京都市左京区下鴨女子寮へようこそ!親が毒でも彼氏がクソでも仲間がいれば大丈夫!

washusatomi

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第8話 少女漫画と夢と現実

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 下鴨神社で自転車の練習をしようとした美希の意気込みは、空振りに終わる。

 目が覚めると、しとしとと雨音が聞こえてきた。窓から外を見ると、垂れこめた雲の中に森の梢がしょんぼりと佇むばかり。今日は雨雲が我が物顔でこの京都盆地に居座るらしい。

 大学が本格的に始まるのは来週だ。授業の登録や生協加入の手続きは別に今日でなくても構わない。

「今日は寮にいようかな……」

 そういえば娯楽室というものがこの寮にあるはずだ。場所は確か一階の受付の向かいだったっけ。

 娯楽室は、奥の壁に大型テレビが鎮座している以外、漫画が詰め込まれた本棚で残りの壁が埋め尽くされていた。部屋にはローテーブルとソファがある。革張りのデザインが何となく昭和なうえ、あちこち裂けて綿が飛び出ているのが、このオンボロな寮らしい。
 朝食のすぐ後なのに、娯楽室にはもう先客がいた。

「おはよ、美希ちゃん」

「おはようございます、炭川さん」

「今日は漫画日和だねえ。外出が面倒な日は漫画に限る。晴耕雨読ってやつだよ」

 美希は笑顔で頷きながら、母なら読書に漫画は絶対に含めないだろうなと思う。母は言う、「漫画って恋愛のことばかり書いてあるんでしょう? 美希が読んでも仕方ないじゃない」と。その声には、漫画が低俗だという古い世代の偏見に加え、自分と同等の美貌に恵まれなかった娘への嘲りも含まれていた。

 学校でも漫画禁止だったから友達から借りたこともない。だから美希は漫画とほとんど接点もなく過ごしてきた。

 けれど。美希は一度思いっきり読んでみたいと思っていたのだ。

 炭川さんが「どんなジャンルが好き?」と尋ねてくれた。

「あまり読んだことがないので……」

「お、初心者。じゃあ王道のラブコメとかどうかな?」

 炭川さんが「まずは古典から」と紙が変色したコミックスを何冊か棚から選んでくれたので、美希もソファに座ってそれらを読んでいく。

 ――なんて面白いんだろう!

 ドジで決して美人じゃない等身大のヒロイン。でもひたむきに生きている少女たちはとても魅力的だ。だからこそ当然素敵な男性が現れる。

 漫画を読み耽っていると時間が飛ぶように過ぎていく。ヒロインになった気分でドキドキハラハラだ。そしてハッピーエンドで幸せな気分になれる。

 ――私にもこんな恋愛が出来たらいいなあ……。

「あの……」

 声を掛けられて美希は顔を上げる。

 おかっぱ頭の小柄な女性が座っていた。そばに漫画が積み重ねられているから、だいぶ前から美希と同様に漫画読みに勤しんでいたらしい。

「暗くなってきましたから電気をつけましょうか?」

「は、はい」

 漫画の威力って凄い。昼ご飯を食べてなくても日暮れまで全く気が付かなかった。空腹だってほとんど感じない。

 その女性は立ち上がって壁のスイッチをパチンと入れた。

「はじめまして、ですよね? 202号室の和田といいます」

 美希はソファから立ち上がってぺこりと頭を下げる。

「和田さんでいらっしゃいますか! 私が北村です! 同室でお世話になります!」 

 和田さんもお辞儀を返してくれる。

「あー! 改めて『初めまして』です~。今日から一週間ほど寝泊まりしますがよろしくお願いします」

「こちらこそお邪魔してます」

 全然お邪魔じゃないですよーとニコニコ笑いながら和田さんはソファに戻る。そして美希がソファの両隣に積み上げていた漫画に視線を向けた。

「あ、ラブコメいいですよね!」

 和田さんの手元の漫画もそうだ。

「炭川さんのお見立てなんです! 冴えない女の子でも素敵な男の人が認めてくれて彼氏になってくれるお話ばかりで楽しくて……」

「そうですよね! どんなにご都合主義でも夢に浸れるからいいんです!」
「ね!」 

 こうして意気投合できるのだから和田さんはきっといい人だ。ルームメイトがこの人で良かったとホッとする。

 夕食後に他の寮生もやってきた。いつの間にか数人だ。

「新入生か~。いいねえ、これから青春だよね~」

 知らない人でも気が合う話題があるのは寛げるものだ。

「現実に起こらないことを夢見られるのがいいんですよね……」

「西都大なんでしょ? チャンスあるって! 西都大の理系なんて男ばっかりでオンナに飢えているからさ。若くてかわいい子に声を掛けられただけでも野郎は喜ぶよ~」

 他の人も言う。

「理系の学科は周囲に全く女子学生がいないなんてこともあるからね」

「っていうか、北村さん、高校まで彼氏いなかったの?」

 美希はブンブンと横に頭を振った。

「女子校でしたし……私は妹みたいに美人じゃないですから……」

「大人しくてお淑やかそうなのに?」

「妹は芸能人みたいに綺麗ですけど私は……」

「西都大学の男性は奥手が多いから、派手目の美人はかえって敬遠するよ。柔らかい感じの女子の方がモテるって!」

「うん、北村さん、イケる、イケる」

「そもそも妹さんは京都にいないんでしょ?  誰も貴女と比べたりしないよ!」

 そうか、と美希は眼から鱗が落ちた気がした。そうだった。ここ京都は東京から五百キロも離れている。誰も私の家族を知らないし、家族の中でずっと容貌が劣ることもバレない。性格だって、これからできるだけ善良になれるように努力しよう。だったら私にも……。

「チャンスあるでしょうか?」

 皆が声を揃えてくれた。
「あるあるある!」

 誰かがつけていたテレビが天気予報を告げる。
「明日は関西全域で晴れ模様となるでしょう。春爛漫の穏やかな一日となりそうです」
  
 翌日の朝。天気予報が大当たりした。

 麗らかな春の日差しの中、美希は午前中に大学へ行き、午後に大学生協で自転車を購入することにした。

 なにしろ和田さんが京都にいるなら自転車は返さなければならない。和田さんは「済みませんね」と恐縮してくれたが、もともと和田さんのを厚意で借りているだけに過ぎない美希は「いいえ! 私もマイ自転車を買わないといけませんし! 今がその時なんだと思います!」と宣言した。

 大学生協は東大路通沿いにある。「新生活応援セール」というのぼりがはためき、傍にずらりと自転車が並んでいた。

 美希は店員さんに「あのう、初心者向けはどれがいいでしょう?」と聞いてみる。店員さんは「は? 初心者?」と困惑しつつも「乗り慣れていないならMTBは論外でしょうし、無難にママチャリじゃないでしょうかね」と、一番安い価格帯の一角にまで美希を連れて行ってくれた。 

 まだ公道を走れるスキルはないため、美希は歩道を押して歩く。そして、生協から北に五分ほどの交差点で信号を待っていた。

 その交差点は何もかも小ぶりな京都の街では規模が大きい。目の前で信号が赤になってしまうと次に青になるまでちょっと時間がかかる。

 ――またがってみようかな。

 そして大いに驚いた。

 ──足が地面につかない!

 和田さんの自転車では足を地面につけられたから、蹴りながら時々ペダルを踏む練習が出来た。なのにこの自転車は椅子が高すぎる。自分はサイズを間違えて買っちゃったんだろうか? それとも椅子だけ高さを調節できるもの?

 美希は自転車を降りて椅子の形状を確かめた。部品の感じからすると全く調節できないわけではなさそうに見える。でも、どうしよう……。

 一度青になった信号がまた赤になった。キャンパスを背に叡電の駅に向かう人達が横断歩道の手前に群れを成している。

 美希はその中でも大人しそうな男性に声を掛けてみた。もう授業が終わった人なら、そして親切な人ならお願いしてもいいかもしれない。ひょっとして女性と話する機会を待ち望んでいる男の人ならむしろ喜ばれるかもしれない。そして……。

「あのう……スミマセン、自転車の椅子が高すぎて困っているんです」

 その男子学生は「はあ?」と美希の想像以上に驚いた声を出したが、ずり落ちかけた眼鏡を直して「そうですねえ……」と屈みこんでくれた。

 しかし、そこに別の男性の野太い声がする。

「おい」

 その人も地味で真面目そうに見えた。だが自転車の側に屈んでくれた人と違って、露骨に不快そうな顔をしている。

「君、何考えてるんだよ。サドルくらい自分でやれよ」

「あの……」

「何だ?」

「サドルっていうのが椅子のことなんですね? 自分でどうにかできるもんなんですか?」 

 サドルが何かは文脈で察しが付く。自分で簡単にできるならそうすべきだろう。そうしなかったのは方法が分からないからで……。

 自転車の側に膝をついてくれていた方が、怖い男性を見上げた。この男性二人は連れ立っていたらしい。

「お前、女の子相手にそんな怒らなくても……。困っているようだし」

「お前は先に行ってろよ。これからバイトの面接だろう? ここは俺が相手しとくから。お前は行け」

「あ、ああ……」

 その怖い方の男性が代わって自転車の横にしゃがみ込んだ。

「ここにレバーがある。これを手前に引くと車体から突き出るようになる。これをクルクル回しながら サドルつまり椅子を押して下げる。で、どれくらい下げて欲しいの?」

「あの、まだ練習中ですので一番低くして下さい」

「練習中?」

「私は自転車に乗れないので知り合いから借りて練習してたんです。その人の自転車だと両足が地面について練習にちょうど良くて……」

「自転車に乗れない?」

 その男性は困った顔をして頭を掻いた。

「まあ何事にも初めてというのもあるし、知らない状態もあるのかもしれないが」

「はい」 

「それでも交差点で全く面識のない他人を使おうとするのはどうかと思う。生協まで戻って店の人に聞いても良かっただろうし」

「そ、そうですね」

「君さあ、ひょっとして、若い女の子が頼めば男が鼻の下を伸ばして何でもホイホイ引き受けるなんて思ってる?」

「……!」

「それは図々しい考えだと思う」

 美希は一瞬心臓が止まりそうになった。顔から火が出そうだ。恥ずかしすぎて、その人とも目を合わせていられず美希はうつむいた。

「みんな時間が限られているんだ。他人の時間を無駄にさせるべきじゃない」

 全くその通りだ。自分はなんて軽佻浮薄で思慮が無かったんだろう。最初に自転車に屈んでくれた人の時間を奪いかけた上に、今、この人にも手間を掛けさせてしまっている……。

「あの……」

「何?」

「スミマセンでした。反省してます。もうこんなこと絶対しません。ですから、あの、どうぞご用事に向かって下さい」

「あ、ああ……。まあ、俺は信号の向こうのコンビニに行くだけだけど。飲み物買ったら図書館に行くから用事があると言えばあるということになるが……」

「スミマセン。もうこれ以上お時間を取らせるのは心苦しいので……」

「……そうか。とりあえず自転車はこれでいいと思う。それじゃあ」

 美希はその人が信号を渡るのを見届けると、自分はその交差点を使わずそのまま自転車を押して歩道を歩いた。下鴨神社に行くにはどこかで今出川通を渡らなければならないが、この場を離れて別の信号を使いたかった。

 美希は唇を噛み締めて涙をこらえていた。羞恥心が猛烈に湧き上がる。

 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。

 ブスのくせに男の人に頼みごとをするなんて。その頼みごとを快く聞いてもらえると思い上がっていたなんて。その先に少女漫画のような展開がありはしないかと夢を見るなんて。やっぱり自分は思いやりのない自己中心的な人間なんだ。人の限られた時間を奪うことに無神経な冷たい人間。母の評価はこの自分を正しく言い当てていたのだ……。

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