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第4話 入寮審査会
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お屋敷の玄関ポーチを出て裏手に回ると、森の中に廃墟があった。
コンクリート造りの三階建てのビル。ただの箱のような建物に、素っ気ない窓が規則的に並ぶ。銀色だったのであろうアルミサッシはくすんだ灰色として鈍く光り、月夜にそびえるそのビルの外壁は全体的に色あせ多くのひび割れが走っていた。あちこちの窓枠から黒い染みが垂れ下がっているのも一層寂れた感がする。
暗い窓は夜空より闇の色が深い一方で、明かりが灯っている部屋もある。
「高度成長期に建てられた小学校か何かですか?」と美希は聞いてみた。今は少子化で小学校が廃校となり、一方で地域コミュニティの活性化を図るために何かと利用されているらしい。実家近くの公立小学校もナイター設備を活用してお年寄りのゲートボール会場になっていたっけ。
「あー学校に見えるか、なるほどね。うん、高度成長期に建設されたっていうのは合ってる」と答えた河合さんが「ここが、我らが下鴨女子寮だよ」 とにんまり笑う。
「この建物、人が住めるんですか?」
「ははは。予想通りのリアクションだねえ。ボロいでしょ? ま、人間、屋根と壁があれば住めるもんだよ。あ、でも! 一応寮生委員会の入寮審査はあるけどね」
河合さんはククッっと喉を鳴らして、美希は可愛い孫の恩人だから形だけだと付け加えた。
「私、誰も助けた覚えはありません」
「嘘も方便、方便」
河合さんは軽く答えて、昭和の公共施設らしくガッツリと縁取りされたガラス戸を開けて中に入る。
「なんかお祭りでもあるんですか? 靴が一杯ですけど」
「別に? 普段からこうだよ。みんな靴を出しっぱなしだから。あ、靴の数に驚いた?」
河合さんが壁を指さす。壁全体に「102」「301」といった部屋番号らしい数字が大きく書かれたスリッパ掛けがあった。
「この寮は三階建で各階に十部屋二十人、合わせて六十人が定員。もちろんこんなボロ寮に人気があるわけないから常時十人くらいは空きがある。だから今晩からでも入寮できるよ」
反対側の壁の小窓が開き、ショートカットの若い女性が顔を出した。カウンターも設置されているから受付であるらしい。
「お帰り、河合さん。その人が連絡のあった入寮希望者? 寮委員はもう食堂に集まってるってよ」
「あ、そうだよね。急がないと消灯時間になっちゃうもんね」
まずは昔ながらのねじ式蛇口が並ぶ洗面所で手を洗って、二人は階段を地下に降りる。すると、またガラス戸があって、その中が公民館のような広い空間となっていた。パイプ椅子とテーブルが並ぶ大きな部屋の左手奥に長いカウンターがあって食器が並んでいる。
「ここが食堂だよ。食事を作ってもらった人はカウンターから自分の分を受け取るの」
「はあ……」
その食堂の一番奥のテーブルに三人の若い女生が並んで座っており、口々に「おかえり~」と河合さんに声を掛けてきた。
「ただいま。入寮希望者を連れてきました~」
河合さんは歌うように告げながら、二つ空いていた椅子の一つに座る。それを機に、三人並んでいた真ん中の女性が、立ったままの美希を見上げた。
「はじめまして。私は寮委員長で、同立大学大学院で社会学をやってる新市って言います。マスコミで有名な社会学者に古市って人がいるけど、私は『新しい市』って苗字です。今からあなたの入寮審査会だから、まあその席に座って」
「は……い」
美希が座ると左右の二人も自己紹介してくれる。
「副委員長の炭川です。宝華大学の漫画学部です」
「漫画学部? 大学にそんな学部があるんですか?」
「今や漫画は日本の文化。ま、ウチの大学が日本で初めて作った学部だそうだけど。私の名前は……ほら、最近のヒット作で炭治郎って登場人物がいるじゃない。それで覚えて。炭治郎の炭川」
美希はあいまいに笑って頷いた。美希の家では漫画は禁止だった。
「会計担当の京都経済大学の筧《かけい》です。『かけい』って名前だからって訳じゃないけど、家計を診断するファイナンシャルプランナーの資格も持ってます」
「学生なのにですか?」
「まだ二回生だけど一回生の間に取っちゃった。学生の内に取れる資格は取っとこうと思って」
「しっかりされてるんですね」
色んな大学の色んな学部の人達が集まっているようだが……。
「あの、この寮はどこかの大学の寮というわけではないんですか?」
さっき白河さんが自分の持ち物のように説明していたが……。その疑問に筧さんが答えてくれる。
「うん。白河さん個人の所有。昭和の頃までご主人が経営してた会社の羽振りが良くてね。京都にある大学の寮が男子ばかりで女子が入り辛かったから、それで女子寮を作ったんだって」
新市さんが後を引き取る。
「当時は学生紛争とかで学生寮も落ち着かないところが多くてね。さらに女性の大学進学率も低くて女子寮の整備は遅れがちだった。だけど、先に受け皿が無いと、女性が大学に進学しづらいままでしょ。だから奥様の提案で女子専用の寮にしたそうよ」
筧さんが「ただねえ」と溜息をついた。
「会社が繁盛してた時は良かったんだけど、バブル崩壊とかで会社もなかなか大変で。この寮も平成に入ってからほとんど改修工事とかしてないの。かくしてこの寮は令和の今もこうオンボロなわけ」
炭川さんが笑う。
「だから何時でも入寮できるんだけどね」
委員長の新市さんが自分の手持ちのノートPCを開いた。
「それじゃ、寮生委員会を始めます。議題は北村美希さんの入寮について」
その時。食堂に人が入ってきた。とても細い、折れそうに細い女性だった。
「由梨さんもこっちにおいでよ」
その由梨さんと呼ばれた女性はカウンターで夕食を揃えて同じテーブルについた。他の四人がその手元にさりげなく視線を送る。
新市さんが「この人はリケジョなんだよ。西都大学の理学部数学科」と教えてくれた。美希は感嘆する。凄い。自分はとても数学が苦手だったのに。
由梨さんが「はじめまして」と微笑む。その声もまた、どこか繊細な雰囲気だった。
新市さんが「じゃ、入寮審査会を進めます。あ、議事録作りながらだけど気にしないでね」とPCのキーボードに指を乗せる。
「さて。母親に大学を辞めろと言われてるんだって? 父親が病気で経済的に厳しいとか?」
「ええと……」
河合さんが横から前のめり気味に説明する。
「経済的な事情もあるけど、それより、お母さんが変な人でさあ!」
心理学が専門の河合さんには母の性格の方が気がかりらしい。西都大生らしく頭のいい人で、美希の事情を要領よく説明していく。一通り入力し終えた新市さんの指が止まった。
「確認するね。経済的にはお父さんが病気で、近々出向で収入減の見込み。お母さんは専業主婦で無収入。で、自分だけじゃ心細いから一人娘の貴女を東京の実家に戻らせようとして……」
「いえ、私、一人娘じゃありません。妹がいます」
全員が「え?」と声を上げ、口々に「妹ってことは高校生以下だろうけど……年が離れてて小さいの?」「何やってんの?」と問いかける。
矢継ぎ早に投げかけられた質問に美希がやっと答えた。
「高校二年生です」
「妹さんがいるのに、どうしてお母さんは大学を辞めさせてまで貴女を呼び戻そうとするの?」
「妹は夜遅いので……」
「塾か何か? まだ受験学年じゃないのに?」
「妹はあまり勉強が好きじゃないから聖星女学院に内部推薦で入ると思います」
「特殊な部活でもやってんの?」
「いえ、ただお友達との付き合いが忙しくて。毎晩終電で帰宅するんです」
「はああ?」「ちょっと、どういうこと?」と皆が一斉に騒めく。
「母は……妹が可哀想だと言います」
ここでかしましかった女子学生たちが押し黙った。
「あのう……私を見て想像はつかないかもしれませんが、母と妹はすごく美人なんです」
皆が黙るばかりなので美希は説明を加える。
「本当に綺麗なんです。芸能界入りしても正統派美人女優でやっていけそうなくらいに……」
新市さんが「ごめん、話が見えない」と額に手をやった。河合さんは「まあ、一通り聞いてみようよ」と美希に先を促してくれる。
「妹は私と違ってとても美人ですが、あまり勉強ができません。そのストレスで肌のトラブルが絶えなくて。それで心が荒れて不良になっちゃったんです」
「不良?」
新市さんと河合さんは顔を見合わせ、炭川さんと筧さんも互いを見つめる。由梨さんは静かで思案気な視線を美希に向けていた。
「そうなんです。髪を茶色に染めて煙草を吸って……」
「肌荒れに悩んでいるのに夜更かしして煙草を吸うの?」
「妹さん、禁煙と規則正しい生活は送ってみた?」
美希は首を横に振った。
「親は何も言わないの?」
「言えないと思います。だって、怖いんです。厚化粧で睨みつけられると」
炭川さんが顎を引いた。
「ちょっと待って。肌がそんなでメイクもするの? 高校生なのに?」
「ええ、あの……肌荒れを隠さないといけないから……」
新市さんが「おかしいよ!」とこめかみを押さえる。美希だってそう思う。
「私も二人にそう勧めました。肌荒れには健康的な生活とメイクを休むことが有効なんじゃないかって。そうしても改善しないのなら皮膚科を受診すべきなんじゃないかって」
新市さんをはじめ皆がほっとした顔をする。
「そうだよ、妹さんの生活がちょっとおかしいよ」
「なんだ、貴女は真っ当な意見が言えるんじゃん」
「で、お母さんはなんて?」
美希の心が痛む。
「美希は本当に心が冷たいって」
寮委員会の場は「はあ?」「ごめん、話が全く見えない」「何がどうして貴女の性格の問題になるわけ?」と再び騒然となった。
美希は唇を噛んでうつむく。
「妹が苦しんでいるのに思いやりがない……って母は言います」
「……」
皆の無言が重たく感じられて、美希はますます下を向いた。やはり、妹を気遣えない自分が冷酷だと皆にもバレてしまったのかもしれない。妹の美貌を妬んでいると思われているのだろう。
河合さんが「いやあ、貴女の意見の方が理に適ってるとしか思えないよ?」と言い、新市さんが「なるほど、河ちゃんの言うとおりなんか変なお母さんだね」と呆れる。
「でも、私は思いやりがないんです。理屈で相手をやり込めようとする、心の冷たい人間だって」
炭川さんが「お母さんがそう言ってるの?」と、そして筧さんが「他に何を根拠に?」と聞いてくる。
「ええと、たとえば……」
美希は子どもの頃の話をした。
つい二年前まで、美希の家には祖母が健在だった。母にとっては姑で、その仲は険悪そのものだった。母は常に苛々しており、そんな母のために、父が頻繁に姑抜きの家族旅行をしていた。
あれは小学三年生の夏休み。屋外プールのあるホテルに泊まった。紺碧の空にむくむくと立体感のある雲が浮かぶ空の下で泳ぐのはとても開放感があって楽しく、これだけで 済んでいれば美しい思い出だったのだが。
その日の夕食前に眼がとても痛くなった。瞬きする度にはっきりとした痛みが走る。洗っても市販の目薬を差しても治らない。
ホテル近くの眼科の夜診に行くと、年配の女医が険しい顔で「この子、とんでもない眼の病気がありますよ!」と診断した。
結局は、東京に戻って大きな病院を受診し、プールのゴミで少し目が痛んだだけだと判明したが、その時点ではその女医の言葉がショックで「とんでもない病気ってなんだろう」と怖くてたまらなかった。
とても夕食なんか口にできずに泣きじゃくる美希のために、父は妹だけを連れてホテルのレストランのディナーに出かけ、母が美希と部屋で過ごすことになった。
母は部屋でテレビ番組を見ていた。芸人が騒ぐ番組で、母も時折番組内の効果音に合わせて声を立てて笑っている。だから美希は一人で不安を募らせていくしかない。相変わらず瞬きごとに目が痛み、美希は怖くて怖くて 「痛いよう、痛いよう」と泣いていた。別に心ここにあらずの母に聞かせるつもりなんてなかった。
それなのに、母は「はああっ」と苛立たし気な溜息をついてテレビ画面をそのままに美希に向き直る。
「美希ちゃん」
改まった静かな口調に圧を感じて、美希の涙は瞬時に止まった。
「さっきから何? そんな声を出して、聞かされる側がどんな気持ちになると思うの?」
「……」
「この旅行はね、おばあちゃんのせいでいつも辛い思いをしている家族のためにパパが連れて来てくれたの。みんな楽しもうとしているのよ。それなのに美希ちゃんのせいで迷惑してるの」
この時、美希の頭がひんやりと固まったことを今でも覚えている。
「本当に美希は思いやりのない子ねえ」
そうか。自分は家族旅行を台無しにするような心の冷たい子なのだ。人間に最も大事なのは優しい心なのに私にはそれがない……。
だから十八歳の今、この話を聞かされた下鴨女子寮の人たちも黙りこくっているに違いない。
コンクリート造りの三階建てのビル。ただの箱のような建物に、素っ気ない窓が規則的に並ぶ。銀色だったのであろうアルミサッシはくすんだ灰色として鈍く光り、月夜にそびえるそのビルの外壁は全体的に色あせ多くのひび割れが走っていた。あちこちの窓枠から黒い染みが垂れ下がっているのも一層寂れた感がする。
暗い窓は夜空より闇の色が深い一方で、明かりが灯っている部屋もある。
「高度成長期に建てられた小学校か何かですか?」と美希は聞いてみた。今は少子化で小学校が廃校となり、一方で地域コミュニティの活性化を図るために何かと利用されているらしい。実家近くの公立小学校もナイター設備を活用してお年寄りのゲートボール会場になっていたっけ。
「あー学校に見えるか、なるほどね。うん、高度成長期に建設されたっていうのは合ってる」と答えた河合さんが「ここが、我らが下鴨女子寮だよ」 とにんまり笑う。
「この建物、人が住めるんですか?」
「ははは。予想通りのリアクションだねえ。ボロいでしょ? ま、人間、屋根と壁があれば住めるもんだよ。あ、でも! 一応寮生委員会の入寮審査はあるけどね」
河合さんはククッっと喉を鳴らして、美希は可愛い孫の恩人だから形だけだと付け加えた。
「私、誰も助けた覚えはありません」
「嘘も方便、方便」
河合さんは軽く答えて、昭和の公共施設らしくガッツリと縁取りされたガラス戸を開けて中に入る。
「なんかお祭りでもあるんですか? 靴が一杯ですけど」
「別に? 普段からこうだよ。みんな靴を出しっぱなしだから。あ、靴の数に驚いた?」
河合さんが壁を指さす。壁全体に「102」「301」といった部屋番号らしい数字が大きく書かれたスリッパ掛けがあった。
「この寮は三階建で各階に十部屋二十人、合わせて六十人が定員。もちろんこんなボロ寮に人気があるわけないから常時十人くらいは空きがある。だから今晩からでも入寮できるよ」
反対側の壁の小窓が開き、ショートカットの若い女性が顔を出した。カウンターも設置されているから受付であるらしい。
「お帰り、河合さん。その人が連絡のあった入寮希望者? 寮委員はもう食堂に集まってるってよ」
「あ、そうだよね。急がないと消灯時間になっちゃうもんね」
まずは昔ながらのねじ式蛇口が並ぶ洗面所で手を洗って、二人は階段を地下に降りる。すると、またガラス戸があって、その中が公民館のような広い空間となっていた。パイプ椅子とテーブルが並ぶ大きな部屋の左手奥に長いカウンターがあって食器が並んでいる。
「ここが食堂だよ。食事を作ってもらった人はカウンターから自分の分を受け取るの」
「はあ……」
その食堂の一番奥のテーブルに三人の若い女生が並んで座っており、口々に「おかえり~」と河合さんに声を掛けてきた。
「ただいま。入寮希望者を連れてきました~」
河合さんは歌うように告げながら、二つ空いていた椅子の一つに座る。それを機に、三人並んでいた真ん中の女性が、立ったままの美希を見上げた。
「はじめまして。私は寮委員長で、同立大学大学院で社会学をやってる新市って言います。マスコミで有名な社会学者に古市って人がいるけど、私は『新しい市』って苗字です。今からあなたの入寮審査会だから、まあその席に座って」
「は……い」
美希が座ると左右の二人も自己紹介してくれる。
「副委員長の炭川です。宝華大学の漫画学部です」
「漫画学部? 大学にそんな学部があるんですか?」
「今や漫画は日本の文化。ま、ウチの大学が日本で初めて作った学部だそうだけど。私の名前は……ほら、最近のヒット作で炭治郎って登場人物がいるじゃない。それで覚えて。炭治郎の炭川」
美希はあいまいに笑って頷いた。美希の家では漫画は禁止だった。
「会計担当の京都経済大学の筧《かけい》です。『かけい』って名前だからって訳じゃないけど、家計を診断するファイナンシャルプランナーの資格も持ってます」
「学生なのにですか?」
「まだ二回生だけど一回生の間に取っちゃった。学生の内に取れる資格は取っとこうと思って」
「しっかりされてるんですね」
色んな大学の色んな学部の人達が集まっているようだが……。
「あの、この寮はどこかの大学の寮というわけではないんですか?」
さっき白河さんが自分の持ち物のように説明していたが……。その疑問に筧さんが答えてくれる。
「うん。白河さん個人の所有。昭和の頃までご主人が経営してた会社の羽振りが良くてね。京都にある大学の寮が男子ばかりで女子が入り辛かったから、それで女子寮を作ったんだって」
新市さんが後を引き取る。
「当時は学生紛争とかで学生寮も落ち着かないところが多くてね。さらに女性の大学進学率も低くて女子寮の整備は遅れがちだった。だけど、先に受け皿が無いと、女性が大学に進学しづらいままでしょ。だから奥様の提案で女子専用の寮にしたそうよ」
筧さんが「ただねえ」と溜息をついた。
「会社が繁盛してた時は良かったんだけど、バブル崩壊とかで会社もなかなか大変で。この寮も平成に入ってからほとんど改修工事とかしてないの。かくしてこの寮は令和の今もこうオンボロなわけ」
炭川さんが笑う。
「だから何時でも入寮できるんだけどね」
委員長の新市さんが自分の手持ちのノートPCを開いた。
「それじゃ、寮生委員会を始めます。議題は北村美希さんの入寮について」
その時。食堂に人が入ってきた。とても細い、折れそうに細い女性だった。
「由梨さんもこっちにおいでよ」
その由梨さんと呼ばれた女性はカウンターで夕食を揃えて同じテーブルについた。他の四人がその手元にさりげなく視線を送る。
新市さんが「この人はリケジョなんだよ。西都大学の理学部数学科」と教えてくれた。美希は感嘆する。凄い。自分はとても数学が苦手だったのに。
由梨さんが「はじめまして」と微笑む。その声もまた、どこか繊細な雰囲気だった。
新市さんが「じゃ、入寮審査会を進めます。あ、議事録作りながらだけど気にしないでね」とPCのキーボードに指を乗せる。
「さて。母親に大学を辞めろと言われてるんだって? 父親が病気で経済的に厳しいとか?」
「ええと……」
河合さんが横から前のめり気味に説明する。
「経済的な事情もあるけど、それより、お母さんが変な人でさあ!」
心理学が専門の河合さんには母の性格の方が気がかりらしい。西都大生らしく頭のいい人で、美希の事情を要領よく説明していく。一通り入力し終えた新市さんの指が止まった。
「確認するね。経済的にはお父さんが病気で、近々出向で収入減の見込み。お母さんは専業主婦で無収入。で、自分だけじゃ心細いから一人娘の貴女を東京の実家に戻らせようとして……」
「いえ、私、一人娘じゃありません。妹がいます」
全員が「え?」と声を上げ、口々に「妹ってことは高校生以下だろうけど……年が離れてて小さいの?」「何やってんの?」と問いかける。
矢継ぎ早に投げかけられた質問に美希がやっと答えた。
「高校二年生です」
「妹さんがいるのに、どうしてお母さんは大学を辞めさせてまで貴女を呼び戻そうとするの?」
「妹は夜遅いので……」
「塾か何か? まだ受験学年じゃないのに?」
「妹はあまり勉強が好きじゃないから聖星女学院に内部推薦で入ると思います」
「特殊な部活でもやってんの?」
「いえ、ただお友達との付き合いが忙しくて。毎晩終電で帰宅するんです」
「はああ?」「ちょっと、どういうこと?」と皆が一斉に騒めく。
「母は……妹が可哀想だと言います」
ここでかしましかった女子学生たちが押し黙った。
「あのう……私を見て想像はつかないかもしれませんが、母と妹はすごく美人なんです」
皆が黙るばかりなので美希は説明を加える。
「本当に綺麗なんです。芸能界入りしても正統派美人女優でやっていけそうなくらいに……」
新市さんが「ごめん、話が見えない」と額に手をやった。河合さんは「まあ、一通り聞いてみようよ」と美希に先を促してくれる。
「妹は私と違ってとても美人ですが、あまり勉強ができません。そのストレスで肌のトラブルが絶えなくて。それで心が荒れて不良になっちゃったんです」
「不良?」
新市さんと河合さんは顔を見合わせ、炭川さんと筧さんも互いを見つめる。由梨さんは静かで思案気な視線を美希に向けていた。
「そうなんです。髪を茶色に染めて煙草を吸って……」
「肌荒れに悩んでいるのに夜更かしして煙草を吸うの?」
「妹さん、禁煙と規則正しい生活は送ってみた?」
美希は首を横に振った。
「親は何も言わないの?」
「言えないと思います。だって、怖いんです。厚化粧で睨みつけられると」
炭川さんが顎を引いた。
「ちょっと待って。肌がそんなでメイクもするの? 高校生なのに?」
「ええ、あの……肌荒れを隠さないといけないから……」
新市さんが「おかしいよ!」とこめかみを押さえる。美希だってそう思う。
「私も二人にそう勧めました。肌荒れには健康的な生活とメイクを休むことが有効なんじゃないかって。そうしても改善しないのなら皮膚科を受診すべきなんじゃないかって」
新市さんをはじめ皆がほっとした顔をする。
「そうだよ、妹さんの生活がちょっとおかしいよ」
「なんだ、貴女は真っ当な意見が言えるんじゃん」
「で、お母さんはなんて?」
美希の心が痛む。
「美希は本当に心が冷たいって」
寮委員会の場は「はあ?」「ごめん、話が全く見えない」「何がどうして貴女の性格の問題になるわけ?」と再び騒然となった。
美希は唇を噛んでうつむく。
「妹が苦しんでいるのに思いやりがない……って母は言います」
「……」
皆の無言が重たく感じられて、美希はますます下を向いた。やはり、妹を気遣えない自分が冷酷だと皆にもバレてしまったのかもしれない。妹の美貌を妬んでいると思われているのだろう。
河合さんが「いやあ、貴女の意見の方が理に適ってるとしか思えないよ?」と言い、新市さんが「なるほど、河ちゃんの言うとおりなんか変なお母さんだね」と呆れる。
「でも、私は思いやりがないんです。理屈で相手をやり込めようとする、心の冷たい人間だって」
炭川さんが「お母さんがそう言ってるの?」と、そして筧さんが「他に何を根拠に?」と聞いてくる。
「ええと、たとえば……」
美希は子どもの頃の話をした。
つい二年前まで、美希の家には祖母が健在だった。母にとっては姑で、その仲は険悪そのものだった。母は常に苛々しており、そんな母のために、父が頻繁に姑抜きの家族旅行をしていた。
あれは小学三年生の夏休み。屋外プールのあるホテルに泊まった。紺碧の空にむくむくと立体感のある雲が浮かぶ空の下で泳ぐのはとても開放感があって楽しく、これだけで 済んでいれば美しい思い出だったのだが。
その日の夕食前に眼がとても痛くなった。瞬きする度にはっきりとした痛みが走る。洗っても市販の目薬を差しても治らない。
ホテル近くの眼科の夜診に行くと、年配の女医が険しい顔で「この子、とんでもない眼の病気がありますよ!」と診断した。
結局は、東京に戻って大きな病院を受診し、プールのゴミで少し目が痛んだだけだと判明したが、その時点ではその女医の言葉がショックで「とんでもない病気ってなんだろう」と怖くてたまらなかった。
とても夕食なんか口にできずに泣きじゃくる美希のために、父は妹だけを連れてホテルのレストランのディナーに出かけ、母が美希と部屋で過ごすことになった。
母は部屋でテレビ番組を見ていた。芸人が騒ぐ番組で、母も時折番組内の効果音に合わせて声を立てて笑っている。だから美希は一人で不安を募らせていくしかない。相変わらず瞬きごとに目が痛み、美希は怖くて怖くて 「痛いよう、痛いよう」と泣いていた。別に心ここにあらずの母に聞かせるつもりなんてなかった。
それなのに、母は「はああっ」と苛立たし気な溜息をついてテレビ画面をそのままに美希に向き直る。
「美希ちゃん」
改まった静かな口調に圧を感じて、美希の涙は瞬時に止まった。
「さっきから何? そんな声を出して、聞かされる側がどんな気持ちになると思うの?」
「……」
「この旅行はね、おばあちゃんのせいでいつも辛い思いをしている家族のためにパパが連れて来てくれたの。みんな楽しもうとしているのよ。それなのに美希ちゃんのせいで迷惑してるの」
この時、美希の頭がひんやりと固まったことを今でも覚えている。
「本当に美希は思いやりのない子ねえ」
そうか。自分は家族旅行を台無しにするような心の冷たい子なのだ。人間に最も大事なのは優しい心なのに私にはそれがない……。
だから十八歳の今、この話を聞かされた下鴨女子寮の人たちも黙りこくっているに違いない。
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無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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