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伍章
其の五
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葉擦れの音が騒いでいる。【塔】の壁を透かして入り込む夜の淡い光源は、この場にいる全員を平等に照らしている。
硝煙のにおいが鼻をかすめ、一日白陽三等巡査は眉を寄せる。銃弾によって剣を叩き落されたせいか、手がずいぶんと痺れていた。
銃を撃ってきた男は、倒れていた男を担ぎ上げる。血で衣服が汚れるのもお構いなしだ。痛んだ赤毛はぼさぼさで、無造作に束ねられている。くすんだ緑の洋袴と上衣に、よれよれの白衣をまとっている。ここ第八階層でもあまり見かけない、外国人のように完全な洋装である。
一日の剣を弾き飛ばした銃は、今は彼の腰に収まっている。一日は男の動きに注意を払いながら、ゆっくりと地面に落ちた洋刀を拾い上げた。鞘に納め、低い声で相手に告げる。
「……一般人の武器携帯は禁止されているはずだぞ」
男はお世辞にもいいとは言えない目つきをさらに剣呑にし、こちらへ向けて右手の甲を突きつける。
「元軍人だ。文句あっか」
骨ばった手の薄い皮膚に見えるのは、天光紋――軍の紋章だった。親指の第一関節ほどの大きさのそれは、色を失い、皮膚にほとんど同化していた。
この国では万が一の事態に備え、元軍人も許可を取れば武器を携帯できる。軍に在籍していたか否かは、軍に入隊する際に行われる手への刻印で判別される。わざわざ刻印を彫り付けて武器を持とうとする輩もいるが、刻印自体に特殊な呪法が用いられていることや、軍を退役すると色が消えることを知るのは、軍や警察の人間だけである。
どうやら嘘じゃないらしい。一日は小さく嘆息すると、ありません、の答えとして肩をすくめた。胸元がじっとりと濡れていくのが気持ち悪い。今更のように傷が痛み始め、頭がくらくらした。
「おら、てめえも行くぞ」
不夜城と名乗った不審な医者が言う。こちらに向けての言葉らしい。
「え、……なんで」
問いかけるや否や、一日は乱暴に腕をつかまれ立ち上がらされる。無精髭の生えた男の不機嫌そうな顔には、苛立ちがはっきりと伺えた。
「俺の治療を受けたくねえってか? 俺の目の前でのうのうと失血死するってんなら、その前にてめえの腹の風通し良くしてやる」
……どうやらかなり短気なようで、おまけに口も悪いらしい。一日は両手を軽くあげて降参の意を示した。
「わかった、わかったよ。治療は受ける」
「最初からそれ以外選択肢なんてねえだろが、ボケ」
悪態をつきながら、男は世見坂の斬り落とされた腕を無造作に拾い上げた。それから離れた場所に置いた黒皮の鞄から布切れを出し、乱暴に包んで押し込む。そして荷のように担いだ男を支え直すと、鞄を持って大股に歩きだした。
それにしても、何だってこんなに言われなければならないのだろう。その怒りの理不尽さにいささかムッとしながら、一日は男の赤毛と白衣、世見坂の長い髪の黒に染まったその背を追いかけた。
第八階層、第二外殻。郊外より中央へと向かう道すがら。縦に伸びる建物の合間を縫いながら歩いているうちに、建物の多くなってくる区域へと差し掛かる。
誰もいない道を、物寂し気に街灯が照らす家並みの片隅に、古びた木造平屋の家屋があった。入口にかけられた看板には、かすれた文字で【不夜城診療所】と書かれている。
赤毛の男は、小脇に斬り落とされた腕を挟んだまま懐を探る。古びた鍵を鍵穴に差し、くるりと回す。そして取っ手を握ったまま、慣れた様子で乱暴に扉を蹴り飛ばした。
「ちょ、ちょっと、何してんすか!」
「こうしねえと開かねえんだよ。っていうか、自分ちなんだからどうしたっていいだろ、うるせえな」
舌打ち混じりに答える医者は、こちらを一瞥することもなく中へと入る。建付けがひどく悪いのか、扉はひどい音を立てて軋んでいた。また何か悪態をつかれる前に、一日も続いて足を踏み入れる。
診療所内は埃っぽく、暗かった。そこかしこに埃をかぶった調度や箱が置いてある。板張りの床は歩くたびにぎしぎしと悲鳴を上げ、天井はずいぶんと低かった。小綺麗に整えられている周囲の環境との格差に眉を寄せながら、一日は暗い中をついていく。
と、小さな金属音がした。それからどこか嗅ぎ慣れた、油の燃える臭い。橙の火が視界の片隅を焼き、すぐに消える。次いで硝子を叩く澄んだ音とともに、くすんでぼやけた夜光石の光がともった。
短い廊下には、背もたれのない洋風の腰掛がいくつも置いてあった。部屋側の壁に並ぶ空っぽの本棚の上に、夜光石の入れられた古い洋灯と、硝子の灰皿がある。不夜城の口にはいつの間にか煙草が挟まっていた。
煙草の臭い、薄明りに溶ける紫煙の向こう、たたずむ肩越しに古びた扉がふたつある。診察室、と表札があるのがかろうじて見て取れた。
「そこで待ってろ。重傷者が先だ」
気が付けば、不夜城の白衣の半分ほどが血で真っ赤になっていた。肩に担がれた男は身動きひとつしない。獣のように殺意を向けて、嘲笑し哄笑していたのが嘘のようだ。
鼓動に合わせて身体をめぐる痛み、それとともに再び怒りがこみあげてくる。
「――助けるのか、そいつを」
「当たり前だろ」
扉を開けた医者は淡々と、間髪入れずに肯定する。
「そいつは犯罪者だぞ」
「だから?」
「大勢殺した殺人鬼だ!」
「ンなこたぁ嫌ってほど知ってるさ」
男の態度は変わらない。苛立ちが募り、一日は声を荒らげた。
「何で治療しようとするんだよ、犯罪者を!」
その瞬間、男の濁った眼に強く、鋭い光が宿った。
濃いクマと無精髭に彩られた、どこか気だるげな顔立ちに、怒りにも似た感情が浮かぶ。
「おい、ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ、ガキが」
胸倉がつかまれる。息が詰まって苦しい。胸の傷が開いたのか、痛みが増した。眉を寄せる一日の鼻先を、煙草の火の熱がかすめていく。
「いいか。医者は患者の命を救うためにいる。こいつが犯罪者だろうが殺人鬼だろうが化け物だろうが関係ねえ。俺は医者で、こいつは俺の患者だ。それ以上に理由なんかあるか、あ?」
刃物のように鋭いまなざしに射抜かれて、一日は言葉を発することができなかった。あまりに強い決意と譲らぬ意志に足がすくむ。
「俺の手が、俺の目が届くところにいる連中は、誰ひとりだって死なせやしねえ。てめえも、こいつも、例外なくだ。それが俺の医者としての使命だ。わかったら黙って待ってやがれ、いいな。逃げたら足に銃弾ぶち込んでやるから、そのつもりでいろ」
矛盾することを言い放ち、男は煙草を灰皿へと押し付けて診察室へと姿を消す。一日はひとり、薄暗い廊下に取り残された。
埃に紛れて、煙草と血の臭いがする。男の通ったあとには点々と、紅い花弁が散っていた。
診察室からはせわしなく音がする。話し声がとぎれとぎれに聞こえてくるが、内容はよくわからない。乱入して確保することもできなくはない。意識がないだろう、今ならば――だが、医者があの調子では、邪魔した時点で本当に撃たれるかもしれない。抜け出すことも同様だ。冗談を言っているようには見えなかった。
一日は、腰掛の埃を丁寧に払って座り込む。やっと――やっと見つけたのに。帽子を外して脇に投げ、一日は苛立ちともどかしさに震える吐息を吐き出した。
第一階層の娼婦の殺人からずっと追い続けてきた事件は、上司であった東雲がいなくなったことによって頓挫した。一連の事件の捜査は、東雲の熱意と努力によって維持されていたのだと、いなくなったあとに気が付いた。
一日が調査の続行を上層に訴えても無駄だった。たかが下っ端の巡査の言うことなど、お偉いがたは誰も聞いちゃくれない。
やがて連続殺人事件は「下層の人間、または現場にいた人間の乱心によるもの」と強制的に結論付けられ、捜査自体が打ち切られた。
それからずっと考えていた。どうして事件の捜査が打ち切られたのか。どうして東雲が、あんなにも正義とは何かを常に考えて動いていたような人が、突然警察を辞めて失踪したのか。几帳面でクソ真面目を絵にかいたような人だったのに、書き置きのひとつも残さずに。
堅物で、冗談が通じなくて、でも優しくて。財布を忘れるといつも小言を言いながらおごってくれるような、面倒見のいい人だった。弱い人たちのために、常に何かをしているような、誇り高い人だった。
いなくなった東雲の目撃情報、そして彼が今何をしているか。それを聞いたとき、一日は到底信じることができなかった。
裏の経路で違法薬物を取引している連中や、強盗殺人の犯人など、悪事を働いた者を容赦なく斬って捨てていたのだ。それだけではない。彼らに無理やり協力をさせられていた者たちに至るまで、丁寧に暴いてはひとり残らず殺していた。
あんなにも、事故だろうが何だろうが、命を奪うことにためらいを見せていた人が、どうしてそんなことを。
東雲が消えたこと、捜査の打ち切り。一見何の関連性もないように見えるここに、何かがあるような気がした。だから一日は、たったひとりでも調べ直すことを決意した。東雲がまとめ、追っていたものを再度丁寧に、残らずさらうようにたどって、すがって、共通する影の気配を拾い集めた。
記憶を必死で手繰り寄せ、仕事の合間に目撃情報をかき集めてやっと、一日はすべての事件にかかわるひとりの男にたどりついたのである。
娼婦を買った男。記者が殺される直前まで一緒にいた男。暮邸で唯一生きていた用心棒。あの人が消える前に会っていた者。
長い髪、軍の外套を肩にかけ、今は流行らぬ着流し姿。軍の洋袴と軍靴の元軍人。白鞘の刀を腰に帯びた、獣のように赤い瞳の男。確か名前は、世見坂終宵。
東雲がいなくなったあとに起きた軍の少佐殺しも、彼と待ち合わせていた者が同じ特徴を持っていたという。そして、東雲が一度拘束したのも、東雲が失踪してすぐ釈放されたのも、この男だった。
――釈放した人間がどんな立場の者かは知らない。しかし、これで何らかの意志が介入していたことは明らかだった。
権威で守られた殺人鬼。おそらく“そこ”に手が届きそうだったから、東雲は狙われた。狙われて惑わされ、狂わされて罪を犯したに違いない。
善良な人間をそそのかし、罪を犯させるなど、決して許されることではない。だから一日は、止めなければならないと思った。あの人にこれ以上、手を汚させないために。その男の凶行を、終わらせるために。
世見坂終宵の目撃情報が入ったのは、第八階層への出張直後、少佐殺しの翌朝だった。見回り中の聞き込みで偶然、その姿を見た、という人物に話が聞けたのだ。場所は第八階層第二外殻の郊外側。人通りの少ない場所ゆえ、もはや奇跡に近い情報であった。
もしかしたら、奴を捕らえることができるかもしれない。手柄とか名声とか、そんなものはどうでもいい。ただ、この連続殺人の動機を、その背後にいるだろう人間の正体を知りたかった。東雲が惑わされ、堕ちた理由を、事情を問いただしたかった。
足元で、影が揺れている。当たり前だが、制服はすっかり血まみれになっていた。痛みは徐々に鈍くなってきているが、きっとこれは麻痺してきているんだろう。一日はひとつため息をつき、今更のように上着を脱いで、傷口をふさぐように巻き付けた。
硬い木の壁にもたれかかり、握りしめていた両手をゆっくりと開いた。真っ白になった手のひらに、血が通い始める。手のひらにはいつの間にか、爪の痕がついていた。
世見坂に会う、その前に。一日はこの手で、尊敬していた人を斬った。世見坂と刃を交えた場所より少し東側にある、人気のない路地でのことだった。
どうして東雲がそこにいたのかはわからない。偶然なのか、必然だったのか。洋風の黒い襯衣に袴姿の東雲は、手に白い手袋をはめて、いつものとおり通った背筋でそこにたたずんでいた。明滅する街灯の光に照らされて、幽鬼のように。
『先輩、戻りましょう』
一日は思わず手を差し伸べて、そう言った。
『無理だ。あの人が、私の中に獣がいることを教えてくれた。その存在を知ってしまった以上、自分はもう戻れない』
東雲は澱んだ目でそう拒むと、薄く笑って刀を構えた。
『だから私は、私にしか成し得ないことする。自分は弱かった。だが、今ならばそれが、できる。邪魔をするなら、お前でも斬るぞ』
そうして――そうして、斬り合いになったのだ。これまで東雲と訓練をしたことはあったが、本気で殺し合いをするなんて夢にも思っていなかったのに。
東雲は、強かった。だが、あまりにも“型どおり”でもあった。クソ真面目がゆえの、教わったとおりの剣術。気が付けば、あとは崩すのは早かった。
そして一日は東雲を斬った。ほんの一瞬だけ、東雲が一日を斬るのをためらったがゆえのことだった。
一日は生まれて初めて、肉を断ち骨を切る感覚を味わった。他者の命を奪う、そのおぞましい感覚に吐き気がした。こんなものに酔えるだなんて、どうかしている。本当に、心の底からそう思った。
一日は急いで最寄りの交番へと駆け込んだ。報告を入れ、戻る途中で世見坂を目撃したのである。血染めの刀を手にしたままふらふらと歩く姿を見た途端、一日の中で何かが爆ぜた。
先回りして待ち受けて、会話を交わして。あまりの態度に怒りがこみあげてきて、そのまま刃を交えた。途中からは正直よく覚えていない。気が付いたら銃で剣を弾かれ、こんなところに来ている。
再び手を強く握り、一日はくすぶる怒りの残滓に胸を焦がす。あの男の浮かべた嘲笑、煽るような言葉も何もかも、常軌を逸脱した快楽殺人鬼のそれだった。そう、語ることも振る舞いも、何もかもが許しがたいことなのに。
とぎれとぎれの記憶をたどっていると、ふと何かがおかしいことに気が付いた。どうにもぬぐい切れない、小さな違和感。それはやつの浮かべる、表情だった。
果たして狂気の殺人鬼が、あんな顔をするだろうか。戦いに酔いしれているというのに、その真っ赤な瞳はどこか――苦し気だった。
憎い相手にこんな表現をするのもおかしな話だが、考えれば考えるほど、喉の奥に引っかかるような違和がある。……あの男が目覚めたら、話を聞かねばならない。それも、含めて。
扉が開いた。不夜城が無言のまま現れる。手には注射器と針と糸、何かの液体が入った瓶が二本ある。そのまま男は一日の巻き付けた上着を強引にはぎ取り、破れた衣服から覗く胸元へと注射器を刺した。
冷たいものが痛みとともに流れ込んでくる。眉間と奥歯に力を入れて耐えているうちに、痛みが溶けて消えていく。
不夜城は瓶の蓋を開け、容赦なく中身を一日の傷口へとぶちまけた。冷たい。傷を洗っているようだ。触られているのはわかるが、痛みはなく、ただ鈍い痺れだけがある。
ひとしきり傷を洗ってから、乱暴に布で拭われる。針は別の液体に軽く浸され、糸が通され――あっという間に傷口が縫われた。速すぎて何をしているのかわからなかったぐらいだ。
綺麗にふさがれた傷を呆気に取られて眺めていると、不夜城は深々と息を吐いて立ち上がる。無言で差し出されたのは、縁の欠けた湯飲みだった。中には無色透明の液体が入っている。飲め、ということだろうか。
見上げた男はもう一日に意識を向けてはおらず、空の本棚にもたれて懐から煙草の箱を出していた。
肯定の意と受け取って、口をつける。ぬるい水だった。何となくかび臭い。かちん。弾かれた金属の音がする。流れてくる煙草の煙。ようやくすべての処置が終わったらしかった。
「……あの」
「金はいらねえぞ。てめえはついでだからな」
うなるような答えが返る。一日は一度口をつぐみ、首を振って続ける。
「……そうじゃなくて」
「てめぇ、名前は何ていうんだ」
唐突な質問に面食らいながら、一日は答える。
「一日、白陽」
「はん。なるほどな、てめぇがそうか。階級は三等巡査だろ」
予期せぬ言葉に驚き、一日は思わず腰を浮かせた。が、舌打ちと同時にものすごい力で肩を押さえ込まれ、再び座らざるを得なくなる。衝撃で埃がぶわりと舞った。
「何で、それを」
「制服見りゃわかる……っていうのもあるが。さっき路地裏に倒れてたやつが、一日三等巡査にすまないと伝えろだ何だのぐだぐだ言ってたんだよ」
この時間に、路地裏で倒れていた。自分のことを口にしていた。それはもう、東雲に間違いない。一日は思わず身を乗り出した。
「それで、その人は!」
「傷は縫合して止血だけしてやった。あとは知らねえ」
生きていた。殺してしまったと思っていた人には、まだ息があった。あの人を、斬ってしまわなくてよかった。
安堵とともに眼の奥から熱いものがこみあげてくる。喉の奥が苦くなる。医者の言葉も態度も愛想が欠片もなかったが、一日にとってはもはや些細な事だった。
「……よかった」
「こっちも薬と商売道具仕入れたところだったんでな。……ま、出血は抑えたから命は助かったと思うぜ」
一日のつぶやきが聞こえたのか、不夜城はぼそりと低く声を落とす。感謝の意を込めて、一日は小さく頭を下げた。
あの鞄には、薬と商売道具――おそらく医療用具だろう、それが入っていたらしい。だからこうした状況でも、十分な処置を施すことができたのか。態度こそ問題しかないが、腕は本物のようだ。
一日はふと、閉じられた扉の向こう側へと意識を凝らす。先ほどと違って物音ひとつ聞こえてこない。処置はもう済んでいるはず。ならばもう、今しかない。
「……世見坂終宵と、話をしたい」
「意識が完全に戻ってねえ。何より絶対安静だ。動かしたらどてっぱらに風穴開けるぞ」
即座に返答があった。有無を言わさぬ口調に怯みかけるが、一日はなおも食い下がる。
「聞きたいことがあるんだ。頼む、ほんの少しだけでいい」
「断言するぜ。てめぇは話してる途中に手が出る。何かせずにはいられなくなる」
にらみつけてくる瞳には、刃物のような光がある。剥き出しの、敵意ともとれる強いまなざし。譲れないものがあるとき、この男はこういう表情をするのだと、一日は何とはなしに気が付いていた。
「ただ、俺は知りたいだけなんだ。世見坂の後ろに誰がいるのか、どうして先輩をそそのかしたのか!」
「てめぇの言いてえこともわかるさ。てめぇはずいぶん仕事熱心なようだからな。だが、あいにく俺は利己主義者でな。俺は、俺の領域で、あいつを――俺の患者の命を危険にさらすなんて真似は死んでも許せねえんだよ」
視線が交錯する。握り固めた拳が痛い。牙を剥いている狼を目の前にしている気分になる。冷や汗が背中を湿らせていく。だがここで引くわけにはいかなかった。知らなければならない。この事件の、真相を。
沈黙。互いの喉元に、突きつけられた意志と意志。細く長く、煙がたなびく。石の光に溶けて消える。
不夜城の眉の間に刻まれたしわが、さらに深くなる。一日は目をそらさぬまま、不夜城のぎらぎらと燃える瞳をにらみ据えていた。
どれほどそうしていただろう。やがて折れたのは不夜城のほうだった。
「……ふん。そそのかす、とか何だとか。あいつぁそういうこたぁ何も考えちゃいねえさ。ただ“普通に”生きてるだけなんだからな」
視線がそれる。新しい煙草に火が入る。吐き出される煙に遮られ、洋灯の光が柔らかに曇る。
「何で殺すかなんて、俺たちが聞いたところで何の意味もねえ。そもそもの前提が違うのさ。……てめぇにも、俺にも、誰にも、あいつのことなんざ理解できねえよ。聞くだけ無駄ってやつだ。残念だったな」
そこにわずかににじんだ感情を何と呼ぶのか、一日は知らない。しかし、その音の底に沈んだそれは、どこか熱を含んでいるように思えてならなかった。突き放した物言いに聞こえるが、そのくせずいぶんと感情的だ。
「どんな常識外れのやつだったとしても、人間だ。直接聞いてみないとわからないだろ。憶測と机上の空論だけじゃ何も解決しない。だからせめて話を聞きたいんだ。あんたが立ち会ってくれてもいい」
不夜城は一日の言葉に驚いたように目を見開くと、皮肉げに口の端をゆがめ、くつくつと嗤った。
「あいつが人間だって? そんなこと言ったやつはてめぇが初めてだぜ、お坊ちゃん。だがな、そいつぁできねぇ相談だ。……言ったろ、俺は利己主義者だ、ってな」
その瞬間――一日の視界がぐらりと歪んだ。
身体から力が抜けていく。強烈な眠気が押し寄せてくる。不自然なほどのそれにあがき、もがいて抵抗するが、傷によって削れた体力では抗うことすら難しかった。
眠い。意識が強制的に引きずり込まれていく。埃まみれの腰掛けに力なく横たわる一日の目に、赤毛の男が凶悪な顔で嗤っているのが映った。
「拘束されたらどうせ死刑だろ? 俺ぁな、俺の患者が人間としてそのまま死刑になるくらいなら――誰にも理解されねえまま、化け物として孤独に生きてたほうがよっぽどいいと思うんだよ。なあ?」
駄目だ。こんなところで寝ている場合じゃない。すぐそこに、真相を知る者がいるというのに。彼はしかるべきところで、裁かれなければならないのに。魔性ではなく――人間として。
手を伸ばす。届かない。視界がかすんでいく。光が薄れて遠くなる。瞼が重たく落ちていく。ごつごつと、軍靴が床を重たく叩く。
「いいか坊主。怪我人は絶対安静だ。てめぇはそこでおねんねしてろ」
気配が、影が、消えていく。眠い。意識していなかった疲労感からか、身体に力が入らない。一日はそのまま意識を手放し、深い深い眠りの海へと沈んでいった。
硝煙のにおいが鼻をかすめ、一日白陽三等巡査は眉を寄せる。銃弾によって剣を叩き落されたせいか、手がずいぶんと痺れていた。
銃を撃ってきた男は、倒れていた男を担ぎ上げる。血で衣服が汚れるのもお構いなしだ。痛んだ赤毛はぼさぼさで、無造作に束ねられている。くすんだ緑の洋袴と上衣に、よれよれの白衣をまとっている。ここ第八階層でもあまり見かけない、外国人のように完全な洋装である。
一日の剣を弾き飛ばした銃は、今は彼の腰に収まっている。一日は男の動きに注意を払いながら、ゆっくりと地面に落ちた洋刀を拾い上げた。鞘に納め、低い声で相手に告げる。
「……一般人の武器携帯は禁止されているはずだぞ」
男はお世辞にもいいとは言えない目つきをさらに剣呑にし、こちらへ向けて右手の甲を突きつける。
「元軍人だ。文句あっか」
骨ばった手の薄い皮膚に見えるのは、天光紋――軍の紋章だった。親指の第一関節ほどの大きさのそれは、色を失い、皮膚にほとんど同化していた。
この国では万が一の事態に備え、元軍人も許可を取れば武器を携帯できる。軍に在籍していたか否かは、軍に入隊する際に行われる手への刻印で判別される。わざわざ刻印を彫り付けて武器を持とうとする輩もいるが、刻印自体に特殊な呪法が用いられていることや、軍を退役すると色が消えることを知るのは、軍や警察の人間だけである。
どうやら嘘じゃないらしい。一日は小さく嘆息すると、ありません、の答えとして肩をすくめた。胸元がじっとりと濡れていくのが気持ち悪い。今更のように傷が痛み始め、頭がくらくらした。
「おら、てめえも行くぞ」
不夜城と名乗った不審な医者が言う。こちらに向けての言葉らしい。
「え、……なんで」
問いかけるや否や、一日は乱暴に腕をつかまれ立ち上がらされる。無精髭の生えた男の不機嫌そうな顔には、苛立ちがはっきりと伺えた。
「俺の治療を受けたくねえってか? 俺の目の前でのうのうと失血死するってんなら、その前にてめえの腹の風通し良くしてやる」
……どうやらかなり短気なようで、おまけに口も悪いらしい。一日は両手を軽くあげて降参の意を示した。
「わかった、わかったよ。治療は受ける」
「最初からそれ以外選択肢なんてねえだろが、ボケ」
悪態をつきながら、男は世見坂の斬り落とされた腕を無造作に拾い上げた。それから離れた場所に置いた黒皮の鞄から布切れを出し、乱暴に包んで押し込む。そして荷のように担いだ男を支え直すと、鞄を持って大股に歩きだした。
それにしても、何だってこんなに言われなければならないのだろう。その怒りの理不尽さにいささかムッとしながら、一日は男の赤毛と白衣、世見坂の長い髪の黒に染まったその背を追いかけた。
第八階層、第二外殻。郊外より中央へと向かう道すがら。縦に伸びる建物の合間を縫いながら歩いているうちに、建物の多くなってくる区域へと差し掛かる。
誰もいない道を、物寂し気に街灯が照らす家並みの片隅に、古びた木造平屋の家屋があった。入口にかけられた看板には、かすれた文字で【不夜城診療所】と書かれている。
赤毛の男は、小脇に斬り落とされた腕を挟んだまま懐を探る。古びた鍵を鍵穴に差し、くるりと回す。そして取っ手を握ったまま、慣れた様子で乱暴に扉を蹴り飛ばした。
「ちょ、ちょっと、何してんすか!」
「こうしねえと開かねえんだよ。っていうか、自分ちなんだからどうしたっていいだろ、うるせえな」
舌打ち混じりに答える医者は、こちらを一瞥することもなく中へと入る。建付けがひどく悪いのか、扉はひどい音を立てて軋んでいた。また何か悪態をつかれる前に、一日も続いて足を踏み入れる。
診療所内は埃っぽく、暗かった。そこかしこに埃をかぶった調度や箱が置いてある。板張りの床は歩くたびにぎしぎしと悲鳴を上げ、天井はずいぶんと低かった。小綺麗に整えられている周囲の環境との格差に眉を寄せながら、一日は暗い中をついていく。
と、小さな金属音がした。それからどこか嗅ぎ慣れた、油の燃える臭い。橙の火が視界の片隅を焼き、すぐに消える。次いで硝子を叩く澄んだ音とともに、くすんでぼやけた夜光石の光がともった。
短い廊下には、背もたれのない洋風の腰掛がいくつも置いてあった。部屋側の壁に並ぶ空っぽの本棚の上に、夜光石の入れられた古い洋灯と、硝子の灰皿がある。不夜城の口にはいつの間にか煙草が挟まっていた。
煙草の臭い、薄明りに溶ける紫煙の向こう、たたずむ肩越しに古びた扉がふたつある。診察室、と表札があるのがかろうじて見て取れた。
「そこで待ってろ。重傷者が先だ」
気が付けば、不夜城の白衣の半分ほどが血で真っ赤になっていた。肩に担がれた男は身動きひとつしない。獣のように殺意を向けて、嘲笑し哄笑していたのが嘘のようだ。
鼓動に合わせて身体をめぐる痛み、それとともに再び怒りがこみあげてくる。
「――助けるのか、そいつを」
「当たり前だろ」
扉を開けた医者は淡々と、間髪入れずに肯定する。
「そいつは犯罪者だぞ」
「だから?」
「大勢殺した殺人鬼だ!」
「ンなこたぁ嫌ってほど知ってるさ」
男の態度は変わらない。苛立ちが募り、一日は声を荒らげた。
「何で治療しようとするんだよ、犯罪者を!」
その瞬間、男の濁った眼に強く、鋭い光が宿った。
濃いクマと無精髭に彩られた、どこか気だるげな顔立ちに、怒りにも似た感情が浮かぶ。
「おい、ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ、ガキが」
胸倉がつかまれる。息が詰まって苦しい。胸の傷が開いたのか、痛みが増した。眉を寄せる一日の鼻先を、煙草の火の熱がかすめていく。
「いいか。医者は患者の命を救うためにいる。こいつが犯罪者だろうが殺人鬼だろうが化け物だろうが関係ねえ。俺は医者で、こいつは俺の患者だ。それ以上に理由なんかあるか、あ?」
刃物のように鋭いまなざしに射抜かれて、一日は言葉を発することができなかった。あまりに強い決意と譲らぬ意志に足がすくむ。
「俺の手が、俺の目が届くところにいる連中は、誰ひとりだって死なせやしねえ。てめえも、こいつも、例外なくだ。それが俺の医者としての使命だ。わかったら黙って待ってやがれ、いいな。逃げたら足に銃弾ぶち込んでやるから、そのつもりでいろ」
矛盾することを言い放ち、男は煙草を灰皿へと押し付けて診察室へと姿を消す。一日はひとり、薄暗い廊下に取り残された。
埃に紛れて、煙草と血の臭いがする。男の通ったあとには点々と、紅い花弁が散っていた。
診察室からはせわしなく音がする。話し声がとぎれとぎれに聞こえてくるが、内容はよくわからない。乱入して確保することもできなくはない。意識がないだろう、今ならば――だが、医者があの調子では、邪魔した時点で本当に撃たれるかもしれない。抜け出すことも同様だ。冗談を言っているようには見えなかった。
一日は、腰掛の埃を丁寧に払って座り込む。やっと――やっと見つけたのに。帽子を外して脇に投げ、一日は苛立ちともどかしさに震える吐息を吐き出した。
第一階層の娼婦の殺人からずっと追い続けてきた事件は、上司であった東雲がいなくなったことによって頓挫した。一連の事件の捜査は、東雲の熱意と努力によって維持されていたのだと、いなくなったあとに気が付いた。
一日が調査の続行を上層に訴えても無駄だった。たかが下っ端の巡査の言うことなど、お偉いがたは誰も聞いちゃくれない。
やがて連続殺人事件は「下層の人間、または現場にいた人間の乱心によるもの」と強制的に結論付けられ、捜査自体が打ち切られた。
それからずっと考えていた。どうして事件の捜査が打ち切られたのか。どうして東雲が、あんなにも正義とは何かを常に考えて動いていたような人が、突然警察を辞めて失踪したのか。几帳面でクソ真面目を絵にかいたような人だったのに、書き置きのひとつも残さずに。
堅物で、冗談が通じなくて、でも優しくて。財布を忘れるといつも小言を言いながらおごってくれるような、面倒見のいい人だった。弱い人たちのために、常に何かをしているような、誇り高い人だった。
いなくなった東雲の目撃情報、そして彼が今何をしているか。それを聞いたとき、一日は到底信じることができなかった。
裏の経路で違法薬物を取引している連中や、強盗殺人の犯人など、悪事を働いた者を容赦なく斬って捨てていたのだ。それだけではない。彼らに無理やり協力をさせられていた者たちに至るまで、丁寧に暴いてはひとり残らず殺していた。
あんなにも、事故だろうが何だろうが、命を奪うことにためらいを見せていた人が、どうしてそんなことを。
東雲が消えたこと、捜査の打ち切り。一見何の関連性もないように見えるここに、何かがあるような気がした。だから一日は、たったひとりでも調べ直すことを決意した。東雲がまとめ、追っていたものを再度丁寧に、残らずさらうようにたどって、すがって、共通する影の気配を拾い集めた。
記憶を必死で手繰り寄せ、仕事の合間に目撃情報をかき集めてやっと、一日はすべての事件にかかわるひとりの男にたどりついたのである。
娼婦を買った男。記者が殺される直前まで一緒にいた男。暮邸で唯一生きていた用心棒。あの人が消える前に会っていた者。
長い髪、軍の外套を肩にかけ、今は流行らぬ着流し姿。軍の洋袴と軍靴の元軍人。白鞘の刀を腰に帯びた、獣のように赤い瞳の男。確か名前は、世見坂終宵。
東雲がいなくなったあとに起きた軍の少佐殺しも、彼と待ち合わせていた者が同じ特徴を持っていたという。そして、東雲が一度拘束したのも、東雲が失踪してすぐ釈放されたのも、この男だった。
――釈放した人間がどんな立場の者かは知らない。しかし、これで何らかの意志が介入していたことは明らかだった。
権威で守られた殺人鬼。おそらく“そこ”に手が届きそうだったから、東雲は狙われた。狙われて惑わされ、狂わされて罪を犯したに違いない。
善良な人間をそそのかし、罪を犯させるなど、決して許されることではない。だから一日は、止めなければならないと思った。あの人にこれ以上、手を汚させないために。その男の凶行を、終わらせるために。
世見坂終宵の目撃情報が入ったのは、第八階層への出張直後、少佐殺しの翌朝だった。見回り中の聞き込みで偶然、その姿を見た、という人物に話が聞けたのだ。場所は第八階層第二外殻の郊外側。人通りの少ない場所ゆえ、もはや奇跡に近い情報であった。
もしかしたら、奴を捕らえることができるかもしれない。手柄とか名声とか、そんなものはどうでもいい。ただ、この連続殺人の動機を、その背後にいるだろう人間の正体を知りたかった。東雲が惑わされ、堕ちた理由を、事情を問いただしたかった。
足元で、影が揺れている。当たり前だが、制服はすっかり血まみれになっていた。痛みは徐々に鈍くなってきているが、きっとこれは麻痺してきているんだろう。一日はひとつため息をつき、今更のように上着を脱いで、傷口をふさぐように巻き付けた。
硬い木の壁にもたれかかり、握りしめていた両手をゆっくりと開いた。真っ白になった手のひらに、血が通い始める。手のひらにはいつの間にか、爪の痕がついていた。
世見坂に会う、その前に。一日はこの手で、尊敬していた人を斬った。世見坂と刃を交えた場所より少し東側にある、人気のない路地でのことだった。
どうして東雲がそこにいたのかはわからない。偶然なのか、必然だったのか。洋風の黒い襯衣に袴姿の東雲は、手に白い手袋をはめて、いつものとおり通った背筋でそこにたたずんでいた。明滅する街灯の光に照らされて、幽鬼のように。
『先輩、戻りましょう』
一日は思わず手を差し伸べて、そう言った。
『無理だ。あの人が、私の中に獣がいることを教えてくれた。その存在を知ってしまった以上、自分はもう戻れない』
東雲は澱んだ目でそう拒むと、薄く笑って刀を構えた。
『だから私は、私にしか成し得ないことする。自分は弱かった。だが、今ならばそれが、できる。邪魔をするなら、お前でも斬るぞ』
そうして――そうして、斬り合いになったのだ。これまで東雲と訓練をしたことはあったが、本気で殺し合いをするなんて夢にも思っていなかったのに。
東雲は、強かった。だが、あまりにも“型どおり”でもあった。クソ真面目がゆえの、教わったとおりの剣術。気が付けば、あとは崩すのは早かった。
そして一日は東雲を斬った。ほんの一瞬だけ、東雲が一日を斬るのをためらったがゆえのことだった。
一日は生まれて初めて、肉を断ち骨を切る感覚を味わった。他者の命を奪う、そのおぞましい感覚に吐き気がした。こんなものに酔えるだなんて、どうかしている。本当に、心の底からそう思った。
一日は急いで最寄りの交番へと駆け込んだ。報告を入れ、戻る途中で世見坂を目撃したのである。血染めの刀を手にしたままふらふらと歩く姿を見た途端、一日の中で何かが爆ぜた。
先回りして待ち受けて、会話を交わして。あまりの態度に怒りがこみあげてきて、そのまま刃を交えた。途中からは正直よく覚えていない。気が付いたら銃で剣を弾かれ、こんなところに来ている。
再び手を強く握り、一日はくすぶる怒りの残滓に胸を焦がす。あの男の浮かべた嘲笑、煽るような言葉も何もかも、常軌を逸脱した快楽殺人鬼のそれだった。そう、語ることも振る舞いも、何もかもが許しがたいことなのに。
とぎれとぎれの記憶をたどっていると、ふと何かがおかしいことに気が付いた。どうにもぬぐい切れない、小さな違和感。それはやつの浮かべる、表情だった。
果たして狂気の殺人鬼が、あんな顔をするだろうか。戦いに酔いしれているというのに、その真っ赤な瞳はどこか――苦し気だった。
憎い相手にこんな表現をするのもおかしな話だが、考えれば考えるほど、喉の奥に引っかかるような違和がある。……あの男が目覚めたら、話を聞かねばならない。それも、含めて。
扉が開いた。不夜城が無言のまま現れる。手には注射器と針と糸、何かの液体が入った瓶が二本ある。そのまま男は一日の巻き付けた上着を強引にはぎ取り、破れた衣服から覗く胸元へと注射器を刺した。
冷たいものが痛みとともに流れ込んでくる。眉間と奥歯に力を入れて耐えているうちに、痛みが溶けて消えていく。
不夜城は瓶の蓋を開け、容赦なく中身を一日の傷口へとぶちまけた。冷たい。傷を洗っているようだ。触られているのはわかるが、痛みはなく、ただ鈍い痺れだけがある。
ひとしきり傷を洗ってから、乱暴に布で拭われる。針は別の液体に軽く浸され、糸が通され――あっという間に傷口が縫われた。速すぎて何をしているのかわからなかったぐらいだ。
綺麗にふさがれた傷を呆気に取られて眺めていると、不夜城は深々と息を吐いて立ち上がる。無言で差し出されたのは、縁の欠けた湯飲みだった。中には無色透明の液体が入っている。飲め、ということだろうか。
見上げた男はもう一日に意識を向けてはおらず、空の本棚にもたれて懐から煙草の箱を出していた。
肯定の意と受け取って、口をつける。ぬるい水だった。何となくかび臭い。かちん。弾かれた金属の音がする。流れてくる煙草の煙。ようやくすべての処置が終わったらしかった。
「……あの」
「金はいらねえぞ。てめえはついでだからな」
うなるような答えが返る。一日は一度口をつぐみ、首を振って続ける。
「……そうじゃなくて」
「てめぇ、名前は何ていうんだ」
唐突な質問に面食らいながら、一日は答える。
「一日、白陽」
「はん。なるほどな、てめぇがそうか。階級は三等巡査だろ」
予期せぬ言葉に驚き、一日は思わず腰を浮かせた。が、舌打ちと同時にものすごい力で肩を押さえ込まれ、再び座らざるを得なくなる。衝撃で埃がぶわりと舞った。
「何で、それを」
「制服見りゃわかる……っていうのもあるが。さっき路地裏に倒れてたやつが、一日三等巡査にすまないと伝えろだ何だのぐだぐだ言ってたんだよ」
この時間に、路地裏で倒れていた。自分のことを口にしていた。それはもう、東雲に間違いない。一日は思わず身を乗り出した。
「それで、その人は!」
「傷は縫合して止血だけしてやった。あとは知らねえ」
生きていた。殺してしまったと思っていた人には、まだ息があった。あの人を、斬ってしまわなくてよかった。
安堵とともに眼の奥から熱いものがこみあげてくる。喉の奥が苦くなる。医者の言葉も態度も愛想が欠片もなかったが、一日にとってはもはや些細な事だった。
「……よかった」
「こっちも薬と商売道具仕入れたところだったんでな。……ま、出血は抑えたから命は助かったと思うぜ」
一日のつぶやきが聞こえたのか、不夜城はぼそりと低く声を落とす。感謝の意を込めて、一日は小さく頭を下げた。
あの鞄には、薬と商売道具――おそらく医療用具だろう、それが入っていたらしい。だからこうした状況でも、十分な処置を施すことができたのか。態度こそ問題しかないが、腕は本物のようだ。
一日はふと、閉じられた扉の向こう側へと意識を凝らす。先ほどと違って物音ひとつ聞こえてこない。処置はもう済んでいるはず。ならばもう、今しかない。
「……世見坂終宵と、話をしたい」
「意識が完全に戻ってねえ。何より絶対安静だ。動かしたらどてっぱらに風穴開けるぞ」
即座に返答があった。有無を言わさぬ口調に怯みかけるが、一日はなおも食い下がる。
「聞きたいことがあるんだ。頼む、ほんの少しだけでいい」
「断言するぜ。てめぇは話してる途中に手が出る。何かせずにはいられなくなる」
にらみつけてくる瞳には、刃物のような光がある。剥き出しの、敵意ともとれる強いまなざし。譲れないものがあるとき、この男はこういう表情をするのだと、一日は何とはなしに気が付いていた。
「ただ、俺は知りたいだけなんだ。世見坂の後ろに誰がいるのか、どうして先輩をそそのかしたのか!」
「てめぇの言いてえこともわかるさ。てめぇはずいぶん仕事熱心なようだからな。だが、あいにく俺は利己主義者でな。俺は、俺の領域で、あいつを――俺の患者の命を危険にさらすなんて真似は死んでも許せねえんだよ」
視線が交錯する。握り固めた拳が痛い。牙を剥いている狼を目の前にしている気分になる。冷や汗が背中を湿らせていく。だがここで引くわけにはいかなかった。知らなければならない。この事件の、真相を。
沈黙。互いの喉元に、突きつけられた意志と意志。細く長く、煙がたなびく。石の光に溶けて消える。
不夜城の眉の間に刻まれたしわが、さらに深くなる。一日は目をそらさぬまま、不夜城のぎらぎらと燃える瞳をにらみ据えていた。
どれほどそうしていただろう。やがて折れたのは不夜城のほうだった。
「……ふん。そそのかす、とか何だとか。あいつぁそういうこたぁ何も考えちゃいねえさ。ただ“普通に”生きてるだけなんだからな」
視線がそれる。新しい煙草に火が入る。吐き出される煙に遮られ、洋灯の光が柔らかに曇る。
「何で殺すかなんて、俺たちが聞いたところで何の意味もねえ。そもそもの前提が違うのさ。……てめぇにも、俺にも、誰にも、あいつのことなんざ理解できねえよ。聞くだけ無駄ってやつだ。残念だったな」
そこにわずかににじんだ感情を何と呼ぶのか、一日は知らない。しかし、その音の底に沈んだそれは、どこか熱を含んでいるように思えてならなかった。突き放した物言いに聞こえるが、そのくせずいぶんと感情的だ。
「どんな常識外れのやつだったとしても、人間だ。直接聞いてみないとわからないだろ。憶測と机上の空論だけじゃ何も解決しない。だからせめて話を聞きたいんだ。あんたが立ち会ってくれてもいい」
不夜城は一日の言葉に驚いたように目を見開くと、皮肉げに口の端をゆがめ、くつくつと嗤った。
「あいつが人間だって? そんなこと言ったやつはてめぇが初めてだぜ、お坊ちゃん。だがな、そいつぁできねぇ相談だ。……言ったろ、俺は利己主義者だ、ってな」
その瞬間――一日の視界がぐらりと歪んだ。
身体から力が抜けていく。強烈な眠気が押し寄せてくる。不自然なほどのそれにあがき、もがいて抵抗するが、傷によって削れた体力では抗うことすら難しかった。
眠い。意識が強制的に引きずり込まれていく。埃まみれの腰掛けに力なく横たわる一日の目に、赤毛の男が凶悪な顔で嗤っているのが映った。
「拘束されたらどうせ死刑だろ? 俺ぁな、俺の患者が人間としてそのまま死刑になるくらいなら――誰にも理解されねえまま、化け物として孤独に生きてたほうがよっぽどいいと思うんだよ。なあ?」
駄目だ。こんなところで寝ている場合じゃない。すぐそこに、真相を知る者がいるというのに。彼はしかるべきところで、裁かれなければならないのに。魔性ではなく――人間として。
手を伸ばす。届かない。視界がかすんでいく。光が薄れて遠くなる。瞼が重たく落ちていく。ごつごつと、軍靴が床を重たく叩く。
「いいか坊主。怪我人は絶対安静だ。てめぇはそこでおねんねしてろ」
気配が、影が、消えていく。眠い。意識していなかった疲労感からか、身体に力が入らない。一日はそのまま意識を手放し、深い深い眠りの海へと沈んでいった。
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