そして夜は華散らす

緑谷

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弐章

其の五

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「――喉が、渇いたな」

 広間の長椅子に身を沈めていた終宵よすがらが、ぽつりと小さく言葉を落とす。時刻はちょうど九時になり、時計の鐘が九つ、鳴った。

 応接室ほどではないが、ここもずいぶんと広く作られている。白塗りの壁に深紅の窓掛、床には毛足の長い絨毯が敷かれている。

 背の低い机に並べられた洋風の軽食は、小麦を練って焼いたぱんに、加工肉や野菜を詰め込んだ“さんどういっち”。小夜音の好物である。一方の終宵はそういうものに馴染みがないのか、水差しの水ばかりを飲んでいた。

 こんなに水を飲んでいるのに――そう言いかけて、小夜音は気づく。何気ない日常会話のひとかけらでありながら、その音はどこか熟んだ熱を帯び、ほんのわずかにかすれている。手袋に覆われた指先は、腰に納めた刀の柄を撫でていた。

 めしいた眼の表面には、先ほどからずっと刀が映っている。そして時折思い出したかのように、うつむいた頬にかかる髪を耳にかけるのだった。

 天井から注がれる明かりを含んで、透明な緋の瞳がより鮮やかにきらめいている。それを隣の長椅子から眺めやり、小夜音は笑みをひとひら唇に乗せた。

「終宵さま、物足りないんですの?」

 何を、とはあえて口にしない。彼が言外に示すものを、小夜音はすでに理解しているからだ。

 事実、終宵は薄く目を開き、何も映さぬ紅色を小夜音へと向けている。言葉はない。それでも、主人こいびとである小夜音にはわかっている。

 腕を伸ばし、終宵の長い髪に触れる。たくましい肩からすくいあげて指に絡め、小夜音はにこりと笑った。

「今はもう、この屋敷自体が“籠の中”。ですから終宵さま、あなたとわたくし、ふたりの秘密は決して外に漏れることはありません」

 ありとあらゆる場所の鍵は閉めた。この屋敷自体がすでに閉ざされ、隔離されている。誰かが呼ばない限り、警察もここには来られない。ここは籠の中。終宵と小夜音の、秘密の場所。

 終宵がじっと小夜音を見ている。熱を孕んだ、濡れた目だ。飢えてうずくまる獣の眼。今すぐにでも解き放ちたいだろうに、彼は小夜音の許可を待っている。小夜音が良しと言う、その瞬間を。

 背筋をぞくぞくと走り抜ける感覚に酔いながら、小夜音は金の鎖をたどって終宵の喉に触れ、耳元で小さくささやいた。

「ですから、存分に召し上がってくださいまし。ここからはもう、誰も出ることはできません」

 言いながらも身を乗り出し、小夜音は象牙の頬に触れる。輪郭をたどり、薄く開いた唇に指を置いた。終宵のまつ毛が小さく震え、まぶたが半分伏せられる。

「……なぜ?」

 やがて唇からこぼれたのは、疑問。それを紡いだ唇をゆっくりとなぞる。少しだけかさついている気がする。後で手入れしてあげなければ。

「なぜ? だって終宵さまはわたくしのモノですもの。終宵さまの望むことなら、わたくしは何でもしてあげたいわ」

 小夜音は無邪気に笑い声を立てて指を離し、自分の唇をなぞった。部屋のあちこちから注がれる、使用人の好奇の視線すらも、今はずいぶんと心地よい。

「終宵さまの綺麗な姿を見られるのはわたくしだけ。それ以外にもある知らないことを、わたくしは知る義務があるわ。だってわたくしは、あなたの主人こいびとなんですもの」
 手にしたモノを知ることは、管理するのに必要なこと。それ以上に、こいびととして知りたいのだ。彼のすべてを知っているのは自分なのだと主張するために。誰にも奪われないように。

「身体の奥底まであなたを知ったけれど、まだまだ話してくださってないことがたくさんあるでしょう? ダメよ、わたくしに隠し事をしてはいけないわ」

 他の誰にも見せてほしくない。他の誰にも知られてほしくない。終宵という男のすべては、すべて小夜音が知っていなければならない。

 終宵のすべてが、小夜音のためにあるモノなのだから。

「わたくしはあなたの主人こいびとなのだもの。こいびと、っていうのはね、そのひとの全部を知っていなければならないのよ。だから、終宵さまの秘密も全部、わたくしに教えてちょうだいな」

 時計の針が刻まれる。静かな部屋に、遠くでうなる風の声がする。

「だから、ねえ、もう隠さないで魅せてほしいの。あの夜のような、素晴らしい舞を。そのときに抱く感情を。表情を」

 小夜音は終宵の所有者こいびとで、終宵は小夜音の所有物こいびと。拒否をしてはいけない。そんなことはあってはならない。だって小夜音たちは、こいびと同士なのだから。

「全部全部わたくしに魅せて。ね、おねがい」

 甘い声音の奥底にそっと熱を含ませて、手に手を重ねてかわいらしくお願いする。そんな小夜音に、終宵は一度静かに目を閉じた。

「……そこまで望まれてしまわれたなら、ここまでされてしまわれたのなら。仕方ありません、契約にのっとり、お嬢さんのお望み通りにいたしましょう」

 しばしの沈黙の後、熱を帯びた吐息に混ざり落とされた確かな返事に、小夜音は喜色をのぼらせた。

 終宵よすがらが音もなく立ち上がる。きちり、と鳴いたのは果たして、つくりものの足か、刀か。小夜音も優雅に立ち上がり、あの使用人の娘を呼びつける。

「これを片付けてちょうだい」
「はい、わかりました、お嬢様」

 愛想笑いを浮かべ、娘が机に手を伸ばす。その手が茶碗に触れたと同時に、突如使用人の身体から赤がしぶいた。

 細い首から吹き上がるのは、目の覚めるような紅い色。周囲からは悲鳴が漏れる。綺麗な軌跡を描くのは、月の光を研いだかのような、蒼を帯びた艶やかな銀。

「え、」

 間抜けな一言だけを漏らし、娘が数歩あとじさる。足がもつれて倒れ伏し、緋色を鮮やかに咲かせながらすぐ動かなくなった。

 悲鳴。悲鳴。何かの割れる音。怯える使用人たちを、こと切れた娘を眼に映し、終宵は――うっとりと笑っていた。

 出入口に使用人が殺到する。扉に群がる有象無象、それを追う終宵の長い夜の髪がなびく。軋む足を踏みしめて、銀の弧を描くごとに緋色が咲いた。咲いて、咲いて、咲いては散って消えていく。薄笑む頬にも紅が咲き、見えぬはずの目を開いたまま、次へ次へと襲い掛かる。しなやかで素早くあでやかで、まるで舞を舞うように、終宵は獲物を手にかけていく。

 これだ。これを見たかったのだ。あの日、あの夜、あの場で繰り広げられていた死の舞踏。こんなにおぞましく美しいものを、小夜音はこれまで見たことがない。こんなに美しいモノを手にしているのは、きっとこの国では小夜音以外にいないだろう。

 小夜音は全身を歓喜に震わせ、両頬に手を添え陶酔する。

「ああ、なんて綺麗なの! 終宵さま、わたくしの終宵さま、さあ、存分に召し上がってちょうだいな!」

 小夜音も円舞曲わるつを踊るように、軽やかに終宵のあとをついていく。美しい獣の舞は、後ろからでもよく見えた。

 廊下を逃げ惑う獲物たちを、終宵が銀の牙で食らっていく。なぎ倒されるモノには馬乗りになり喉を裂き、引き抜きがてらに切り上げて傍らにいたモノを斬り倒す。血を浴びたままに追いすがっては無防備な背に一太刀を浴びせ、倒れたモノにもう一太刀。

「みんな玩具みたいね、こんな簡単に倒れるなんて面白いわ!」

 残ったモノたちが応接室へと逃げ込んだ。扉を閉められるその前に、終宵が板を蹴り壊す。悲鳴。悲鳴。髪を振り乱し、哄笑しながらしなやかに命を食い散らす様を、小夜音は確かな興奮と高揚でもって見つめていた。

 男たちが終宵を取り囲む。怯えと狂気に歪む顔は醜いものだ。もろもろに燭台や飾りの剣を握りしめている。何事かをわめいているが、小夜音には聞き取れなかった。

 終宵の唇が、く、と三日月につりあがる。月光のごとき銀が数度閃く。夜色の髪が風を孕んで乱れ舞う。喉笛を掻き切られ、命の朱がほとばしる。散っていく。終宵が嗤う。瞳をぎらつかせるその様は、あまりにもヒトとは思えぬほどの色香をまとっていた。

 もっと見たい。もっともっとずっとこの様を見ていたい。小夜音は悦びと興奮に目を潤ませ、血風の染みる髪を乱して命じた。

「さあ、まだたくさんいましてよ。もっともっと、わたくしにあなたを魅せてちょうだい!」

 そして視界の隅で逃げようとしていた女の腕を引き、抜刀した終宵へと放り出す。唇をちろりと舌先で舐め、終宵は差し出された贄を引き裂いた。応接間は瞬く間に朱色に染まり、南蛮仕立ての白い絨毯にしみ込み切れないほど塗り重なっていく。

 と――使用人のひとりが金切声を上げながら、突然小夜音の背中へ体当たりした。小柄な小夜音はいとも簡単に宙を舞い、それを感じ取った終宵が駆けてくる。

 こんなときでも小夜音を優先してくれるなんて。抱き留めてもらおうと腕を伸ばす小夜音に向けて、終宵はつと口の端を上げた。

 最初に感じたのは、冷たい鋼の感覚だった。首の右側の付け根に、胸に、左の腹に、食い込んでいる刃の温度。

「――え、?」

 困惑した小夜音の喉から、小さな声が漏れる。そのまま終宵は恍惚の笑みをたたえると、刃を押し込み、腕を振るって引き斬った。

 冷たかったのはほんの一瞬だけ。すぐに灼熱の痛みが襲ってくるが、小夜音は悲鳴をあげることすらできなかった。

 足から急に力が抜けて、崩れるように倒れ伏す。息がうまくできない。喉からしゅうしゅうと何かが抜け出るのが聞こえてくる。

 どうして。どうして。未だ理解することすらできず、浅く浅く呼吸する小夜音の傍らを終宵が駆け抜ける。鼓膜を裂くのは醜い悲鳴。重たいものが倒れる音。這いずる少年の姿が、倒れた小夜音の目の隅に映る。刀を無造作に握った終宵。意識が冷たくなっていく。手と足の先が冷えて痛い。

 会話をしている。ざらざらとした音混じりに遠く近く波となって打ち寄せる。聞き取れない。少年は耳障りな声で何事かを並べ立てていたが、それもやがて中途半端な場所で引きちぎられた。

 喘ぐ小夜音の顔に水のようなものが降り注ぐ。生暖かくねばついた感触が薄い皮膚を撫でていく。それを追いかけるのは、むせかえるほど生々しい鉄錆のにおい。

 ――血だ。先ほどまで、生きた人間の体内をめぐっていた血液が、壊れた噴水のように激しくほとばしっている。回らない頭でそれを理解したとき、小夜音の喉から声にならない悲鳴があふれた。熱いものが胸からせりあがり、咳き込んで塊を吐きこぼす。

 視界から色が褪せていく。声が出ない。声が出せない。空気が喉をこする不快な音ばかりが耳につく。痛い。痛い。苦しい。苦しい。どうして。どうしてなの。

「やはり  でな れば、やつがれは  てはゆ ぬの な。  ほど、 かに  だ」

 寄せて返す雑音に汚染されながら、蕩け落ちそうなほどの甘さと熱を滴らせた独り言は、これまで小夜音が聞いた事のないほどの熱に濡れ、官能的だった。そう、肌を重ね合わせたあのときよりも、ずっと、ずっと。

 激痛が全身を刺し貫き、もはやうめき声すら上げられない。のたうつこともままならず、小夜音はじわじわと広がっていく朱のただ中に横たわっていた。

 終宵よすがらさま。

 たった一言すら紡げない唇で、しかし小夜音は彼を呼ぶ。手を伸ばす。灰色になっていく視界の先で、終宵は未だ体液をあふれさせる少年を抱いて身を寄せていた。舞ではだけた胸は血を浴びて赤黒く、輪郭をなぞる表情は恍惚としている。

 小夜音は悟る。否、本当はわかっていた。彼が見ていたのは、小夜音ではなかったことなんて。最初から彼は小夜音なんかを見てはいなかったことなんて。彼が“視て”いたのはずっと、ずっと、たった一瞬で終わってしまうほどに脆く儚い、誰かの終わりの瞬刻だけだ。

 ――許せない。そんなのはダメなのに。彼は小夜音のモノなのだから、小夜音以外にその顔をしてはいけないのに。

「よすが、ら、さま」

 やっとの思いで振り絞った音に、終宵がふと振り返る。そしてつくりものの足を軋ませ、彼は血の海を渡ってくる。膝をついて座りこみ、指先で細く息をする小夜音に触れた。

「どう、して……」

 わたくしたち、こいびとだったのではなかったの。

 言外ににじんだその意味がわかったのだろうか。終宵は困ったように微笑んだ。いつもと同じような、いつもと同じでない夜更けの笑みで。

「どうして、か」

 そして彼は、肩から滑り落ちる髪を指ですくい、耳にかける。あの月夜と同じように。小夜音は必死で、遠く近くなる音を拾い集める。寒い。寒い。寒くて凍えてしまいそうだ。

「   だ ら です 。ゆえ やつがれは、君の ノではいられぬ です」

 終宵は首の戒めに指をかけ、いともたやすくりぼんを千切った。金の鎖が滴って、小夜音の薄暗い視界にきらきらと散る。

「ごめん  い、お嬢 ん。……せ て君の散る様 、」

 柔らかく髪を撫でられる。優しく抱きしめられて、涙がにじんだ。寒さが和らいでいく。

 首がわずかにひやりと冷えた。つめたいモノが首筋に、ゆっくりと食い込んで入ってくる。冷たい。冷たいのに、すぐに燃えるように熱くなる。はらはらと散っていくのは、自慢だった黒い髪。

「この身にとく 魅せ おくれ」

 甘い甘い、声がする。宝石のように赤い瞳。あまりにも綺麗な夜の微笑。手足が固く強張って、思い通りに動かなくなる。視界が緩やかに閉ざされていく。

 小夜音の体を巡る命が、花弁となって彼を彩る。想いは決して伝わることなく、花のように散っていく。

 小夜音の歪んだ想いとともに染まっていく彼は、あの日見たときよりもずっとずっと色鮮やかで、どんなものよりも美しかった。
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