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伍章
其の三
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* * *
僕はいつから、こんなにも狂っていたのだろう。ともすれば、生まれ落ちたそのときからやもしれぬ。
この、ひび割れた胸を満たしてくれる何かを、求めること自体が間違いならば。
――僕はきっと最初から、ここにあってはいけないものだったのだろう。
どこまでも蒼い、澄んだ空が広がっていた。天を貫く【塔】が見えて、足はいつも温かな汚泥と、【獣】の血が混じったものが汚していた。その日はとても寒くて、薄くすり切れた着物から硝子のような冷気が肌を裂いていた。
蓮という花に似たソレが、あちらこちらに咲いていた。死体と血が沈むところにしか咲かぬソレを、あの人が蹴散らしながら歩いて来たのを覚えている。
当時の僕は、地上の人間を食いに襲い来る【獣】をひたすらに狩っていた。地上の人たちを守るだとか、そんな崇高な理由なんかではない。命を狩るその瞬間だけ、本能の奥底に焦げ付いた、狂おしいほどの渇きが癒えて、何かが満たされるような気がしたから。
あのときも僕は、ひどく喉が渇いていた。だから僕はいつものように、異形の身体に刃を突き立て、この手で終わる瞬間を味わっていた。いつしか呼吸のように当たり前になっていた〝それ〟を、いつの間にかあの人は見ていたのだろう。
新たに湧き出た獣を屠り、全身で生暖かい血を浴びる。【獣】の断末魔と、もがく首筋から噴きあがる血と、肉を裂き骨を断つ感触。それがあまりに心地よくて、同時にどこか物足らなくて、鉄錆にも似た命の臭いが愛しくて、気持ちよくて――今ここにいることを実感させてくれる。そこに付随するのは蕩けるような快楽。痺れるような悦楽。そのすべてを味わう僕に、あの人は自分の刀を差し出した。
『これを使ってみろ。よく斬れる』
泥の中から飛び出す【獣】を、僕は言われるままにあの人の刀で斬っていた。あの人の刀は素晴らしくよく斬れて、僕はそのことにひどく高揚した。
斬って、斬って、斬って。あの人の前でしばしの間、僕は殺戮に酔っていた。手に伝わる鮮やかな命の感覚は、これまでとは比べものにならないほどだった。
しばし余韻に震える僕に、あの人はこう言ったのだ。
『磨けばさぞや強かろう。武器はいくらあってもいい。お前、私の刀となってみないか』
彼がくれた言葉の意味を、正しく理解してはいなかったと思う。でも、彼が僕を欲しいと言ってくれていることだけは、かろうじてわかった。
刀は斬るもの。殺すためのもの。それぐらいは知っていた。僕がこれまで手にしていたのも、捨てられていた刀だった。それを手にする高ぶりは、いつしか何物にも代えがたいものになっていた。だからこの人も、僕をそんな風に見て、感じてくれたのだろう。そう考えたら嬉しくて、だからこう言ったのだ。
刀になるというのなら、たくさんこういうことをしたい。そうすればずっと、嬉しいままだから。満たされたままだから。気持ちよくいられるから。ずっとずっとそうさせてほしい、と。
通常ならば正気を疑いかねぬ答えだろう。けれどあの人は僕の答えに、満足気に笑った。
『ならば存分にくれてやる。存分に斬ればいい。私がお前にその場を与えてやろう』
そして血まみれの僕に手を差し伸べ、まっすぐに見つめてそう言ったのだ。
初めて求められたことが、初めて必要とされたことが、僕には何より嬉しかった。差し出された手が温かいことを知って、嬉しかった。
こうして、屍ばかりが泥の中に折り重なる地上で生きていた僕は、あの日あの人に連れられて【塔】を上ったのだった。
孤独だった日々が終わり、軍に入って天明や不夜城と出会い、ともに戦って、たくさんの敵を屠った。英雄と呼ばれることに抵抗はあったが、じきに慣れた。それ以上に飢えが、渇きが、心のナニカが満たされて、僕は確かにしあわせだったのだ。
やがて戦は終わりを告げ、平穏な日々の中で再び僕は飢え、渇いた。地上に戻ることも許されず、ただ狂おしいほどの衝動が、感情が、僕の心を蝕んだ。
戦場でしか得られなかった高揚と絶頂を、刃から伝わる命の感触を、全身でしゃぶりつくし舐めつくさなければ、僕はあっという間に呼吸すらもおぼつかなくなった。血の臭いが、引き裂き断ち割る肉と骨の感触が、断末魔の悲鳴が、それだけが僕が生きていることを実感させてくれたのに――放り出されたそこに、僕のようなものの居場所は、なかった。
血が見たい。断末魔が欲しい。斬りたくて、斬りたくてたまらない。
身体の奥底から沸き起こる、灼熱感を伴う衝動。不安定で生ぬるい平穏が苦しくて、僕はとうとう押さえ込めなくなってしまった。
戦が終わったあとの世で、初めて誰かを斬ったのは、確か一年後の冬の終わりだったと思う。第一階層の裏路地にたむろしていた、ガラの悪い連中だった。
ああ、あの日も確か入相さんに、ここへ行って誰かと会うよう言われていたのだ。相手がどうしてか刃物を持ち出して、僕はそれを払い落した。鋭い痛みが頬を裂いて、そうして甘い血の匂いがして――その瞬間にひどく身体が熱くなって、気づけば刀を抜いていた。
肉を裂き、骨を断ち、命を浴びる、懐かしくも心地よい感覚。ともすれば殺されるかもしれないという、緊迫感。命を引き千切る生々しい手ごたえが、刀を通して伝わってくる。それを味わい舐めつくして、やっと僕は呼吸ができた。生きていると実感できた。圧倒的な快楽とともに、こんな自分の存在を肯定されているような気がして、ひどく、ひどく安堵した。
それから先はもう、止められなかった。からからに渇いた身体が貪欲に水を求めるように、ただひたすらに斬って、斬って、斬って斬って、ひたすらに求めて、求めて、求めていた。
生きようともがくその様が、美しくて愛おしくてならなかった。そのぬくもりにどうしても触れてみたくて、手を伸ばして、触れて、触れて、触れたら斬らずにはいられなかった。懸命に生きる様を感じれば感じるほど、最期の最期に散っていく、その鮮やかな瞬間が美しかったから。己が生きているということを、浮き彫りにしてくれるものだから。それがとても嬉しくて、心地よくて、安堵して、気持ちよくて、たまらなくなる。
生きているものは愛おしくて美しい。それを食いつぶす己の醜さを実感しながらも、そうすることでしか己の生を実感できない。生きたい。生きていたい。今ここで生きているのだと、感じていたい。ここにいても、生きていてもいいのだと、肯定されたい。
身体の奥が渇くような、そんなひりついた感覚がしている。胸元からせりあがる、焼けつくような感覚と衝動。たまらなくなる。何もないこの時間に押しつぶされるような気がして。早くこれを消し去りたい。
目を開ける。瞼を持ち上げてみても、世界は常に闇に閉ざされている。それでも、かつて見えていたときの癖は未だ抜けない。瞬きをして、首を巡らせる。しんしんと降り積もる静けさと、どこかで犬が吠えている。遠く遠くであの人の声がする。書斎からの話し声、誰かと電話をしているのだろうか。
ゆっくりと、寝台から身を起こす。肌触りのいい布地の上に、こつりと落ちたものへと手を触れる。薬瓶だった。よく眠れるようになると、入相さんがくれたものだ。すべて飲み干したけれど、あまり効果はなかったらしい。ただぼんやりと霞がかかったように、頭の中がはっきりしない。
喉が渇いた。
小さな瓶をそのままに、足を動かし床へと降りる。きしりと義足が音を立てた。不夜城が特別な伝手で手に入れた、型落ち品だと聞いている。神経をつなぐ魔術が施されているそうで、特別な技術がないと接続できないものだそうだ。不夜城は外国で医学と義肢技術学を学んだから、そういうことができたと言っていた。彼には感謝している。
そういえば、不夜城と別れてからずいぶん経つ。戦争が終わったあと、入相さんは僕を探していたらしく、不夜城がいない間に僕をここに連れてきたのだ。彼には別れも告げられなかった。彼は今、どこで何をしているのだろう。
声は未だ途切れない。入相さんは機嫌がいいのか、何度か笑い声が耳に届いた。手探りで軍靴を探し当て、きちりと履いて紐を結ぶ。こういうときは、あの人はそのまま僕を“使う”ことが多い。身支度を整えておけば、いつでもあの人の思い描く時間で動くことができる。
天明や不夜城は、それをひどく嫌がっていたものだった。束縛されてる気がするだとか、管理されるのはごめんだとか、そんなことを言っては身支度する自分に絡んでいた。
『汚らわしい、化け物、め』
ふと、天明の言葉を思い出す。憎悪と、怒りとに彩られたその音は、痛みを訴える胸へ深く深く刺さっている。未だ温かい唇の感触がよみがえり、思わず己の唇をそっとなぞった。胸がひどく痛んで、鼓動と一緒にずくずくと疼く。
手早く身支度を整える。喉が、渇いた。扉を開けて、廊下を歩く。記憶に相違がなければ、きっとここは薄暗い。入相さんは仕事中、ここの灯りを落としている。盲いた僕には関係のないことだが、時折手伝いに来る人はさぞや大変なことだろう。
蝋燭の燃えたあとの、独特な臭いがする。一度はつけていたのかもしれない。足音を忍ばせたまま近づいていく。気配が、声が、鮮明になる。妙に鋭敏に音を拾い上げる僕の耳に、あの人の声が響いてくる。
「アレには薬をやった。しばらく起きまい」
これは、僕のことだろうか。思わず立ち止まり、息を殺して耳を澄ます。
「その間に拘束しろ。眠らせていれば抵抗もできまい」
相手はさらに何かを言い募っている。ぴんと張り詰めた静寂が、不明瞭な受話器越しの声すら拾い上げる。入相さんは喉で嗤うと、言葉を継いだ。
「あいつは極悪非道の人殺しだ。多少傷をつけたところで、正当防衛になるだろうさ」
何もかもをすり抜けて飛び込んできたその言葉に、その意味に、わけもわからず困惑する。これまでは、そうあれかしと肯定してくれた彼の口から――そんな言葉がこぼれるなんて。もしもこれが僕のことだというのなら、入相さんは、いったい誰と話をしているのか。
「軍部司法官には話をつけてある。アレは処刑を免れることはできんよ。あとは私が復帰をすれば、すべてが片付くように手配してある。アレを処刑する以上、邪魔な連中は別のやり方で一掃するさ」
そして彼は愉快そうに、くつくつと嗤った。
ああ、そうか。だから入相さんは僕に、特定の場所に往くよう勧めてきたのか。たとえばそれは第一階層であったり、第六階層の新聞会社の近くだったり、関係のないように見えたそこは、入相さんにとって何らかの邪魔になる者たちのいるところだったのだ。僕をそれとなくそこへ出向かせさえすれば、あとは勝手に殺すのを待てばいい。
人と触れ合うことが嬉しくて楽しい。だからもっといろんなところに行ってみたい。そういえば伝えたことがあった気がする。きっと彼はそれを覚えていてくれたのだろう。
「英雄? 違うよ、君。敵軍を数百人殺しているから英雄と呼ばれているだけにすぎん。今のご時世で数百も殺せば、それはただの人殺しだ。本質は同じだよ」
胸を深くえぐっていく声に、言葉に、痛みと苦しさが滴り落ちる。ひどく、喉が渇いた。
誰かを斬って戻ってくるたびに、彼はいつも出迎えてくれた。洗わずに帰ってきて構わないと、初期の頃はそんなことも言っていた。僕の衝動を認めて受け入れてくれていると――勝手に、そんなことを考えていた。
堕ちた英雄。世間を震撼させた殺人鬼。殺したという確証を取り、通報して捕まえさせる。あとは手柄を携えて、軍か警察へと返り咲くつもりなのだろう。この人は昔から、野心にあふれた人だから。
本当は、ずっと前からわかっていた。己が異常なのだということも。本来なら人間の中にいてはいけないということも。こんな異質は存在してはならないことも。
それでも普通の人間のように、誰かとともに肩を並べて、笑って、寄り添って、他愛のないことをして――愛して、愛されて、生きてみたかった。ほんの少しだけでいい。ただの人間のように、生きてみたかった。
だけど何度手を伸ばしても、喉が渇いてたまらなくなって、胸が疼いて斬ってしまう。異質、化け物、皆が僕に向ける言葉は、皮肉にも正しかったのだ。
喉が、渇いた。
もう、痛いほどに理解している。こんな望みも、夢のような願いも、理性の部分が紡ぎ出した言い訳で、耳障りのいいお涙頂戴の綺麗事に過ぎない。本当は違うなんてわかっている。綺麗事も言い訳もすべて取り払えば、結局は殺したいだけ。殺したときの快楽を味わいたい、気持ちがいいから殺したい、ただそれだけ。そこに理由を付けて、感情を付けて、正当化するなんておこがましい。理性で言い訳をしながらなんて、そんなニンゲンのようなこと。
喉が、渇いた。
最初からあの人はわかっていた。彼の言うことはすべて正しい。彼の言葉は何もかもが真実であった。何も間違っていない。そのとおりだ。斬ることがたまらなく気持ちよくて、血のしぶく感触が、命途切れるその様が、たまらない甘露に思えてならない。命が潰えるその様に、強烈な快感を覚えている。
こんなのは異質だ。こんなのは異様だ。わかっていた。わかっている。ヒトと異なるその衝動の、異常さも。平穏の中では生きてゆけない、他者と交わることすらできない、異物でしかないのだということも。
目をそらし続けてきた事実が、ここにある。やはり僕は、ヒトの形の――獣なのだという、揺るぎのない事実が。
胸が痛い。血を流しているような心地になる。喉が渇いた。早くこの焼けるような痛みを、血と断末魔で潤したい。
――本当に獣になってしまえば、こんなに苦しくなくなるのだろうか。人恋しくて泣くことも、切り刻まれるような胸の痛みに苦しむことも、なくなるのだろうか。ふと考えたそれを、かすむ頭が繰り返す。それはひどく甘く優しい残滓を伴い、脳裏に響いた。
ぎ、と扉が軋む。身体が触れたのだろうか。入相さんが振り向く、衣擦れの音がする。
「どうした、世見坂。薬は飲んだのか?」
それから受話器を静かに置く音。話を強引に打ち切ったところで、僕が寝ている間に指示をしているはずだから、向こうもそれが合図と動き出すだろう。
「……飲みました。おかげでよく眠れました」
「そうか。まだ一時間しか経っていないが、もう少し眠ったらどうだ?」
何気ない会話だ。いつも通りの、短いやり取り。しかしそこには、決定的に異なるナニカがある。少し前までは、何もかもを信頼していた。けれど今は――あちらと、こちら。ヒトとヒトでないモノの、決定的な境目がある。
入相さんの言葉には答えず、僕は小さく問いを投げる。
「……入相さん。僕は、死なねばならぬのですか」
沈黙。それから喉で嗤うとき特有の、詰まるような音がした。
「聞こえていたか。相変わらず耳がいいな、お前は」
衣擦れ。モノを置く音。煙草だろうか。濃い煙の香りと、独特の煙草の匂いがする。
「物事にはすべて、結末が用意されている。私の計画は、お前がこの時機に絞首刑に処されることで完遂される。そうでなければならない」
一度警察に拘留されたとき、彼はひどく怒っていた。あれはその時期がまだ早すぎたからなのだろう。彼はそういうひとだから。
「……そうすれば、入相さんの目的は果たされるのですね」
「ああ。よもや死にたくない、などとは言わんだろうな。お前の殺した数を考えてみろ。お前が己の快楽のために、斬って斬って斬り捨てた、有象無象の数をな」
突き放すような物言いに口をつぐむ。これまで肯定され、求められていたことがすべて、否定される。否。こちらが彼の本音なのだろう。彼と自分は違う。本当は唾棄されていたことを、気づいていなかったに過ぎぬ。
「言ったろう、世見坂。その堪えられぬ衝動と、人を惑わせ狂わせる性質、お前の存在そのものが罪に値すると。これまでお前が奪ってきた命、お前が弄んできた命、彼らへの罪滅ぼしをするために、お前はその命でもって贖わねばならないのだ」
淡々と並べられるその言葉を、僕は黙って受け止めていた。
入相深時元中佐。異物で異常な僕のことを、認めて褒めてすくってくれた、唯一のひと。殺戮に酔う僕を肯定してくれた、唯一の。
信じていた。慕っていた。嬉しかった。その手はあたたかくて心地よかった。頼ってくれることが嬉しかった。いろんなことを教えてくれた。その人がそういうのだから、きっと正しいことなのだろう。
僕は罪を償わなければならない。極悪非道の殺人鬼として、処刑されなければならない。世間はそれを望むだろう。僕は、この命でもって、殺した人々へ詫びなければならない。
「よくやってくれたな、世見坂。もう休んで構わんぞ。あと三十分もすれば、警察がここへ来る。それまでゆっくり眠ればいい」
今は正義を成さんとするために、殺戮に飢えた僕を捕らえようとしている。ヒトとして正しいことだ。そう。獣は駆逐されなければならない。ヒトに害をなすならば、なおさら。
胸が痛い。喉が――渇いた。痛くて、苦しくて、息ができなくなる。僕は処刑されなければならない。ヒトの世に紛れてはいけない、異形として。
苦しい。喉が締まる。痛くて、苦しくて、つぶれてしまいそうになる。抗うたびに痛みが増して、呼吸すらも止まってしまいそうになる。
ひとつ、喘いだ。力が少しだけ抜けて、代わりに胸の中のナニカが崩れていく。ひびが割れて、穴が開く。ぽろぽろと零れ落ちていく。指先をすり抜けて、徐々に頭の中が綺麗になっていく。
ああ、そうか。叶いもしない夢を見て、手を出していたから痛かっただけ。絵空事に手が届かなかったから苦しかっただけ。思い出も、かなわなかった想いも、願いも、みんなヒトしか持ち得ぬもので、僕にはいらない代物なのだ。
僕にヒトの心はわからない。ヒトに僕の心はわからない。まったく別の存在なのだから、わからなくて当然だったのだ。
もう、人間のふりをするのはやめてしまおう。僕は異物で異質で狂っていて、いるだけで害をなすどうしようもない存在。初めからわかっていたことじゃないか。
この胸の痛みも、吐き気がするほどの寂寥も、すべてすべからく形ばかりのものなのだ。苦しいと思うなら、やめてしまえばいい。この胸の痛みも、苦しさも、全部全部、ただニンゲンを真似ているだけの、まがいものなのだから。
鯉口を切る。刀を抜く。ぎん、と硬い音が爆ぜた。入相さんも刀を抜いたのだろう。鋼同士の打ち合う悲鳴が、余韻を残して消えていく。金属同士が噛みあい、激しく軋む独特の音に高揚する。
「……何の真似だ? 世見坂」
入相さんの声に険が混じる。加わる力が徐々に徐々に上へと這い上がっていく。切っ先のほうへ滑らせて、はじくつもりなのだろう。
「わかりませぬ」
僕は答えて、刀を押し込む。喉が渇いてたまらない。入相さんはここにいる。血の匂いがする。ヒトの体内をめぐる、血の匂いがする。
今、この人は生きようとしている。それがたまらなく、愛おしい。目の前にいるコレを斬りたい。斬ってその命を全身に感じたい。気持ちよく、なりたい。
「僕は――化け物、ですから」
笑みを浮かべて言葉を返し、あえて切っ先を下へとずらした。火花が散るにおいがする。刀が再び悲鳴を上げる。息をのむ気配がする。最大限の力で引き下ろした鋼から、肉に突き刺さり骨を砕く感触が伝い落ちた。
甘くて濃い、血の匂い。頭がくらくらする。入相さんが咳き込むのが聞こえる。肺に到達したのだろうか。顔に鉄錆の臭いの飛沫が飛んだ。舌で舐めとる。体重をかけて深く押し込む。これで心臓に到達しただろう。椅子の背もたれに刀が刺さる。背筋を駆け上る痺れと恍惚。気持ちがいい。肩に手が食い込んだ。
「世見坂、ァ」
地を這うような音がする。さらに刃を身体へ埋める。新鮮な血の香りがする。胸の中央を断ち割って、目の前の身体が苦し気にのたうつ。満たされる。生きているという事実に。ここにいるのだという喜びに。とろりと、笑む。
「お世話になりました、入相さん」
あなたのことが好きでした。
そう言おうとして、やめる。化け物はきっと、好きだなんて気持ちはない。ただ喉が渇いたから、目の前の身体に食らいついた。それだけの話なのだから。
ゆっくりと刀を抜いて抱き留める。彼の、節くれだった手を取り握る。あのときよりも細くなってしまったが、その大きさはあの日とまるで変わらない。
そのぬくもりが消えるのが、なんだかひどく惜しく思えて、僕はしばらくの間そこにいた。頬を伝っていく熱が何なのか、僕にはついぞわからなかった。
僕はいつから、こんなにも狂っていたのだろう。ともすれば、生まれ落ちたそのときからやもしれぬ。
この、ひび割れた胸を満たしてくれる何かを、求めること自体が間違いならば。
――僕はきっと最初から、ここにあってはいけないものだったのだろう。
どこまでも蒼い、澄んだ空が広がっていた。天を貫く【塔】が見えて、足はいつも温かな汚泥と、【獣】の血が混じったものが汚していた。その日はとても寒くて、薄くすり切れた着物から硝子のような冷気が肌を裂いていた。
蓮という花に似たソレが、あちらこちらに咲いていた。死体と血が沈むところにしか咲かぬソレを、あの人が蹴散らしながら歩いて来たのを覚えている。
当時の僕は、地上の人間を食いに襲い来る【獣】をひたすらに狩っていた。地上の人たちを守るだとか、そんな崇高な理由なんかではない。命を狩るその瞬間だけ、本能の奥底に焦げ付いた、狂おしいほどの渇きが癒えて、何かが満たされるような気がしたから。
あのときも僕は、ひどく喉が渇いていた。だから僕はいつものように、異形の身体に刃を突き立て、この手で終わる瞬間を味わっていた。いつしか呼吸のように当たり前になっていた〝それ〟を、いつの間にかあの人は見ていたのだろう。
新たに湧き出た獣を屠り、全身で生暖かい血を浴びる。【獣】の断末魔と、もがく首筋から噴きあがる血と、肉を裂き骨を断つ感触。それがあまりに心地よくて、同時にどこか物足らなくて、鉄錆にも似た命の臭いが愛しくて、気持ちよくて――今ここにいることを実感させてくれる。そこに付随するのは蕩けるような快楽。痺れるような悦楽。そのすべてを味わう僕に、あの人は自分の刀を差し出した。
『これを使ってみろ。よく斬れる』
泥の中から飛び出す【獣】を、僕は言われるままにあの人の刀で斬っていた。あの人の刀は素晴らしくよく斬れて、僕はそのことにひどく高揚した。
斬って、斬って、斬って。あの人の前でしばしの間、僕は殺戮に酔っていた。手に伝わる鮮やかな命の感覚は、これまでとは比べものにならないほどだった。
しばし余韻に震える僕に、あの人はこう言ったのだ。
『磨けばさぞや強かろう。武器はいくらあってもいい。お前、私の刀となってみないか』
彼がくれた言葉の意味を、正しく理解してはいなかったと思う。でも、彼が僕を欲しいと言ってくれていることだけは、かろうじてわかった。
刀は斬るもの。殺すためのもの。それぐらいは知っていた。僕がこれまで手にしていたのも、捨てられていた刀だった。それを手にする高ぶりは、いつしか何物にも代えがたいものになっていた。だからこの人も、僕をそんな風に見て、感じてくれたのだろう。そう考えたら嬉しくて、だからこう言ったのだ。
刀になるというのなら、たくさんこういうことをしたい。そうすればずっと、嬉しいままだから。満たされたままだから。気持ちよくいられるから。ずっとずっとそうさせてほしい、と。
通常ならば正気を疑いかねぬ答えだろう。けれどあの人は僕の答えに、満足気に笑った。
『ならば存分にくれてやる。存分に斬ればいい。私がお前にその場を与えてやろう』
そして血まみれの僕に手を差し伸べ、まっすぐに見つめてそう言ったのだ。
初めて求められたことが、初めて必要とされたことが、僕には何より嬉しかった。差し出された手が温かいことを知って、嬉しかった。
こうして、屍ばかりが泥の中に折り重なる地上で生きていた僕は、あの日あの人に連れられて【塔】を上ったのだった。
孤独だった日々が終わり、軍に入って天明や不夜城と出会い、ともに戦って、たくさんの敵を屠った。英雄と呼ばれることに抵抗はあったが、じきに慣れた。それ以上に飢えが、渇きが、心のナニカが満たされて、僕は確かにしあわせだったのだ。
やがて戦は終わりを告げ、平穏な日々の中で再び僕は飢え、渇いた。地上に戻ることも許されず、ただ狂おしいほどの衝動が、感情が、僕の心を蝕んだ。
戦場でしか得られなかった高揚と絶頂を、刃から伝わる命の感触を、全身でしゃぶりつくし舐めつくさなければ、僕はあっという間に呼吸すらもおぼつかなくなった。血の臭いが、引き裂き断ち割る肉と骨の感触が、断末魔の悲鳴が、それだけが僕が生きていることを実感させてくれたのに――放り出されたそこに、僕のようなものの居場所は、なかった。
血が見たい。断末魔が欲しい。斬りたくて、斬りたくてたまらない。
身体の奥底から沸き起こる、灼熱感を伴う衝動。不安定で生ぬるい平穏が苦しくて、僕はとうとう押さえ込めなくなってしまった。
戦が終わったあとの世で、初めて誰かを斬ったのは、確か一年後の冬の終わりだったと思う。第一階層の裏路地にたむろしていた、ガラの悪い連中だった。
ああ、あの日も確か入相さんに、ここへ行って誰かと会うよう言われていたのだ。相手がどうしてか刃物を持ち出して、僕はそれを払い落した。鋭い痛みが頬を裂いて、そうして甘い血の匂いがして――その瞬間にひどく身体が熱くなって、気づけば刀を抜いていた。
肉を裂き、骨を断ち、命を浴びる、懐かしくも心地よい感覚。ともすれば殺されるかもしれないという、緊迫感。命を引き千切る生々しい手ごたえが、刀を通して伝わってくる。それを味わい舐めつくして、やっと僕は呼吸ができた。生きていると実感できた。圧倒的な快楽とともに、こんな自分の存在を肯定されているような気がして、ひどく、ひどく安堵した。
それから先はもう、止められなかった。からからに渇いた身体が貪欲に水を求めるように、ただひたすらに斬って、斬って、斬って斬って、ひたすらに求めて、求めて、求めていた。
生きようともがくその様が、美しくて愛おしくてならなかった。そのぬくもりにどうしても触れてみたくて、手を伸ばして、触れて、触れて、触れたら斬らずにはいられなかった。懸命に生きる様を感じれば感じるほど、最期の最期に散っていく、その鮮やかな瞬間が美しかったから。己が生きているということを、浮き彫りにしてくれるものだから。それがとても嬉しくて、心地よくて、安堵して、気持ちよくて、たまらなくなる。
生きているものは愛おしくて美しい。それを食いつぶす己の醜さを実感しながらも、そうすることでしか己の生を実感できない。生きたい。生きていたい。今ここで生きているのだと、感じていたい。ここにいても、生きていてもいいのだと、肯定されたい。
身体の奥が渇くような、そんなひりついた感覚がしている。胸元からせりあがる、焼けつくような感覚と衝動。たまらなくなる。何もないこの時間に押しつぶされるような気がして。早くこれを消し去りたい。
目を開ける。瞼を持ち上げてみても、世界は常に闇に閉ざされている。それでも、かつて見えていたときの癖は未だ抜けない。瞬きをして、首を巡らせる。しんしんと降り積もる静けさと、どこかで犬が吠えている。遠く遠くであの人の声がする。書斎からの話し声、誰かと電話をしているのだろうか。
ゆっくりと、寝台から身を起こす。肌触りのいい布地の上に、こつりと落ちたものへと手を触れる。薬瓶だった。よく眠れるようになると、入相さんがくれたものだ。すべて飲み干したけれど、あまり効果はなかったらしい。ただぼんやりと霞がかかったように、頭の中がはっきりしない。
喉が渇いた。
小さな瓶をそのままに、足を動かし床へと降りる。きしりと義足が音を立てた。不夜城が特別な伝手で手に入れた、型落ち品だと聞いている。神経をつなぐ魔術が施されているそうで、特別な技術がないと接続できないものだそうだ。不夜城は外国で医学と義肢技術学を学んだから、そういうことができたと言っていた。彼には感謝している。
そういえば、不夜城と別れてからずいぶん経つ。戦争が終わったあと、入相さんは僕を探していたらしく、不夜城がいない間に僕をここに連れてきたのだ。彼には別れも告げられなかった。彼は今、どこで何をしているのだろう。
声は未だ途切れない。入相さんは機嫌がいいのか、何度か笑い声が耳に届いた。手探りで軍靴を探し当て、きちりと履いて紐を結ぶ。こういうときは、あの人はそのまま僕を“使う”ことが多い。身支度を整えておけば、いつでもあの人の思い描く時間で動くことができる。
天明や不夜城は、それをひどく嫌がっていたものだった。束縛されてる気がするだとか、管理されるのはごめんだとか、そんなことを言っては身支度する自分に絡んでいた。
『汚らわしい、化け物、め』
ふと、天明の言葉を思い出す。憎悪と、怒りとに彩られたその音は、痛みを訴える胸へ深く深く刺さっている。未だ温かい唇の感触がよみがえり、思わず己の唇をそっとなぞった。胸がひどく痛んで、鼓動と一緒にずくずくと疼く。
手早く身支度を整える。喉が、渇いた。扉を開けて、廊下を歩く。記憶に相違がなければ、きっとここは薄暗い。入相さんは仕事中、ここの灯りを落としている。盲いた僕には関係のないことだが、時折手伝いに来る人はさぞや大変なことだろう。
蝋燭の燃えたあとの、独特な臭いがする。一度はつけていたのかもしれない。足音を忍ばせたまま近づいていく。気配が、声が、鮮明になる。妙に鋭敏に音を拾い上げる僕の耳に、あの人の声が響いてくる。
「アレには薬をやった。しばらく起きまい」
これは、僕のことだろうか。思わず立ち止まり、息を殺して耳を澄ます。
「その間に拘束しろ。眠らせていれば抵抗もできまい」
相手はさらに何かを言い募っている。ぴんと張り詰めた静寂が、不明瞭な受話器越しの声すら拾い上げる。入相さんは喉で嗤うと、言葉を継いだ。
「あいつは極悪非道の人殺しだ。多少傷をつけたところで、正当防衛になるだろうさ」
何もかもをすり抜けて飛び込んできたその言葉に、その意味に、わけもわからず困惑する。これまでは、そうあれかしと肯定してくれた彼の口から――そんな言葉がこぼれるなんて。もしもこれが僕のことだというのなら、入相さんは、いったい誰と話をしているのか。
「軍部司法官には話をつけてある。アレは処刑を免れることはできんよ。あとは私が復帰をすれば、すべてが片付くように手配してある。アレを処刑する以上、邪魔な連中は別のやり方で一掃するさ」
そして彼は愉快そうに、くつくつと嗤った。
ああ、そうか。だから入相さんは僕に、特定の場所に往くよう勧めてきたのか。たとえばそれは第一階層であったり、第六階層の新聞会社の近くだったり、関係のないように見えたそこは、入相さんにとって何らかの邪魔になる者たちのいるところだったのだ。僕をそれとなくそこへ出向かせさえすれば、あとは勝手に殺すのを待てばいい。
人と触れ合うことが嬉しくて楽しい。だからもっといろんなところに行ってみたい。そういえば伝えたことがあった気がする。きっと彼はそれを覚えていてくれたのだろう。
「英雄? 違うよ、君。敵軍を数百人殺しているから英雄と呼ばれているだけにすぎん。今のご時世で数百も殺せば、それはただの人殺しだ。本質は同じだよ」
胸を深くえぐっていく声に、言葉に、痛みと苦しさが滴り落ちる。ひどく、喉が渇いた。
誰かを斬って戻ってくるたびに、彼はいつも出迎えてくれた。洗わずに帰ってきて構わないと、初期の頃はそんなことも言っていた。僕の衝動を認めて受け入れてくれていると――勝手に、そんなことを考えていた。
堕ちた英雄。世間を震撼させた殺人鬼。殺したという確証を取り、通報して捕まえさせる。あとは手柄を携えて、軍か警察へと返り咲くつもりなのだろう。この人は昔から、野心にあふれた人だから。
本当は、ずっと前からわかっていた。己が異常なのだということも。本来なら人間の中にいてはいけないということも。こんな異質は存在してはならないことも。
それでも普通の人間のように、誰かとともに肩を並べて、笑って、寄り添って、他愛のないことをして――愛して、愛されて、生きてみたかった。ほんの少しだけでいい。ただの人間のように、生きてみたかった。
だけど何度手を伸ばしても、喉が渇いてたまらなくなって、胸が疼いて斬ってしまう。異質、化け物、皆が僕に向ける言葉は、皮肉にも正しかったのだ。
喉が、渇いた。
もう、痛いほどに理解している。こんな望みも、夢のような願いも、理性の部分が紡ぎ出した言い訳で、耳障りのいいお涙頂戴の綺麗事に過ぎない。本当は違うなんてわかっている。綺麗事も言い訳もすべて取り払えば、結局は殺したいだけ。殺したときの快楽を味わいたい、気持ちがいいから殺したい、ただそれだけ。そこに理由を付けて、感情を付けて、正当化するなんておこがましい。理性で言い訳をしながらなんて、そんなニンゲンのようなこと。
喉が、渇いた。
最初からあの人はわかっていた。彼の言うことはすべて正しい。彼の言葉は何もかもが真実であった。何も間違っていない。そのとおりだ。斬ることがたまらなく気持ちよくて、血のしぶく感触が、命途切れるその様が、たまらない甘露に思えてならない。命が潰えるその様に、強烈な快感を覚えている。
こんなのは異質だ。こんなのは異様だ。わかっていた。わかっている。ヒトと異なるその衝動の、異常さも。平穏の中では生きてゆけない、他者と交わることすらできない、異物でしかないのだということも。
目をそらし続けてきた事実が、ここにある。やはり僕は、ヒトの形の――獣なのだという、揺るぎのない事実が。
胸が痛い。血を流しているような心地になる。喉が渇いた。早くこの焼けるような痛みを、血と断末魔で潤したい。
――本当に獣になってしまえば、こんなに苦しくなくなるのだろうか。人恋しくて泣くことも、切り刻まれるような胸の痛みに苦しむことも、なくなるのだろうか。ふと考えたそれを、かすむ頭が繰り返す。それはひどく甘く優しい残滓を伴い、脳裏に響いた。
ぎ、と扉が軋む。身体が触れたのだろうか。入相さんが振り向く、衣擦れの音がする。
「どうした、世見坂。薬は飲んだのか?」
それから受話器を静かに置く音。話を強引に打ち切ったところで、僕が寝ている間に指示をしているはずだから、向こうもそれが合図と動き出すだろう。
「……飲みました。おかげでよく眠れました」
「そうか。まだ一時間しか経っていないが、もう少し眠ったらどうだ?」
何気ない会話だ。いつも通りの、短いやり取り。しかしそこには、決定的に異なるナニカがある。少し前までは、何もかもを信頼していた。けれど今は――あちらと、こちら。ヒトとヒトでないモノの、決定的な境目がある。
入相さんの言葉には答えず、僕は小さく問いを投げる。
「……入相さん。僕は、死なねばならぬのですか」
沈黙。それから喉で嗤うとき特有の、詰まるような音がした。
「聞こえていたか。相変わらず耳がいいな、お前は」
衣擦れ。モノを置く音。煙草だろうか。濃い煙の香りと、独特の煙草の匂いがする。
「物事にはすべて、結末が用意されている。私の計画は、お前がこの時機に絞首刑に処されることで完遂される。そうでなければならない」
一度警察に拘留されたとき、彼はひどく怒っていた。あれはその時期がまだ早すぎたからなのだろう。彼はそういうひとだから。
「……そうすれば、入相さんの目的は果たされるのですね」
「ああ。よもや死にたくない、などとは言わんだろうな。お前の殺した数を考えてみろ。お前が己の快楽のために、斬って斬って斬り捨てた、有象無象の数をな」
突き放すような物言いに口をつぐむ。これまで肯定され、求められていたことがすべて、否定される。否。こちらが彼の本音なのだろう。彼と自分は違う。本当は唾棄されていたことを、気づいていなかったに過ぎぬ。
「言ったろう、世見坂。その堪えられぬ衝動と、人を惑わせ狂わせる性質、お前の存在そのものが罪に値すると。これまでお前が奪ってきた命、お前が弄んできた命、彼らへの罪滅ぼしをするために、お前はその命でもって贖わねばならないのだ」
淡々と並べられるその言葉を、僕は黙って受け止めていた。
入相深時元中佐。異物で異常な僕のことを、認めて褒めてすくってくれた、唯一のひと。殺戮に酔う僕を肯定してくれた、唯一の。
信じていた。慕っていた。嬉しかった。その手はあたたかくて心地よかった。頼ってくれることが嬉しかった。いろんなことを教えてくれた。その人がそういうのだから、きっと正しいことなのだろう。
僕は罪を償わなければならない。極悪非道の殺人鬼として、処刑されなければならない。世間はそれを望むだろう。僕は、この命でもって、殺した人々へ詫びなければならない。
「よくやってくれたな、世見坂。もう休んで構わんぞ。あと三十分もすれば、警察がここへ来る。それまでゆっくり眠ればいい」
今は正義を成さんとするために、殺戮に飢えた僕を捕らえようとしている。ヒトとして正しいことだ。そう。獣は駆逐されなければならない。ヒトに害をなすならば、なおさら。
胸が痛い。喉が――渇いた。痛くて、苦しくて、息ができなくなる。僕は処刑されなければならない。ヒトの世に紛れてはいけない、異形として。
苦しい。喉が締まる。痛くて、苦しくて、つぶれてしまいそうになる。抗うたびに痛みが増して、呼吸すらも止まってしまいそうになる。
ひとつ、喘いだ。力が少しだけ抜けて、代わりに胸の中のナニカが崩れていく。ひびが割れて、穴が開く。ぽろぽろと零れ落ちていく。指先をすり抜けて、徐々に頭の中が綺麗になっていく。
ああ、そうか。叶いもしない夢を見て、手を出していたから痛かっただけ。絵空事に手が届かなかったから苦しかっただけ。思い出も、かなわなかった想いも、願いも、みんなヒトしか持ち得ぬもので、僕にはいらない代物なのだ。
僕にヒトの心はわからない。ヒトに僕の心はわからない。まったく別の存在なのだから、わからなくて当然だったのだ。
もう、人間のふりをするのはやめてしまおう。僕は異物で異質で狂っていて、いるだけで害をなすどうしようもない存在。初めからわかっていたことじゃないか。
この胸の痛みも、吐き気がするほどの寂寥も、すべてすべからく形ばかりのものなのだ。苦しいと思うなら、やめてしまえばいい。この胸の痛みも、苦しさも、全部全部、ただニンゲンを真似ているだけの、まがいものなのだから。
鯉口を切る。刀を抜く。ぎん、と硬い音が爆ぜた。入相さんも刀を抜いたのだろう。鋼同士の打ち合う悲鳴が、余韻を残して消えていく。金属同士が噛みあい、激しく軋む独特の音に高揚する。
「……何の真似だ? 世見坂」
入相さんの声に険が混じる。加わる力が徐々に徐々に上へと這い上がっていく。切っ先のほうへ滑らせて、はじくつもりなのだろう。
「わかりませぬ」
僕は答えて、刀を押し込む。喉が渇いてたまらない。入相さんはここにいる。血の匂いがする。ヒトの体内をめぐる、血の匂いがする。
今、この人は生きようとしている。それがたまらなく、愛おしい。目の前にいるコレを斬りたい。斬ってその命を全身に感じたい。気持ちよく、なりたい。
「僕は――化け物、ですから」
笑みを浮かべて言葉を返し、あえて切っ先を下へとずらした。火花が散るにおいがする。刀が再び悲鳴を上げる。息をのむ気配がする。最大限の力で引き下ろした鋼から、肉に突き刺さり骨を砕く感触が伝い落ちた。
甘くて濃い、血の匂い。頭がくらくらする。入相さんが咳き込むのが聞こえる。肺に到達したのだろうか。顔に鉄錆の臭いの飛沫が飛んだ。舌で舐めとる。体重をかけて深く押し込む。これで心臓に到達しただろう。椅子の背もたれに刀が刺さる。背筋を駆け上る痺れと恍惚。気持ちがいい。肩に手が食い込んだ。
「世見坂、ァ」
地を這うような音がする。さらに刃を身体へ埋める。新鮮な血の香りがする。胸の中央を断ち割って、目の前の身体が苦し気にのたうつ。満たされる。生きているという事実に。ここにいるのだという喜びに。とろりと、笑む。
「お世話になりました、入相さん」
あなたのことが好きでした。
そう言おうとして、やめる。化け物はきっと、好きだなんて気持ちはない。ただ喉が渇いたから、目の前の身体に食らいついた。それだけの話なのだから。
ゆっくりと刀を抜いて抱き留める。彼の、節くれだった手を取り握る。あのときよりも細くなってしまったが、その大きさはあの日とまるで変わらない。
そのぬくもりが消えるのが、なんだかひどく惜しく思えて、僕はしばらくの間そこにいた。頬を伝っていく熱が何なのか、僕にはついぞわからなかった。
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