説明するのに少し頭の中を整理しないと上手く説明できないと思う。リヨンドとラルフとアリスにも説明すから全員揃った時にしっかり話すから少しだけ時間をくれないか?」
「うん、…わかった。」
 サティはいまいち納得していない顔をしてはいるものの頷いてくれた。
「サティ、昨日みたいな事…もう誰も怖がらせる事がないようにしていきたい。この話はそこにつながる話だ。サティの力が必要になると思う。だから…これからもよろしく頼む。」
「そっか。わかった。」
 サティはようやく笑って頷いた。

 俺とアレファンデルは情報を整理して全員が揃うディナーで説明する事にした。
 その話をしてから少し手記を読み進め、呪詛の掛かるキーワードや魔王以外が触れると呪われるアイテムのページを見つけてしっかりと頭に叩き込み、話のできる状態にしてから急いで作るべき黒顔羊サフォークの本の製作に取り掛かった。
 まずはアリスに頼んで大鍋と耐火板、裁断機、縫い針、オイルランプ、革を吊るす吊り具、今あるだけの空き瓶を用意してもらい、材料の保管部屋に運び込んだ。
 本の製作は呪いの術を多用する為、1人で行わなければならない。
 一晩眠ったら魔力も大分回復したのを感じるし、呪いには魔力を使わないから本の製作を行う事をアレファンデルとサティに伝え、材料保管に使っている部屋には一応鍵は掛けるが念の為誰も近付かないように見張ってほしいと頼んだ。
 …まずは含羞草ミモザの花を切り落として皮を削り取り、妖精の樹の樹液1壷分と一緒に大鍋に入れて低温で煮込んでいる内に提灯蓮華ランプ・ロータスを撚って細い糸状にしていき、使いやすいように巻き取っておく。
 それから紙草の葉5000枚を束ね綺麗に四角く裁断し、表紙に使う分を除いて提灯蓮華の糸を縫い針に通して紙草を綴じていく。
 冊子の形になったら魔王以外の者が書き込むと呪われてしまう呪いの術をかけるとシュポッという音がして冊子が前のモロクの手記ににた少し茶色掛かった色に変化した。
 次に黒顔羊の皮を地底火山の火種で軽く炙って水分を飛ばし、低温で煮込んでいる鍋に3枚分浸して人魚のランタンマーメイド・リュヒテュを1つ放り込み、黒顔羊の呪いをかけると鍋の中身が皮だけになり、それを取り出して吊り具で吊るして表紙用の紙草を当てがいながら再び地底火山の火種で炙った。
 革が完成したら裁断機で表紙のサイズに裁断し、縁を提灯蓮華の糸で縫い上げ、妖精の樹の樹液を少しと人魚のランタン1つを混ぜ合わせて表紙と冊子を接着する。
 本の形になったら魔王以外が開かない呪いを掛けて…本が仕上がった。
 続いて喰蕾花の没食子全てと残った妖精の樹の樹液、人魚のランタンを全て鍋に入れて形がなくなるまで煮込んでいく。
 それができるまでの間に愚鳩の風切羽の先端を鋭くカットして提灯蓮華の糸で持ち手をグルグルと巻くのを2つ分作り、魔王以外が触れられないように呪いを掛け、ペンが仕上がった。
 先程没食子を煮込んでいた鍋を見てみると少し粘度のあるトロリとした液体になり、全ての材料が溶け込んだか確認し、魔法陣が発動してもその魔力に耐えられるように、そして紫外線などで書いたものが消えないように不滅の呪いを掛け、アリスにかき集めて貰った瓶に流し込み、インクが出来上がった。
 …これで、手記の本とペンとインクが揃った。
 出来上がった物を見て満足し、思わず溜息が出た。
 ふと窓の外を見ると作り始めたのが昼前だったにも関わらず、もう陽が落ちていた。
 床には切り落とした含羞草の花が沢山落ちていて、それを拾って集め、5つに分けて余った提灯蓮華の糸で結ってそれぞれまとめる。
 そして部屋を掃除して借りたものをアリスに返す準備をしてから含羞草と出来たアイテムを持って部屋を出るとアレファンデルが廊下に椅子を持ち出して座っていた。
「見張っててもらって悪い。先程完成した。礼にはならないかもしれないが…」
 そう言って含羞草を1束渡すとアレファンデルはそれを受け取って吹き出して笑った。
「お子ちゃまかよ、カワイーことしやがって。」
 それでもどこか嬉しそうにしているように見えた。
「花は使わなかったから…取り敢えず作った物をしまってくる。」
 そのまま自分の部屋へ向かい、作った物は誰にも触れられないように引き出しに仕舞って鍵をかけた。
 そしてもう一度材料の保管部屋へ行き、借りた物と結った含羞草を1つ持ってアリスがいるであろうキッチンへと向かった。
「アリス。」
 案の定アリスはキッチンにいて、ディナーの用意をしていた。
「借りた物だ。ありがとう。助かった。」 
「いえ、問題ありません。そこにそのまま置いておいて頂いて大丈夫です。お部屋も使用済みでしたら後でお掃除しておきますのでそのままで結構ですよ。」
「すまない。それと…」
 借りた物をまとめて床に置き、アリスに含羞草を1束差し出した。
「これ良かったら自分の部屋にでも飾ってくれ。材料は木の部分しか使わなかったから…いつも世話になってすまない。」
「まぁ!ありがとうございます。可愛い。含羞草ですね。是非飾らせて頂きます!」
 アリスは嬉しそうに笑って含羞草を受け取ってくれた。
 そして俺は再び自分の部屋に戻ろうとするとサティとアレファンデルが廊下で話していた。
「モロク、完成したんだね。お疲れ様!」
「俺とサテーンカーリで1時間ずつ交代で見張ってたけど、誰も来なかったぞ。」
「そうか…何事もなく済んで良かった。あぁ、そうだ。」
 一度自分の部屋に行き、残った3つの含羞草を持ち出し、一つをサティに渡した。
「サティの分。」
「わぁ、いいの?ありがとう!後でスワッグにして飾っておくよ!」
 サティもアリスのように嬉しそうに受け取ってくれた。
「その2つはリヨンドとラルフの分か?」
「あぁ、折角だからみんなに1つずつと思って…渡してくる。」
 アレファンデルは、くっくっ、と笑って「そうか」とだけ言った。
 リヨンドとラルフの部屋は3階でラルフが仕事の時、リヨンドは大概書斎にいる事が多い。
 書斎をノックすると案の定リヨンドの声がした。
「リヨンド。」
 中に入るとリヨンドはカファレルを横に大きな本を読んでいる所だったようだ。
「モロク、どうしたの?アレファンデルから集めた材料からアイテム作ってるって聞いたけど上手く出来た?」
「あぁ、さっき完成した。それで材料の中で使わなかった花を皆に渡していて、これはリヨンドとラルフの分だ。」
 含羞草を渡すとリヨンドは驚いた顔をして、そしてすぐにふふっと笑った。
「ありがとう、モロク。」
 そして俺の頭をくしゃりと撫でて書斎の空っぽの壷に2つの含羞草を活けた。
「一気に華やかになるね。あとでアリスに活け直してもらおう。そうだ、1つは寝室に飾ってもらおうかな。ラルフも花が好きなんだよ。また素敵なプレゼントをもらっちゃったね。本当にありがとう。」
「材料のあまりですまない。でも皆喜んでくれた。」
「それはモロクの周りは優しい人達が集まってるって事だよ。」
 リヨンドはにこにこと笑って頷いた。
「そろそろラルフも戻ってくるだろうし、食堂に移動しようか。」
 リヨンドの言葉に頷いてリヨンドと一緒に部屋を出ると丁度ラルフが階段を上がってきたところだった。
「おや?ただいま、リヨンド、モロク。」
「おかえり、ラルフ。モロクが含羞草をくれたよ!今一時的に書斎に飾ってある。後でアリスに活け直してもらってもいいかな?」
「本当?ありがとう!含羞草っていいよねぇ、なんか優しい気持ちになれる花だよね!アリスに可愛く飾ってって頼もう!」
 ラルフは楽しそうに笑って俺とリヨンドを抱き締めると3人で一緒に食堂へ向かった。
 食堂には既にアレファンデルとサティがいて、アリスが食卓の準備をしていた。
「皆、ただいま!ディナーにしよう!」
「おかえりなさいませ、旦那様。」
 アリスは丁寧にお辞儀をしてから着席した皆の前にそれぞれの食事を置いていく。
「リヨンド、ラルフ、アリス。食事の後に大事な話がある。」
 俺がそう言うとリヨンドは口元だけ笑ってこちらを見た。
 一瞬、初めて会った時の俺を警戒するような目をしたように見えた。
「それは……いい話かな?それとも、悪い話かな?」
「………どっちも…?」
 どう答えてよいかわからず首を傾げてそう言うと、リヨンドはいつものようにふふっと笑った。
「じゃあ食後にしっかり聞かなくちゃね。急に改まるからびっくりしちゃった。」

 皆の食事が終わり、アリスが食後のお茶を淹れてくれ、全員が着席した状態でアレファンデルを見ると深く頷いたので一度深呼吸してから話し始めた。
「昨日、俺は初めて自分が怖いと思った事があった。一瞬、自我を失って破壊衝動に駆られてサティを殺そうと襲いかけた。」
 俺の言葉にリヨンドの顔から笑顔が消えた。
「…でも俺は誰も傷付けたくないし何も壊したくない。それは信じて欲しい。あれは俺の中の魔王たる凶暴な部分で本能なのかもしれない。アレファンデルの経験から推測した結果、恐らく昨日は俺が俺として生まれて初めて急激に魔力を使い過ぎた事で体内の魔力バランスが崩れて魔王としての防衛本能が働いたんじゃないかという結論に至った。」
「…魔力バランス…なるほど、筋は通ってる感じがするね。」
 リヨンドは頷いて話の先を促した。
「それで…この暴走を制御する為の魔具があって、その魔具を装着する事で多少魔力を使い過ぎても平穏な日々を送れるようになる筈だ。その魔具の名前は…口に出来ないが昨日入手してある。」
「口に出来ないという事はなんだね?」
 リヨンドの言葉を頷くとリヨンドは複雑な顔をした。
「過去に溢れすぎる魔力を抑える研究をした魔王が作り上げたものだ。それを装着して体に馴染めば極端な暴走はなくなるらしい。ただし、それが体に馴染む約1週間、強烈な副作用で恐らく俺はこの世で最も危険なモノになる。」
 じっと俺を見るリヨンドの眉間に皺が寄り、段々険しい表情になっていく。
「副作用は容姿の変形、全身の苦痛、吐く息の毒性化、自我の喪失、猛烈な破壊衝動、魔力の暴走など…とは書いてあったが正直何が出るかは分からない。」
「それは絶対に付けなきゃ駄目なの?」
「今後の安定のために付けるべきだと判断した。」
「でも馴染むまでは誰かに、引いてはこの世界の誰にとっても危険な存在になるって事だよね?」
 リヨンドの発言にアレファンデルはバンとテーブルを叩いて立ち上がった。
「いいか?こいつは今こんなに大人しいが、それはこいつがまだ魔王として赤ん坊だからだ。忘れんな。やる事やっておかねェと後でもっとどうにもならなくなっちまう!この男は地獄の猟犬なんかじゃねェ!!そんな甘っちょろいモンじゃなくて魔王なんだよ…!!」
 声を荒げたアレファンデルにリヨンドは冷静な態度で頷いた。
「それは分かってるよ。だから私が側にいる。私はいざとなったら……モロクを倒さなければならない立場勇者だから。だからこそ魔王に関する物であればそれが良い方向に向くものか、悪い方向に向かう物かを慎重に見極める必要があると考えてる。…私は今のこのモロクは良い子だと思ってるし、倒さずに済むなら倒したくないから余計にね。」
「…リヨンド、ありがとう。俺も悪い方向に向かないようにと考えてる。俺はリヨンドが俺を倒す事でリヨンドとラルフがとても傷付くと知ってる。だから俺はリヨンドに倒されないように…これまでと同じように人間とも共存していきたい。それには手遅れになる前に手を打つしかないと思ってる。勿論、対策も考えた。」
「…対策?」
「アレファンデルは修復・回復を得意とし、サティは封印・防御・増減魔法ポンプを得意としている。これはアレファンデルとサティに迷惑を掛けてしまうことになるが、万全を期するには何処か頑丈な場所に俺が閉じこもってサティに副作用の出ている一定期間空間ごと封印と周辺の防御を頼み、アレファンデルに補助と被害が出た際の修復・回復を頼めば被害は最小限で留められると考えた。問題は俺の魔力の暴走に耐えられる頑丈な場所がどこかにあるかどうかだ…」
「モロクの魔力の暴走って、その魔力が未知数ならそんな場所探すなんて…」
 リヨンドがそう唸って俯くと、それまで黙っていたアリスがスッと手を挙げ、全員がアリスに注目する。
「発言失礼します。提案なのですが、旦那様の魔物用隔離治療室はいかがでしょう?」
「ええ?…あ!…あぁあ!」
 ラルフはポンと手を打って大きな声を出したかと思うと俺達は勿論、リヨンドでさえ頭の上に疑問符が浮いていそうな顔をしているのに気付き、ラルフは気まずそうに咳払いをした。
「…あー、うん。説明するよ。僕もすっかり忘れてたんだけど…僕がまだ獣医学生だった頃に強い魔力を持った子をケアした事があって、人に危害を加えないようにって地下に魔物専用の隔離治療室を作ったんだよね。それなりに魔力のある魔物でも無力化できる五鈷杵バジュラって魔具を5個天井に仕込んであって、もしかしたらそこなら多少は……」
「因みに魔物って何の魔物だったんだ?その辺の雑魚だったら話になんねェぞ。大体人間が捕獲できる程度の魔物ならたかが知れてんじゃねェのか?」
 アレファンデルはどかっとテーブルに肘を付いて冷めた紅茶を啜り、ふん、と鼻を鳴らした。。
「……うーん、と……アレファンデルの前ではちょっと言い辛いんだけど…老竜ニーズヘッグだったんだよね……」
 全員が驚きの声を上げ、リヨンドに至っては青筋を立ててラルフを見た。
「っ、ゴホッ!ゴホッゴホッ!…は、はぁ!?あの老竜ジジィを捕獲しただと!?」
「よ、よく生きてたね…もしかして私は奇跡を起こした人を見てるのかな…?」
 リヨンドは青筋を立てたまま口元を引き攣らせた。
 老竜ニーズヘッグは目に止まる動くもの全ての息の根を止め、殺してから獲物の血を飲む老いた竜で、竜の中でも最強の部類に入る。
「僕が見付けた時は片翼が破れて脚の骨も折れててね…。アリスに手伝ってもらって緊縛して捕獲したんだ。初めて竜と喋ったけど治療の時、彼は散々喚いてたよ。悪口言われ過ぎて何度も泣きそうになったこっけ…。」
 ラルフは言われた言葉を思い出したのか、少し涙目になって天井を見上げた。
「ゲホッ…一先ず、ニーズヘッグジジィの治療、ありがとな…。俺もアレに昔散々いなされたからラルフの気持ちは良く分かる…よく耐えたな。ま……まあ、…あの荒くれ者の頑固ジジィを閉じ込めて置けるような場所ならそりゃ期待が持てそうだが……」
 アリスが皆のカップに紅茶のおかわりを注ぎながら「補足ですが…」と話し始めた。
「魔物用の隔離治療室は魔物の逃走防止の為に入る時も出る時も特殊な細工がされておりますので普通に開ける事はできません。…よほど強力な力で破壊されない限り……また、室内は真空の壁を隔てておりますので中でどれだけ喚こうが音はほぼ聞こえません。空間自体を封印なさるのであればこの真空の壁ごと封印して追加でサテーンカーリ様の増減魔法ポンプの魔法で五鈷杵バジュラの効力を増加させると効率がよいのではないでしょうか?」
 全員分のお代わりを注ぎ終わったアリスは礼をして再び着席した。
「アリス!素晴らしいアイデアだよ!流石、元魔具専門技工士だね!」
 ラルフが拍手して絶賛するとアリスは苦笑いしてお辞儀した。
「…恐れ入ります。」
 アリスは魔具専門の技工士だったのか。
 技工士…特に魔具を取り扱う技工士は引くて数多な職業の筈だが何故やめてしまったのだろうか。
 疑問ではあるが、今はおいておこう。
「リヨンド、俺はまだ俺の本当の力や脅威が自分自身で分かってない。だから…万が一俺がどうにもならなくなったら迷ったり躊躇ったりしなくていい。俺を殺してくれて構わない。」
 俺がそう言うとアレファンデルとサティは勢いよく立ち上がって俺に詰め寄った。
「オイ、待て!!それじゃあ本末転倒だろ!!それにまだお前はまだ手記に何も残してねェだろ!!次の奴の事も考えろ!!」
「僕もそんなの嫌だよ!!まだ何の役にも立ってないもん!!」
「アレファンデル、サティ、俺にはまだ色んな感情が欠落してるがこれだけはわかる。本音を言うと、怖い…。もしかしたら俺が再生しかけているこの世界を再び壊してしまうんじゃないか。リヨンドとラルフ、それにアリスもアレファンデルもサティも…俺の意識がない内に今まで出会って親切にしてくれた皆を殺してしまうんじゃないか。俺は俺自身がどうなるかとか次の魔王がどうだとか、そんな事はどうでもいい。俺は俺が皆を傷付ける位なら殺してもらった方が誰にとっても幸せだと思ってる。」
 アレファンデルもサティもグッと口を結んで俯いてしまう。
「……モロクの決意はよく分かったよ。危害を加えたくないって意思も十分伝わった。」
 リヨンドを見ると、リヨンドは何時ものリヨンドに戻っていて、穏やかな表情をしていた。
「私は、だからこそこのの代が長く続いてくれたらいいなって思ったよ。私はモロクを生かして正解だったって今なら自信を持って言える。なんなら世界中の人皆に今の話を伝えたいくらいだよ!だからね…」
 リヨンドはぐるりとテーブルの周りに座ったメンバーを見渡して、ふふっ、と笑った。
「万全の作戦と対策を練って皆で知恵も力も持ち寄って誰一人悲しまない結果になるように努力しよう!」
 リヨンドのその言葉にその場にいた全員が頷いた。
「私はもうモロクを倒すなんて言わないよ。倒す事態になんかさせない。その代わりモロクは私にモロクを殺せだなんて残酷な事もう言わないで。ね?」
「リヨンド、皆、……ありがとう。迷惑をかけるが世界を救うと思ってどうか俺に力を貸して欲しい。」
 俺は立ち上がって皆に頭を下げた。
 しばらくそのままでいると、皆が立ち上がり、全員が俺の周りに来て頭をわしわしと撫で回した。
「わ…」
 バランスを崩して尻餅をつき、驚いて顔を上げると皆はにこにこして俺を見ていた。
「よーし!地下の魔物用隔離治療室をモロクに解放するよ!アリス、悪いけど五鈷杵バジュラの調整と確認お願いできるかな?」
「承知いたしました。では明日早速取り掛かります。ブランクがありますので少々お時間を頂くかもしれませんが…」
「作った本人が納得するまで調整してくれるならそれに越した事はないよ。」
 ラルフの言葉にアレファンデルは目を丸くした。
「アリスが魔具専門の技工士ってだけでも驚きなのに五鈷杵バジュラを作ったってのか?なんでメイドなんてしてんだ、勿体ねェ…」
「まぁまぁ、アリスにも色々あるんだよ。アリスは家事の腕もピカイチだし何より何をやらせても器用にこなしてくれるから僕としては有難いけどね!アリス、いつもありがとう!」
 ラルフはアリスの肩にポンと手を置くとアリスは深々と頭を下げた。



 翌朝、アリスは早朝から五鈷杵バジュラを調整してくれたらしく、全員が起き出して朝食をとっている時に調整が完了したと報告してくれた。
 その場で段取りをしっかり話し合い、ラルフの仕事が始まる前に隔離治療室に籠る事になった。
 期間中の立ち会いは危険度が高い為アレファンデルとサティだけが隔離治療室の前に待機することに決まった。

 グルムドゥムの轡を布でしっかり覆って包み、ラルフ、俺、リヨンド、アレファンデル、サティの順で薄暗い地下通路を歩いて行く。
 すると奥に何かのパズルのような模様が付いた壁の前に到着した。
 そしてラルフがパズルのような模様を動かしてポケットから鍵の様なものを取り出し鍵穴に差し込むと模様が動き出して引き戸の様にゆっくりと左右に開いていく。
 中は五鈷杵バジュラがまるでランプの様に部屋の中を明るく照らしていて、神聖な雰囲気が漂っている。
 ラルフはアレファンデルに扉の開け方と締め方を説明して先程の鍵を手渡した。
「モロク、いいかい?ここを閉めたら五鈷杵バジュラの結界が発動するようにアリスに調整してもらってる。15秒カウントするからそれまでに魔具をはめてロックの呪文を唱えるんだよ。」
 ラルフは俺の頭を撫でて後ろに下がった。
 リヨンドもラルフの後ろから俺を応援してくれている。
「僕はモロクが中に入った瞬間に空間を封印して扉が閉まる瞬間に増減魔法ポンプ五鈷杵バジュラの強化をするからね。」
「ぶっ壊れたら俺が直してやるからお前は兎に角必死に耐えろ。」
「サティ、アレファンデル、ありがとう。」
 2人は頷いて、サティは宙返りして妖精の姿に戻り、アレファンデルは杖をしっかり握りしめた。
「…行ってくる。」
 皆を背にして隔離治療室に入った瞬間、ラルフがカウントを開始してサティが妖精の言葉で封印と強化の魔法を掛ける。
「12、11…」
 俺は入り口からグルムドゥムの轡が見えない様に背を向けてバングルを装着し、誰にも聞こえないように出来るだけ小さな声で呪文を唱えた。
「『魔王タイフェイモロクモラフの名においてイナメン 我が血肉となれヴィーデ・マイン・ヴルーツ 兇険無道ヒャリクツ埋注アインヴェトゥン…』」
「4、3…」
 呪文を唱え終わるとギュッとグルムドゥムの轡がキツく俺の手首に食い込み、ドン、と突然全身に強烈な重力を感じて思わずがくりと膝をついた。
「に…っ、2、1…!」
 全身から棘が皮膚を破って飛び出してきそうなほどの強烈な痛みが襲ってきて叫び出しそうになるのを必死で堪え、横目で扉が閉まり切ったのを見た瞬間、堪えきれずに大声を上げた。
「あぁあああァああぁァアアッ!!」
 喉の焼けるような痛みと、目から何かが溢れ出して眼球が溶けそうだ。
 自分はこれからどうなっていくのか分からず、嫌な感覚が胸に込み上げてくる。
 これが、恐怖という感情なのか。
 ビキビキと腕の血管が浮き出てそれが脈打つ度に激痛が走る。
 歯を食いしばると激痛の走るこめかみからミシミシと頭蓋骨の軋む音が聞こえ、その音が始まってから顔を伝い始めた液体が口に入り、鉄の味を感じた時にそれが血だという事に気付いた。
 ズルズルと何かが俺の頭と背中から這い出てくる感覚、そして手足の指先も骨が砕け散ったかのような痛みが襲ってきた。
「グ、ぅぅううううウゥゥウウう…ゴハッ!!ゴボッ!」
 口からも血が噴き出し、全身の鬱陶しい感覚を振り払おうと腕を振った瞬間、俺の魔力の塊が轟音を立てて壁にぶつかった。
 だが今の俺にはそんな事を気にしている余裕などなく、床に這いつくばり、思わず床を引っ掻くと床がボロボロと抉れてしまった。
 背中からも時折黒い稲妻が走り、俺の周りの床を壊していく。
「ゥぅううあぁああああアァあァ!!!」
 それから俺は俺の自我を保っていられなくなった。

 気が付くと俺は部屋の中心で膝立ちの状態だった。
 呼吸は荒く、激しく叫んだのか、喉が裂けているかのように痛む。
 涙と血が混じった液体が目から溢れてはいたが、状況を確認しようと辺りを見回すと部屋の床は破壊されてあちこち隆起し、瓦礫の山のようだった。
 ふと、視界に見慣れないものがいくつかある事に気付いた。
 手足の指からは黒く鋭い爪、こめかみからは羱羊アルガリのような角が生え、背中には鴉のような大きな翼…。
 これではまるで書籍で見る悪魔のような姿だ。
「ゴホッ…」
 口の中は濃厚な血の味がしていて、舌で自分の歯をなぞると犬歯が異様に発達している。
 こんな姿でリヨンドの前に出たらすぐに殺されてしまいそうだ。
 ようやく息が整ってきたかと思った瞬間、ドクリと腹の底から何かの音がして再び全身に激痛が走った。
「ッ!!あ…うぅ…うぐ…ッ…ううぅう…!!」
 そして俺はこの感覚が絶望という感情なのだと知った。

 再び正気に戻った時には床と壁に夥しい数の引っ掻き傷が付いていた。
 全身が酷く痛く、手足が鉛のように重い。
 疲労、とはこの感覚なのだろうか?
「はぁ…っ、…はあ、…ゴホッ…ケホッ…」
 酷く耳も痛い…自分の叫び声で鼓膜がおかしくなったのだろうか?
 血なのか汗なのか涙なのか分からないが全身ビショビショになってボロボロになった壁にもたれた。
 壁に触れる部分が痛むが最早何をしても全身痛い。
 視界の隅で何かが動いた気がして振り向くと今度は黒い獅子のような尾が生えていたが角も翼も生えたのだからもう驚かない。
 天井を見上げると五鈷杵バジュラ翠玉石エメラルド色にぼんやりと光っている。
 …サティが頑張ってくれているのだろう。
 震える手でサティとの契約のペンダントを取り出すとペンダントもぼんやりと光を放っていた。
 せめて無くさないように服の中に入れて息を吐き出すと再びドクリと痛みの時間の始まりの音がした。

「ぉおあぁあァあぁあッ…!!……っ、…!?」
「モロク!!モロク!!!」
「起きろ!!起きろモロク!!」
 次に気が付いた時、目の前にアレファンデルが防御魔法がかかってかいる杖で俺の爪を防いでいるようだった。
 我に返った俺はアレファンデルから飛び退いてくと上手く立っていられず壁に伝って崩れ落ちる様に座り込んだ。
「ゴホッゴホッ…ッ、…はぁっ、はぁっ、…ゴホッ…」
 咳と一緒に血が出てくる。
「モロク、俺の声が聞こえるか!?」
 アレファンデルの問い掛けに辛うじて頷き、激しく痛む頭を必死に持ち上げた。
「無理しなくていい!今の内に室内直すからちょっと待ってろ!」
 アレファンデルは破壊されきった室内を直すと言い、俺の前からいなくなった。
 その少し後ろにサティが疲れた様子で座っている。
「モロク……少し僕の力が足りなかったみたい。入り口壊れちゃって…あっ、でも誰も怪我してないからね!そこは安心して!……もっ、…もう少しだよ、頑張って……僕も最後まできっとやり遂げるから…!」
「…っ、…ィ…ゲホッゴボッ…!」
 最早普通に言葉を発するのは無理なようだ。
 サティの名を呼ぼうとしたが声の代わりに血を吐いてしまった。
「モロク…!!喋らなくていいよ!少し休んで…」
「はぁ、は…、はぁっ、はぁっ…」
 息をするのも痛い。
 体のどこも気合いを入れないと動かせない程消耗しているらしい。
「…中はしっかり直した。また俺が扉を閉めてやる。…悪ィが今のお前は毒性と呪いが強すぎて回復魔法は逆に悪化しちまうし、俺も触れないから肩を貸してやる事もできねェ……自分で歩いて戻れるか?」
 早くしないとまたこのまま自我を失っては2人に危害を加えかねない。
 荒い息をしながら気力を振り絞り、ガクガクする足で立ち上がって全く力の入らない片足をずりずりと引き摺り、半ば這いずるようにしながら室内に入った瞬間、再びサティが封印と増減魔法ポンプをかけ、すぐに扉が閉じられた。
 よかった…間に合った……思わずホッと口から息が出る。
 …そうか、これが安心…。
 そう思った瞬間、あの激しい激痛の波が襲ってきた。

 気が付くともう指の一本さえ動かせない状態だった。
 全身焼け付く様な痛み、力の入らない体。
 かろうじて半分だけ上がる瞼で周囲を見てみると激しい惨状の痕跡。
 考える力もなく、俺は半ば気絶する様に意識を飛ばした。

「なぁ、お前は俺を許してくれるか?」
 上を見上げるとアレファンデルが俺を見下ろしていた。
 どうやら俺はアレファンデルに膝枕をされているらしい。
「はぁ?許す?ふざけんな。散々好き勝手やってきた癖に許すも許さねェもあるかよ。」
「お前らしい答えだな。まあ、俺がお前の立場だったら絶対許さないが。」
 はっ、と笑って酷く重たい腕を伸ばしてアレファンデルの頬を撫でるとアレファンデルは複雑そうな顔をした。
「辞めろ、そんな顔するな。俺に失礼だろ。」
 アレファンデルは無言で俺の手を握り、反対の手で頭を撫でてくれた。
「どうせ俺はまた生まれ変わる。記憶はないが何度も死んできてるからか別に死ぬのは怖くない。」
「お前はそうかも知れないけど、…」
 アレファンデルの言いたい事は十分分かってる。
 残された方は簡単に割り切れる事ではない…と言う事だろう。
 しかもアレファンデルは寿命平均5000年の内まだ600年程しか生きていない。
 生きてきた時間よりこの先1人になって生きていく残りの寿命の方がずっと長い。
 だが残す方の俺も本当は割り切れてなどいない。
 だから俺はお前に呪いを掛けてやろう。
「あぁ、そうだ。生まれ変わった俺の事はちゃんと探してサポートしてほしい。でもその俺と浮気するなよ。それ以外の奴はもっとダメだ。お前はこの俺だけにしとけ。」
 ニヤリと笑うとアレファンデルはいつものように、くっくっ、と笑った。
「… 今更恥ずかしい事言ってんじゃねェよ。」
 その笑顔は困ったような顔でもあったがとても綺麗だった。
 そして泣きそうな、消え入りそうな声で呟いた。
「……当たり前だろ。馬鹿野郎…」
 愛しい気持ちが込み上げてきて生まれて初めてこのまま時が止まればいいのにと思った。
 それなのに俺の呪いと現実はとても残酷で、それ以上何も喋る事が出来ず、身動きもできなくなって…ずっとアレファンデルを見ていたいのに急激に瞼が重くなって俺の意識はフェードアウトした。

 重い瞼を上げると俺はぼこぼこの床に身を投げ出して倒れていた。
 ………今のは何だ?
 あれは…前の俺の記憶ではないだろうか。
 愛しいという感情はあんなに切なく辛い気持ちの事を言うのだろうか。
 あれは俺が死んだ時の記憶の断片なのだろうか?
 色々と考えたいが思考はまとまらない。
 俺は夢を見る前の姿勢のまま相変わらず体はピクリとも動かせないが、痛みは大分なくなっていた。
 辛うじて動かせる目で室内を確認すると相変わらずひどい状況だ。
 ボロボロに破壊された室内のあちこちに血が飛び散っていたり壁を掻きむしったような跡がある。
 感覚的に角や尾、翼はもう生えていないようだ
 もしかして副作用が引いてグルムドゥムの轡が体に馴染んできたのだろうか?
 兎に角、体が動かせない以上、回復に努めるしかない。
 再び瞼を閉じて只管時間が過ぎるのを待った。

 動くのを諦めた俺は静かに横になっていたが腹の底から猛烈な渦が沸き起こってきたかの様な感覚で目を覚ました。
 怒り、憎しみ、悲しみ、悔しさ、心苦しさ、嬉しさ、楽しさ、愛しさ、喜び…恐らく全ての感情が一気に湧き上がったのだろう。
 俺の心情は忙しなく様変わりして体の中を駆け巡った。
 思い出した感情たちに驚いてハッと目を開け、起き上がろうとすると俺の体はとても軽く力がみなぎっている様に感じた。
 グルムドゥムの轡が完全に体に馴染んだようだ。
 立ち上がり、血でどろどろの体をぐっと伸ばし、改めて部屋の惨状を見てうんざりした。
 あぁ、『うんざり』…俺にもこんな感情があったんだな…
 皆は無事だろうか…?
 一度部屋から飛び出してしまった時の記憶はあるが、あれだけで澄んだだろうか?
 ふと手足を見るとこれまでは人間と同じ色の爪をしていたが今は黒い爪になっているし、手足の甲には呪いに関する紋章が刻まれている。
 こんな禍々しいモノは人に見せるものではない。
 これからは手袋のようなものをして過ごさないといけないだろう。
 …しかしまずはここから出なければ…
 この空間は真空の壁で囲われていて中の音はほぼ聞こえないと言っていた筈だ。
 この状況でも呼べるか分からないが…大きく息を吸ってポールを呼び出す為に指笛を吹いてみた。
 ………ダメか。
 そもそも五鈷杵バジュラの効果が強く呼び出せない可能性もあるだろう。
 見上げると相変わらず翠玉石エメラルド色にぼんやり光っていてサティが増減魔法ポンプを継続しているのが分かる。
 溜息を吐いて数日後、誰かが気付いてくれるのを待とうと諦め掛けたその時、入り口のドアが開いてポールが舞い込んできた。
『ちょっとどう言う事!?開けてもらわないと入れなかったじゃないのっ!…しかもここ何!?力が抜けそう!………って、…アナタ…本当にモロクなの…?随分雰囲気変わったわね。』
「ポール、呼び出して悪かったな。来てくれてありがとう。助かった。」
 ポールに手を差し出すとその手にポールが止まったのを確認して部屋から出た。
 その瞬間、入り口周りにいた夜空の羽を持つポールの群れの蝶達がざあっと一斉に飛び去った。
「モロク…!」
 入り口の近くにはアレファンデル、サティ、リヨンド、ラルフ、アリスが揃って立っていた。
「…アミュレットは無事に体に馴染んだようだ。皆、手伝ってくれてありがとう。」
 俺が声を掛けると全員俺を見たまま固まった。
「……何だか、随分変わったな。」
 初めに口を開いたのはアレファンデルだった。
「なかなか酷い状態だね…まるでこれこそって、感じるよ…」
 リヨンドは血みどろの俺を見て苦笑いしてから「おかえり」と俺を迎えてくれた。
「ただいま。」
「…とっ、…兎に角どろどろしてるから一旦お風呂に入っておいで!アリス、お風呂の準備とタオルを沢山用意してあげてくれるかい?」
「かしこまりました。」
 ラルフがアリスにお願いするとアリスはお辞儀をして屋敷へともどっていった。
「…その蝶が例の…?」
 サティが俺の手に止まっているポールを覗き込む。
「あぁ、元々は庭園黒曜蝶だった群れの長だ。名前はターフティポルア。」
「本当に星空みたい…綺麗な蝶だね!」
『あら、ありがと!アタクシの事はポールって呼んで頂戴!』
「僕はサテーンカーリだよ。ポール、よろしくね。」
「俺とサテーンカーリはポールの言葉が分かって良かったな。」
 アレファンデルは杖で俺の体の傷を回復させながら溜息を吐いた。
『本当よぉ!サテーンカーリ達とお話しできなかったらどうするつもりだったのよ!もう!』
 ポールに叱られながらリヨンドとラルフを振り返ると2人は不思議そうに俺達を見ていた。
「リヨンド、ラルフ、この蝶は俺の従者のポールだ。呼び出したらすぐに来てくれた。」
「ちょ…蝶と話せるのかい!?」
 ラルフが目を輝かせていて、思わず吹き出してしまった。
「俺は色んな種族の言葉を知ってるみたいだ。いつの時代かの魔王が語学好きだったのかもしれないな。」
「…モロクが…笑った……」
 サティがぽかんと呟いた言葉に頷く。
「あぁ、色んな感情を思い出したらしい。こんな風に雰囲気や一部見た目が変わってしまったところもあるど、俺がここに籠る前に言った言葉は変わらない。」
 俺がそんな話をしているうちにアレファンデルは俺が破壊した室内を綺麗に元通りにした。
 そしてリヨンドは俺の言葉を聞いてまた穏やかに笑って「よし!」と手を叩いた。
「さあ、モロク、お風呂に入っておいで。お風呂から出たら皆でお茶を飲みながら話そう。」
「ありがとう。」
 ラルフが隔離治療室に鍵を掛けてから全員で屋敷に戻る時にポールにお礼を言ってポールの群れと別れ、俺はアリスがバスタブに入る前に使えるようにと用意してくれた湯で血を洗い流し、さっぱりしてからバスタブの湯に浸かった。
 思わず寝てしまいそうになる程心地よい湯から上がり、破けたり血でどろどろになってしまった俺の服の代わりにと用意してもらったラルフのヒラヒラした服に袖を通して食堂に向かった。
「待たせたな。」
 俺が食堂に入ると皆が面白そうに笑った。
 その理由はこの服である事は分かっている。
「…ラルフの服はヒラヒラして俺には似合わないのは分かるが…仕方ないだろ。」
 俺がムッとして言うと更に皆が笑った。
「モロクがそんな顔でそんなこと言うなんてね。」
 ラルフが楽しそうに笑っているのを見て、皆が笑顔でいるなら服装の事なんてまぁいいか、と思えた。

 聞けば俺があそこに篭ってから9日も経っていて、その間6回も入り口を破壊して飛び出したと言う。
 アリスは五鈷杵バジュラを最大出力に調整した筈なのにとどこか悔しそうにしていたが俺の未知数の魔力では仕方ないだろうし誰も怪我しなかったのだからとラルフとアレファンデルが諭した。
 今回1番頑張ったであろうサティは流石に疲れたらしくうとうとと舟を漕いでいて俺はサティを寝かせてくると皆に言って抱き上げ、一度サティの部屋に向かった。
 サティは妖精だからかもしれないが驚く程軽い。
 音を立てない様に静かにサティの部屋のドアを開け、ベッドに寝かせて布団を掛けてやるとサティは完全に寝息を立てて眠り始めた。
「ありがとな、サティ。お疲れ様。」
 サティの髪を撫でてそこから離れようとした時、俺の胸元からパキッと音がした。
 何かと服の中を見てみるとサティから貰ったペンダントの石が黒くなり小さなヒビが入っていた。
「…どう言う事だ…?」
 眠っているサティを起こさない様にそっとサティのペンダントを確認するとサティのペンダントも黒く変色している。
 ただサティが疲れてしまったからこうなったのか、それとも…
 今はゆっくり休ませてサティが起きたら何が起こっているのか確認しよう。
 そう思ってもう一度布団をかけ直し、サティの部屋を出た。

第1章 終わり 第二章に続く
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