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第3話 毒母VS京女

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 河合さんが呼び鈴を鳴らし、重い木製の扉をギイッと開けた。

 玄関ホールには濃茶色の木材がふんだんに使われ、重厚な雰囲気が漂う。絨毯は靴の半分が沈むほどフカフカで、階段の手すりの形もとてもエレガントだ。

 二階の一室に入ると、洋館らしいアンティークなキャビネットと応接セットがあり、白髪を綺麗にセットした上品な老婦人が腰かけていた。

「はじめまして。金田さんから電話で事情は聞いたんやけど、親に大学辞めろて言われてはるんやて?」

 ああ、この声の抑揚、京言葉だなあと感じる。

 勧められるまま、美希は楕円形のテーブルの向かい側に河合さんともども腰を下ろした。大家さんが指輪をはめた手を美希に差し出す。爪もきちんと手入れされ、筋張ってはいてもどこか若々しい。

「せっかく合格した大学辞めるなんてアホらしい。ま、スマホかしよし」

「は? 『かしよし』?」

「スマホ。今時の学生さんは持ってはるやろ?」

「かしよし」は「貸して欲しい」という意味のようだ。美希がスマホを渡すと、お年を召した方だというのに楽々と操作し、大家さんは母に電話をかけてしまった。

 美希が「え」と止めるまでもなく、スピーカーをオンにしてテーブルの上に置く。

 母が電話に出た。きっと美希からの電話を待ちわびていたのだろう。

「もしもし美希? ちゃんと大学辞めてきた?」

 大家さんがいかにも京都の人らしくゆったり歌うような口調で話し始める。

「いやあ、北村さんのお母様ですやろか。私、京都で商売を手広くやらせてもろてます白河と申します」

 ここまでは事実だろう。しかし──。

「先ほどお宅のお嬢さんに孫が鴨川で溺れかかってるのを助けてもらいましてん」

 美希はガバっと顔を上げる。

「ええっ?」

 河合さんが「しっ」と指を口元に立てて「そういう出会いにしておくってことでしょ」 と囁いた。

「はあ……」

「なんや、お嬢さん、大学辞めると言うてはりますけど、ほんまどすか?」

 母は美希が何か良い事をしても褒めることもなければ関心を持つこともない。孫を助けたという嘘もバレることはないだろう。母は母の言いたいことだけを言う。

「仕方ないんです。主人が癌になりましたので看病とか大変なんです。それにウチはそれなりの家で先祖の遺産もあって、その相続の問題も抱えているんですよ」

 白河さんは「はあ……」と一呼吸入れ、母の勢いを削いでから尋ねた。

「で、ご主人の癌て、何の癌でステージはどうなんですか?」

 母の説明は素っ気ない。

「前立腺がんのステージ1だそうです」

「そら、よろしおすなあ。確か前立腺癌の場合のステージ1ゆうたら、五年生存率がほとんど百パーセントのはずですえ。早期発見ですがな」

「よかったなんて。癌なんですよ? 家族が力を合わせてこれから支えないと」

「ウチかて乳がんのステージ2ですわ。ウチ、もう八十歳になって主人もおらへん一人暮らしで、闘病生活も自力で送ってますけど? 早期段階の癌と闘いながら生きている人も多いのに、全ての癌がすぐ命にかかわるように言われるのも気分悪いですわ」

「だけど……いいえ、それだけじゃなくてですね、我が家は夫に遺産問題を頑張ってもらわないといけないんです。夫は三男なのに私が姑と同居させられたんです。なのに遺産は小舅たちと同じで……今までの苦労も報われずにさらに苦労が待っているなんて」

「それが娘さんを退学させることとどう関係しますのん?」

「どうって……家族が団結して乗り切らなければならない時に、自分の大学進学っておかしいでしょう? こういうときは親元に戻って親を助けるのが当然です。偏差値が高い西都大学じゃないと嫌だなんて、娘は偏差値至上主義で温かい人間性がないんです。この子の思いやりのなさにはどれだけ困ってきたことか」

「西都大学の法学部いうたら東大に次ぐエエとこでっせ。実の娘がそこを卒業して、法曹資格を取ってくれたら親としては心強いと思いますけどなあ」

「東京にも大学は沢山あります。高校の附属の大学だってきちんとしたお嬢様学校です。そこで学べば十分です」

「聖星女学院いうんでしたっけ。私立の中でも学費が高いとこですなあ。かといって司法試験の合格率が特に高いとか聞いたことないですけど?」

「そんなの本人の努力と能力でしょう? どんな環境でも頑張れる人間が合格するんです。通っている学校のせいにするのは甘えです。自己責任でしょ?」

 白河さんは呆れた顔をし、隣の河合さんも顔をしかめた。こちらの反応を知らない母はお構いなしに続ける。

「それに、別に弁護士になんかならなくていいじゃないですか。他人を押しのけてエリートになろうという考えがおかしいんです。法律の知識なんてウチの遺産相続に役に立つ程度でいいんですから」

 白河さんは指先を軽く頬に当てた。

「お母様が考えてはるのは……娘さんが西都大学を辞めてその女学院に通って、そこで司法試験に合格できなくてもそれは自己責任として諦めて、OLにでもなればいい……そんなとこですかね?」

「それで十分じゃないですか。親が大変な時に何を高望みしようとするんだか」

「せやけど、それはそれで大変どすえ。日本も不景気ですさかい、普通の事務職では必ずしも一人暮らしができるほどお給料が貰えるとは限りません。それに朝から晩まで会社に拘束されて家事なんかも大変です。せやから最近は実家暮らしの若者も増えてます」

「……」

「お母様、これからも娘の家事を引き受け続けるのは嫌やと思いませんか?」

 母は即答した。

「困ります! いつまでも家にいて親に世話をさせるなんて。子どもは自立するべきです!」

 河合さんが小声で「よく言うわ。自立のための大学進学を阻止しようとしてるくせに」と吐き捨てる。

「せやったら、西都大学を卒業して高収入を得られるようにするべき……」

 白河さんの話を母の低い声が遮った。

「ですけど、それってキャリアウーマンになるということですよね?」

「その言葉も今はちと古い気もしますけど」

「私の友達の娘さんがバリバリ働くタイプで仕事ばっかり。親の面倒を見るのもなおざりなんだそうですよ」

 河合さんが苛立たし気に足を組む。

「ほう。お母様はどちらも嫌な訳どすな。安月給で実家にいる娘の面倒を見るのも、高給取りで自活する娘が親の面倒を見ないのも」

 母はやっと話が通じたかと言わんばかりの口調だ。

「もちろんです」

「となると。一番ええのは稼ぎのいい旦那を捕まえて専業主婦しながら母親の生活の面倒を見てくれる娘。そうなりますな」

 母は相変わらず悪びれない。

「そうです。それが一番です」

 白河さんは「まあ、自分がお姑さんに家政婦みたいに扱われてきたら、元を取りたい気にもなるんでしょうな」と早口で呟いてからきっぱりと言い切った。

「そしたら、やっぱりお嬢さんは西都大に通うべきですわ」

「は?」

 美希も驚く。何でそうなるの?

「今時、専業主婦を養えるのはごく少数のエリート男性です。まあ東大や西都大とかを筆頭とする男性ですな」

「はあ……」

「お嬢さんは一度西都大学に合格してます。この事実は消せません。自分より頭が悪い女性を望む男性には、お嬢さんは結婚するには煙たい。かといって、エリート男性が自分と釣り合う知的な女性を妻に望む場合に、無名の大学卒は魅力的じゃない」

「んまっ! 聖星女学院は立派な……」

 白河さんは「知りまへんな」の一言だ。

「お嬢さんは西都大学で未来の旦那を捕まえるのがよろしいわ。そしてついでに資格も取得しておく。取っといて何も困ることあらしまへん」

「でも……」

「一定の資格を持っていれば時間の融通が利く働き方ができます。例えば薬剤師さんとか」 

 薬剤師と法曹資格と違う点も多いだろうが、身近な例を出されて母は黙る。美希が親の世話をするのに差し支えない程度に働けば、美希の自由になるお金はすなわち親の自分が好きに出来るお金だ。母は頭の中で電卓を叩いているに違いない。

「そうですわね……この間、ドラッグストアに行っても薬剤師さんがお休みでお薬が買えずじまいだったことがあって……休みが好きに取れていい職業だと思ったものですわ」

 いや、それはお店との労働条件があらかじめ決まっているのであって、薬剤師が気楽な仕事という訳では決してないのだが。とはいえ、ここは美希が京都で学べるように言質を取るべき局面だ。

「そうどす。資格があれば働きながらお母様の面倒もちゃんと見られます」

「なら西都大学で学ばせてやりたいですわ。でも遺産がどうなるかわからないまま夫が出向になって収入が減るとなると当面の進学費用が……」

 白河さんがニヤリと笑った。 

「お母様は聖星女学院に通わせるようなこと言うてましたやん? その大学の学費が年間百五十万て聞きましたえ。高い方ですなあ。西都大学は国立やさかいにその三分の一ほどで済みますわ」

「でも下宿代が年間百二十万も……」

 白河さんが声を高くする。

「いやあ奇遇どすなあ! 実はウチ学生寮を営んでますねん。今年の入寮募集は終わりましたけど、お嬢さんは何せかわいい孫の命の恩人ですから今日からでも入っていただきます。家賃は月額五千円。年間で六万円どす」 

 本当だろうか? そんな低額で京都に住むことができるの? 

「朝と夕食は合わせて一日七百円でお出ししますから月二万円と少し。冷蔵庫や電子レンジも共用。お風呂も寮全体に浴場があります。ベッドと机と衣装棚は部屋に作り付けです。食費や服飾費はご自宅におられてもかかってきますやろ? 問題は下宿代だけ。年に六万円くらい…… 」

 ここで白河さんはタメをつくった。

「西都大学で一生もんの旦那を捕まえるためなら安い投資でっせ」

 母は少しだけ考え込むと「分かりました。それではよろしくお願い致します」と折れた。白河さんが「ほな、お嬢さんはこちらでお預かり致します」と電話を切り、それを美希に差し出す。

「良かったなあ」 

 だが、隣で河合さんが憤然と声を上げた。

「北村さんの母親って娘をヤングケアラーか介護要員として利用することしか考えてないんじゃないですか! 娘に進学を諦めさせる前に検討すべきことはいっぱいあるはずです! それもせずに退学しろと電話で命令するだけなんて!」

 白河さんはこともなげに「ま、そういう人なんやろ」 とだけ返した。

「それより、寮生委員会を開いて入寮を正式に決めとかんと」

 壁時計のローマ数字の文字盤が、夜が深まりつつあると告げていた。

「今から寮委員長に電話して入寮審査会を開くように手配しとくわ。まあ、私がエエと言うてるんやから形式的なもんやけど、それでも急がんと消灯時間に間に合わへん」

 河合さんは「そうですね!」と勢いよく立ち上がって、「行くよ」と美希についてくるように促す。

「でも……」

 美希は自分を取り巻く状況が目まぐるしく変わっていくのについていけない。私はこの寮で学生生活を送ることになったようだけど……。ここはどんな場所でどんな人たちがいるんだろう?


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