そして夜は華散らす

緑谷

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参章

其の六

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 それはあまりにもあっけない幕引きだった。彼は、かつてこの国を守るために前線で戦っていた英雄は、暮邸を壊滅させた殺人鬼は、微笑んで手錠をかけられ牢へ入った。

 世見坂終宵よみさか・よすがらは破綻していた。あまりにも狂っていた。元軍人がこんな状態だと知れたら、果たして軍の上の者たちや、軍とも薄からぬつながりがある警察上部はどう動くのだろうか。

 もっとも、それは下っ端である自分らには関係のない話だ。手柄を立てたと言えど、結局は何も変わりはしない。いつもの通りの仕事をして、いつもの通りの時間が過ぎるだけ。

 ただひとつ変わったことと言えば――時折東雲が意識を向けた先に、誰かを殺す終宵の幻が現れるようになったくらい、だろうか。

 終宵が捕まってから三日が経過した、夜。今宵は満月。派出所の入口にも青い光が差し込んで、淡い影を落としている。【塔】は本来閉ざされた場所であるが、不思議なことに陽の光も月の光も、どこからともなく差し込んでは、本来ないはずの空を染めるのだった。

 しんと静まり返る派出所には、東雲以外誰もいない。一日は奥の仮眠室で仮眠をとっている。残る二人の部下は巡回に出ているところだった。

 東雲だけがひとり、ぼんやりと机を前にして座っている。手元には、写影機で撮影された死体の写影。机の上に並べたそれらは皆、彼の作り出した冷たく鋭い死の形だった。

 これらすべてが、彼が求める甘露のかたち。飢えを、渇きを満たすために飲み干されたもの。満たされたい、ただそれだけのために散らされたもの。

 満たされたいがために人を斬る。得られた悦楽に身を浸し、そして次を求めてさまよい、同じことを繰り返す。男の狂気はそこまで深いものなのか。舞うように艶やかに、写影の彼らを屠る終宵の姿が脳裏に浮かぶ。

「……そんなにも、心地よいものなのか」

 東雲は小さく独り言ちる。灯りが揺れ、机に置いた帽子にわずかな陰影をつける。


 ――気が狂わんばかりの強烈な飢えが、
   魂の奥底から干からびそうなほどの
   渇きが満たされる。


 ――それは何者にも代えがたい甘露では
   ないか?


 そうささやく男の言葉を、東雲は否定することができなかった。

 本当はわかっている。飢えを満たしたい、渇きを満たしたい、それは何も身体的なものだけではなく、精神的なものにも言えることなど。

 魚が水を求めるように、人が呼吸をするように。飢えと渇きが満たされる、その幸福感と充足感、そして確かな快楽は、どんなものにも代えがたい。たとえば、それこそ喉が渇いたときに飲む水は何よりも甘く、官能的であるように。

 もしも。もしもこの、力への飢餓感が満たされたなら。無力感がなくなって、力で満ち溢れたなら――自分は果たして、どうなるのだろうか。彼のように、圧倒的な技巧と力で〝獲物〟を食いちぎることができたなら。彼のように。

 意識の片隅で、終宵がまたひとりを斬り捨てる。蕩けるような表情に、満たされていることを知る。

「満たされたい……」

 唇よりまろび出た小さな本音は、写影の表面に触れてぱりんと割れた。

 あのとき、東雲は確かに気づいてしまった。飢えて渇いて干からびて、それでもずっと蓋をして見ないふりをしていた“ソレ”に。これまでずっと、無力感の陰に隠し続けてきた、その、渇望に。

 写影に触れる。見とれるほどに美しい切り口だ。鋭利な刃物で、たった一撃で、あるいはもう一太刀で息の根を止めている。滑らかな、舞うような動きで鮮やかに、刀を扱う終宵が見える気がした。

「……彼は、こうしたとき……満たされたのだろうか」

 追い詰めて切り裂き、無防備な身体をえぐり断ち切ったあと。咲き誇る花をバラバラに千切り取ったあと。恍惚の笑みを浮かべていた終宵の、蕩けて潤んだ眼差しはあまりにも雄弁であった。

 もしも自分が満たされたならば、果たしてどんな風なのだろう。想像するだけで背筋を何かが這い上がり、く、と東雲の喉が鳴る。

 考えてはいけない。そう思えば思うほどに、よりはっきりと、東雲の内側に刻み付けられた飢えと渇きがひどくなる。押さえ込もうとすればするほど、それは存在感を増していく。見ないふりをするたびに、それはより強く力を求め、無力な己を攻め立てた。

 力が欲しい。彼のような力が。法を守り、規則を遵守し、優等生のようにふるまうほどに、己の力のなさを思い知る。だったらもういっそ、彼のようになってしまえばいいのだろうか。ふと、そんなことを考えた。

 彼が腰の刀を抜くときの、ためらいのなさと同じように。今まで恐怖で抜くことすらままらなかった、この洋刀を、銃を、ためらいもなく使えたならば。ぽかりと口を開けたこの無力感は満たされるのだろうか。

 いとも簡単に力でねじ伏せ、斬り捨てることができたなら――いったいどんな風に感じるのだろうか。

 それは甘美な誘惑だった。ほの暗いところから風が吹き込んでくる。ここに終宵はいないはずなのに、あの濡れた眼差しが頭から離れない。彼のようになれたなら。彼のように。

 視界の片隅に、銀の光が翻った気がした。いつしか目に焼き付いた、終宵の太刀筋が陽炎のように月影に揺れる。そうして幻影として舞う彼の姿を、血を噴いて倒れる誰かの姿を、東雲は食い入るように見つめていた。

 どれくらいの間、そうしていただろうか。

「んー、先輩おはよーございます……どもっした……」
 一日ひとひが奥からのそのそと現れた。茶色がかった髪に寝ぐせがついている。眼がほとんど開いていない。遅刻がたびたびあるのは、この寝起きの悪さによるものだ。

「ああ。起きたか」

 東雲はさりげなく写影を片付け、懐にしまう。ちかり、と終宵の刀が光を跳ね返し、白く光って紅に染まる。またひとり、幻の誰かが無音に死んだ。

「うーす……ふたりともまだっすか」
「そのようだ」

 一日はあくびをしながら帽子をかぶり、目をこすっている。それがどうにも幼く見えて、東雲は柄にもなくくすりと笑った。

「しゃんとしろ。顔は洗ったか?」
「洗いましたよ……ふあ」

 もう一度大きなあくびをし、伸びをする。一日の手足は長いから、この狭い派出所の天井にも指先が届いてしまう。

「じゃ、かわりまーす」
「よろしくな」
「うーす」

 一日は窮屈そうに椅子に腰かけると、眠たげに目をしばたたかせて東雲を見やる。

「ん?」
「先輩、大丈夫っすか?」

 その肩越しに、終宵が舞う。踊る。銀をひらめかせ、美しく。後ろにいた誰かは、いったい何度死んだだろう。また首を掻き切られた。赤が散る。赤が。

「……大丈夫だよ」
「そうっすか。疲れてるみたいですし、早く寝てくださいね。寝坊したら起こしますから安心してください」
「あいにくと、自分は時間に遅れたことはないのでな」
「はは、確かに! じゃ、いってらっさい」

 一日の眠そうな声と笑みに手を軽く挙げて応え、東雲は奥の休憩室へと足を向けた。

 五畳ほどの畳張りの部屋には、一日がそのままにしてある布団が敷きっぱなしになっている。布団の白に点々と血が跳ねる。またひとりが斬られて死んだ。

 上着を脱いで革帯に手をかけ、銃を外して傍らに置く。そこでふと、休憩室の奥の扉が細く開いているのに気が付いた。

 青い光が細く内側に入りこんでいる。終宵の外套が翻る。長い髪が音もなくなびき、その背が扉の向こうへ消えていく。東雲もそれに導かれるように、ふらふらと外へ歩き出した。


 夜光石の街灯すらもないような、闇に深く沈んだ場所。終宵は時折こちらを振り返りながら、軽やかな足取りで進んでいく。やがて第一外殻に程近い裏路地の奥で、東雲はふいに誰かにぶつかった。

「なんだてめぇ?」
「ああ……すまん」

 頭を下げてから、やっと東雲は現状に気づいた。五人ほどの若者の集まりで、手に白い粉の入った袋と煙管を持っている。どう見ても違法の薬品であった。

「すまんじゃねぇんだよ、ああ~?」
「おいおい、こいつ警察かよ! まあいい、いたぶり殺してやろうぜ」

 下卑た笑いと共に左腕をつかまれた。あまりの力に東雲も眉を寄せる。

 こんな相手であっても、警察は威嚇以外で武器を使ってはいけないことになっている。だが、今はそれどころではない。

 東雲はとっさに相手の懐に潜り込み、背負って投げた。それがいけなかったらしく、周囲の男たちが殺気立つ。各々の武器を取り出している。これも違法の品だろう。

 短刀を握った男が、口から泡を飛ばしながら襲い掛かってくる。腰に手をやるが、銃を置いてきてしまった。手を滑らせ、洋刀を握る。もしも彼らを殺してしまったら。恐怖で手が震え始めた、そのとき。

 幻の終宵の唇が、く、と吊り上がった。


 ――もしも、彼のように。

 ――いとも簡単に、力でねじ伏せ。

 ――斬り捨てることができたなら。


 ――いったいどんな風に感じるのだろうか。


 その、瞬間。
 東雲の手は自然に洋刀さーべるを抜き放ち、相手の喉笛を掻き切っていた。

 つぶれた蛙のような声を漏らし、男が喉へ手をやる。口からごぼり、と血があふれ、そのまま前のめりに倒れた。石畳に緋の塗り絵が施され、翼のように広がっていく。

 全身から血が引いていく。胃が握りつぶされるような心地がする。手は震え、刀がかちかちと抗議の声を上げている。

 一方全身を駆け巡るのは、激しく脈打つ血潮と熱。境界を飛び越えた解放感。背筋を走り抜けるのは嫌悪と興奮。熱く煮えたぎり、冷たく冴えわたる意識の中で、東雲は悟った。

 そうだ。本来ならばこうすべきものだ。腰におさまっていたもの。脅しのためではない、力。なぜ気が付かなかったのだろう。自分は初めから、力を、持っていたではないか。

 いつの間にか終宵は消えていた。代わりに視えるのは、よりくっきりと鮮明になった、世界だけ。

 雄たけびを上げ、鉄の棒を振りかざす男の目を穿つ。悲鳴。悲鳴が上がる。転げまわる背中を断ち割り、首の付け根に刃を食い込ませる。別の逃げようとする背中に追いすがり深々と胸を刺し貫く。動きが止まり倒れ込むところにまたがって後頚部のくぼみを引き裂いた。つぶれた断末魔が漏れて鎮まる。動かなくなる。動かなくなる。動かなくなる。動かなくなる。動かなくなる。

 ぞくぞくと駆け抜ける高揚。この手で手折って捨てる興奮。罪悪感すらもそれらをあおる要因でしかない。ああ、こんなにもあっけなく。こんなにも脆い。こんなにも簡単に。こんなにも簡単に! 解放されていく。満たされていく。これが。これが。

「ああ」

 東雲は恍惚と息をつく。震えはいつの間にか止まっていた。

「こういうことだったのか」

 これは正当防衛だ。相手は武器を持っている。これは正当防衛だ。意味不明の叫びをあげて小刀を向ける男に躍りかかり、むしゃぶりつくように喉へ食いつき銀を薙ぐ。しなやかな洋刀が真っ赤に染まる。倒れる男に再度乗り上げ、何度も何度も刀を振り下ろした。

 気持ちいい。自分を馬鹿にしていた表情が、一瞬で凍り付いて断末魔を上げるのが。気持ちいい。圧倒的な力でつぶし、食らっていくのが。これまでは何もできず、ただ蹂躙されているばかりだった己が、今、こんなにも簡単に、相手を屠りねじ伏せている。弱い獲物に食い裂かれ、絶望しながら息絶える、その感覚が手を伝うのが――気持ちいい。

 今ならわかる。この、業深き悦びと背徳的な興奮が。あまりにもくっきりと意識に刻み込まれ、揺さぶり、酔わせるそれが、彼の身を、魂を満たし、彼が取り憑かれ欲したものなのだと。

 思い出すのは、戦で伝え聞く彼の姿。そして脳裏に鮮やかによみがえる、ならず者を斬り捨てる彼の、潤んだ笑み。艶めく刀の舞う軌跡。どこまでも無慈悲に、どこまでも美しく命を食らうその様。貪り、啜り取るこの、愉悦。

「中尉。ありがとうございます」

 動かなくなったモノたちが無造作に転がるその中で、東雲は笑った。真っ赤に濡れた身体で立ち上がり、熱を帯びる吐息で虚空へと語る。

「あなたのおかげで私はやっと、前へ進むことができそうです」

 息ができる。高揚している。同じものを味わっている。今。この場で。やっと自分は彼を理解したのだ。否。きっとこれは入り口にすぎない。もっともっと近づきたい。もっと強くならなければ。そうでなければ、彼にはなれない。彼を、正しく裁くことができない。

 もっと力をつけなければ。もっと強くならなければ。かつて殺せなかった敵たちの代わりに、こうしてのさばる連中を、もっともっと狩れるように。いずれは彼のことも、この手で裁くことができるように。

 想像する。彼が何度もソレらにしてきたように、今度は自分が刃を突き立てる様を。何度も何度も穿ち、えぐり、引き裂いて切り裂くその様を。緋色が散り、綺麗な赫い瞳のまま物言わぬ骸になる様を。

 それはただの空想だというのに、東雲に確かな高揚と興奮を与えた。

「私も、あなたのようになれるでしょうか。あなたに近づくことができるでしょうか。いずれあなたも、殺すことができるでしょうか」

 夜が来る。深く静かな時刻が来る。徐々に薄暗くなる路地の中、東雲は空へ手を伸ばし淡く微笑んだ。

 もっと斬らねば。もっと。もっと。強くならねば。もっと。もっと。胸に巣食った飢えと渇きが、血の紅で全部満たされるまで。

 そうしてゆっくり歩きだす。点々と、真紅の華を散らばしながら。やがては暗がりに沈み込み、その背はぼやけて見えなくなった。


* * *


 鉄の臭いと冷えた闇。粗末な石の壁に身を預ける。

 熱い。熱は血とともに身体を巡る。血潮がざらざらと音を立てている。

 繰り返し繰り返し、刃で食んだ感覚を反芻する。奥の奥まで沈めていく、断ち割り断ち切るその様を。夢想する。想像する。かみ砕く。背筋を走る悦楽の残滓に、小さく吐息を漏らして喘ぐ。

 もっと。ほしい。満たされたい。
 まだ足りない。まだ。もっと。
 淫らに求む衝動が、激しく身体を疼かせる。

 時の感覚はもとよりない。一日、二日、あるいはもっとか。ここはこれで居心地がよい。檻とも呼ぶべきその場所は、ある意味似合いかもしれない。


 遠くより、声がする。響いて散って、踏み砕かれる。足音が近くなる。近くなる。薄らと瞼を持ち上げる。格子の開く音。気配。この気配を、知っている。

 髪がつかまれて持ち上げられる。壁に背中から叩きつけられて息が詰まる。床に放り投げられて咳き込んだ。

 目の前に転がる軽い音。指を這わせれば、愛刀の柄にひたりとはまる。

「私の手を煩わせるな」

 冷ややかな眼差しが注がれているのを、肌で感じた。刀を握り、抱きしめる。それからまた髪を引かれ、引きずられるように立ち上がった。


 花。
 花が見たい。
 咲き誇る綺麗な花が。あたたかくて鮮やかな、花が。花が見たい。そうしてそれが散る様を、この身の奥底から味わいたい。

「まだ食い足りないのか。つくづくはしたなくて卑しいな、お前は」

 閉ざされた視界の向こう側、こぼれた声に彼が嗤う。

「汚らわしい、××××め」

 何度となく刻み付けられた言葉に、黙って小さく笑みを返した。
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