死神はそこに立っている

阿々 亜

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第31話 麻酔導入

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「橋本君、昨日課題にしたプロポフォール注入症候群、勉強してきた?」

 鎮静剤が十分量に達するのを待ちながら、岸野は橋本に課題の確認をした。

「あ……」

「勉強してないわね?」

 岸野は橋本をじろりと睨んだ。

「プロポフォール注入症候群、プロポフォールの高用量長時間投与中に、横紋筋融解、急性腎不全、高カリウム血症等を起こす致死的合併症です。注意すべき前駆症状として、乳酸アシドーシス、徐脈、Brugada型心電図変化等があります」

 橋本にかわって、栄一郎がすらすらと答えた。

「そ、その通り……」

 意外な人物からの解答に、岸野は驚いていた。

「間、お前、もしかして、頭いいのか?」

 そのやりとりに山本も目を丸くする。

「いや、そいつ、地方大ですけど、国立を主席で出てますよ」

 橋本が栄一郎の経歴を明かし、山本と岸野はさらに驚いた。

「お前、なんでマッチングうちになったんだよ?国立の主席だったら、都立とか日赤とか、有名市中病院いくらでも行けただろ?」

「元々、この辺が地元なんですよ。両親はもう父の実家に移ったので、今は一人暮らしですが」

 山本の質問に栄一郎はそう言ってお茶を濁した。
 実のところは、トモエが生きていた頃の微かな思い出に惹かれ、この地域に戻ってきてしまったのだった。
 栄一郎と山本のやりとりを、岸野は横目に見ながら、沙耶香の睫毛を触り、鎮静が十分にかかっているのを確認した。

「次、筋弛緩いきます。橋本君、ロクロニウム3mg iv」

 岸野は右手で沙耶香の口元にマスクを当てたまま、左手で麻酔器に繋がったバルーンを握った。

「ロクロニウム3mg ivしました」

 橋本のその宣言の数十秒後、沙耶香の呼吸が弱くなる。
 岸野は右手のマスクを沙耶香の口にぴったりとフィットさせ、左手でバルーンをもみ、沙耶香の呼吸の補助を行う。
 モニターに表示される酸素飽和度が一瞬下がったが、岸野の補助換気ですぐに正常範囲に戻った。

「換気良好、挿管します」

 岸野はマスクとバルーンから手を離し、小型モニターのついた喉頭鏡を左手に持ち、右手の親指と人指し指をクロスさせて沙耶香の口を上下に広げ、喉頭鏡の先端を沙耶香の口腔内に挿入する。
 喉頭鏡の小型モニターには、口腔内の様子が写し出されている。

「声帯確認。挿管チューブ」

 すでに挿管チューブを準備し、構えていた橋本がチューブを岸野の右手に渡す。受け取った岸野はモニターを見ながら速やかにチューブを声帯の奥に押し進めていく。

「声帯通過。スタイレット抜去」

 橋本が挿管チューブ内の金属スタイレットを抜去し、岸野はチューブをさらに奥に進めた。

「カフ、10cc」

 橋本は空気の入った注射器で挿管チューブの脇の細いチューブから空気を送り込み、挿管チューブ先端のバルーンを広げた。
 続いて橋本は挿管チューブと麻酔器の換気チューブを繋げた。

「チューブ保持お願い」

 橋本は岸野にかわって、挿管チューブが動かないよう保持した。
 岸野は麻酔器のバルーンをもみ、聴診器で胸の呼吸音を確認していく。

「胃泡音なし、前胸部・側胸部左右差なし。チューブ固定。口角22cm」

 岸野はテープで4方向から、挿管チューブと沙耶香の口を固定した。
 そして、手動換気から麻酔器の機械換気に切り替え、周辺の環境整備を行う。

「こっちはあらかた終わったわよ」

 岸野は山本たちにそう告げた。

 麻酔導入完了……

 栄一郎は時計を見た。

 18時54分……
 あと、30分か……

 栄一郎は焦る気持ちを必死に抑えつけた。


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