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第7話 自転車の教習
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翌朝。美希は朝食を取りに食堂に降りた。意外にも地下だというのに食堂は明るい。この寮は傾斜した土地に建っていて、玄関から下に降りた地階の外には緩やかな斜面とその底にある草地が大きな窓から見えるからだ。
今日は天気も良く、春の青空に森の梢の緑がよく映える。
朝食時の食堂は昨夜と違って人が多くて活気に溢れている。これから大学に向かう学生ばかりでその出入りは慌ただしい。
「おはようございます」と美希に声をかけてきた人がいて、昨日知り合った誰かかと思ったが、そうではなかった。
「おはようございます」「おはようございます」と寮生たちはすれ違いざまに声を掛けあう。特に親しくなくてもそう挨拶するのが作法なのだろう。
「おはよう」と今度は聞き覚えのある声がした。由梨さんだ。その隣に知らない人が立っている。
「北村さん、この人は私の同室の長田朝子さん。看護師さんなのよ」
「はじめまして。看護師をやってて、西都大学の医学部看護学科に社会人入学してます」
「プロの看護師さん!」
同じ学生でも、社会人経験があってしかも医療従事者。なんだか凄い。
「人を救うお仕事されて、さらに勉強しようとするなんて。尊敬します!」
長田さんは涼やかな顔で「ありがとう」と微笑んだ。
由梨さんがカウンターに向かうので皆で朝食を受け取る。パンは生で、カウンターの隅に置いてあるトースターで各自焼くらしい。トレイには、キャベツの千切りにトマトのサラダとハムエッグの乗ったお皿と、牛乳が入ったマグカップが置かれている。
なんとなくこの三人で同じテーブルに着き、美希の向かいに座った由梨さんがトーストを細かくちぎりながら話す。
「この寮では原則専門が近い人がルームメイトになるのだけれど。私の場合は体調が悪いから、看護学科の朝子ちゃんと同じ部屋にしてもらっているの。とても安心よ」
美希はごく普通に問いかけた。
「どこが悪いんですか?」
その美希の質問は、由梨さんの隣の席にトレイごとすとんと腰を下ろした女性にさえぎられる。
「看護師さんに夜間常駐してもらうのって本当だったらすごくお金かかるよね」
この声は……。
由梨さんが「そうよね。朝子ちゃんをタダ働きさせて悪いわね」とにこやかに返し、長田さんが「由梨さん別に何もないから、私は毎晩ゆっくり寝てるよ~」とのんびりした口調で続ける。
由梨さんの体調はプライベートなことだし今無理に聞くこともないが、ここで話しかけて女性には美希は尋ねてみずにいられない。
「あの……金田さんですか?」
金田さんの声だと思うが、金髪じゃない。黒のベリーショートにすっぴんの顔。別人のようだ。
「ああ、金髪はウィッグだから。地毛は黒だよ、私」
どうして金髪のかつらを被るのだろう? 美希はかなり訝しそうな顔をしているはずだが、金田さんはもっと大事なことがあるという口ぶりで「それよりさ」と話題を変える。
「自転車どうするの? 京都での新生活で一番気がかりなのが自転車に乗れないことなんだけど?」
長田さんが驚く。
「え? 自転車乗れないの?」
「はい。都内で地下鉄の駅も近かったものですから……」
「それでも普通は親が乗れるように教えてくれない?」
金田さんが牛乳を飲む手を止めた。
「ここの親が毒でさあ……」
金田さんは一応美希に「言ってもいい?」と聞いてくれたので、美希は「はあ、昨日皆に知られたことなら今更ですし……」と答えた。秘密にしていても誰かから知ることになるだろう。
看護師の長田さんはいつでもゆっくりと話す人のようだった。
「そうかあ~。親元を離れられてよかったねえ」
美希は「はあ、いろいろありまして」と言いながら金田さんを見た。金田さんが飲みかけの牛乳をテーブルに戻す。
「そう言えば、私のこと何も紹介してなかったね。私は一度工学部を四回生までやって卒業したんだけど、そのまま文学部の三回生に転部……正式に言えば学士入学したの。三回生だけど文系の分野で知らないことも多いから一般科目も受講しに東一条通の南のキャンパスにも出没すると思うよ。顔を合わせたらよろしく」
「はい」
学生課で「今年から文学部の学生になる」と言っていた金田さんが、どうして京都で既に人間関係ができているのかという疑問はここで解決した。
それにしても金髪のウィッグを被るのはなぜ? まだ大きな謎が残っているように感じるが、しかし、金田さんはこれで自分についての説明を全て終えたつもりらしい。
「ま、私のことより大事なのは自転車に乗れるようになることだよ」
「あの、和田さんがご自分の自転車で練習してもいいって言って下さいました」
「それだ!」
金田さんはくるりと後ろのテーブルを向いた。六人掛けのテーブルに四人が座っている。
「あのさあ、この中で今から新入寮生に自転車教えてあげられる人いる?」
一人が元気に手を挙げた。
「はーい、私、今日の午前中空いてまーす! その人、自転車乗れないんですか?」
「そうなんだよ。しばらく大家さんのお宅の庭あたりで練習したらどうかと思うんだけど」
「じゃあ、そうしましょう」
午前は空いているというその人と朝食後に駐輪場で待ち合わせた。駐輪場から自転車を出しながら、自己紹介してくれる。美希と同じ一回生。府立大学文学部で日本史を専攻したいのだという。
「藤原って言います。藤原道長とかの藤原ね。末裔だと嬉しいけど明治以来そう名乗ってるだけだから違うみたい。よろしくね」
「よ、よろしく」
「あのさ。なんか、自転車押すのも危なっかしい感じだけど?」
「持ち慣れなくて……」
藤原さんは少し顔をひきつらせた。
「ま、まあ慣れれば何とかなるよ……うん」
寮の建物の裏にある駐輪場から表に廻ると、森に囲まれたハーフティンバーの邸宅が午前の柔らかい日差しの中に端然と佇んでいた。
鬱蒼と茂る木々の下に花の香りが漂う。そう、東京の住宅街の花屋さんの前を通る時と同じように。 いや、それよりも鮮やかで瑞々しい馥郁とした香り……。
「春だねえ」と呟く藤原さんの視線の先は彩り豊かだ。門から邸宅までコンクリート舗装の道があるが、奥には芝生の庭が広がり、その新緑に雪柳の白が眩しく映えていた。隣の連翹の黄色が一層鮮やかで、その奥に咲きこぼれる木瓜の紅い花がアクセントとなっている。まさに百花繚乱だ。
植木鋏を持った白河さんが庭の奥から近づいてきた。「おはようございます」と藤原さんが挨拶するので、慌てて美希もそれに倣う。
「いやあ、新寮生同士もう仲良くならはったんか?」
「今朝会ったばかりですけど、これから一緒に自転車のレッスンなんです。北村さん乗れないんだそうで」
「へええ。自転車乗れへんいうのは珍しおすなあ」
「このあたりで練習してて構いませんか」
「もちろんどす。京都の学生さんは自転車やないと不便ですやろからなあ」
大家さんの許可も出たので、美希はとりあえず自転車に跨ってみた。藤原さんが「ちょっと待ってて」とスマホを取り出す。
「あった、あった。自転車の乗り方の動画。へえ……。私は親から根性で頑張れとしか言われなかったけど何事にもノウハウってあるんだねえ」
動画の音声が「こうして自転車を教えながら親子の絆を深めましょう」と言っているのが聞こえた。そうか、他の家庭では親が子どもに愛情の一環で教えてあげるものなのか。
藤原さんがスマホ片手にハウツーを伝授してくれる。
「えーっと。まず跨ってバランスとりながら蹴ってみて。あ、ペダルはまだ気にしない。視線は五メートル先」
「こ、こんな感じですか?」
「うん、よしよし。うーん、ペダルは踏めそう?」
「……やってみます」
一回踏むと、もうバランスを崩す。それでも繰り返すうちに二回目が踏めた。その感触を頼りに二十分ほど繰り返すと、三回目まで漕ぎつけることも増えてきた。
「お、ちゃんと上達してるじゃん」
美希は藤原さんの顔を見た。藤原さんは何の屈託もなく喜んでくれるようだ。美希は運動神経も良い方で体育の成績も中の上くらいだったが、別に褒められたこともない。勉強も運動もできるなんて嫌味な子……そんな冷ややかな視線を浴びていたような気がする。藤原さんもいつ自分を嫌いになるか分からない。けれどこの場では彼女が満足する程度に出来るようにならなくては。
「お、三メートルくらい何とかなってるじゃん」
「コケるまで時間がかかるようになったという程度ですけど」
「だいぶ安定してきたし慣れればもっと走れるよ。ただ、いくら白河さんちの敷地が広くても限界はあるから明日からもうちょっと広い場所でやってみたら? あ、私もそろそろ午後に大学に行く準備しなきゃ」
美希は慌てて大声を出す。
「どうぞ! 出かけてください! 学生の本業は学問ですもの! 私のことは構わず!」
藤原さんが「大袈裟だなあ」と苦笑し、「まあ、手の空いている他の寮生を捕まえて練習しなよ」と言い置いて寮に戻った。
その後も寮に出入りする人が、白河邸の庭先で自転車をヨロヨロ練習している美希を見ると事情を尋ね、そしてそれぞれが代わる代わるしばらく練習を見てくれたのだった。
お昼を食べ損ねた美希は午後遅くにコンビニでサンドイッチを買い、夜はやや遅めに食堂に下りた。
新市さんが他の寮生と数人でテーブルについている。
「あ、北村さん。こんばんは。こっちどう?」
知り合い同士で喋りたいときは相席をするようだ。一方で、そうしない場合もあるらしい。河合さんが食堂の隅で何かのテキストを開きながら一人でご飯をかき込んでいる。
自転車の練習場所を新市さんに訊いてみた。
「練習場所ねえ。この近くだと賀茂川の土手があるけど」
他の人たちも「運転がおぼつかないなら川に落ちない?」「玄関の前の車道は?」「車の迷惑だし。交通事故は危ない上に厄介だよ」と一緒に考えてくれる。
ぽんとアイデアが飛び出てきた。
「下鴨神社の馬場は?」
「”ばば”?」
「下鴨神社の境内に馬を走らせるスペースがあってさ。葵祭の時に流鏑馬神事の会場になったりするよ」
他の人も「いいねえ! あそこなら広いし」「基本車も通らないから安全だ」「名案だね」と賛成する。
美希は持っていたスマホで場所を確認してみた。
「わあ、下鴨神社って世界遺産なんですね! 『糺の森』ですか。そんな由緒ある所で練習しても大丈夫でしょうか? 自転車の乗り入れ禁止とか……」
新市さんが笑う。
「自転車乗れないなら”乗り入れ”てもないんじゃない? 自力走行ができてから心配すればいいよ!」
今日は天気も良く、春の青空に森の梢の緑がよく映える。
朝食時の食堂は昨夜と違って人が多くて活気に溢れている。これから大学に向かう学生ばかりでその出入りは慌ただしい。
「おはようございます」と美希に声をかけてきた人がいて、昨日知り合った誰かかと思ったが、そうではなかった。
「おはようございます」「おはようございます」と寮生たちはすれ違いざまに声を掛けあう。特に親しくなくてもそう挨拶するのが作法なのだろう。
「おはよう」と今度は聞き覚えのある声がした。由梨さんだ。その隣に知らない人が立っている。
「北村さん、この人は私の同室の長田朝子さん。看護師さんなのよ」
「はじめまして。看護師をやってて、西都大学の医学部看護学科に社会人入学してます」
「プロの看護師さん!」
同じ学生でも、社会人経験があってしかも医療従事者。なんだか凄い。
「人を救うお仕事されて、さらに勉強しようとするなんて。尊敬します!」
長田さんは涼やかな顔で「ありがとう」と微笑んだ。
由梨さんがカウンターに向かうので皆で朝食を受け取る。パンは生で、カウンターの隅に置いてあるトースターで各自焼くらしい。トレイには、キャベツの千切りにトマトのサラダとハムエッグの乗ったお皿と、牛乳が入ったマグカップが置かれている。
なんとなくこの三人で同じテーブルに着き、美希の向かいに座った由梨さんがトーストを細かくちぎりながら話す。
「この寮では原則専門が近い人がルームメイトになるのだけれど。私の場合は体調が悪いから、看護学科の朝子ちゃんと同じ部屋にしてもらっているの。とても安心よ」
美希はごく普通に問いかけた。
「どこが悪いんですか?」
その美希の質問は、由梨さんの隣の席にトレイごとすとんと腰を下ろした女性にさえぎられる。
「看護師さんに夜間常駐してもらうのって本当だったらすごくお金かかるよね」
この声は……。
由梨さんが「そうよね。朝子ちゃんをタダ働きさせて悪いわね」とにこやかに返し、長田さんが「由梨さん別に何もないから、私は毎晩ゆっくり寝てるよ~」とのんびりした口調で続ける。
由梨さんの体調はプライベートなことだし今無理に聞くこともないが、ここで話しかけて女性には美希は尋ねてみずにいられない。
「あの……金田さんですか?」
金田さんの声だと思うが、金髪じゃない。黒のベリーショートにすっぴんの顔。別人のようだ。
「ああ、金髪はウィッグだから。地毛は黒だよ、私」
どうして金髪のかつらを被るのだろう? 美希はかなり訝しそうな顔をしているはずだが、金田さんはもっと大事なことがあるという口ぶりで「それよりさ」と話題を変える。
「自転車どうするの? 京都での新生活で一番気がかりなのが自転車に乗れないことなんだけど?」
長田さんが驚く。
「え? 自転車乗れないの?」
「はい。都内で地下鉄の駅も近かったものですから……」
「それでも普通は親が乗れるように教えてくれない?」
金田さんが牛乳を飲む手を止めた。
「ここの親が毒でさあ……」
金田さんは一応美希に「言ってもいい?」と聞いてくれたので、美希は「はあ、昨日皆に知られたことなら今更ですし……」と答えた。秘密にしていても誰かから知ることになるだろう。
看護師の長田さんはいつでもゆっくりと話す人のようだった。
「そうかあ~。親元を離れられてよかったねえ」
美希は「はあ、いろいろありまして」と言いながら金田さんを見た。金田さんが飲みかけの牛乳をテーブルに戻す。
「そう言えば、私のこと何も紹介してなかったね。私は一度工学部を四回生までやって卒業したんだけど、そのまま文学部の三回生に転部……正式に言えば学士入学したの。三回生だけど文系の分野で知らないことも多いから一般科目も受講しに東一条通の南のキャンパスにも出没すると思うよ。顔を合わせたらよろしく」
「はい」
学生課で「今年から文学部の学生になる」と言っていた金田さんが、どうして京都で既に人間関係ができているのかという疑問はここで解決した。
それにしても金髪のウィッグを被るのはなぜ? まだ大きな謎が残っているように感じるが、しかし、金田さんはこれで自分についての説明を全て終えたつもりらしい。
「ま、私のことより大事なのは自転車に乗れるようになることだよ」
「あの、和田さんがご自分の自転車で練習してもいいって言って下さいました」
「それだ!」
金田さんはくるりと後ろのテーブルを向いた。六人掛けのテーブルに四人が座っている。
「あのさあ、この中で今から新入寮生に自転車教えてあげられる人いる?」
一人が元気に手を挙げた。
「はーい、私、今日の午前中空いてまーす! その人、自転車乗れないんですか?」
「そうなんだよ。しばらく大家さんのお宅の庭あたりで練習したらどうかと思うんだけど」
「じゃあ、そうしましょう」
午前は空いているというその人と朝食後に駐輪場で待ち合わせた。駐輪場から自転車を出しながら、自己紹介してくれる。美希と同じ一回生。府立大学文学部で日本史を専攻したいのだという。
「藤原って言います。藤原道長とかの藤原ね。末裔だと嬉しいけど明治以来そう名乗ってるだけだから違うみたい。よろしくね」
「よ、よろしく」
「あのさ。なんか、自転車押すのも危なっかしい感じだけど?」
「持ち慣れなくて……」
藤原さんは少し顔をひきつらせた。
「ま、まあ慣れれば何とかなるよ……うん」
寮の建物の裏にある駐輪場から表に廻ると、森に囲まれたハーフティンバーの邸宅が午前の柔らかい日差しの中に端然と佇んでいた。
鬱蒼と茂る木々の下に花の香りが漂う。そう、東京の住宅街の花屋さんの前を通る時と同じように。 いや、それよりも鮮やかで瑞々しい馥郁とした香り……。
「春だねえ」と呟く藤原さんの視線の先は彩り豊かだ。門から邸宅までコンクリート舗装の道があるが、奥には芝生の庭が広がり、その新緑に雪柳の白が眩しく映えていた。隣の連翹の黄色が一層鮮やかで、その奥に咲きこぼれる木瓜の紅い花がアクセントとなっている。まさに百花繚乱だ。
植木鋏を持った白河さんが庭の奥から近づいてきた。「おはようございます」と藤原さんが挨拶するので、慌てて美希もそれに倣う。
「いやあ、新寮生同士もう仲良くならはったんか?」
「今朝会ったばかりですけど、これから一緒に自転車のレッスンなんです。北村さん乗れないんだそうで」
「へええ。自転車乗れへんいうのは珍しおすなあ」
「このあたりで練習してて構いませんか」
「もちろんどす。京都の学生さんは自転車やないと不便ですやろからなあ」
大家さんの許可も出たので、美希はとりあえず自転車に跨ってみた。藤原さんが「ちょっと待ってて」とスマホを取り出す。
「あった、あった。自転車の乗り方の動画。へえ……。私は親から根性で頑張れとしか言われなかったけど何事にもノウハウってあるんだねえ」
動画の音声が「こうして自転車を教えながら親子の絆を深めましょう」と言っているのが聞こえた。そうか、他の家庭では親が子どもに愛情の一環で教えてあげるものなのか。
藤原さんがスマホ片手にハウツーを伝授してくれる。
「えーっと。まず跨ってバランスとりながら蹴ってみて。あ、ペダルはまだ気にしない。視線は五メートル先」
「こ、こんな感じですか?」
「うん、よしよし。うーん、ペダルは踏めそう?」
「……やってみます」
一回踏むと、もうバランスを崩す。それでも繰り返すうちに二回目が踏めた。その感触を頼りに二十分ほど繰り返すと、三回目まで漕ぎつけることも増えてきた。
「お、ちゃんと上達してるじゃん」
美希は藤原さんの顔を見た。藤原さんは何の屈託もなく喜んでくれるようだ。美希は運動神経も良い方で体育の成績も中の上くらいだったが、別に褒められたこともない。勉強も運動もできるなんて嫌味な子……そんな冷ややかな視線を浴びていたような気がする。藤原さんもいつ自分を嫌いになるか分からない。けれどこの場では彼女が満足する程度に出来るようにならなくては。
「お、三メートルくらい何とかなってるじゃん」
「コケるまで時間がかかるようになったという程度ですけど」
「だいぶ安定してきたし慣れればもっと走れるよ。ただ、いくら白河さんちの敷地が広くても限界はあるから明日からもうちょっと広い場所でやってみたら? あ、私もそろそろ午後に大学に行く準備しなきゃ」
美希は慌てて大声を出す。
「どうぞ! 出かけてください! 学生の本業は学問ですもの! 私のことは構わず!」
藤原さんが「大袈裟だなあ」と苦笑し、「まあ、手の空いている他の寮生を捕まえて練習しなよ」と言い置いて寮に戻った。
その後も寮に出入りする人が、白河邸の庭先で自転車をヨロヨロ練習している美希を見ると事情を尋ね、そしてそれぞれが代わる代わるしばらく練習を見てくれたのだった。
お昼を食べ損ねた美希は午後遅くにコンビニでサンドイッチを買い、夜はやや遅めに食堂に下りた。
新市さんが他の寮生と数人でテーブルについている。
「あ、北村さん。こんばんは。こっちどう?」
知り合い同士で喋りたいときは相席をするようだ。一方で、そうしない場合もあるらしい。河合さんが食堂の隅で何かのテキストを開きながら一人でご飯をかき込んでいる。
自転車の練習場所を新市さんに訊いてみた。
「練習場所ねえ。この近くだと賀茂川の土手があるけど」
他の人たちも「運転がおぼつかないなら川に落ちない?」「玄関の前の車道は?」「車の迷惑だし。交通事故は危ない上に厄介だよ」と一緒に考えてくれる。
ぽんとアイデアが飛び出てきた。
「下鴨神社の馬場は?」
「”ばば”?」
「下鴨神社の境内に馬を走らせるスペースがあってさ。葵祭の時に流鏑馬神事の会場になったりするよ」
他の人も「いいねえ! あそこなら広いし」「基本車も通らないから安全だ」「名案だね」と賛成する。
美希は持っていたスマホで場所を確認してみた。
「わあ、下鴨神社って世界遺産なんですね! 『糺の森』ですか。そんな由緒ある所で練習しても大丈夫でしょうか? 自転車の乗り入れ禁止とか……」
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