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外伝1【翡翠に懐古す】
其の七
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* * *
西には東花と対を成す、月下に栄える都がある――そんな風にたとえられる【塔】が存在する。
刹那の享楽と遊戯を追い求め、今もなお高く高く伸び続ける【塔】のひとつ。葦原国随一の歓楽地、此方と彼方の狭間にたゆたう一夜の楽園。それがここ、西月京である。
俺たちが少し前から滞在するこの場所は、第二階層の外れ側だ。色褪せた妓楼の残骸があちらこちらで沈黙し、既に枯れ果てたかつての栄華が残り続けている。辺りは夜でもないのに常に薄暗い。その隙間でどうにか呼吸をしている妓楼の群れが、あちらこちらでぼんやりと淡い蒼紫の燈篭をともしていた。
他の【塔】とは決定的に違うこの光景、なんでも第三外殻以外はすべて壁を取り払われていて、第三外殻の内側と外側は橋を通らないと行き来できないという。第三外殻の中を【橋の内】、それ以外の第一・第二外殻に相当する場所を【橋の外】なんて言うらしい。
頭の上に渡された紫の橋には、ここいらで有力な妓楼の名と印章が、美しい布に吊って提げられている。あれは【橋の内】にある高級妓楼の看板で、そのほとんどが元はひとつの妓楼から株分けされたものだという。あそこに入れるのは、この辺でもごく一握りの人間だけ。特定の者が利益を吸い上げ、負けたものは矜持を捨てて傘下につくか、あるいは徹底的に潰れていく。夢の痕とも呼べるだろう、立ち並ぶ廃墟の楼閣がその証だ。それでもどこかやけっぱちな明るさのある、独特の街であった。
妓楼は必ず柱や欄干を紫に染める。紫は妓楼の女、“蝶”たちの纏う色である。紅が濃ければ昼の蝶、妓女たちを多く舞わせる陽光楼。蒼が濃ければ夜の蝶、遊女を囲い快楽と一夜の夢を与える夜影楼。昼と夜で姿や空気を変えるのも、この都の大きな特徴だろう。
この街じゃ、妓楼にかかわらない人間などほとんどいない。【橋の外】の外側にあるような安くてボロい妓楼でも、必ずお作法というもんが決まっている。それを守らないやつらは、どんな金持ちだろうと搾取され、ろくに何もできないまま放り出される。何も学ぼうとしないやつは文字通り、搾られるだけ搾られサヨナラ、なんてことも珍しくないという。逆に言えば、お作法さえ知ってりゃいつまでいても咎められない、というわけだ。
さて、西月京では妓楼の女、すなわち“蝶”の身体が何よりも優先される。彼女らの体調管理をしっかりしておかなければ、稼ぎはおろか、経営すらろくに見込めない。つまり医者って存在は、肩書を持っているだけで非常に有利に働くのである。金にはそんなに困っちゃいないが、仮の拠点を確保するには信頼を得るのが一番手っ取り早い。下層に滞在してから何件か仕事をこなしたが、下層の連中の間でそこそこ噂になっているらしかった。
下層は確かに治安は悪いが、俺みたいに身分を明かしたくないやつにはちょうどいい。下層にいる人間に関わることを、とかく上層のやつらは隠したがる。だから上層に噂が広まるのもある程度は防げ、逆に下層でそれなりに暮らしやすくなる。もっとも、金目のものを持ってるからこそ、襲われる率も跳ね上がるんだが。まあ、それはいい。荒事にゃ慣れてる。
水がぱらぱらと天井を叩く音がする。ここは二階だが、もっと高いところにあるどこぞの水管から流れ出たのかもしれない。それとも近くで水漏れしているのか。視線を天井に向けてはみたものの、それがどこなのかは特定できない。とりあえずそれなりに過ごせれば文句はないんだが、あとで見てみるか。
【橋の外】の中央付近、虚無の楼閣が立ち並ぶ隙間の一角にひそりと佇む宿が、今の俺らの仮住まいだ。もともとはその辺にいる最底辺の“蝶”を連れ込める場所だったらしく、布団やら何やらが比較的綺麗に残っていた。むろん低い階層の例にもれず、ガラの悪い連中もそれなりにうろついちゃいるが、時間によってはそれなりの活気も確認できるようなところだった。
行燈の火が揺れる。油の燃える独特のにおいがする。黒金の表面がてらてらと光り、内側に詰め込まれた人工の肉や骨に柔らかい陰影をつけている。そしてその持ち主である“そいつ”は――世見坂終宵と呼ばれていた男は、薄い襦袢一枚だけを身にまとって、布団に身を横たえていた。
俺が浅い眠りから目を覚ましたとき、世見坂は返り血まみれになりながら、左足を引きずって戻ってきた。ガラの悪い集団とやりあったときに、足に強い一撃をもらったという。そのあとから足がうまく動かなくなり、どうにか追い払ってから戻ってきたのだと。
別に珍しいことじゃない。こいつが【世見坂終宵】でなくなったあの日から、こいつは人間らしく衝動を抑えることをやめた。喉が渇いた、と訴えたときは決まってふらりといなくなり、誰かを斬って帰ってくる。やめろと言っても聞きゃしないし、騒ぎを起こしたくないときは縛り付けるようにしてたんだが、どうも今回は俺がうたたねしてる間に抜け出しやがったらしい。
義足の付け根に痛みがある、と言われたのは、水をぶっかけて返り血を洗い流した直後のことだった。濡れた服を透かし彫りの衝立に引っ掛けてから、俺は義足の調整を開始した、というわけだ。
足を外されて身動きが取れなくなり、世見坂はただ汚れた天井をぼんやりと仰いでいる。欠けた足の断端には、わずかに血がにじんでいた。
「相手の得物は?」
少しの間を置いてから、世見坂は小さく首を振る。長く豊かな黒髪が、薄汚れた敷布の上でわずかに波打つ。
「……わからぬ。斧……だと思う。刃物の音と、攻撃の重さからして、の推測でしかないが」
忘れがちだが、こいつはまったく目が見えない。光すらも感じることはできない。それでも、自分の身体に伝わる衝撃や音、ありとあらゆる感覚を用いてここまで分析できてしまうのだから、人離れした戦の才能とは恐ろしいものである。
義足には特殊な金属を用いているゆえ、傷ひとつついていない。中身にもどうやら異常はなさそうだ。ただ、東花京を出る前に一度確認はしたものの、やはり人工筋肉の摩耗が激しい。こいつの身体能力に人工筋肉が追い付いていないということが目に見えてわかる。
世見坂はひとつ息をつき、思い返すように言葉をこぼす。
「……あのとき、彼らの背後から、別の気配がして……何かが聞こえた気がしたのだ。聞き覚えがある、と思って、そちらに気を取られた」
失った視覚や、欠損した身体を補う人間離れした感覚の鋭さ。それがこいつのもうひとつの武器である。しかし同時に、状況を把握するために一度は意識を向けなければならない、という欠点もあるらしい。人が多いところで街灯なんかにぶつかったりするのも、注意を払う対象が多すぎるからだという。戦闘時はより感覚が鋭敏になっているがゆえに、その物音に反応した隙を突かれたのだろう。
鞄をあさり、予備の人工筋肉に付け替える。ここに使われている繊維は特殊なものゆえ、それなりの値段で買い取ってはもらえる。もっとも、これに相応の価値を認められるやつがいないと話にならないのだが。
軽く他の部品も調べてみるが、特に問題はない。とすると、やはり魔術回路に問題があるかもしれない。
そのまま義肢の中央を探り、骨に取り付けられた小さな蓋を開ける。魔術義肢は、組み込まれた特殊な動力石によって神経と義足をつなげ、元の人体と同じように動かすことができるようになっている。石が破壊されるか、石の魔力が枯渇しない限りは何度でも修理できるのだが、果たして。
碧い輝きが指先を染める。くぼみに固定された石にはいくつもの針が刺してあり、針は魔術回路につながっている。ここから魔力を義肢全体に送り込んでいるのだが――幸い衝撃で石がずれて、数本針が外れていただけだった。
鑷子を用いてつなげ直す。最後の一本を接続すると同時、石が脈々と碧い光を放ち、義足のあちこちに光を送り込み始めた。
これで元通りになった。俺は手早く義足を元通りに組み直し、ねじを締めて世見坂へと視線を投げる。
世見坂は相変わらず天井を仰いだまま、布団に力なく横たわっている。八年前から何ひとつ衰えていない、むしろ歳を重ねてより鋭く研ぎ澄まされ、絞られた男の肉体がそこにある。それが歪に欠けていることが、妙になまめかしく見えるのはなぜなのだろう。
「おい。足出せ」
俺はひとつ頭を振り、声をかける。世見坂は紅い眼だけを動かし、俺を“見る”。髪が一筋顔にかかっていて、それが妙に艶があって腹が立つ。相手はもうすぐ四十路の野郎だってのに。
血の臭いがする。甘い、官能を刺激するような香りがする。頭がぐらぐらする。世見坂の目が、俺を“見て”いる。いつもの薄笑いは、今はない。
「……不夜城」
のどが、かわいた。
かすれた声がゆっくりと、その言葉を形作る。紡がれる音はずいぶんと熱を含んで湿っている。潤む緋色の双眸の表面には、あの頃よりもずっと老けた俺が映っている。
生物が水を求めるように、誰かを斬りたくなるのだという。誰かの断末魔を聞いて、誰かの命を浴びなければ、自身が生きている感覚すらつかめないのだと。ここにいるのかどうかさえ、わからなくなってしまうのだと、そんなことを言っていた。
そうして赦しを請うように、どこか哀願するように、俺に細く訴えるのだ。のどがかわいた、斬らせてくれ、と。
……こいつがすがってくるそのたびに、俺はいつも喉が絞まるような心地がする。自分は化け物なのだというくせに、その表情はいつだってひどく痛々しい。そのくせ、こいつの見せる衝動が、飢えが、渇きが、同じ人間とは思えぬほどにおぞましいものだから、こいつが本当は人間なのか魔性なのか、わからなくなってくる。
わからなくなるから、知りたくなる。こいつが本当はどちらなのか。せめてこいつの望むままにしてやりたいのに、わざと傷つけてしまいたくなる。どんな反応を見せるのか、どんな風な顔をするのか、残酷な好奇心で暴いたら、どうなるのか――ああ、くそ。違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺はひとつ舌打ちして世見坂へと近づき、座り直した。目視で確認できるほど、左の大腿部のほうが右よりも発達している。人間の足と同じ重さになるようになっていたはずだが、別の素材を継いでいる以上負担は避けられないのかもしれない。
「触るぞ」
言いながら手を伸ばし、脂肪に包まれた断端に触れる。血はにじんでいるが、そんなに深刻そうな負傷はない。義肢の継ぎ目、生身の肉体との接触部に特殊な器具で魔力を通すから、それが外れたことによる魔力の衝撃でついたものと思われる。血を拭って傷を診る。薄皮一枚削れただけだからか、もうふさがっているようだ。
世見坂の背がしなり、跳ねる。喉から漏れる押し殺した声、残された左手の甲で口を押さえている。それが妙に苛立ちを煽る。ちくしょうめ。
「ただの触診だろうが。……特に重てえ怪我もねえ。継ぐぞ」
返事は聞かない。義足を嵌め、ねじを締めて固定する。人工筋肉と神経を連結させているのは、義肢に使用する独自の魔術である。あの碧い石はその媒体であり、魔力の貯蔵庫であり、術式を刻んだ記録装置とも呼べる。呼応する術式を埋め込んだ鍵を使ってやれば、あっという間につなげられるというわけだ。
接合部にある小さな蓋を開け、碧い石のついた鍵状の器具を差し込む。そのまま手を左にひねれば、かちん、と何かが噛み合う音がした。碧い石に光が走り、それが義足へと伝播する。義足に埋め込まれた魔術の回路が、世見坂の脚の神経とつながっていく。
「ぐ、ぅっ……!」
この瞬間は誰もがひどい痛みを感じるらしい。世見坂もまた奥歯を食いしばり、呻きながら喉を反らす。汗が散る。いつも薄笑いばかりしているこの男が、こうして痛みを表出するのが妙に喜ばしいとさえ思う。苦し気な声が、反応が、毒のように回ってきやがる。こいつは本当に、本当に……毒みたいなやつだ。存在自体が、誰かを狂わせていく。俺のことも、あのときからずっと、こうやって――くそ、だからそういう場合じゃねえってんだよ。
「……おら、終わったぞ」
変な方向に思考が向くのを無理やり打ち切り、乱暴に世見坂の身体を引き起こす。世見坂は乱れる呼吸を整えながら、俺にゆっくりと体重を預けてきた。……ああ、くそ、馬鹿野郎。あのときと同じことをするんじゃねえ。
十一年前。東花京第一階層で、【獣】を【塔】へ連れ込もうとした連中がいた。一味と頭領合わせて数十人を全滅させた世見坂は、そのまま脱力して立てなくなったのだ。半ば意識を飛ばしていたと思う。
俺は朦朧とした世見坂を抱えて何とか第一階層を抜け、すでに運行時間を終了した列車の駅で一晩を明かした。そのときもこうやって身体を預けて、無防備に白い首をさらしていた。それが妙に艶めかしくて、自覚してしまった俺にはとんでもない毒だったことを覚えている。
そうやって命からがら戻った俺たちに、天明はずいぶんと仰天していた。まさか本当に俺たちの読みが当たったなんて思ってもみなかったんだろう。根掘り葉掘り話を聞き出してきたが、俺もろくに頭が回ってなかったから素直に話したんだが。
案の定、とでもいうべきか。後日、「天明が全部連中の企みを推測した上で、俺たちに大尉へ伝えるよう指示した」ということにされていた。あの野郎が手柄を横取りすることなんざ日常茶飯事だが、身体張って持って帰ってきた情報を奪われたもんだから、俺も頭にきて殴りつけた記憶がある。そのまま殴り合いになって、世見坂が仲裁に入ってもしばらく口を利かなかった。
むしゃくしゃするから女を買いに行きもしたが、どうにも気分が乗らなかった。女を見ても興奮しない……いや、身体に触られりゃ反応するが、何か物足りなく感じられてしまったのである。もっと物騒で、もっと危うい、血を浴びた獣の凄艶さが。
原因なんて言わずもがなだ。そんなところでまざまざと再確認するなんて思わなかった。俺の馬鹿さ加減と、どうしようもない事実すぎて、思わずコトの真っ最中だってのに笑っちまって、娼婦の機嫌を損ねてビンタを一発頬に食らった。そのまま外に放り出されたのも、身体を冷やして風邪をこじらせ、先輩から笑われたのも、今じゃ遠い昔のように思えてくる。
否、もう、遠い昔なんだろう。俺らの手柄を横取りしてた天明も、世見坂に死ぬ気で調査するよう告げた入相大尉も、もういない。世見坂だって、俺が死亡届を出したから、世間からしたら死人だ。片腕は警察の坊やとやりあったときに斬り飛ばされ、身体にも、目元にも傷が刻まれた。
生者も死者も、俺の感情も、その意味も。もう、何もかもがあの頃とは違う。誇り高き翡翠をまとっていたあの頃にはもう、戻ることなどできやしない。
整った顔立ちが間近にある。こいつの少しばかり低い体温が、俺のそれと混じっていく。薄衣を通してもよくわかる、しなやかな筋肉に覆われた強靭な肉体が、今、俺のそばで呼吸をしている。
俺と、俺以外の人間と、寸分違わぬその姿。それでもこいつは、誰かを殺していなければ生きていけない。そんなおぞましい生き物は、果たしてヒトと呼べるのか。ヒトではないからこそ、こいつは美しく見えるのだろうか。ヒトとヒト以外は、いったいどう違うというのだろう。それ以外の部分は、こんなにも俺たちと同じだというのに。わからない。こいつは果たして、どちらなのだろう。
そんなことを取りとめもなく考えながら、俺は黙って世見坂を眺めていた。世見坂は何も言わないまま、黙って俺に身体を預けている。沈黙が薄闇に溶けて満ちていく。
ふと、世見坂がおもむろに顔を上げた。汗の名残が輪郭を伝い、乱れた髪に吸われていく。腰の奥に重く溜まる、甘い香りがする。盲いた眼差しは爛々と、欄干の外へ注がれていた。
一対の紅が鮮やかに、わずかな光源を吸い取って艶を、光を増している。獲物を狩るときの目だ。この目をしているときのこいつは、およそヒトとは違う気配をまとっている。魔性、という言葉が脳裏をよぎる。こいつが明確にヒトではなくなる、その瞬間に俺は意識を奪われる。
「不夜城」
かすれた声で、獣の眼のまま、世見坂が言う。
「……灯りをつけているなら、消したほうがいい。あのとき感じた気配がする」
「あ?」
「近づいている……? 違う、この近くに、潜んでいる」
世見坂の瞳が燃えている。見えぬ眼で睨むのは、外。
「……【獣】だ」
その言葉を耳にした瞬間、一気に俺の頭が冷えていく。言われた通り灯りを消せば、薄闇が部屋を覆い隠した。
どこにいる。耳を澄ますが聞こえない。外のどの辺だ。ここから確認できる距離なのか。銃を手にしてとっさに立ち上がりかけた俺に、世見坂が鋭く声を投げた。
「立つな。外に誰かがいる。複数人だ。壁沿いに姿を隠せ」
十一年前のあのときも、こうやってこいつの感覚に助けられたな。そんなことを意識の片隅で考えながら、俺はできる限り静かに壁際に寄った。柵越しに様子をうかがうも、あちこちにぽつぽつと咲いている光だけでは到底視界を確保できそうにない。遠くでちらつく淡い紫の灯りだけが、立ち並ぶ楼閣の残骸の中で幻想的に浮かび上がっている。
息を殺す。神経を尖らせ気配を探る。妙な静けさを震わせる、わずかな足音がいくつか聞こえた。それに混じって飛び交うのは、やはり数人の話し声。さすがに内容までは聞き取れない。だが、世見坂の言っている【獣】に気づいて逃げているわけではなさそうだ。
さらに意識を傾けて、交わされる会話に集中する。近くなる。近づいてくる。ひとり、ふたり、三人、四人。それ以上いるだろうか。どうにか拾える音が増えてきたところで、俺は思わず背筋を凍らせた。
『あの医者んとこにおるやろ、探せ!』
『はよ食わさんと俺らが食われよる、殺してでも連れてこなあかんで』
『まったく、【獣】ってのはなんであんな食い意地張ってんねやろな、おかげさんで飼いならすのも命がけやわ』
西月訛りで語られる会話に、俺は寒気と同時に妙ななつかしさを覚えた。まさか、あんなイカれたことを考える連中が他にもいやがるとは思わなかった。歴史は繰り返す、なんてお偉いさんは言うが、こんなに間近に実感することになるなんてな。
刀を手に取る、音がする。衣擦れとともに立ち上がる、世見坂の左足がきちりと鳴いた。
ちろりと唇を舐めるその様は、まさに獲物を見つけた飢えた獣だ。ぞくりと背筋を駆ける感情は、決して恐怖だけではない。
ああ、そうだ。俺は十一年前のあの瞬間、こいつの――“殺戮の衝動を孕む瞬間”が、ひどく美しいと思ってしまった。こいつが血を浴びて舞う姿を、もう一度見たいとさえ願うほどに。
恍惚と微笑むその顔が、朱の命にまみれたその肌が、狂気を宿す紅い瞳が、何もかもが。おぞましいほど艶めく様に、くっきりと鮮やかな血染めの姿に、俺は。
「不夜城は、ここにいてくれ。……すぐ戻る」
言うが早いか、世見坂は窓の桟に脚を置き、ひらりと二階から飛び降りた。白い薄衣が翻り、着地と同時に悲鳴が鮮血とともに飛び散った。
窓から身を乗り出し、俺は世見坂のまき散らす死を見つめている。悲鳴。怒号。恐怖の叫び。すべてを赫に沈めていく。銀の刃を振りかざし、散らす。散らす。散らす。逃げる者も向かう者も平等に、斬って、斬って、斬って、斬って。そうして誰もいなくなった。
俺もすぐさま外に出た。一階に降り、扉を開けると同時に濃い鉄錆の臭いが鼻を衝く。この場に刻まれ振り散らされた死の臭いと気配の中に、世見坂はただ恍惚と佇んでいた。
白い薄衣は真っ赤に濡れ、手にした刀の銀にも緋色が伝って落ちている。作りものの左足、むき出しの右足、そのどちらもがどす黒い血の海に浸っている。長い髪も朱にまみれ、せっかく洗った白い肌もすべて赫い花弁に染め上げられていた。
翡翠色をした過去の、あの瞬間からわかっていた。犠牲者を出さないためだとかなんだとか、こいつに罪を自覚させるとかどうだとか。反吐が出るほどの綺麗ごとを並べたところで、理性にモノを言わせたところで、俺は結局こいつを死なせたくないだけなのだ。
人か魔性か。もうどちらでも構わない。吐き気がするほどおぞましく、だからこそこんなに美しい。もっとこいつを見ていたい。こいつを生かして、傍らにいたい。ただそれだけの利己のために、俺はこいつを生かし続けている。
足を動かす。近づいていく。世見坂は反応しない。手を伸ばす。頬についた血をぬぐう。すがめられた瞳の赫は、殺戮の快楽に濡れている。魔性の目に映るのは、熱に浮かされたような俺の顔。
狂っているという自覚はある。狂わされていることもわかっている。夜の化身のような人斬りに、惑わされているだけなのだろう。正気に戻れと人は言うだろう。それでも――俺は、戻る気はない。
この、どこまでも救いようのない業を抱えた、孤独で美しい化け物の傍らに。いつか斬られちまうそのときまで、ともにいられればそれでいい。
あのときから変わらぬ翡翠の色の、それはまごうことなき、恋だった。
~そして夜は華散らす 外伝『翡翠に懐古す』 了
西には東花と対を成す、月下に栄える都がある――そんな風にたとえられる【塔】が存在する。
刹那の享楽と遊戯を追い求め、今もなお高く高く伸び続ける【塔】のひとつ。葦原国随一の歓楽地、此方と彼方の狭間にたゆたう一夜の楽園。それがここ、西月京である。
俺たちが少し前から滞在するこの場所は、第二階層の外れ側だ。色褪せた妓楼の残骸があちらこちらで沈黙し、既に枯れ果てたかつての栄華が残り続けている。辺りは夜でもないのに常に薄暗い。その隙間でどうにか呼吸をしている妓楼の群れが、あちらこちらでぼんやりと淡い蒼紫の燈篭をともしていた。
他の【塔】とは決定的に違うこの光景、なんでも第三外殻以外はすべて壁を取り払われていて、第三外殻の内側と外側は橋を通らないと行き来できないという。第三外殻の中を【橋の内】、それ以外の第一・第二外殻に相当する場所を【橋の外】なんて言うらしい。
頭の上に渡された紫の橋には、ここいらで有力な妓楼の名と印章が、美しい布に吊って提げられている。あれは【橋の内】にある高級妓楼の看板で、そのほとんどが元はひとつの妓楼から株分けされたものだという。あそこに入れるのは、この辺でもごく一握りの人間だけ。特定の者が利益を吸い上げ、負けたものは矜持を捨てて傘下につくか、あるいは徹底的に潰れていく。夢の痕とも呼べるだろう、立ち並ぶ廃墟の楼閣がその証だ。それでもどこかやけっぱちな明るさのある、独特の街であった。
妓楼は必ず柱や欄干を紫に染める。紫は妓楼の女、“蝶”たちの纏う色である。紅が濃ければ昼の蝶、妓女たちを多く舞わせる陽光楼。蒼が濃ければ夜の蝶、遊女を囲い快楽と一夜の夢を与える夜影楼。昼と夜で姿や空気を変えるのも、この都の大きな特徴だろう。
この街じゃ、妓楼にかかわらない人間などほとんどいない。【橋の外】の外側にあるような安くてボロい妓楼でも、必ずお作法というもんが決まっている。それを守らないやつらは、どんな金持ちだろうと搾取され、ろくに何もできないまま放り出される。何も学ぼうとしないやつは文字通り、搾られるだけ搾られサヨナラ、なんてことも珍しくないという。逆に言えば、お作法さえ知ってりゃいつまでいても咎められない、というわけだ。
さて、西月京では妓楼の女、すなわち“蝶”の身体が何よりも優先される。彼女らの体調管理をしっかりしておかなければ、稼ぎはおろか、経営すらろくに見込めない。つまり医者って存在は、肩書を持っているだけで非常に有利に働くのである。金にはそんなに困っちゃいないが、仮の拠点を確保するには信頼を得るのが一番手っ取り早い。下層に滞在してから何件か仕事をこなしたが、下層の連中の間でそこそこ噂になっているらしかった。
下層は確かに治安は悪いが、俺みたいに身分を明かしたくないやつにはちょうどいい。下層にいる人間に関わることを、とかく上層のやつらは隠したがる。だから上層に噂が広まるのもある程度は防げ、逆に下層でそれなりに暮らしやすくなる。もっとも、金目のものを持ってるからこそ、襲われる率も跳ね上がるんだが。まあ、それはいい。荒事にゃ慣れてる。
水がぱらぱらと天井を叩く音がする。ここは二階だが、もっと高いところにあるどこぞの水管から流れ出たのかもしれない。それとも近くで水漏れしているのか。視線を天井に向けてはみたものの、それがどこなのかは特定できない。とりあえずそれなりに過ごせれば文句はないんだが、あとで見てみるか。
【橋の外】の中央付近、虚無の楼閣が立ち並ぶ隙間の一角にひそりと佇む宿が、今の俺らの仮住まいだ。もともとはその辺にいる最底辺の“蝶”を連れ込める場所だったらしく、布団やら何やらが比較的綺麗に残っていた。むろん低い階層の例にもれず、ガラの悪い連中もそれなりにうろついちゃいるが、時間によってはそれなりの活気も確認できるようなところだった。
行燈の火が揺れる。油の燃える独特のにおいがする。黒金の表面がてらてらと光り、内側に詰め込まれた人工の肉や骨に柔らかい陰影をつけている。そしてその持ち主である“そいつ”は――世見坂終宵と呼ばれていた男は、薄い襦袢一枚だけを身にまとって、布団に身を横たえていた。
俺が浅い眠りから目を覚ましたとき、世見坂は返り血まみれになりながら、左足を引きずって戻ってきた。ガラの悪い集団とやりあったときに、足に強い一撃をもらったという。そのあとから足がうまく動かなくなり、どうにか追い払ってから戻ってきたのだと。
別に珍しいことじゃない。こいつが【世見坂終宵】でなくなったあの日から、こいつは人間らしく衝動を抑えることをやめた。喉が渇いた、と訴えたときは決まってふらりといなくなり、誰かを斬って帰ってくる。やめろと言っても聞きゃしないし、騒ぎを起こしたくないときは縛り付けるようにしてたんだが、どうも今回は俺がうたたねしてる間に抜け出しやがったらしい。
義足の付け根に痛みがある、と言われたのは、水をぶっかけて返り血を洗い流した直後のことだった。濡れた服を透かし彫りの衝立に引っ掛けてから、俺は義足の調整を開始した、というわけだ。
足を外されて身動きが取れなくなり、世見坂はただ汚れた天井をぼんやりと仰いでいる。欠けた足の断端には、わずかに血がにじんでいた。
「相手の得物は?」
少しの間を置いてから、世見坂は小さく首を振る。長く豊かな黒髪が、薄汚れた敷布の上でわずかに波打つ。
「……わからぬ。斧……だと思う。刃物の音と、攻撃の重さからして、の推測でしかないが」
忘れがちだが、こいつはまったく目が見えない。光すらも感じることはできない。それでも、自分の身体に伝わる衝撃や音、ありとあらゆる感覚を用いてここまで分析できてしまうのだから、人離れした戦の才能とは恐ろしいものである。
義足には特殊な金属を用いているゆえ、傷ひとつついていない。中身にもどうやら異常はなさそうだ。ただ、東花京を出る前に一度確認はしたものの、やはり人工筋肉の摩耗が激しい。こいつの身体能力に人工筋肉が追い付いていないということが目に見えてわかる。
世見坂はひとつ息をつき、思い返すように言葉をこぼす。
「……あのとき、彼らの背後から、別の気配がして……何かが聞こえた気がしたのだ。聞き覚えがある、と思って、そちらに気を取られた」
失った視覚や、欠損した身体を補う人間離れした感覚の鋭さ。それがこいつのもうひとつの武器である。しかし同時に、状況を把握するために一度は意識を向けなければならない、という欠点もあるらしい。人が多いところで街灯なんかにぶつかったりするのも、注意を払う対象が多すぎるからだという。戦闘時はより感覚が鋭敏になっているがゆえに、その物音に反応した隙を突かれたのだろう。
鞄をあさり、予備の人工筋肉に付け替える。ここに使われている繊維は特殊なものゆえ、それなりの値段で買い取ってはもらえる。もっとも、これに相応の価値を認められるやつがいないと話にならないのだが。
軽く他の部品も調べてみるが、特に問題はない。とすると、やはり魔術回路に問題があるかもしれない。
そのまま義肢の中央を探り、骨に取り付けられた小さな蓋を開ける。魔術義肢は、組み込まれた特殊な動力石によって神経と義足をつなげ、元の人体と同じように動かすことができるようになっている。石が破壊されるか、石の魔力が枯渇しない限りは何度でも修理できるのだが、果たして。
碧い輝きが指先を染める。くぼみに固定された石にはいくつもの針が刺してあり、針は魔術回路につながっている。ここから魔力を義肢全体に送り込んでいるのだが――幸い衝撃で石がずれて、数本針が外れていただけだった。
鑷子を用いてつなげ直す。最後の一本を接続すると同時、石が脈々と碧い光を放ち、義足のあちこちに光を送り込み始めた。
これで元通りになった。俺は手早く義足を元通りに組み直し、ねじを締めて世見坂へと視線を投げる。
世見坂は相変わらず天井を仰いだまま、布団に力なく横たわっている。八年前から何ひとつ衰えていない、むしろ歳を重ねてより鋭く研ぎ澄まされ、絞られた男の肉体がそこにある。それが歪に欠けていることが、妙になまめかしく見えるのはなぜなのだろう。
「おい。足出せ」
俺はひとつ頭を振り、声をかける。世見坂は紅い眼だけを動かし、俺を“見る”。髪が一筋顔にかかっていて、それが妙に艶があって腹が立つ。相手はもうすぐ四十路の野郎だってのに。
血の臭いがする。甘い、官能を刺激するような香りがする。頭がぐらぐらする。世見坂の目が、俺を“見て”いる。いつもの薄笑いは、今はない。
「……不夜城」
のどが、かわいた。
かすれた声がゆっくりと、その言葉を形作る。紡がれる音はずいぶんと熱を含んで湿っている。潤む緋色の双眸の表面には、あの頃よりもずっと老けた俺が映っている。
生物が水を求めるように、誰かを斬りたくなるのだという。誰かの断末魔を聞いて、誰かの命を浴びなければ、自身が生きている感覚すらつかめないのだと。ここにいるのかどうかさえ、わからなくなってしまうのだと、そんなことを言っていた。
そうして赦しを請うように、どこか哀願するように、俺に細く訴えるのだ。のどがかわいた、斬らせてくれ、と。
……こいつがすがってくるそのたびに、俺はいつも喉が絞まるような心地がする。自分は化け物なのだというくせに、その表情はいつだってひどく痛々しい。そのくせ、こいつの見せる衝動が、飢えが、渇きが、同じ人間とは思えぬほどにおぞましいものだから、こいつが本当は人間なのか魔性なのか、わからなくなってくる。
わからなくなるから、知りたくなる。こいつが本当はどちらなのか。せめてこいつの望むままにしてやりたいのに、わざと傷つけてしまいたくなる。どんな反応を見せるのか、どんな風な顔をするのか、残酷な好奇心で暴いたら、どうなるのか――ああ、くそ。違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺はひとつ舌打ちして世見坂へと近づき、座り直した。目視で確認できるほど、左の大腿部のほうが右よりも発達している。人間の足と同じ重さになるようになっていたはずだが、別の素材を継いでいる以上負担は避けられないのかもしれない。
「触るぞ」
言いながら手を伸ばし、脂肪に包まれた断端に触れる。血はにじんでいるが、そんなに深刻そうな負傷はない。義肢の継ぎ目、生身の肉体との接触部に特殊な器具で魔力を通すから、それが外れたことによる魔力の衝撃でついたものと思われる。血を拭って傷を診る。薄皮一枚削れただけだからか、もうふさがっているようだ。
世見坂の背がしなり、跳ねる。喉から漏れる押し殺した声、残された左手の甲で口を押さえている。それが妙に苛立ちを煽る。ちくしょうめ。
「ただの触診だろうが。……特に重てえ怪我もねえ。継ぐぞ」
返事は聞かない。義足を嵌め、ねじを締めて固定する。人工筋肉と神経を連結させているのは、義肢に使用する独自の魔術である。あの碧い石はその媒体であり、魔力の貯蔵庫であり、術式を刻んだ記録装置とも呼べる。呼応する術式を埋め込んだ鍵を使ってやれば、あっという間につなげられるというわけだ。
接合部にある小さな蓋を開け、碧い石のついた鍵状の器具を差し込む。そのまま手を左にひねれば、かちん、と何かが噛み合う音がした。碧い石に光が走り、それが義足へと伝播する。義足に埋め込まれた魔術の回路が、世見坂の脚の神経とつながっていく。
「ぐ、ぅっ……!」
この瞬間は誰もがひどい痛みを感じるらしい。世見坂もまた奥歯を食いしばり、呻きながら喉を反らす。汗が散る。いつも薄笑いばかりしているこの男が、こうして痛みを表出するのが妙に喜ばしいとさえ思う。苦し気な声が、反応が、毒のように回ってきやがる。こいつは本当に、本当に……毒みたいなやつだ。存在自体が、誰かを狂わせていく。俺のことも、あのときからずっと、こうやって――くそ、だからそういう場合じゃねえってんだよ。
「……おら、終わったぞ」
変な方向に思考が向くのを無理やり打ち切り、乱暴に世見坂の身体を引き起こす。世見坂は乱れる呼吸を整えながら、俺にゆっくりと体重を預けてきた。……ああ、くそ、馬鹿野郎。あのときと同じことをするんじゃねえ。
十一年前。東花京第一階層で、【獣】を【塔】へ連れ込もうとした連中がいた。一味と頭領合わせて数十人を全滅させた世見坂は、そのまま脱力して立てなくなったのだ。半ば意識を飛ばしていたと思う。
俺は朦朧とした世見坂を抱えて何とか第一階層を抜け、すでに運行時間を終了した列車の駅で一晩を明かした。そのときもこうやって身体を預けて、無防備に白い首をさらしていた。それが妙に艶めかしくて、自覚してしまった俺にはとんでもない毒だったことを覚えている。
そうやって命からがら戻った俺たちに、天明はずいぶんと仰天していた。まさか本当に俺たちの読みが当たったなんて思ってもみなかったんだろう。根掘り葉掘り話を聞き出してきたが、俺もろくに頭が回ってなかったから素直に話したんだが。
案の定、とでもいうべきか。後日、「天明が全部連中の企みを推測した上で、俺たちに大尉へ伝えるよう指示した」ということにされていた。あの野郎が手柄を横取りすることなんざ日常茶飯事だが、身体張って持って帰ってきた情報を奪われたもんだから、俺も頭にきて殴りつけた記憶がある。そのまま殴り合いになって、世見坂が仲裁に入ってもしばらく口を利かなかった。
むしゃくしゃするから女を買いに行きもしたが、どうにも気分が乗らなかった。女を見ても興奮しない……いや、身体に触られりゃ反応するが、何か物足りなく感じられてしまったのである。もっと物騒で、もっと危うい、血を浴びた獣の凄艶さが。
原因なんて言わずもがなだ。そんなところでまざまざと再確認するなんて思わなかった。俺の馬鹿さ加減と、どうしようもない事実すぎて、思わずコトの真っ最中だってのに笑っちまって、娼婦の機嫌を損ねてビンタを一発頬に食らった。そのまま外に放り出されたのも、身体を冷やして風邪をこじらせ、先輩から笑われたのも、今じゃ遠い昔のように思えてくる。
否、もう、遠い昔なんだろう。俺らの手柄を横取りしてた天明も、世見坂に死ぬ気で調査するよう告げた入相大尉も、もういない。世見坂だって、俺が死亡届を出したから、世間からしたら死人だ。片腕は警察の坊やとやりあったときに斬り飛ばされ、身体にも、目元にも傷が刻まれた。
生者も死者も、俺の感情も、その意味も。もう、何もかもがあの頃とは違う。誇り高き翡翠をまとっていたあの頃にはもう、戻ることなどできやしない。
整った顔立ちが間近にある。こいつの少しばかり低い体温が、俺のそれと混じっていく。薄衣を通してもよくわかる、しなやかな筋肉に覆われた強靭な肉体が、今、俺のそばで呼吸をしている。
俺と、俺以外の人間と、寸分違わぬその姿。それでもこいつは、誰かを殺していなければ生きていけない。そんなおぞましい生き物は、果たしてヒトと呼べるのか。ヒトではないからこそ、こいつは美しく見えるのだろうか。ヒトとヒト以外は、いったいどう違うというのだろう。それ以外の部分は、こんなにも俺たちと同じだというのに。わからない。こいつは果たして、どちらなのだろう。
そんなことを取りとめもなく考えながら、俺は黙って世見坂を眺めていた。世見坂は何も言わないまま、黙って俺に身体を預けている。沈黙が薄闇に溶けて満ちていく。
ふと、世見坂がおもむろに顔を上げた。汗の名残が輪郭を伝い、乱れた髪に吸われていく。腰の奥に重く溜まる、甘い香りがする。盲いた眼差しは爛々と、欄干の外へ注がれていた。
一対の紅が鮮やかに、わずかな光源を吸い取って艶を、光を増している。獲物を狩るときの目だ。この目をしているときのこいつは、およそヒトとは違う気配をまとっている。魔性、という言葉が脳裏をよぎる。こいつが明確にヒトではなくなる、その瞬間に俺は意識を奪われる。
「不夜城」
かすれた声で、獣の眼のまま、世見坂が言う。
「……灯りをつけているなら、消したほうがいい。あのとき感じた気配がする」
「あ?」
「近づいている……? 違う、この近くに、潜んでいる」
世見坂の瞳が燃えている。見えぬ眼で睨むのは、外。
「……【獣】だ」
その言葉を耳にした瞬間、一気に俺の頭が冷えていく。言われた通り灯りを消せば、薄闇が部屋を覆い隠した。
どこにいる。耳を澄ますが聞こえない。外のどの辺だ。ここから確認できる距離なのか。銃を手にしてとっさに立ち上がりかけた俺に、世見坂が鋭く声を投げた。
「立つな。外に誰かがいる。複数人だ。壁沿いに姿を隠せ」
十一年前のあのときも、こうやってこいつの感覚に助けられたな。そんなことを意識の片隅で考えながら、俺はできる限り静かに壁際に寄った。柵越しに様子をうかがうも、あちこちにぽつぽつと咲いている光だけでは到底視界を確保できそうにない。遠くでちらつく淡い紫の灯りだけが、立ち並ぶ楼閣の残骸の中で幻想的に浮かび上がっている。
息を殺す。神経を尖らせ気配を探る。妙な静けさを震わせる、わずかな足音がいくつか聞こえた。それに混じって飛び交うのは、やはり数人の話し声。さすがに内容までは聞き取れない。だが、世見坂の言っている【獣】に気づいて逃げているわけではなさそうだ。
さらに意識を傾けて、交わされる会話に集中する。近くなる。近づいてくる。ひとり、ふたり、三人、四人。それ以上いるだろうか。どうにか拾える音が増えてきたところで、俺は思わず背筋を凍らせた。
『あの医者んとこにおるやろ、探せ!』
『はよ食わさんと俺らが食われよる、殺してでも連れてこなあかんで』
『まったく、【獣】ってのはなんであんな食い意地張ってんねやろな、おかげさんで飼いならすのも命がけやわ』
西月訛りで語られる会話に、俺は寒気と同時に妙ななつかしさを覚えた。まさか、あんなイカれたことを考える連中が他にもいやがるとは思わなかった。歴史は繰り返す、なんてお偉いさんは言うが、こんなに間近に実感することになるなんてな。
刀を手に取る、音がする。衣擦れとともに立ち上がる、世見坂の左足がきちりと鳴いた。
ちろりと唇を舐めるその様は、まさに獲物を見つけた飢えた獣だ。ぞくりと背筋を駆ける感情は、決して恐怖だけではない。
ああ、そうだ。俺は十一年前のあの瞬間、こいつの――“殺戮の衝動を孕む瞬間”が、ひどく美しいと思ってしまった。こいつが血を浴びて舞う姿を、もう一度見たいとさえ願うほどに。
恍惚と微笑むその顔が、朱の命にまみれたその肌が、狂気を宿す紅い瞳が、何もかもが。おぞましいほど艶めく様に、くっきりと鮮やかな血染めの姿に、俺は。
「不夜城は、ここにいてくれ。……すぐ戻る」
言うが早いか、世見坂は窓の桟に脚を置き、ひらりと二階から飛び降りた。白い薄衣が翻り、着地と同時に悲鳴が鮮血とともに飛び散った。
窓から身を乗り出し、俺は世見坂のまき散らす死を見つめている。悲鳴。怒号。恐怖の叫び。すべてを赫に沈めていく。銀の刃を振りかざし、散らす。散らす。散らす。逃げる者も向かう者も平等に、斬って、斬って、斬って、斬って。そうして誰もいなくなった。
俺もすぐさま外に出た。一階に降り、扉を開けると同時に濃い鉄錆の臭いが鼻を衝く。この場に刻まれ振り散らされた死の臭いと気配の中に、世見坂はただ恍惚と佇んでいた。
白い薄衣は真っ赤に濡れ、手にした刀の銀にも緋色が伝って落ちている。作りものの左足、むき出しの右足、そのどちらもがどす黒い血の海に浸っている。長い髪も朱にまみれ、せっかく洗った白い肌もすべて赫い花弁に染め上げられていた。
翡翠色をした過去の、あの瞬間からわかっていた。犠牲者を出さないためだとかなんだとか、こいつに罪を自覚させるとかどうだとか。反吐が出るほどの綺麗ごとを並べたところで、理性にモノを言わせたところで、俺は結局こいつを死なせたくないだけなのだ。
人か魔性か。もうどちらでも構わない。吐き気がするほどおぞましく、だからこそこんなに美しい。もっとこいつを見ていたい。こいつを生かして、傍らにいたい。ただそれだけの利己のために、俺はこいつを生かし続けている。
足を動かす。近づいていく。世見坂は反応しない。手を伸ばす。頬についた血をぬぐう。すがめられた瞳の赫は、殺戮の快楽に濡れている。魔性の目に映るのは、熱に浮かされたような俺の顔。
狂っているという自覚はある。狂わされていることもわかっている。夜の化身のような人斬りに、惑わされているだけなのだろう。正気に戻れと人は言うだろう。それでも――俺は、戻る気はない。
この、どこまでも救いようのない業を抱えた、孤独で美しい化け物の傍らに。いつか斬られちまうそのときまで、ともにいられればそれでいい。
あのときから変わらぬ翡翠の色の、それはまごうことなき、恋だった。
~そして夜は華散らす 外伝『翡翠に懐古す』 了
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