そして夜は華散らす

緑谷

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伍章

其の一

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 時に。

 事実は小説より奇なることはままあるが、果たして他者はどこまでそれを事実として認識するのだろうか。

 人は得てして、己と関係のないものを「作り話」として楽しむ傾向にある。自分とは関係ない、限りなく現実に似た虚構の世界。だからこそ他者はそれを作り話とみなす。そうして虚構に遊び、想像し、こんなこと起きるわけがない、と安堵している。

 ゆえに人々は気づかない。隣に潜んでいる非日常に。狂気に。魔性の存在に。


 西欧より渡ってきた文机の上、原稿用紙に文字を走らせていた男はひとつ、息をつく。

 白髪混じりの髪を短く整えた、壮年の男だ。かつては前線で戦っていたのであろう、年齢の割に筋肉のついた、野生の獣のような体つきをしている。着流しから覗く肌には幾重にも傷が刻まれていた。

 男はかつて、まさしく軍人であった。入相深時いりあい・しんじ中佐といえば、当時は革命の指導者などと呼ばれていた、革新派の軍人だ。八年前に突如別の軍人に襲われ、深手を負って退役を余儀なくされてより、こうして第八階層にある自身の屋敷で書き物をして過ごしている。

 入相は首を鳴らしつつ、万年筆を転がして伸びをする。正面の窓を隠す窓掛の隙間から、早朝の青白い光が差し込んでいる。卓上の時計へ視線をやれば、針は五時を少し過ぎた場所を示していた。この【塔】の壁は妙な造りになっていて、外界に広がる空や太陽光をそのまま内側へと映す。そう、閉ざされているにも関わらず、ここには昼と夜がある。もっとも、ただただ見えるだけであって、本来あるはずの熱などを感じることはできないのだが。

 原稿用紙を脇にどけ、入相は小さく嘆息した。入相の立てる物音と、時計が時を刻む音。それ以外は何も聞こえない。まるで深海の底のようにひそりと静まり返っている。

 と――その、横たわる静寂がわずかに軋んだ。入相が肩越しに視線を向けた先、扉がゆっくりと開いていく。机の引き出しに手をかけ、入相は闇をまとうソレをにらんだ。

 きしり、きしりと音が近づく。這い寄ってくる足音は、金属同士がこすれ合う独特の味を含んでいる。
 やがて夜の隙間より滑り込んできたひとつの影に、入相は軽く片眉をあげた。

 戦いの中で研ぎ澄まされた、しなやかな肉体の男である。三十路の後半か四十路のはじめか、比較的整った見目であった。湿った紺の着流しをまとい、肩には黒皮と翡翠の外套を掛けている。脚に貼りつく洋袴と、傷だらけの軍靴、腰には一振り白鞘の刀を佩いていた。

 その、半端に濡れた身体から、妙に甘ったるいにおいが漂ってくる。花のような、果実のような、香のような、そのどれでもないような。さながら官能を刺激するよう。これは、この男のまとう血の臭いである。この男が多量に血を浴びたからこそ、甘く艶やかに匂い立つのだと、果たしてどれほどの者が知っているのか。

 生乾きの髪は長く、背後の闇に半ば溶けている。夜の暗がりにも鮮やかな赫は、どこでもない場所を見ていた。ようよう知っているその顔に、入相は引き出しの取っ手から手を外した。

「――おかえり、世見坂よみさか。四日ぶりだな」

 声を投げる。夜の化身のようなその男は、初めて入相の存在に気付いたかのように、のろのろと顔をあげた。

「……入相、さん」

 かすれた声で、答えが返った。

 男の名を、世見坂終宵よみさか・よすがらという。かつての入相の部下である。その名字は入相が贈ったものだ。名字を持たぬほど身分の低い者は、軍に所属することを許されない――そんな馬鹿馬鹿しい制度をすり抜けるための、仮初のもの。

 何もかもが偽りで、何もかもが模倣でしかない。ヒトとしての設定を与えてやらねば、ヒトでいることができない。そういう存在であった。

 入相は椅子を引いて体勢を変え、改めて男と対面する。快楽の欠片で濡れた虚ろな緋の目。手はかすかに震えている。普段と何も変わらぬことを、ただ繰り返しただけだというのに、今宵はずいぶんと心が乱れているらしい。

「喉が渇いていたようだが、どうだ。よく“食えた”だろう?」

 問いに対する答えはない。世見坂は黙ってたたずんでいる。

 よく見れば、胸元の血がぬぐい切れていない。怪我でもしているのか、肌に赤く筋が刻まれている。服や髪が重たげに湿っているのも、水をかぶったからかもしれない。頭頂からつま先まで眺め回し、入相は小さく鼻で笑った。

「ずいぶんとひどい様だな。まるで愛しい男と死にきれなかった娼婦のようだ」

 世見坂は小さく肩を震わせる。泣いてはいない。しかし不安定なその色は、夜の闇に浸ってもなお魔性の紅に輝いている。盲いた赫に昏く灯るのは、いったい何の情なのか。読み取ることはできない。

 魔性という言葉の意味は『魔物のような、人を惑わす性質。またはそれを持っていること』である。魔とは人に非ざる者、魔物を示す。魔の気質を持つ者、それはすなわち魔物以外の何物でもありはしない。この男はまごうことなき魔、そのもの。ヒトとは異なる理で動くモノ。その、なんと美しくおぞましいものか。

 男を狂わせる艶を持った女を、時に魔性と呼ぶこともあろう。狂わされるものは狂わされ、惑わされる者は惑わされる。そして時に自ら破滅し、あるいは破滅させて終わる。

 だが、コレはそれよりもはるかに質の悪いモノ――もはやヒトとは呼べぬモノだ。その命を食いちぎるまで、決して収まらぬ衝動を抱えた獣なのだ。

 だからこそ、入相はコレを選んだ。道具は正しく使わなければ、道具としての真価を発揮しない。道具の本質、用途を正しく理解した者だけが、その能力を引き出して使いこなすことができる。そうして入相はすべての事柄を、脳裏に書き連ねた筋書のとおりに進めている。

 娼婦はあまりにも知りすぎた。記者は不要に人の過去を掘り返しすぎた。アレの周辺を探りすぎた男は、娘らの死で己の愚かさを知ったことだろう。警察はただおとなしく“事件”の処理をしていればよかったし、軍の人間はあまりにも油断しすぎていた。

 別に殺せと命じたわけではない。コレは昔からどうも人が恋しいようで、入相はそれを十分知っていた。だからただ、会いにいけばいいと伝えただけだ。そうすれば世見坂は嬉し気にうなずいて、必ずそこへ足を運ぶ。〝彼ら〟に接触させて数日もすれば、世見坂は勝手に戻ってくる。飢えを、渇きを満たされ、快楽を飲み干し恍惚とした、血まみれの状態で。今回もいつものようにそうなって、終わりのはずだった。

 入相は再び意識を目の前の男へ戻す。世見坂は震える唇で何かを言いかけ、しかし黙って口を閉ざした。眉を寄せた箇所、伏せられた目元、白い象牙の肌に影が蒼く落ちている。

「……入相、さん……やつがれは……」

 正直に言えば、この反応は想定外だった。入相は軽く眉を寄せる。筋書にないことはあまり好ましくない。そもそも鬱々とした心境を聞くほど、入相には時間もなければ興味もなかった。

「そういうのはいい。興味がない」

 世見坂の言葉を淡々と遮り、入相は足を組み替える。

「これから編集が来るんでな。お前は下がっていなさい、世見坂」

 世見坂は、見えぬ双眸をわずかにすがめてうつむいた。髪がまとまったままばらばらと肩から落ち、その表情を隠していく。

 異質の抱くものなど、到底理解できる代物ではない。聞くだけ無駄だし、効率も悪い。参考にするのは悪くはないが、あいにくそういうモノを執筆しているわけでもない。今はそちらに気を取られている場合ではないのだ。

「風呂にでも入ってくればいい。そんなに血の臭いをさせた状態でふらふらとうろつかれては、たまったものではないのでな」
「……は、い……申し訳、ありません」

 ぎ、と金属が擦れ合う音がする。八年前の戦争のさなかで足を斬られ、その後元救護部隊にいた医者が施術をしたのだと聞いた。敵陣からの攻撃により、目もすでに見えていないという。

 だが、その足取りはまるで危なげがない。人間離れした感覚の持ち主であることは、【塔】の内側に連れてきたあの日から知っている。視力と片足を失ってなお、この八年の間でここまで適応している。常人からすればありえない。

 時折存在する、獣じみた感覚や身体能力の持ち主――その特性や能力を一から十まで理解してやれば、あとはいかようにでもできるというものである。

 幽鬼のようにいなくなるのを見届けてから、入相は煙草を取り出した。煙管は好きではない。外国から取り寄せた細めの葉巻が、今の入相の執筆の友であった。

 先端を切って落とし、火をつける。一口吸って吐き出せば、煙草の香ばしくも濃い煙が肺へ流れ込んでいく。

 事は順調に動いている。これでいい。定められた道筋を、すべてのものが通り過ぎていく。いついかなるときも、それは正しく心地よい。

 もう一度伸びをして、首を回す。それから入相はペンを手に取り、くるりと手の中で回した。



 朝の七時。ペンを置くと同時に、部屋の戸を叩く音がする。

「開いているよ」

 入相は毎度おなじみのやりとりの、出だしの言葉を口にした。

 世見坂が戻ってきたときと同じように、扉がそうっと開かれる。隙間から顔を覗かせるのは、まだ年若い編集者だった。

「先生、あのう、原稿は……」
「ああ。今しがた上がったところだ」

 毎回彼は七時きっかりにやってくる。そうしてできあがった原稿を受け取り、会社へ向かうのだが、彼の上司――すなわち今の担当はずいぶんとせっかちで、いつも時間ぴったりに原稿を取りに行くように催促するのだそうだ。時間通りなのは悪くはないが、こちらにも都合があるということを忘れていやしないだろうか。まったく、これだから自分本位のものは困る。

 そんなことを考えながら、入相は今しがた出来上がったばかりの原稿を封筒に入れた。表書きに筆ですらりと【四更無月しこう・むげつ 原稿在住】と書き記し、手渡す。

「あっ、ありがとうございます!」

 年若い青年は頬を上気させ、嬉しそうに原稿を抱きかかえる。入相こと四更無月の熱心な読者なのだと聞いたのは、彼が自分の原稿を取りに来るようになった四月ぐらいのことだった。

 まあ、正直な話をすれば極めてどうでもいいことではある。入相が個々人に興味を持つことはほとんどない。有象無象のうちひとり、程度の認識であった。

 逆に言えば、己の立てる筋道にかかわっている者は、たとえどんなに無個性であったとしても覚えられる。必要ない情報に脳の容量を割くことは無駄でしかない。

「あ、えっと、先生。この間の『恋せし春雪』、特に少女読者に非常に人気があるそうですよ。鬼気迫るほどの雪乃の想いが、年頃の娘さんたちに強く共感を呼んでいるようです、はいっ」

 つまり――これこのように、極めてどうでもいい話をされることは苦痛でしかない。時間の無駄だ。無駄なことは好きではない。

「それはどうも」

 入相はさっさと原稿用紙に向き合い、ペンを執る。連載も次回で終わりだ。その後は過去の原稿に加筆修正をし、書き下ろしも一本足してから、単行本として売り出されることとなっている。もう最後の結末は決めてある。あとは書くだけ。締め切りは一週間後である。

「いやあ、今回の『夜は華を散らす鬼』も素晴らしい出来ですねえ! 書き出しから世界に引き込まれます、さすがは四更先生! 私はここが――」

 青年は未だべらべらとしゃべっている。封筒に入っていた原稿をもう一度取り出したのか、その手にはむき出しになった紙束があった。

 いいからさっさと持っていけるように封筒に入れたのだが。とんとんと、入相は机を指で叩く。苛立ちで単語を捕まえきれず、思い浮かんだものも並べ立てられる世辞と麗句に押し流されてしまう。

「――で、今も単行本を心待ちにしている読者も多いようですよ! かくいう私もそのひとりでして!」

「世辞を並べている暇があるのなら」

 舌打ちをひとつ投げてから、入相は肩越しに青年を一瞥した。青年の表情がこわばり、よどみなく流れていた言葉がやっと止まる。

やつがれが一行でも早く書き進められるように配慮をしたらいかがかな?」

 嫌味を込めて言葉をひとつ。それでやっと我に返ったのか、青年は姿勢を正して原稿を胸に抱えた。

「はっ……す、すみません! で、では、私はこれで……!」

 言うが早いか、あわただしく駆けていく。途中で誰かにぶつかったか、謝罪の言葉が聞こえる。しかし途中で声が引き攣れ、やがて尾を引くように消えていった。

 それにしても、途中で声がぶつ切れる様を見るのはそれなりに愉快なものがある。確かこれで二度目だ。この間来た、無駄に態度のでかい学生記者も確か、こちらが都度何かを言うたびに言葉を切って押し黙っていた。いい様だったな、あれは。

 そもそも入相は、記者という生き物は好きではない。自尊心ばかりが高く、そのくせ真実を見ようとしない。いかに人を煽り立てるか、そればかりを考えている。実に無駄で、実に醜い生き物どもである。

 声と入れ替わるように、世見坂が部屋へと入ってくる。表情は依然として暗いままだが、その目だけが奇妙にぎらついている。深い緋色はおおよそ人のものとは思えない。

「……でかけて、きます」

 どこか気もそぞろな様子で、世見坂は言った。声がかすれている。倦んだ熱を帯びる様は妙に婀娜っぽい。未だ足りていないのだろう、理性の箍が緩んでいるのが見て取れる。

「そうか」

 続きを連ねながら、入相は短く返事をする。筋書の邪魔をしないのであれば、そして必要なときにいるのであれば、別に何をしていても構わない。行動には興味がないのだ。どうせ誰かを斬って戻ってくるに決まっている。

 心が安定しないとき、世見坂はそういう行動を取る傾向にある。心の安定を求めて人を斬るのだ。ああ、まったく本当に理解しがたい存在だ。“人斬り”などという化け物は。

 そこでふと、思いついた。昨日は必要ないと思っていたが、今書いている物語の根幹にある〝異質〟の心理を書くのにちょうどよいのではないだろうか。

 今所持しているモノが、何かしらの形で役に立つ。そういう瞬間はそんなに嫌いではない。今回は思わぬ情報源が手に入ったことになるが、これもまあいいだろう。

 世見坂はおそらく夕方には戻ってくるはずだ。何をしているかには興味がないが、どうせまた人の群れをぼんやりと眺めて、魅入られたものを誘いこみ、斬って殺すに違いない――命の途切れる瞬間に潜む、理解のしがたい快楽を、卑しくはしたないほどに求めているから。

 得てして理解できぬ生き物である。気配が遠ざかるのを皮膚で感じ取りながら、入相はくるりとペンを回した。
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