手が招く

五味

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三章 

沼の底 1

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海斗は自分が夢を見ている、そうはっきりと自覚した。
彼は、以前の高校に進学するその少し前、それこそ花家伊澄と出会うことになった、そんな事件に遭遇する、そんな時期。そうのような姿で、懐かしい、見ればそう思うが普段は忘れている、そんな風景を目にしていた。

彼の意識がはっきりしているのであれば、それこそその出来事はきちんと連続性を持ったものであろうが、目の前の風景や場所、それがコマ落としでもされているかのように切り替わっていく。
それを見ながら、見たから、これは夢なのだとはっきりと意識する。そういった夢であれば、自分の意思で場面を切り替えられる、そんなことを彼は聞いたこともあったが、今見ているものはそうではないようだ。
ただ、ぼんやりと、寝る前に消えた彼女をとにかく忘れないようにと、そう意識したからだろう。彼女に関わるその出来事を眺める。
彼が思い返せば、再会した時にも、この出来事に関しては互いにあまり触れず、伊澄からあの時はと、そう指し示したうえで、お礼を言われる程度のものであった。

思えば、彼が今の職業を得るきっかけにもなっている、そんな出来事。それがついに目の前で再現される。
その日の彼は、友人と駅前で遊び、学生らしく駅前のあちらこちらを適当に冷やかす、その程度のものであったが、その帰り道。目の前を、不審な男が歩いていることに気が付いた。
側に誰がいるわけでもなく、携帯で誰かと話している風でもない。だが、誰かがそこにいるかのように、ただ少し離れた位置にいる彼にも聞こえる、そんな音量で話している。そして、まっすぐ進むでもなく、酔っているのか、または違う理由なのか、上体を大きく揺らしながら歩いている、そんな、一目でおかしい、そう見える男であった。
追い越すのも躊躇い、男の後ろを過去の時分はのろのろとついていく。
遊び終わったその気怠さもあって、普段であれば気にせず追い抜き、さっさと歩き去っただろう。
今にして思えば、この選択は良かったのだろう、当時はそれこそ後々いろいろと考えることになったが。

暫く、他に見る物もないため、目の前の不審な男を観察しながら、道を歩く。
そもそも、駅で遊ぶこともなければ通らない、不慣れな道だ。
何処をどうたどれば帰れるのか、それが分かっている程度、それも遠回りとそう思いながらも歩かなければ、それこそ場所が分からなくなる、携帯で確認しながら、そういった歩き方を求められるようなそんな道。
見慣れた場所へと合流する、そのためには、そろそろ大きな通りに出なければ、そんな曲がり角が近づいた時、突然目の前の男が走り出した。
何事かと、驚いてみれば、男の走る先には、自分と同じ年頃の少女がいた。
たまに見る制服は、自分の通う学校のものとは異なるが、それでも名前くらいは知っている、そんな学校の制服だ。
その人物に向かっている、そうはっきりと感じる程度には、その男が、これまでふらふらと歩いていた男が、ずっと続けていた独り言も止め、猛然と走り出す。

海斗は、それを他人ごとのように、今の彼は過去の事だからなおの事、それをぼんやりと見送る。
当時の時分は、このとき何を考えていたのだろうか、そんな事を考える余裕もあった。
今にして思えば、まず行うべきは、手に持った携帯で警察に通報することだったのだろう。だが、その時はそんな冷静さもなく、どうなるのか予想もできないのに、男を追いかけた。
運動部に所属しているわけでもないが、それでも体を動かす機会はほどほどにあり、男が走り出してから、かなり遅れての行動ではあったが、その距離が徐々に縮まる。
そして、走り寄る男に気が付いたのだろう、当時の伊澄はその場で立ち止まり、男を見る。
そして、男の顔を見て、何か感じるものがあったのだろう、後で聞いても面識はないと、そういわれた、カバンを盾にするように構え、身を縮めるだけであった。

当時の彼は、それに対して何かを叫んだ。
それは夢として見ている中でも、よく聞き取れない、それこそ顔に恐怖を浮かべている彼女には、聞き取れるわけもなかっただろう。
彼は知らぬことではあるが、そもそもその男の影になって、彼女からは男が、口を半開きにして、よだれを垂らしながら、それでもへらへらと、妙な笑顔を浮かべながら自分に走り寄ってくる、そんな姿しか見えていなかった。
いや、影になっていなくとも、その男意外にまともに気が周りはしなかっただろうが。

そして、身を縮めるだけの小娘は、男にその場に押し倒される。
走った勢いそのままにぶつかられ、持っていた鞄はよそに飛んでいき、悲鳴を上げることもできずに組み敷かれる。
それから十秒ほどだろうか、男が抑え込んでいる、その背中に追いついた彼は、躊躇うこともなくその背を横から蹴りはらった。
これまで喧嘩など縁がなく、格闘技などもちろんやったこともない、素人の蹴りでも走った勢いがあったからだろう。男は彼女の上から転がるように落ち、海斗を睨むように見上げる。
短い距離でも全力で走ったためか、僅かに息が上がりながらも、彼は改めて男を正面から見る。
血走った目、明らかに健康とは思えない肌、ぼさぼさの髪、眼の下にはクマが色濃く、開いた口からはよだれを流している。
そして、その手には、小さいながらも鈍く光る刃物。

海斗は手に持っていた携帯を、まず、未だに地面に横たわる伊澄に放り投げ、警察に電話しろ、そう叫び、肩から下げていた鞄を男に投げつける。
当時は、そこで自分が何をしたのかよく覚えていなかったが、夢に見ると、ああ、こんなことをしたのか、そう改めて思い返される。
投げつけた鞄は、そのまま男の顔に当たるが、男はひるむこともなく、何か意味のない叫び声を上げながら、今度は彼のほうへと飛び掛かろうとする。勿論、手にした刃物を前にして。
そこで恐怖で身が固まることが無かったのは、まぁ、若さゆえの無謀か、何か正義感のような、側で未だに地面に倒れる彼女を、この場で守れるのは自分しかいない、そんな安っぽい英雄志向か。
なにかそのようなものに突き動かされ、彼は男の飛び掛かりをかわし、刃物を握る手にしがみつき、見よう見まねでそれを捩じる。
当然そんなものは上手くいくはずもなく、見た目に反して異常な力で、組み付いた腕で振り回され、近くの電柱にたたきつけられる。
その衝撃で息が詰まったその隙に、男は刃物を彼につき込む。
それをどうにか体をひねり、どうにか刺されることは避けたが、複だけではなく肩から腕にかけて、切り傷ができる。
そんなことを数度繰り返し、彼はようやく男の手首をつかみ、それをひねり、足をかけ地面に引き倒すことに成功する。

その様子を、過去の自分の視界越しに見る今の彼は、運が良かった、そうとしか思えず、自分のことで、終わって、無事だった、そうとわかっているのに、冷や冷やと、嫌な緊張感を味わうこととなった。
最初に組み付いた時の、無理な動きで痛めたのか、それこそ後になって分かった、麻薬の服用、その効果が切れたのか、そこからは彼でも十分に抑え込める、その程度の力しかなくなった。
そして、未だに、体は起こしていたが、震えて様子を見るだけだった伊澄に、叫ぶように告げる。
早く警察を呼べと。
2・3回そう叫べば、彼が投げつけた携帯を手に、震えながら、たどたどしく何かを話し出す。
その間も押さえつけた男は、訳の分からない叫びをあげ、抑え込めるとはいっても、気を抜けば抜け出しそうなその男を、どうにか全力で、それこそ火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか、そのようなもので押さえ続ける。

後から聞けば、警察が来る迄、5分にも満たない時間だった、そう聞いたが、当時の彼は1時間ほどに感じていた。
抑える腕は疲れでしびれだし、それだけでなく、切り付けられた傷から流れる血が、貧血も起こしていたのだろう。
抑えられる男と、抑え込む彼自身、その汗が滑らせようとする中、ただただ、男をどうにか抑えつけた。
そして、少し遠くに見えた警官が、彼らに気が付き、駆け出し近づいてくる。
その拍子に、少し気が緩み、もがき続けた男の手が自由になる。
落とした刃物は拾っていないが、男の上に乗り、押さえつける彼を自由になった手で殴りつけ始める。
そんな中、自由にはさせるまいと、離れた手を取ろうとはせず、頭と首に手をかけ、体重をかけ抑えつける。
そして、何度も振り回される手が顔に当たり、いい加減意識も薄れかけ始めたころに、警官が彼に代わって、男を抑えつける。
二人組の片方が抑え、もう一人が、もう大丈夫だと、そう声をかけながら彼を助け起こす。
そして、そこで彼の意識は途切れた。
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