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肆章
其の五
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* * *
旦那様は、あの男を連れて帰ってきてからずいぶんと機嫌がいい。今日も今日とて、自慢話に花が咲く。
それをにこやかに聞いて、適当におだてておくのが私の仕事だ。正直、機嫌がいいほうがこちらとしてはやりやすい。なだめすかすのが大変だから。
それにしても――数日前の話から考えても、旦那様がいったい何を怯えているのかが私には理解ができない。自尊心の塊で、やたら嫉妬深くてねちっこい性格の旦那様が、誰かを毛嫌いすることなど日常茶飯事だ。しかし、こんなにも強い憎しみを向け、ここまで嫌う相手などいなかった。
一見ぱっとしない地味な男だが、ちらと見た限りでは物静かで穏やかで、そこまで嫌われる理由がわからない。いったい何があったのか。聞いた話だけが理由ではないだろう。
「旦那様、なぜあの男をそこまでお嫌いになるのです?」
翌日。食事の片づけをしていた際にふと、私は旦那様に尋ねてみた。
舌打ちがひとつ。旦那様は本当に舌打ちが多い。湯飲みを乱暴に座敷机へと叩きつける。そんな風にしたら割れてしまうのに。本当にわかりやすい人だこと。
「言っただろう。あいつは躾ができていなかったのだ」
「ええ、伺いました」
「初めて私と会ったときに、あいつは『君の名前は何と言う? 同じ立場でともに戦う同士なのだ。どうか教えてほしい』と言ったのだ。私の手を、許しもなく勝手に触ってだ!」
よくわからない。いや、よくわからないが、旦那様の怒りのツボはだいたいわかる。この人は、自分の(高すぎる自己評価の基づいた)価値をないがしろにされることが許せないのだ。
「なるほど。目下の卑しい身分の者が、旦那様の許可もなく、旦那様に無礼なことをしたのですね」
「そうだ!!」
合っていたようだ。まあ、このお方はわかりやすいから、あまり深く考えなくても察することはできるのだが。
旦那様の額には青筋が浮いている。よほどお気に召さなかったのだろう。
「地上の人間以下が、第九階層の由緒正しい血筋の私に敬語を使わなかった! 言葉遣いは大目にみてやってもいい、だが、私の許可もなく触れたことは許せん!」
がなり立てる声が茶の水面を揺らす。私は内心で嘆息し、今にも握り壊されてしまいそうな湯飲みを救助すべく、そっと旦那様の手に手を重ねた。それで多少怒りが緩和されたのか、旦那様は湯のみに当たることをやめ、苛々と爪を噛んでいる。
「まったく、躾のできていない輩はこれだから嫌いなんだ」
これはあとで爪を整えてあげないと、また機嫌が悪くなるな。私は適当に聞き流しながらそんなことを考えた。
「ましてや私を同じ立場だと? 馬鹿にしているのか! 私は上層の人間だ、第九階層の由緒正しい身の上だ、下層の人間に馴れ馴れしくされるなど、これ以上の侮辱があるか!!」
やれやれ。自分で言っていて、怒りが再燃してしまったようだ。本当に面倒くさい。再度手を添えて机を殴ろうとするのをやめさせ、私は軽く旦那様の襟元を整えた。
「ならば、もっと教え込んでやりましょう。あの男が正しく躾けられていないのならば、旦那様がそうしてやればよいのです」
それから微笑み、ささやきかける。しばらくの間は、あの男に気を引いてもらわねば――機嫌がいいと、それだけこちらの負担が減る。できるだけ楽してズルして稼ぎたい。
ああそうだ、もうちょっと財布から抜いておかないと。見栄を張ってこれ見よがしに束で入れているものだから、多少抜かれててもまったく気づいた様子がないのが笑えてくる。
私は遊んで楽して暮らせればいい。家事もそれっぽくこなせればいいのだ。手を抜けるところは抜いておけばいい。それなりに見えればいい。あいにく旦那様の目は節穴だから、どうせバレることはない。
「……ふん、そんなことはわかっている。とっくの昔にそのつもりだったからな」
やっと落ち着いたらしいが、まだ眉間にはしわが残っている。今夜はちょっとしつこいかもしれない。こっちの都合も体力も何も考えてない上に性欲だけは旺盛だから、そういうところは困る。
ちらと時計へ目をやる。もうすぐ旦那様の出かける時間になる。適当に家事済ませたら、もうちょっといいものを探してみようか。
旦那様は軍帽を手に立ち上がる。軽く旦那様の服の埃を払ってやってから、私は玄関まで見送りに立った。
「いってらっしゃいませ。寂しうございますから、お早いお帰りをお待ちしております」
「ふん」
旦那様はにやりと好色な笑みを浮かべる。こんな言葉で機嫌がよくなるのだから、本当にこの男は単純だ。体のいい欲と怒りの吐き出し口さえあれば、ずっと扱いやすいままでいてくれる。そうでなければ困る。こっちはできれば面倒なことはやりたくない。
扉が閉まる。見送りはこれでおしまい。私は軽く伸びをしてから、奥の間へ目を向けた。まずあそこの掃除をしないといけない。一番面倒な作業だが、掃除されていないと旦那様はひどく機嫌が悪くなるのだ。
それにしても――旦那様が怯え、暴力をふるい、そして汚したあの男。実はずっと興味があった。あいつの〝味〟は、果たしてどんなものなのだろう?
好奇心は猫を殺すかもしれないが、人間には知恵がある。ましてや、縛られている相手であれば大したことはできないはず。
一番奥の扉に進む。いつものように重々しい錠前を外し、中へと入った。灯りをともす。鉄錆のにおいに生臭さを混ぜ、すえた性の名残と絡み合って充満している。ああ、床が汚れている。汚いな。適当に掃除しておかなければ。
腕を上に吊られたまま、男は身じろぎひとつせず、柱に背を預けて座り込んでいた。中央の柱に打たれた楔に、絹の縄が引っ掛けられている。ここに来て、掃除に入るたびにいつもこんな感じである。
暴行の痕、強姦の痕、旦那様は加虐的嗜好がおありだから、そこに憎しみも加わってずいぶんひどい状態になっている。顔をたたかれることはあるようだが、目立った傷跡がないのはたぶん、旦那様の趣味だろう。地味な印象だが、顔立ちは整っているから。
目が見えないからなのか、やはり灯りに一切反応しない。水の入った手桶を置き、汚れた床を拭いて綺麗にする。その音が聞こえたのか、男は小さくうめき声をあげた。
それから薄い瞼を開く。真っ赤な目。地上の人間の目は、みんなこんな色なのだろうか?
「……君は、使用人、の?」
かすれた声で、こちらに話しかけてくる。この数日間、私がここに入るときには気絶していたから、こうして会話するのは初めてのことだった。
「ええ」
私は汚れたところだけを綺麗にしてから、雑巾を絞って手桶にかけた。水をこぼさないように部屋の隅に置いて、私は再び男に近寄る。
夜色の髪は長い。今は乱れているのが惜しい。パッと見は地味な印象だっただが、こうして間近でじっくり見ると、なかなかに綺麗な顔立ちだ。まつ毛も長くて、伏し目だからか妙に色気がある。
身体も軍人だったせいか、筋肉がついてしっかりとしている。象牙を磨くと透明感が出るが、肌はそれを思わせるような色だった。細いというよりは、無駄がそぎ落とされた、と表現したほうが正しいかもしれない。
はだけられた胸元には、幾筋も刻まれた赤い傷痕がある。この間旦那様が乗馬鞭で叩いていたから、おそらくはそれだろう。奇妙なことに、甘い香りがする。血と精液のにおいが混じってはいるものの、果実のような花のような、そのどちらでもありどちらでもない、官能を刺激するような匂いだった。なるほど。旦那様がこの男に劣情を催すのも、わからないではない。
「残念だけど、あなたの身体を綺麗にするのはできないの。旦那様に叱られてしまうから」
返事はない。は、と震える吐息がこぼされる。熱を帯びて湿っているように聞こえたのは、気のせいなのだろうか。
「……い」
絞り出される言葉に、私は首をかしげる。絹の縄が軋んだ。男がのろのろと顔を上げる。もつれてほどけた髪が白い面にかかって、それがまた妙に艶がある。加虐性を持つ者は、確かにそそられてしまうかもしれない。
「なに?」
気になって近づき、顔を寄せてみる。
「喉が、かわいた……斬りたい、あぁ、斬らせて、くれ……」
唇からこぼれ落ちたのは、予期せぬ言葉だった。斬りたいとは? 野菜だとか果物だとかを斬る、とかではないらしい。では、何を?
「たのむ、ああ……誰か、誰でもいい、誰か斬らせてくれ、おねがい、だから」
驚いた。斬りたいとは、もしかしなくとも人間のことか。喉が渇いたと訴えるものだから、てっきり水が欲しいのかとも思ったのだが。
得体の知れない男はただ、ひたすら私に懇願している。悩まし気に眉を寄せて、苦しげに斬りたい、と繰り返している。時折戒められた腕を動かしては、私に懇願してくる。
ああ、なるほど。これはずいぶんと目に毒だ。嗜虐心をそそられる。旦那様の好きにさせていたから、久しく男をいじめていなかった。
なるほど。旦那様は否定するけれど、これにあてられたのだろう。……少しぐらいなら、つまみ食いしてもいいかもしれない。
私は男の顎に指を添え、軽く力を入れてあおのかせる。潤んだ朱い目に、ちょっと意地悪そうな表情の私が映っている。
「そんなに斬りたいの?」
尋ねてみる。男の喉が苦し気に鳴る。肌が熱いのは、興奮しているからか。髪が乱れて、肩から流れていく。汗のにおい。甘くて官能的なにおいがする。薄らとまなじりに涙が溜まってる。泣かせてみたい類の男だった。
「……っき、らせて、くれ……もう、くるしい……肉を裂きたい、血を浴びたい、生きているのを感じたい、もう、我慢できない……っ」
言っていることは支離滅裂だが、これは予想以上にいじめがいがありそうだ。
胸が、下腹部が疼いてたまらなくなる。軽く胸板に指を置いた。身体がびくりと跳ね上がる。頭上に掲げられた縄が軋んでいる。私は軽く唇を舐める。……いいことを思いついた。
手桶を片付けに一度外に出る。そのついでに客間へ向かい、旦那様の蒐集していた小刀を一本手に取った。漆塗りの鞘には螺鈿と金の蝶が舞う。同じような趣向の凝らされた太刀もある。ずいぶんと価値があるそうだ。
再び部屋に戻り、目の前でゆっくりと振ってみる。真紅の目が、こっちを見ている。いや、見えてないから見てないか。でもまるで見えているように、じっとソレを目に映している。
「これ、なーんだ?」
ゆっくりと刀を抜いてみる。頬に押し当てると、男は双眸を大きく開いた。呼吸が速くなる。肌に刃を滑らせてみる。息を乱している。冷たいから、だけではないようだ。明らかに興奮しているのは、身体に起きている変化を見ればわかる。肌が上気して汗ばんで、震えながら刃物を請うていた。
「ああ、斬りたい……おねがいだ、それが欲しい……斬りたい、斬らせてくれ……っ!」
喘いで欲しがるその様に、満足する。頭上に戒められた手が何度も震えて、握ったり開いたりしていた。
面白い。くすくす笑いながら、足の付け根を指で撫でる。背中がしなる。髪が乱れて散る。首を振っているのは、気持ちいいのを逃がしたいからだろう。いい反応をする。正直、旦那様よりもそそられる。
「欲しいの? これが」
つつ、と刃を腕へ走らせた。呼吸を不規則に乱しながら、彼は何度も何度もうなずいた。あまりに必死で、加虐心をあおられる。腕の柔らかな内側を切っ先でなぞる。血がうっすらとにじんで、白い肌に傷が浮いた。ぞくぞくする。いい眺めだ。
ゆっくりと刃を上へ持っていく。焦らされているのがもどかしいのか、お願いだ、はやく、と涙で濡れた声で男が懇願した。ああ、よくないな。もっといじめたくなってしまうじゃないか。焦らして焦らして、手首をなぞって、手のひらへ――その、瞬間。
強い力が刀に生まれた。私ははじかれたように彼の頭上へと目を向ける。刀が握り込まれている。濃い血の臭いが鼻をついた。慌てて引っ張ろうとしたが、ものすごい力で動かすことすらできない。背筋を冷たいものが流れていく。何だこの感覚は?
思わず怯んで手を離した。男の身体が傾ぐ。腕をねじる。刃が手のうちで滑る。くるり、銀が回る。柄を握る。吊っていた縄に刃が食い込む。そんなに太くなかった絹の縄は、いともあっさりと断ち切られた。
逃げなければ。でも足がうごかない。目の前で、座り込んでいた身体が跳ねる。手には刀。異様な輝きを放つ緋色の目。飢えた獣の眼だ。私は今――飢えた獣の前にいるのだ。そう悟ったときにはもう、すべてが遅かった。
* * *
旦那様は、あの男を連れて帰ってきてからずいぶんと機嫌がいい。今日も今日とて、自慢話に花が咲く。
それをにこやかに聞いて、適当におだてておくのが私の仕事だ。正直、機嫌がいいほうがこちらとしてはやりやすい。なだめすかすのが大変だから。
それにしても――数日前の話から考えても、旦那様がいったい何を怯えているのかが私には理解ができない。自尊心の塊で、やたら嫉妬深くてねちっこい性格の旦那様が、誰かを毛嫌いすることなど日常茶飯事だ。しかし、こんなにも強い憎しみを向け、ここまで嫌う相手などいなかった。
一見ぱっとしない地味な男だが、ちらと見た限りでは物静かで穏やかで、そこまで嫌われる理由がわからない。いったい何があったのか。聞いた話だけが理由ではないだろう。
「旦那様、なぜあの男をそこまでお嫌いになるのです?」
翌日。食事の片づけをしていた際にふと、私は旦那様に尋ねてみた。
舌打ちがひとつ。旦那様は本当に舌打ちが多い。湯飲みを乱暴に座敷机へと叩きつける。そんな風にしたら割れてしまうのに。本当にわかりやすい人だこと。
「言っただろう。あいつは躾ができていなかったのだ」
「ええ、伺いました」
「初めて私と会ったときに、あいつは『君の名前は何と言う? 同じ立場でともに戦う同士なのだ。どうか教えてほしい』と言ったのだ。私の手を、許しもなく勝手に触ってだ!」
よくわからない。いや、よくわからないが、旦那様の怒りのツボはだいたいわかる。この人は、自分の(高すぎる自己評価の基づいた)価値をないがしろにされることが許せないのだ。
「なるほど。目下の卑しい身分の者が、旦那様の許可もなく、旦那様に無礼なことをしたのですね」
「そうだ!!」
合っていたようだ。まあ、このお方はわかりやすいから、あまり深く考えなくても察することはできるのだが。
旦那様の額には青筋が浮いている。よほどお気に召さなかったのだろう。
「地上の人間以下が、第九階層の由緒正しい血筋の私に敬語を使わなかった! 言葉遣いは大目にみてやってもいい、だが、私の許可もなく触れたことは許せん!」
がなり立てる声が茶の水面を揺らす。私は内心で嘆息し、今にも握り壊されてしまいそうな湯飲みを救助すべく、そっと旦那様の手に手を重ねた。それで多少怒りが緩和されたのか、旦那様は湯のみに当たることをやめ、苛々と爪を噛んでいる。
「まったく、躾のできていない輩はこれだから嫌いなんだ」
これはあとで爪を整えてあげないと、また機嫌が悪くなるな。私は適当に聞き流しながらそんなことを考えた。
「ましてや私を同じ立場だと? 馬鹿にしているのか! 私は上層の人間だ、第九階層の由緒正しい身の上だ、下層の人間に馴れ馴れしくされるなど、これ以上の侮辱があるか!!」
やれやれ。自分で言っていて、怒りが再燃してしまったようだ。本当に面倒くさい。再度手を添えて机を殴ろうとするのをやめさせ、私は軽く旦那様の襟元を整えた。
「ならば、もっと教え込んでやりましょう。あの男が正しく躾けられていないのならば、旦那様がそうしてやればよいのです」
それから微笑み、ささやきかける。しばらくの間は、あの男に気を引いてもらわねば――機嫌がいいと、それだけこちらの負担が減る。できるだけ楽してズルして稼ぎたい。
ああそうだ、もうちょっと財布から抜いておかないと。見栄を張ってこれ見よがしに束で入れているものだから、多少抜かれててもまったく気づいた様子がないのが笑えてくる。
私は遊んで楽して暮らせればいい。家事もそれっぽくこなせればいいのだ。手を抜けるところは抜いておけばいい。それなりに見えればいい。あいにく旦那様の目は節穴だから、どうせバレることはない。
「……ふん、そんなことはわかっている。とっくの昔にそのつもりだったからな」
やっと落ち着いたらしいが、まだ眉間にはしわが残っている。今夜はちょっとしつこいかもしれない。こっちの都合も体力も何も考えてない上に性欲だけは旺盛だから、そういうところは困る。
ちらと時計へ目をやる。もうすぐ旦那様の出かける時間になる。適当に家事済ませたら、もうちょっといいものを探してみようか。
旦那様は軍帽を手に立ち上がる。軽く旦那様の服の埃を払ってやってから、私は玄関まで見送りに立った。
「いってらっしゃいませ。寂しうございますから、お早いお帰りをお待ちしております」
「ふん」
旦那様はにやりと好色な笑みを浮かべる。こんな言葉で機嫌がよくなるのだから、本当にこの男は単純だ。体のいい欲と怒りの吐き出し口さえあれば、ずっと扱いやすいままでいてくれる。そうでなければ困る。こっちはできれば面倒なことはやりたくない。
扉が閉まる。見送りはこれでおしまい。私は軽く伸びをしてから、奥の間へ目を向けた。まずあそこの掃除をしないといけない。一番面倒な作業だが、掃除されていないと旦那様はひどく機嫌が悪くなるのだ。
それにしても――旦那様が怯え、暴力をふるい、そして汚したあの男。実はずっと興味があった。あいつの〝味〟は、果たしてどんなものなのだろう?
好奇心は猫を殺すかもしれないが、人間には知恵がある。ましてや、縛られている相手であれば大したことはできないはず。
一番奥の扉に進む。いつものように重々しい錠前を外し、中へと入った。灯りをともす。鉄錆のにおいに生臭さを混ぜ、すえた性の名残と絡み合って充満している。ああ、床が汚れている。汚いな。適当に掃除しておかなければ。
腕を上に吊られたまま、男は身じろぎひとつせず、柱に背を預けて座り込んでいた。中央の柱に打たれた楔に、絹の縄が引っ掛けられている。ここに来て、掃除に入るたびにいつもこんな感じである。
暴行の痕、強姦の痕、旦那様は加虐的嗜好がおありだから、そこに憎しみも加わってずいぶんひどい状態になっている。顔をたたかれることはあるようだが、目立った傷跡がないのはたぶん、旦那様の趣味だろう。地味な印象だが、顔立ちは整っているから。
目が見えないからなのか、やはり灯りに一切反応しない。水の入った手桶を置き、汚れた床を拭いて綺麗にする。その音が聞こえたのか、男は小さくうめき声をあげた。
それから薄い瞼を開く。真っ赤な目。地上の人間の目は、みんなこんな色なのだろうか?
「……君は、使用人、の?」
かすれた声で、こちらに話しかけてくる。この数日間、私がここに入るときには気絶していたから、こうして会話するのは初めてのことだった。
「ええ」
私は汚れたところだけを綺麗にしてから、雑巾を絞って手桶にかけた。水をこぼさないように部屋の隅に置いて、私は再び男に近寄る。
夜色の髪は長い。今は乱れているのが惜しい。パッと見は地味な印象だっただが、こうして間近でじっくり見ると、なかなかに綺麗な顔立ちだ。まつ毛も長くて、伏し目だからか妙に色気がある。
身体も軍人だったせいか、筋肉がついてしっかりとしている。象牙を磨くと透明感が出るが、肌はそれを思わせるような色だった。細いというよりは、無駄がそぎ落とされた、と表現したほうが正しいかもしれない。
はだけられた胸元には、幾筋も刻まれた赤い傷痕がある。この間旦那様が乗馬鞭で叩いていたから、おそらくはそれだろう。奇妙なことに、甘い香りがする。血と精液のにおいが混じってはいるものの、果実のような花のような、そのどちらでもありどちらでもない、官能を刺激するような匂いだった。なるほど。旦那様がこの男に劣情を催すのも、わからないではない。
「残念だけど、あなたの身体を綺麗にするのはできないの。旦那様に叱られてしまうから」
返事はない。は、と震える吐息がこぼされる。熱を帯びて湿っているように聞こえたのは、気のせいなのだろうか。
「……い」
絞り出される言葉に、私は首をかしげる。絹の縄が軋んだ。男がのろのろと顔を上げる。もつれてほどけた髪が白い面にかかって、それがまた妙に艶がある。加虐性を持つ者は、確かにそそられてしまうかもしれない。
「なに?」
気になって近づき、顔を寄せてみる。
「喉が、かわいた……斬りたい、あぁ、斬らせて、くれ……」
唇からこぼれ落ちたのは、予期せぬ言葉だった。斬りたいとは? 野菜だとか果物だとかを斬る、とかではないらしい。では、何を?
「たのむ、ああ……誰か、誰でもいい、誰か斬らせてくれ、おねがい、だから」
驚いた。斬りたいとは、もしかしなくとも人間のことか。喉が渇いたと訴えるものだから、てっきり水が欲しいのかとも思ったのだが。
得体の知れない男はただ、ひたすら私に懇願している。悩まし気に眉を寄せて、苦しげに斬りたい、と繰り返している。時折戒められた腕を動かしては、私に懇願してくる。
ああ、なるほど。これはずいぶんと目に毒だ。嗜虐心をそそられる。旦那様の好きにさせていたから、久しく男をいじめていなかった。
なるほど。旦那様は否定するけれど、これにあてられたのだろう。……少しぐらいなら、つまみ食いしてもいいかもしれない。
私は男の顎に指を添え、軽く力を入れてあおのかせる。潤んだ朱い目に、ちょっと意地悪そうな表情の私が映っている。
「そんなに斬りたいの?」
尋ねてみる。男の喉が苦し気に鳴る。肌が熱いのは、興奮しているからか。髪が乱れて、肩から流れていく。汗のにおい。甘くて官能的なにおいがする。薄らとまなじりに涙が溜まってる。泣かせてみたい類の男だった。
「……っき、らせて、くれ……もう、くるしい……肉を裂きたい、血を浴びたい、生きているのを感じたい、もう、我慢できない……っ」
言っていることは支離滅裂だが、これは予想以上にいじめがいがありそうだ。
胸が、下腹部が疼いてたまらなくなる。軽く胸板に指を置いた。身体がびくりと跳ね上がる。頭上に掲げられた縄が軋んでいる。私は軽く唇を舐める。……いいことを思いついた。
手桶を片付けに一度外に出る。そのついでに客間へ向かい、旦那様の蒐集していた小刀を一本手に取った。漆塗りの鞘には螺鈿と金の蝶が舞う。同じような趣向の凝らされた太刀もある。ずいぶんと価値があるそうだ。
再び部屋に戻り、目の前でゆっくりと振ってみる。真紅の目が、こっちを見ている。いや、見えてないから見てないか。でもまるで見えているように、じっとソレを目に映している。
「これ、なーんだ?」
ゆっくりと刀を抜いてみる。頬に押し当てると、男は双眸を大きく開いた。呼吸が速くなる。肌に刃を滑らせてみる。息を乱している。冷たいから、だけではないようだ。明らかに興奮しているのは、身体に起きている変化を見ればわかる。肌が上気して汗ばんで、震えながら刃物を請うていた。
「ああ、斬りたい……おねがいだ、それが欲しい……斬りたい、斬らせてくれ……っ!」
喘いで欲しがるその様に、満足する。頭上に戒められた手が何度も震えて、握ったり開いたりしていた。
面白い。くすくす笑いながら、足の付け根を指で撫でる。背中がしなる。髪が乱れて散る。首を振っているのは、気持ちいいのを逃がしたいからだろう。いい反応をする。正直、旦那様よりもそそられる。
「欲しいの? これが」
つつ、と刃を腕へ走らせた。呼吸を不規則に乱しながら、彼は何度も何度もうなずいた。あまりに必死で、加虐心をあおられる。腕の柔らかな内側を切っ先でなぞる。血がうっすらとにじんで、白い肌に傷が浮いた。ぞくぞくする。いい眺めだ。
ゆっくりと刃を上へ持っていく。焦らされているのがもどかしいのか、お願いだ、はやく、と涙で濡れた声で男が懇願した。ああ、よくないな。もっといじめたくなってしまうじゃないか。焦らして焦らして、手首をなぞって、手のひらへ――その、瞬間。
強い力が刀に生まれた。私ははじかれたように彼の頭上へと目を向ける。刀が握り込まれている。濃い血の臭いが鼻をついた。慌てて引っ張ろうとしたが、ものすごい力で動かすことすらできない。背筋を冷たいものが流れていく。何だこの感覚は?
思わず怯んで手を離した。男の身体が傾ぐ。腕をねじる。刃が手のうちで滑る。くるり、銀が回る。柄を握る。吊っていた縄に刃が食い込む。そんなに太くなかった絹の縄は、いともあっさりと断ち切られた。
逃げなければ。でも足がうごかない。目の前で、座り込んでいた身体が跳ねる。手には刀。異様な輝きを放つ緋色の目。飢えた獣の眼だ。私は今――飢えた獣の前にいるのだ。そう悟ったときにはもう、すべてが遅かった。
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