心の中にあなたはいない

ゆーぞー

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ブライアン

8 あの日は二度と来ない

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 暖かな光が自分を照らしていることに気がついた。ゆっくり目を開けるといつもの天井が見える。しばらくぼんやりと見ていると、昨日までのことを思い出した。子どもたちが自分の子どもではなかったこと。アリーに騙されていて、刺繍も翻訳も実はアニーの功績だったこと。思い返すと俺は腹立たしく、叫び声をあげて髪をかきむしった。

 しかし何かがおかしい。何かが違う。この違和感は何だ。

「どうかされましたか?」

 ノックの後に入ってきたのは、おそらくジョンソンだろうか。おそらくというのは、白髪だった髪が黒く顔の皺も少なくなっていたからだ。俺は驚きのあまり呼吸すら忘れていたのかもしれない。言葉も出ないまま、ただ茫然と彼を眺めていた。

「悪い夢でも見られたのでしょうか」

 彼はそう言ってカーテンを開けた。室内が明るくなって部屋の様子がわかると、俺は少し離れたところにある鏡に目をやった。そこには少年が映っていた。それが自分だとわかると、俺の心臓がバクバクと音を立ててきた。

 どういうことだ、どういうことだ、どういうことだ。

 この部屋の家具は俺が昔使っていたものだ。結婚と同時にこの家具は処分されたはずだ。そしてジョンソンも自分も明らかに若返っている。つまりは今ここは過去ということなのか。まだアリーと結婚していないなら。俺はゴクリと唾を飲んだ。深呼吸して気持ちを整える。

「早くお支度をしませんと」

 ジョンソンはそう言って俺をベッドから出るように促した。

「今日はロゼルス家で大事なお話がございますからね」

 あの日だ。俺は思い出した。そうだ、婚約を白紙にしようとロゼルス家に向かったあの日。見事な刺繍を見て意見を変えてしまった日。全てが狂ってしまった日。

 婚約はなかったことにしよう。刺繍を出してきても無視しよう。アリーがどんなに媚を売ろうと構わない。そしてアニーをきちんと見よう。






 馬車の中で両親は黙ったままだった。重苦しい空気。思い出した。あの日もそうだった。俺は何もわかっていなかった。貴族の結婚は家の結びつきのためだ。本人の意見は関係ない。だから俺は両親の意見に従った。相手が誰でも関係はないと思っていたので、見目の良いアリーならいいと思っただけだった。

「あの家はダメだ」

「社交界に勝手に噂を流してしまいましたわ。どう致しましょう」

 ようやく父は重苦しい顔をしたまま話し出し、母は泣きそうな声で震えていた。

「噂はあくまでも噂です」

 俺は2人が落ち着くように、なるべく明るく答えた。

「とにかく話をしましょう。逃げていても仕方がありません」

 刺繍を出してきても無視すればいいだけだ。むしろ向こうが問題を起こしていると言ってやっていい。とにかく相手に誤魔化されず立ち会えばいいのだ。俺は息を吐き背もたれに身を任せた。アリーはどんな様子だっただろうか。刺繍を出してきた時のアリーは誇らしげな表情を浮かべていたと思う。人にやらせてよくもあんな顔ができたものだ。思い返すとハラワタが煮え繰り返る思いがする。落ち着こう。俺は小さく深呼吸を繰り返した。

 ロゼルス家に着くと出迎えに現れたのは執事とメイドだけだった。俺は違和感を感じた。確か以前は両親とアリーも出てきたはずだった。あの時のアリーは綺麗なドレスを着て微笑んでいた。いかにも貞淑な淑女を演じていたわけだ。あの時の俺に一言注意をしてやりたい。しかしどうしてだろう。俺たちは応接まに案内された。

 そこで俺たちはずいぶん長い時間待たされた。父はイラついて足を小刻みに震わせている。母は疲れたのか顔色が悪くなっていた。おかしい。あの時はこんなに待たされなかった。すぐに話し合いに入ったはずだ。しかしこれは好機と捉えていいだろう。前もって連絡をしているのにここまで待たせるのは礼儀を欠いている。これだけでも婚約を辞退できる。

 このまま怒って帰ってしまっても構わない。父と小声で打ち合わせ、俺たちは立ちあがろうとした。するとそこにようやくロゼルス家の人間が現れた。当主とその妻のみでアリー、アニーの姿がない。

「じ、実は、アリーの体調がすぐれず・・・」

 明らかに歯切れも悪く目を泳がせながら、当主が説明している。横で妻が青白い顔で俯いていた。

「そうですか、アリー嬢は以前から病弱のご様子ですので婚姻は無理でしょう」

 以前もそんな会話をしたはずだったが、環境のいいラガン家に行けば体調も安定するだろうとか、季節の変わり目さえ気をつければ大丈夫だなど言いくるめられたのだ。実際は病弱でもなんでもなかったのだ。御者と浮気して2人も子どもを産めたのだから。

 そんなことを思い出し、俺は口を開いた。

「それではアニー嬢に会わせてもらえませんか」

 あの日アニーはどうしていただろうか。この場にいただろうか。どうしても思い出せない。それはきっと覚えていないからだろう。でも今は何故かアニーに会いたかった。アニーを見たいと思ったのだ。

「アニーに?」

 明らかに夫婦は狼狽している。

「そうです。妹のアニー嬢にお会いしたいのです」

 夫婦は顔を見合わせ、何やら目配せし合っている。

「アリー嬢は病弱なご様子ですから、後継は難しいでしょう。元から姉か妹のどちらでもとそちらはおっしゃってたではないですか」

「アニーは・・・」

「遠方の親族のところに嫁ぎました」

「は?」

 俺は素っ頓狂な声を出した。両親が驚いて俺を見ている。そんなことは以前はなかった。アリーがアニーを手放すはずがない。でもこの場に2人とも出てこなかった。前の時に出してきた刺繍も出てこない。

「これでは何も成り立ちませんな」

 父がそう言って立ち上がり、母もそれに続いた。

「縁がなかったということで」

 俺も両親に続いた。

「では失礼します」

 軽く頭を下げる。

「待ってください」

「アリーの体調がいい時にもう一度お話を」

 図々しいことを彼らは言っているが、俺たちは無視して部屋を出る。父がかなり立腹しているのが伝わってくる。母も怒っているがそれ以上に呆れているのもわかった。

「全くおかしな一家だ」

「常識が欠けていますわね」

 玄関に向かいながら両親に適当に相槌を打つ。後ろからはロゼルス家の当主が小走りに追いかけてくる。

「何とぞ、何とぞ。もう一度ご再考を・・・」

 悲壮な声を出してくるが、無視して何気なく外を見た。着飾った女と若い男。アリーとあの御者だった。

「お嬢様、旦那様のところへ行かれませんと・・・」

「いいじゃない。もう少し」

「・・・はぁ」

「私が結婚しちゃってもいいの?お金のために嫁がないといけないなんて最悪でしょ。かわいそうでしょ」

 父は真っ赤な顔をして小刻みに震えている。母は目を見開き微動だにしていないのだが、その目は赤く血走っているように見えた。

「体調が悪いんでしたっけ?」

 俺はなるべく感情を込めずに心がけたつもりだが、思いがけず低い声が出た。夫妻は青ざめた顔をして今にも倒れそうだった。俺たちはそのまま無言のままロゼルス家を辞した。
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