京都市左京区下鴨女子寮へようこそ!親が毒でも彼氏がクソでも仲間がいれば大丈夫!

washusatomi

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第9話 禍福は糾える縄の如し 

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  美希は顔をこわばらせて西の賀茂大橋に向かう。すると、向こうから来た自転車がキュッと音を立てて止まった。

「北村さん?」

 名前は知らないけれど、練習に付き合ってくれた寮生の一人だ。

「自転車買ったんだ。へえ、赤色も可愛いね。今から下鴨神社で練習?」

「は、はい」

 彼女は「いよいよ新生活だね。がんばって!」と朗らかに言うと、美希とすれ違ってキャンパスに向かう。その明るい態度に美希の心も晴れた。

 女子寮に入っていて良かったと思う。一人でトボトボ歩いていたら気持ちが沈んだままだっただろう。大学に入って何日も経たないのに知り合いが一気にたくさんできて、そしてその中にはこんな自分にも好意を向けてくれる人もいるのだ。

 新生活は始まったばかり。たまたま怖い人に自分のみっともないところを見られてしまったが、西都大は学生が多い。今後あの人に会う可能性は低いし、これから身の丈に合った振舞いをしながら性格の改善を目指していこう――美希はそんな前向きな気持ちを取り戻して、自転車を押した。

 ちょうど賀茂川と高野川が合流する賀茂大橋にまで来た。Yの字のような地形の真ん中の三角地帯は「鴨川デルタ」と呼ばれている。そのデルタの北方にこんもりと見える森が下鴨神社の「糺の森」なのだろう。

 デルタ公園を横目に見ながら北に向かうと、いかにも神社らしい朱色の鳥居と板塀が見えた。近づくにつれその森の深さに圧倒される。糺の森は平安京以前の原生林の姿が残っていると聞いた。なるほど東京で見る公園とは迫力が違う。

 野放図に茂る樹木と下草。濃淡が様々に異なる緑が世界を覆う。横に伸びる細い枝には青紅葉が雲のように漂い、一方で天を突き上げるほど背が高い樹々の梢と梢が重なり合って緑のアーチが連なっている。

 馬場の端を流れるせせらぎは草むらを縫うようにして走り、その傍には猛々しくうねった巨木の根元が露わになっていた。

 自由に育つ原生林の植物の群。その新緑の生命力が眩しく、少し怖い。由梨さんの「怖いくらいに自由」という言葉がふと耳に蘇る。

 もっとも近辺の市民にとってこの馬場は憩いの場であるらしい。お母さんに連れられた幼い兄弟が二人で追いかけっこをしていたり、お年を召した夫婦連れが並んでゆっくりと歩いていたりする。南端のベンチでは若い男女が仲良さそうに語らっていた。

 美希は馬場の中ほどで練習を開始した。三、四回ペダルを踏めれば、あとはその回数を増やすだけだ。慣れるにつれてどんどん走れる距離が長くなる。漕ぎながら周りを見る余裕も出て来ると、緑の中を徒歩以上のスピードで駆け抜ける自分が、まるで馬に乗っているように思えて気分がいい。

 とはいえまっすぐ走れても曲がることが出来ない。ハンドルを切って重心を傾ければいいそうだが、それをするとバランスを崩してしまう。乗っては曲がろうとし、その度にこけそうになって止まる。馬場を南北に行ったり来たりしながら悪戦苦闘は続く。
 
 やや甲高い、男の人の声がした。

「自転車、乗られへんの?」

 さっきまで同年代の女性とベンチに座っていた男性だ。女性の方はもういない。その男性はひょろりと背が高く、そして、とても柔らかい関西弁を独特の節回しで口にする。

「さっきから見とったんやけど、だいぶ上達はしたみたいやね。でも、まだ曲がられへんねや?」

「はい。重心を傾けるとこけそうになって……」 

 その人は優しそうな笑みを浮かべた。

「最初っから直角に曲がろうとせんと、緩いカーブを描くところから始めたらええんちゃう?」

「それはそうですね!」

 そしてその人は美希の練習に付き合ってくれた。そのうえ夕闇が迫る中、寮まで送ろうと申し出てくれる。

「楽しいから気が付いたらえらい暗くなってしもた。下鴨の奥の方? 日が落ちてから糺の森抜けるの怖いやろからついてったげるわ」

「あの、ご迷惑じゃないですか?」

 交差点で怖い男性に「他人の時間を無駄にさせるな」と怒られたばかりだ。

「いや、もう僕も特に用事ないねん。ここで可愛い女の子のエスコートが出来たら光栄やわぁ」

「ありがとうございます」

 美希は自分の外見をお世辞含みで「可愛い」と表現してくれたことに礼を言ったつもりだったが、 相手は寮まで送ることを了承されたものと思ったらしい。「ほな、行こか」と北に歩き始めた。なるほど、馬場の北にはさらに西北に抜ける参道がある。この道順なら無駄に回り道せずに寮に到着できそうだ。

 その人は歩きながら自分のことを話してくれた。 名前は清水。西都大学の農学部の二回生。京都の下京区で文房具屋を営む自宅から通学してる。お兄さんが同立大学の四回生で二人兄弟。

 美希は気になることを訊いてみた。

「あの、女性と一緒にいらしたと思うんですけど……」 

「ああ、黒田さん?」

 黒田さんというお名前なのか。

「彼女さんじゃないですか? 私も一応女性の端くれですから、私と二人でいたら彼女さんが嫌な気持ちになるんじゃないでしょうか?」

 清水さんはとても真剣な顔で片手を顔の前で横に振る。 

「黒田さんは彼女じゃないよ。僕たちはデジタル写真部の同回生で……あ、北村さん新入生やね? 部活とか決まってないならウチの部活どう?」

「デジタル写真部?」

「うん、普通の写真部だとカメラやレンズとか機器にマニアックにこだわるけど、そうじゃなくて純粋に絵としての構図とか題材とかを手軽に追求しようとしてるサークルだよ」

「カメラはスマホしかないんですが……」

 清水さんは「それで十分だよ、僕もそうやし」と微笑んだ。

  その日の夕食は新市さんと炭川さんが美希に声を掛けてくれた。カウンターからトレイを持って美希も同席する。

「今日はいろいろあったんです!」

「自転車を買って下鴨神社で練習したんだっけ?」 

「はい。それで悪いことと良いこととがありました!」

 交差点で怖い人に怒られたこと、そして親切な人に自転車の曲がり方を教えてもらったこと。そしてデジタル写真部なるサークルに誘われたこと。

 炭川さんが「デジタル写真部?」と問い返す。

「別にSNSとかで繋がってればいいんじゃないの? わざわざ顔を合わせるために集まるの?」

 新市さんが「まあ、対面で会話する方が楽しいんだろうし。活動場所は?」と応じてくれた。

「中央食堂で集まって、適宜外のベンチやカフェにいくことになってます。本部キャンパスなら必要に応じて中央図書館にもすぐ行けるからって」 

 炭川さんが「図書館?」と訝しむ。

「美術系の本とか参考に出来るようにです。図録とかって紙媒体の方が見やすいこともあるからって。あ、その黒田さんは文学部の美学美術史学科志望と聞きました。そんな専門分野があるんですね」

 炭川さんが「ウチの漫画学部にも美術史に近い講義は一応あるけど、西都大はレベルが違うんだろうなあ」と両手を頭の後ろで組んだ。

 新市さんも「うーん」と唸る。

「美学ってのは哲学の領域だからねえ。ギリシャ哲学における真善美の調和がどうたらとか難しいことやってる分野じゃなかったっけ?」

 美希が「そうなんです!」と清水さんから聞いたばかりの情報を伝える。

「黒田さんは哲学的な難しいお話が出来るんですって! 下鴨神社にいたのは、理系であまり哲学とかに詳しくない清水さんが黒田さんにいろいろ教えてもらってたんだそうです」 

「へえ」

「黒田さんは大阪北部の自宅から通学してるんだそうです。一浪していて清水さんと学年が一緒でも一歳年上だそうです」

「……」

「それで、私、せっかく誘っていただいたのでデジタル写真部に入ろうと思うんです。芸術とかって大切ですし。スマホ一つで活動できるそうですし!」

 後ろから金田さんの声がした。

「美希ちゃん、部活するの?」

 美希は「はいっ」と弾む声で返事した。そして同じテーブルに夕食を置いた金田さんに同じ説明をする。胸の弾む話は何度繰り返しても苦にならなかった。

 そんな美希を見て、炭川さんが「その清水さんってイケメン?」と問いかける。

「ええと……一般的にはそう言わないと思います」

 背は高い。だが、あまりに細い。そして狭い肩幅をいつも前かがみにしているので、弱々しいという印象を与えてしまう。顔立ちだって金壺眼で頬がこけており貧相と表現されても仕方ない感じだ。服装だってどうということないチェックのネルシャツで、そしてこれから季節が変わろうとも別にファッショナブルにはならない人だろう。

「……なんか、イマイチ?」

「でも、関西弁の話し方が柔らかい人です。穏やかな物腰の方ですし。痩せてて背が高くて優しそう……こう考えると少女漫画に出てきそうな人だとも思えるんですよ!」

 新市さんが少し思案気な口ぶりで同意した。

「交差点で怖い男性に叱られた直後だから清水さんが優しく見えるのを差し引いても、まあ西都大学の理系男子に多い草食系なんだろうねえ」

 金田さんが黒田さんに話題を戻した。

「その黒田ってのは部長か何か?」

「副部長だって聞きました」

「ま、その人次第だね」

 美希は副部長という役職の人に認めてもらわなければ入部の手続きに入れないという意味だと受け取った。
 
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