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外伝2【紅玉の眸の獣】
其の三
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西月京、第二階層。無人の楼閣が幽鬼のように立ち並び、時折その隙間を縫うように、うすぼんやりした明かりが漏れている。それでもあたりは薄暗く、視界を包み込む闇の薄衣に淡い紫の灯りが瞬いていた。
すれ違う人々は飛次を見ると親し気に声をかけてくるが、そのまなざしはどこか胡乱げだ。誰も信用ならない、そんな雰囲気さえ感じられる。しかし飛次は大して気にした様子もなく、呑気に鼻歌を歌いながら重たい足音を響かせて歩いている。白陽はそのうしろをおっかなびっくり、ついていくばかりだった。
仕事でたまに下層へ行くことはあったが、正直ここまで深入りすることはなかった。護身用の武器を持っていたからこそ小数人で歩くことができたのであって、今の状態ではひとりでいることすら厳しい。
やがてたどり着いたのは、廃墟の間にひっそりとたたずむ宿だった。今はもう誰もいないのか、しんと静まり返っている。光のともらぬ店の行燈には、褪せた墨で【晨鐘の宿】と書かれていた。
中は外よりなお暗い。飛次が外套に手を突っ込み、何かを出して行燈へと火をともす。そこかしこに埃が積もり、伸びた廊下や閉ざされた障子からは人の気配を感じない。やはりずいぶん長いこと、人の出入りはないようだった。
木製の番台には格子がつけられ、一部に穴があいている。まるで檻のような作りだが、最低限のやり取りで済むようになっているのだろう。放置されたままの台帳と筆は、すっかり乾燥して埃をかぶっていた。
上り口には一輪挿し、枯れて茶色くなった花が物寂しい。廊下の入口にかけられた掛け軸も汚れ、何が描いてあるかもわからない。打ち捨てられた小物の数々が、かつてここが流行っていたことを物語っている。
それらをわき目に、飛次は緩やかな足取りで二階へ上がっていく。白陽も恐る恐るそれに続いた。
静寂に沈んだ廊下が続いている。白い障子が外からの光を反射してか、白々として目に痛い。飛次は慣れた様子で最奥右手へと歩を進め、障子を引き開けた。
六畳ほどの部屋だった。透かし彫りの衝立の先には少々薄汚れた布団が敷いてあり、ボロボロの葛籠が申し訳程度に部屋の隅に置いてある。蓋の上にはいくつか着物が放り投げられ、床の間には刀の手入れ道具と思しきものが広げられていた。
葛籠の脇には押し入れと思われる襖がある。布団はここから持ってきたものだろうか。傍らの障子窓の向こうでは、淡い紫色が踊っている。第六階層とは少々色味が違う、青紫の光。蛍のように儚いそれが、薄い紙を通して幻想的に浮かび上がっていた。
白陽が辺りを見回していると、かちん、と金属の擦れ合う音がした。次いで部屋の行燈に火が入る。あの赤毛の医者が使っていたものと同じ、外国製の火付け具だった。大きな傷が刻まれ、少しひしゃげている。
「少し待ってな。飲み直そうぜ」
飛次はそれを懐にしまうと、そう言い残して出ていった。荷物を寄せて、白陽は少し毛羽だった畳に腰を下ろす。廊下を挟んだ反対側で、ごとごとと賑やかな物音がする。どうやらそちらは物置として使っているらしい。
やがて飛次が、黒い箱と漆塗りの椀をふたつ持って戻ってきた。
「何すか、それ?」
「酒だよ、酒。あいにく徳利も猪口も割れててな。こいつァ布がかぶせてあったから代わりに拝借してきた」
よっこらせ、なんて言いながら、飛次も白陽の対面へ座り込む。そして箱から蒼い酒瓶を取り出し、封を切った。
「お兄ちゃん、酒はいける口か?」
「まあまあそれなりに、っすね」
「そりゃいいや。つまみはねェが、勘弁してくれよな」
言いながら、男は椀の縁ギリギリまで酒を注ぐ。こぼれしまわないよう慎重に受け取り、白陽は軽く飛次へ掲げてみせた。飛次も口の端を持ち上げると、同じように椀を掲げる。
一口飲むと、芳醇な濃い香りが鼻を抜けていく。思ったよりも強い酒だが、そういうもの特有の刺すような感覚がない。舌先には爽やかな甘みと酒精が残り、絹のように滑らかに喉を滑り落ちていく。こんな下層にあるのが意外なほど上等な酒だった。一見ただの小さな宿ではあるが、もしかしたら、何かしら後ろ暗い商売もしていたのかもしれない。ここはそういう階層だから。
「うまいっすね」
「ああ、いい酒だ。こういう時にはもってこいだな」
そんなことを言いながら、飛次はぐいと酒を飲み干した。それから長い髪をかきあげ、口の端をつり上げる。
「で、だ。オレに何か聞きたいことがあるんだろ、お兄ちゃん?」
牙のような歯が覗く。細められた紅い眼に、行燈の光が映り込む。楽しげにこちらを見やる飛次の問いを、白陽は素直に肯定した。
「よくわかりましたね」
「くくく。何か言いたげにちらちらされてりゃ、酔っぱらいでも気がつくぜェ」
肩を揺らし、愉快そうに飛次は言う。片膝を立てて小首をかしげ、静かに揺らぐ深紅の眼差しを投げかけている。
そうだ。自分はこのときを待っていた。もっと突っ込んだところにある、あの男に似通うもの――彼も持っているだろうものの話をしたかったのだ。
「あの、」
妙に緊張する。白陽は酒で唇を湿らせ、喉を潤してから口を開く。
「……世見坂終宵、って、知ってますか」
その名前を口にした途端、飛次が片目を細めてにやりと笑った。
「ここでその名前を聞くたァ思わなかった! ああ、よォく知ってんぜ。入相中佐が地上から引っこ抜いてきたってェとんでもねェ男さ。オレの少し上の先輩でな。オレもオレの部下も、東花にいたころはまとめてずいぶん世話になった」
男は饒舌に語りながら、白陽の椀に酒を継ぎ足す。かなり飲むほうらしい。紅い髪が視界でひらめく。
「ずいぶんと物静かな御仁でなァ。人がいいからしょっちゅう周りからいいようにこき使われてたぜ。手柄を取られるなんてしょっちゅうだった」
世見坂終宵。少し話しただけだが、確かに穏やかで物静かな男だった。物腰も柔らかく控えめで、人が良さそうな雰囲気の……悪く言えば、どこか地味な印象の拭えない人物だと、白陽は感じていた。少なくとも白陽には、取り立てて警戒するような人物には見えなかった。そう、あんな凄惨な事件を引き起こした犯人だなんて、夢にも思わなかったのだ。
「いや、そういう御仁だからこそ、戦争中のとんでもねェ戦い方が噂になったのかもしれねェな」
「とんでもない、戦い方?」
「あァ」
思わず漏れた言葉に、飛次がすいと目を細める。髪が一筋、彼の整った面差しに彩りを添えた。
「あの人が恍惚と笑って帰ってきたあとには、死体の山と血の河ができてて誰も残ってねェ――ってな。実際見たやつは、あまりにもひどいありさまに、しばらくうなされるほどだったってェ話だ」
凄惨な戦争の現場を知らぬ白陽であっても、容易に想像ができる光景だった。刻まれた人間を山と積み、流れ出た血が河となるほど殺して帰ってきた男は、全身を返り血で染めながらうっとりと笑っている。戦争なんだから敵を殺すのは当たり前のことだ。しかし、そんな地獄絵図を作り上げてなお笑っているなど――まさに狂気の沙汰としか思えない。
暮邸で起きた殺人事件も、そんな状態に近かった。絨毯にしみこみ切らないほどの血潮に、喉を引き裂かれ折り重なった使用人たちの死体。あの数を、たったひとりで殺してのけた。だからこそ、白陽は納得してしまった。あの男ならば、なんの誇張もなく、なんの誇大もなく、薄笑みとともに屍山血河を作るのだろう、と。
「……そりゃ、また……とんでもないっすね」
白陽は曖昧に答えを濁しながら、相槌を打つ。飛次はそんな白陽に意味深げに視線を流すと、傍らにある刀へと手を伸ばした。
「でもなァ。その話を聞いたとき、オレぁ安心したんだよ」
「安、心……?」
予想だにしない単語に、白陽は少々混乱する。安心する? そんな話、狂気の体現としか思えないというのに。この人は何をもってそう感じたのか。
ゆっくりと、飛次は刀を撫でている。行燈の柔らかな光を浴びて、金属が艶やかな光沢を放ってる。
「誰かの命を潰すことに快感を見出して、生きる意味を見出して、やっと息をしてるような、ぶっ壊れたやつが――オレと同じようなイカれたやつが、この世にはいたんだな、ってよ」
同じような、イカれたやつ。自虐にも聞こえるつぶやきを、白陽は胸中で反芻する。確かに彼とあの男は似ているところがあるとは感じた。だが、何もそこまで卑下せずともいいのではないだろうか。
「同じじゃないっすよ。飛次さんは人斬り、してないじゃないすか。人助けのために【獣】を駆除してる。立派っすよ」
世見坂と飛次の決定的な違いは、今の社会で人を好んで殺めているか否かだ。世見坂は、この平和な時世で無辜の民を大量に斬った快楽殺人鬼。飛次は人助けとして【獣】を狩っている。たとえ同じものを持っていても、全然違う。
飛次は喉の奥で小さく笑うと、血の色の髪をかきあげた。精悍な面差しに浮かんだ表情は、どこか獰猛さを含む笑み。
「――なァ、お兄ちゃん」
深く、低く、飛次の声が部屋に響く。対面して座す飛次の眼が、燃え上がるような色をしている。あたりはほの暗いというのに、その瞳の赫だけがいやに鮮やかに映っている。
「戦って、戦って、殺して、殺して、殺して、殺さねェと、生きていることがわからなくなる。そんな感覚になったことはあるか」
その語り口はどこまでも穏やかだ。世間話をしてさえいるような、棘も悪意も殺意もない問いかけ。
「殺していなけりゃ、生きていることすらわからねェ。同じ形の生き物を殺して、殺して、殺して。誰かの血を浴びなけりゃ、断末魔を聞かなけりゃ、オレがオレであることすらわからなくなる。なんでここにいるのか、本当に生きているのかも曖昧になる。そんな感覚になったことは?」
紅い髪が肩からこぼれ、まるで血のように胸元へと流れ落ちている。ひたと白陽を見据える紅玉の双眸は、およそ人とは思えぬ光を孕んでいる。くっきりと浮かび上がるその緋色。見たことがある。
飛次の手が、刀を撫でる。獣の目が、こちらを見ている。目の前にいる無防備な獲物を、狙うかのように。
背筋が凍る。酔いが一気に引いていく。言われたことが、うまく拾えない。理解できない。したくない。人を殺さなければ、生きている意味すらわからなくなるなんて、そんなおかしなことは生まれてから一度もない。そんなもの、あるわけないじゃないか。なのに、このひとはいったい何を言っている?
思わず後ずさろうとして、白陽の手に荷物が当たる。我に返り、なんとかこの場に踏みとどまった。ここで逃げたらダメだ。今まさに、自分は彼らの考えに触れているのだ。“人斬り”と、それに近しい感覚を持っている人物の、感じていることに。
「な、ない、っす……」
「だろうな」
かろうじて絞り出した白陽の答えを、飛次はどこか優しい声で受け止める。
「それでいいさ。それでいい」
そうしてまた一口、酒を飲む。先ほどまでの異様な気配は霧散して、すっかり元通りに戻っていた。
戦っていなければ、誰かを殺していなければ、生きていることがわからなくなるなんて。白陽には想像すらできない感覚、感情だ。そんな風に感じることすらない。考えたことすら、なかった。
このひとには、あるのだろうか。そんな風に思うことが。何かを殺していなければ、自分が自分でなくなると、そんな狂気じみたことを考えるのだろうか。ずっと。ずっと。感じているのだろうか。……今も。
「で、でも……それを我慢したり、どうにか違うことして発散させたりとか、するでしょ……? みんなそうしてるじゃないすか」
そう。普通に考えれば、誰しもが持つ当たり前の衝動だ。どんな理由であれ、人を殺めてしまう可能性は誰にだってある。誰でもそうした衝動を抱えている。それがうまく制御できなくなり、殺人事件に発展することだってある。そうした人間を、白陽は仕事で何人も見てきている。
それでも――やってはいけないと決まっている以上、たとえどのような事情があっても、それを解き放ってはいけないのだ。それこそが人として生きていくための最低限の規律、規約、倫理であり、護らなければならない境界線なのだから。
人々は皆、そうして生きている。大衆ができていることが、彼らのような人たちにできないなんてありえない。何も特別なことじゃない。それができて、当たり前のことなのだから。
「……そうだな。みんなそうやって生活してる。誰にだってできる、当たり前のことだ」
白陽の思考を読んだかのように、そんなことを口にして、飛次は小さく微笑んだ。それはひどく不透明で、寂しげで、自嘲めいた笑みであった。
「だがなァ、お兄ちゃん。それが簡単にできてたら……“東花の人斬り”世見坂終宵は、あんな大量に人斬りなんてしなかったんじゃねェのかい」
白陽は思わず息をのんだ。確かに世見坂については尋ねている。だが、あの男が東花京で事件を起こしたことはまだ、伝えていなかったはず。
「なんで、それを……」
「東花の事件はこっちでもずいぶん噂になってたからなァ。それにお前さん、元警察官って言ってたろ。世見坂の旦那のこと聞いてきたし、何となくそうかなァって思ってよ」
これまで何気なくしてきた会話から情報を拾い上げていたらしい。驚いて次の句が継げない白陽に、飛次はさらに言葉を重ねる。
「なァ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは腹が減ったら飯を食うだろ? 喉が渇いたら水を飲む。そうだな?」
「え、ええ……」
突然の質問に面食らいつつ、白陽は素直に答えを返す。
「じゃ、それをやめろって言われたらどうする?」
「どうするも何も……死んじゃうじゃないすか。やめませんよ。やめられないし」
飛次の意図がどうにも見えず、白陽は怪訝な表情のままうなずく。
「つまりはそういうことだよ、お兄ちゃん」
飛次はくすりと小さく笑って言うと、椀の中の酒を飲み干した。
わからない。なぜ殺しをすることが、食事や水を欲することと同じになるのだろう。前者はどちらも生命活動の維持に必要なこと。対する殺戮への衝動は、自制のきくもの、自分で律することができるものだ。どうしてそれが、同じように語られているのだろう。
何もかもがわからない。この人の考えていることも、あの男のことも。聞けば聞くほど、思考が迷子になっていく。彼から示される何もかもが、自分の中にある常識からかけ離れていて、どう処理していいのかがわからなくなる。それでも、知らなければならない。もう少しだけ、先を。
「……飛次さんは、どうなんすか?」
「さァなァ。……無理に理解なんてしなくていいぜ。お兄ちゃんみてェなまともなやつにゃ、理解なんてできねェから」
踏み込んだ白陽の問いかけは、穏やかに、緩やかに流される。わずかな笑み混じりの言葉の外には、これ以上踏み込むことを許さない何かがあった。
白陽は椀に口をつける。ぬるまった酒が喉を滑る。飛次はまた酒を注いであおっていた。彼が瓶の半分以上を飲んでいるような気がする。
そういえば、飛次は世見坂たちと会ったのだろうか? 知古の仲であるならば、ここを訪ねている可能性は零ではない。白陽は酔いと勢いに任せ、そのまま本来の目的である質問を投げかけてみた。
「あの、飛次さん。そういえば最近この辺で、刀持った長髪の男を見かけませんでした? 赤毛の医者と一緒に行動してて、えーと、紅目で傷だらけの、隻腕の男なんすけど……」
「なんだよ、急に?」
飛次はきょとりと瞬きをして、すぐに記憶を探り始める。
「あー……そういや、オレが所要で東花に行く前に、この辺で小耳にはさんだ気がすんなァ。少し前に、どこぞから流れてきたって医者と用心棒らしい隻腕の男が、この階層の空き家に住み着いた、って」
白陽の頭が一気に覚醒した。間違いない。不夜城と世見坂だ。突然の情報に白陽は身を乗り出し、飛次に詰め寄る。
「ホントっすか!! 場所はどこっすか、教えてください!」
心臓が脈うつ。気がはやる。ゆっくりなんてしていられない。腰を浮かそうとする白陽の肩を、飛次の大きな手が押さえ込んだ。
「待て待て落ち着け! オレも急いでたからそこまでしか聞いてねェんだよ。それと、行くなら今じゃねェ。夜は一般人が出歩くにゃ危険すぎる」
「でも」
「第二階層は人さらいも多い。そもそもお兄ちゃん、武器持ってねェだろが」
興奮で血が上っていた頭が、飛次の一言で冷えていく。そうだ。ここは東花京とは違うけれど、下層であることに変わりはない。治安は決してよくはないのだ、ひとりで丸腰で出歩くのはあまりにも危険すぎる。
「……そう、っすね。そう、でした」
飛次から離れ、座り直す。それでも、十分すぎる手がかりに興奮は冷めやらない。この階層のどこかに、あのふたりがいる。そう考えただけで手が震える。やっと会える。間に合ったんだ。聞かなければ。いろいろなことを。
「なァるほどな。何やら事情があるのか」
「はい。あいつには、話を聞かなければならないんです。どうしても」
しばし白陽の話に耳を傾けていた飛次だったが、そこでふといぶかしげに眉を寄せた。
「……なァ、お兄ちゃん。もしかして、お前さんの探してるやつってのは、死んだはずの“東花の人斬り”……世見坂の旦那じゃねェのか?」
その瞬間、動揺した白陽の手から椀が落ちる。少しだけ残っていた酒が畳を濡らし、染みを作った。
しまった。世見坂は既に死亡している、と報道されていたこともあって油断していた。飛次は洞察力に優れている。白陽が世見坂の話を聞きたがったこと、警官だったこと、該当する人物の情報を得た際の反応から、ひとつの答えを導きだしたに違いない。思わず口を押さえるが、時すでに遅し。飛次はそれで確信を得たらしい。顎を擦ってにんまりと笑った。
冷や汗が噴き出し、心臓がどくどくと激しく脈打つ。まずい。もしも公的機関に通報などされたら、話が聞けなくなってしまう。それだけは何としてでも避けたい。
「あ、あの、飛次さん、それは」
慌てる白陽を手で制し、飛次はくつくつと喉の奥で笑う。
「安心しなァ。この辺にゃァ訳ありも多いし、オレも何かと後ろ暗ェことばっかなんでな。今更誰かになんて言わねェよ」
少しばかり引っかかる言い方ではあったものの、どうやら大丈夫そうだ。白陽は緊張していた身体から力を抜き、転がった椀を拾い上げた。
「にしても――いいこと聞いた。一度あの御仁とは殺りあってみたかったんだ。この辺にいるってんなら、探して斬り合いでも願おうかねェ」
「だ、ダメっすよ! 飛次さんが死んじまうじゃないすか!」
冗談めかした物言いに、しかし白陽は再度慌てる。確かに飛次は腕が立つ。だが、直接刃を交わした白陽にははっきりとあの男の強さがわかるのだ。
飛次が弱いというわけではない。盲目であるにも関わらず、常人離れした動きができる世見坂の強さが異様なのである。それがわかっていて、どうぞお好きに、なんて言えるわけもない。
「ダメですからね、そんなの! 死んだら終わりなんすから、間違ったことをやり直すのも、もう一回挑戦するのも、できなくなるんすよ! だからダメっす!」
酔いが回ってうまく言葉にならない。それでも繰り返し訴える白陽のことを、飛次はしばらくの間きょとんとして眺めていた。
が。
「――くくっ、くくく! ふふふっ、あはははは!」
やがておかしそうに声をあげ、からからと笑い始めた。
「な、なんすか、笑いごとじゃないっすよ!?」
突如笑い転げる飛次を見て呆然としていた白陽も、途中で我に返って声を張る。心配してるのに笑われるなんて心外だ。
「いや、ははは、くくくく! そんなこと言われたのは初めてだよ、あはは!」
飛次はしばらくの間笑い続け、それから呼吸を整える。手のひらで目じりの涙をぬぐうと、相好を崩してひらひらと手を振る。
「いやいや、悪かった。お兄ちゃんよォ、お前さん本当にいいやつだなァ。いいやつすぎて心配にならァ」
それは果たして褒められているのだろうか。む、と口をとがらせる白陽に手を伸ばし、飛次がぽんと頭を撫でる。大きな手だった。
「ふふ、じゃあしょうがねェやな、世見坂の旦那とやり合うのは諦めてやるよ」
それからくしゃくしゃと髪を混ぜられて、白陽は急に気恥ずかしくなった。これじゃあまるで、頑是ない子どもがわがままを通したみたいになっているじゃないか。自分はもう、二十も半ばになるというのに。
「わ、ちょっと、もう……子どもじゃないんすよ!」
「くくく、悪ィ悪ィ」
飛次はちっとも悪びれていない様子で手を離した。それから酒瓶を手にしてにやりと笑う。牙のような八重歯が覗いて、大型の獣のような印象を濃くしていた。
「じゃ、オトナなんだから付き合えるよなァ? ほら、もっと飲めよ」
酒精で潤んだ紅い瞳は据わっている。もしかしなくても絡み酒なのか。この状態では逃げることもできなさそうだが、こちらとしても動けなくなるのは困る。ダメそうなときは断固として断ろう。そう胸に誓いながら、白陽は椀の縁を裾で拭う。
「もう、ちょっとだけっすからね? 明日は人探しに行くんすから」
「おうおう、いいぜェ、大丈夫大丈夫」
どこまで聞いているのやら。白陽は内心で嘆息しつつ、仕方なしに椀を差し出す。飛次は楽し気に瓶を傾け、白陽の椀いっぱいに酒を注いだ。
西月京、第二階層。無人の楼閣が幽鬼のように立ち並び、時折その隙間を縫うように、うすぼんやりした明かりが漏れている。それでもあたりは薄暗く、視界を包み込む闇の薄衣に淡い紫の灯りが瞬いていた。
すれ違う人々は飛次を見ると親し気に声をかけてくるが、そのまなざしはどこか胡乱げだ。誰も信用ならない、そんな雰囲気さえ感じられる。しかし飛次は大して気にした様子もなく、呑気に鼻歌を歌いながら重たい足音を響かせて歩いている。白陽はそのうしろをおっかなびっくり、ついていくばかりだった。
仕事でたまに下層へ行くことはあったが、正直ここまで深入りすることはなかった。護身用の武器を持っていたからこそ小数人で歩くことができたのであって、今の状態ではひとりでいることすら厳しい。
やがてたどり着いたのは、廃墟の間にひっそりとたたずむ宿だった。今はもう誰もいないのか、しんと静まり返っている。光のともらぬ店の行燈には、褪せた墨で【晨鐘の宿】と書かれていた。
中は外よりなお暗い。飛次が外套に手を突っ込み、何かを出して行燈へと火をともす。そこかしこに埃が積もり、伸びた廊下や閉ざされた障子からは人の気配を感じない。やはりずいぶん長いこと、人の出入りはないようだった。
木製の番台には格子がつけられ、一部に穴があいている。まるで檻のような作りだが、最低限のやり取りで済むようになっているのだろう。放置されたままの台帳と筆は、すっかり乾燥して埃をかぶっていた。
上り口には一輪挿し、枯れて茶色くなった花が物寂しい。廊下の入口にかけられた掛け軸も汚れ、何が描いてあるかもわからない。打ち捨てられた小物の数々が、かつてここが流行っていたことを物語っている。
それらをわき目に、飛次は緩やかな足取りで二階へ上がっていく。白陽も恐る恐るそれに続いた。
静寂に沈んだ廊下が続いている。白い障子が外からの光を反射してか、白々として目に痛い。飛次は慣れた様子で最奥右手へと歩を進め、障子を引き開けた。
六畳ほどの部屋だった。透かし彫りの衝立の先には少々薄汚れた布団が敷いてあり、ボロボロの葛籠が申し訳程度に部屋の隅に置いてある。蓋の上にはいくつか着物が放り投げられ、床の間には刀の手入れ道具と思しきものが広げられていた。
葛籠の脇には押し入れと思われる襖がある。布団はここから持ってきたものだろうか。傍らの障子窓の向こうでは、淡い紫色が踊っている。第六階層とは少々色味が違う、青紫の光。蛍のように儚いそれが、薄い紙を通して幻想的に浮かび上がっていた。
白陽が辺りを見回していると、かちん、と金属の擦れ合う音がした。次いで部屋の行燈に火が入る。あの赤毛の医者が使っていたものと同じ、外国製の火付け具だった。大きな傷が刻まれ、少しひしゃげている。
「少し待ってな。飲み直そうぜ」
飛次はそれを懐にしまうと、そう言い残して出ていった。荷物を寄せて、白陽は少し毛羽だった畳に腰を下ろす。廊下を挟んだ反対側で、ごとごとと賑やかな物音がする。どうやらそちらは物置として使っているらしい。
やがて飛次が、黒い箱と漆塗りの椀をふたつ持って戻ってきた。
「何すか、それ?」
「酒だよ、酒。あいにく徳利も猪口も割れててな。こいつァ布がかぶせてあったから代わりに拝借してきた」
よっこらせ、なんて言いながら、飛次も白陽の対面へ座り込む。そして箱から蒼い酒瓶を取り出し、封を切った。
「お兄ちゃん、酒はいける口か?」
「まあまあそれなりに、っすね」
「そりゃいいや。つまみはねェが、勘弁してくれよな」
言いながら、男は椀の縁ギリギリまで酒を注ぐ。こぼれしまわないよう慎重に受け取り、白陽は軽く飛次へ掲げてみせた。飛次も口の端を持ち上げると、同じように椀を掲げる。
一口飲むと、芳醇な濃い香りが鼻を抜けていく。思ったよりも強い酒だが、そういうもの特有の刺すような感覚がない。舌先には爽やかな甘みと酒精が残り、絹のように滑らかに喉を滑り落ちていく。こんな下層にあるのが意外なほど上等な酒だった。一見ただの小さな宿ではあるが、もしかしたら、何かしら後ろ暗い商売もしていたのかもしれない。ここはそういう階層だから。
「うまいっすね」
「ああ、いい酒だ。こういう時にはもってこいだな」
そんなことを言いながら、飛次はぐいと酒を飲み干した。それから長い髪をかきあげ、口の端をつり上げる。
「で、だ。オレに何か聞きたいことがあるんだろ、お兄ちゃん?」
牙のような歯が覗く。細められた紅い眼に、行燈の光が映り込む。楽しげにこちらを見やる飛次の問いを、白陽は素直に肯定した。
「よくわかりましたね」
「くくく。何か言いたげにちらちらされてりゃ、酔っぱらいでも気がつくぜェ」
肩を揺らし、愉快そうに飛次は言う。片膝を立てて小首をかしげ、静かに揺らぐ深紅の眼差しを投げかけている。
そうだ。自分はこのときを待っていた。もっと突っ込んだところにある、あの男に似通うもの――彼も持っているだろうものの話をしたかったのだ。
「あの、」
妙に緊張する。白陽は酒で唇を湿らせ、喉を潤してから口を開く。
「……世見坂終宵、って、知ってますか」
その名前を口にした途端、飛次が片目を細めてにやりと笑った。
「ここでその名前を聞くたァ思わなかった! ああ、よォく知ってんぜ。入相中佐が地上から引っこ抜いてきたってェとんでもねェ男さ。オレの少し上の先輩でな。オレもオレの部下も、東花にいたころはまとめてずいぶん世話になった」
男は饒舌に語りながら、白陽の椀に酒を継ぎ足す。かなり飲むほうらしい。紅い髪が視界でひらめく。
「ずいぶんと物静かな御仁でなァ。人がいいからしょっちゅう周りからいいようにこき使われてたぜ。手柄を取られるなんてしょっちゅうだった」
世見坂終宵。少し話しただけだが、確かに穏やかで物静かな男だった。物腰も柔らかく控えめで、人が良さそうな雰囲気の……悪く言えば、どこか地味な印象の拭えない人物だと、白陽は感じていた。少なくとも白陽には、取り立てて警戒するような人物には見えなかった。そう、あんな凄惨な事件を引き起こした犯人だなんて、夢にも思わなかったのだ。
「いや、そういう御仁だからこそ、戦争中のとんでもねェ戦い方が噂になったのかもしれねェな」
「とんでもない、戦い方?」
「あァ」
思わず漏れた言葉に、飛次がすいと目を細める。髪が一筋、彼の整った面差しに彩りを添えた。
「あの人が恍惚と笑って帰ってきたあとには、死体の山と血の河ができてて誰も残ってねェ――ってな。実際見たやつは、あまりにもひどいありさまに、しばらくうなされるほどだったってェ話だ」
凄惨な戦争の現場を知らぬ白陽であっても、容易に想像ができる光景だった。刻まれた人間を山と積み、流れ出た血が河となるほど殺して帰ってきた男は、全身を返り血で染めながらうっとりと笑っている。戦争なんだから敵を殺すのは当たり前のことだ。しかし、そんな地獄絵図を作り上げてなお笑っているなど――まさに狂気の沙汰としか思えない。
暮邸で起きた殺人事件も、そんな状態に近かった。絨毯にしみこみ切らないほどの血潮に、喉を引き裂かれ折り重なった使用人たちの死体。あの数を、たったひとりで殺してのけた。だからこそ、白陽は納得してしまった。あの男ならば、なんの誇張もなく、なんの誇大もなく、薄笑みとともに屍山血河を作るのだろう、と。
「……そりゃ、また……とんでもないっすね」
白陽は曖昧に答えを濁しながら、相槌を打つ。飛次はそんな白陽に意味深げに視線を流すと、傍らにある刀へと手を伸ばした。
「でもなァ。その話を聞いたとき、オレぁ安心したんだよ」
「安、心……?」
予想だにしない単語に、白陽は少々混乱する。安心する? そんな話、狂気の体現としか思えないというのに。この人は何をもってそう感じたのか。
ゆっくりと、飛次は刀を撫でている。行燈の柔らかな光を浴びて、金属が艶やかな光沢を放ってる。
「誰かの命を潰すことに快感を見出して、生きる意味を見出して、やっと息をしてるような、ぶっ壊れたやつが――オレと同じようなイカれたやつが、この世にはいたんだな、ってよ」
同じような、イカれたやつ。自虐にも聞こえるつぶやきを、白陽は胸中で反芻する。確かに彼とあの男は似ているところがあるとは感じた。だが、何もそこまで卑下せずともいいのではないだろうか。
「同じじゃないっすよ。飛次さんは人斬り、してないじゃないすか。人助けのために【獣】を駆除してる。立派っすよ」
世見坂と飛次の決定的な違いは、今の社会で人を好んで殺めているか否かだ。世見坂は、この平和な時世で無辜の民を大量に斬った快楽殺人鬼。飛次は人助けとして【獣】を狩っている。たとえ同じものを持っていても、全然違う。
飛次は喉の奥で小さく笑うと、血の色の髪をかきあげた。精悍な面差しに浮かんだ表情は、どこか獰猛さを含む笑み。
「――なァ、お兄ちゃん」
深く、低く、飛次の声が部屋に響く。対面して座す飛次の眼が、燃え上がるような色をしている。あたりはほの暗いというのに、その瞳の赫だけがいやに鮮やかに映っている。
「戦って、戦って、殺して、殺して、殺して、殺さねェと、生きていることがわからなくなる。そんな感覚になったことはあるか」
その語り口はどこまでも穏やかだ。世間話をしてさえいるような、棘も悪意も殺意もない問いかけ。
「殺していなけりゃ、生きていることすらわからねェ。同じ形の生き物を殺して、殺して、殺して。誰かの血を浴びなけりゃ、断末魔を聞かなけりゃ、オレがオレであることすらわからなくなる。なんでここにいるのか、本当に生きているのかも曖昧になる。そんな感覚になったことは?」
紅い髪が肩からこぼれ、まるで血のように胸元へと流れ落ちている。ひたと白陽を見据える紅玉の双眸は、およそ人とは思えぬ光を孕んでいる。くっきりと浮かび上がるその緋色。見たことがある。
飛次の手が、刀を撫でる。獣の目が、こちらを見ている。目の前にいる無防備な獲物を、狙うかのように。
背筋が凍る。酔いが一気に引いていく。言われたことが、うまく拾えない。理解できない。したくない。人を殺さなければ、生きている意味すらわからなくなるなんて、そんなおかしなことは生まれてから一度もない。そんなもの、あるわけないじゃないか。なのに、このひとはいったい何を言っている?
思わず後ずさろうとして、白陽の手に荷物が当たる。我に返り、なんとかこの場に踏みとどまった。ここで逃げたらダメだ。今まさに、自分は彼らの考えに触れているのだ。“人斬り”と、それに近しい感覚を持っている人物の、感じていることに。
「な、ない、っす……」
「だろうな」
かろうじて絞り出した白陽の答えを、飛次はどこか優しい声で受け止める。
「それでいいさ。それでいい」
そうしてまた一口、酒を飲む。先ほどまでの異様な気配は霧散して、すっかり元通りに戻っていた。
戦っていなければ、誰かを殺していなければ、生きていることがわからなくなるなんて。白陽には想像すらできない感覚、感情だ。そんな風に感じることすらない。考えたことすら、なかった。
このひとには、あるのだろうか。そんな風に思うことが。何かを殺していなければ、自分が自分でなくなると、そんな狂気じみたことを考えるのだろうか。ずっと。ずっと。感じているのだろうか。……今も。
「で、でも……それを我慢したり、どうにか違うことして発散させたりとか、するでしょ……? みんなそうしてるじゃないすか」
そう。普通に考えれば、誰しもが持つ当たり前の衝動だ。どんな理由であれ、人を殺めてしまう可能性は誰にだってある。誰でもそうした衝動を抱えている。それがうまく制御できなくなり、殺人事件に発展することだってある。そうした人間を、白陽は仕事で何人も見てきている。
それでも――やってはいけないと決まっている以上、たとえどのような事情があっても、それを解き放ってはいけないのだ。それこそが人として生きていくための最低限の規律、規約、倫理であり、護らなければならない境界線なのだから。
人々は皆、そうして生きている。大衆ができていることが、彼らのような人たちにできないなんてありえない。何も特別なことじゃない。それができて、当たり前のことなのだから。
「……そうだな。みんなそうやって生活してる。誰にだってできる、当たり前のことだ」
白陽の思考を読んだかのように、そんなことを口にして、飛次は小さく微笑んだ。それはひどく不透明で、寂しげで、自嘲めいた笑みであった。
「だがなァ、お兄ちゃん。それが簡単にできてたら……“東花の人斬り”世見坂終宵は、あんな大量に人斬りなんてしなかったんじゃねェのかい」
白陽は思わず息をのんだ。確かに世見坂については尋ねている。だが、あの男が東花京で事件を起こしたことはまだ、伝えていなかったはず。
「なんで、それを……」
「東花の事件はこっちでもずいぶん噂になってたからなァ。それにお前さん、元警察官って言ってたろ。世見坂の旦那のこと聞いてきたし、何となくそうかなァって思ってよ」
これまで何気なくしてきた会話から情報を拾い上げていたらしい。驚いて次の句が継げない白陽に、飛次はさらに言葉を重ねる。
「なァ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは腹が減ったら飯を食うだろ? 喉が渇いたら水を飲む。そうだな?」
「え、ええ……」
突然の質問に面食らいつつ、白陽は素直に答えを返す。
「じゃ、それをやめろって言われたらどうする?」
「どうするも何も……死んじゃうじゃないすか。やめませんよ。やめられないし」
飛次の意図がどうにも見えず、白陽は怪訝な表情のままうなずく。
「つまりはそういうことだよ、お兄ちゃん」
飛次はくすりと小さく笑って言うと、椀の中の酒を飲み干した。
わからない。なぜ殺しをすることが、食事や水を欲することと同じになるのだろう。前者はどちらも生命活動の維持に必要なこと。対する殺戮への衝動は、自制のきくもの、自分で律することができるものだ。どうしてそれが、同じように語られているのだろう。
何もかもがわからない。この人の考えていることも、あの男のことも。聞けば聞くほど、思考が迷子になっていく。彼から示される何もかもが、自分の中にある常識からかけ離れていて、どう処理していいのかがわからなくなる。それでも、知らなければならない。もう少しだけ、先を。
「……飛次さんは、どうなんすか?」
「さァなァ。……無理に理解なんてしなくていいぜ。お兄ちゃんみてェなまともなやつにゃ、理解なんてできねェから」
踏み込んだ白陽の問いかけは、穏やかに、緩やかに流される。わずかな笑み混じりの言葉の外には、これ以上踏み込むことを許さない何かがあった。
白陽は椀に口をつける。ぬるまった酒が喉を滑る。飛次はまた酒を注いであおっていた。彼が瓶の半分以上を飲んでいるような気がする。
そういえば、飛次は世見坂たちと会ったのだろうか? 知古の仲であるならば、ここを訪ねている可能性は零ではない。白陽は酔いと勢いに任せ、そのまま本来の目的である質問を投げかけてみた。
「あの、飛次さん。そういえば最近この辺で、刀持った長髪の男を見かけませんでした? 赤毛の医者と一緒に行動してて、えーと、紅目で傷だらけの、隻腕の男なんすけど……」
「なんだよ、急に?」
飛次はきょとりと瞬きをして、すぐに記憶を探り始める。
「あー……そういや、オレが所要で東花に行く前に、この辺で小耳にはさんだ気がすんなァ。少し前に、どこぞから流れてきたって医者と用心棒らしい隻腕の男が、この階層の空き家に住み着いた、って」
白陽の頭が一気に覚醒した。間違いない。不夜城と世見坂だ。突然の情報に白陽は身を乗り出し、飛次に詰め寄る。
「ホントっすか!! 場所はどこっすか、教えてください!」
心臓が脈うつ。気がはやる。ゆっくりなんてしていられない。腰を浮かそうとする白陽の肩を、飛次の大きな手が押さえ込んだ。
「待て待て落ち着け! オレも急いでたからそこまでしか聞いてねェんだよ。それと、行くなら今じゃねェ。夜は一般人が出歩くにゃ危険すぎる」
「でも」
「第二階層は人さらいも多い。そもそもお兄ちゃん、武器持ってねェだろが」
興奮で血が上っていた頭が、飛次の一言で冷えていく。そうだ。ここは東花京とは違うけれど、下層であることに変わりはない。治安は決してよくはないのだ、ひとりで丸腰で出歩くのはあまりにも危険すぎる。
「……そう、っすね。そう、でした」
飛次から離れ、座り直す。それでも、十分すぎる手がかりに興奮は冷めやらない。この階層のどこかに、あのふたりがいる。そう考えただけで手が震える。やっと会える。間に合ったんだ。聞かなければ。いろいろなことを。
「なァるほどな。何やら事情があるのか」
「はい。あいつには、話を聞かなければならないんです。どうしても」
しばし白陽の話に耳を傾けていた飛次だったが、そこでふといぶかしげに眉を寄せた。
「……なァ、お兄ちゃん。もしかして、お前さんの探してるやつってのは、死んだはずの“東花の人斬り”……世見坂の旦那じゃねェのか?」
その瞬間、動揺した白陽の手から椀が落ちる。少しだけ残っていた酒が畳を濡らし、染みを作った。
しまった。世見坂は既に死亡している、と報道されていたこともあって油断していた。飛次は洞察力に優れている。白陽が世見坂の話を聞きたがったこと、警官だったこと、該当する人物の情報を得た際の反応から、ひとつの答えを導きだしたに違いない。思わず口を押さえるが、時すでに遅し。飛次はそれで確信を得たらしい。顎を擦ってにんまりと笑った。
冷や汗が噴き出し、心臓がどくどくと激しく脈打つ。まずい。もしも公的機関に通報などされたら、話が聞けなくなってしまう。それだけは何としてでも避けたい。
「あ、あの、飛次さん、それは」
慌てる白陽を手で制し、飛次はくつくつと喉の奥で笑う。
「安心しなァ。この辺にゃァ訳ありも多いし、オレも何かと後ろ暗ェことばっかなんでな。今更誰かになんて言わねェよ」
少しばかり引っかかる言い方ではあったものの、どうやら大丈夫そうだ。白陽は緊張していた身体から力を抜き、転がった椀を拾い上げた。
「にしても――いいこと聞いた。一度あの御仁とは殺りあってみたかったんだ。この辺にいるってんなら、探して斬り合いでも願おうかねェ」
「だ、ダメっすよ! 飛次さんが死んじまうじゃないすか!」
冗談めかした物言いに、しかし白陽は再度慌てる。確かに飛次は腕が立つ。だが、直接刃を交わした白陽にははっきりとあの男の強さがわかるのだ。
飛次が弱いというわけではない。盲目であるにも関わらず、常人離れした動きができる世見坂の強さが異様なのである。それがわかっていて、どうぞお好きに、なんて言えるわけもない。
「ダメですからね、そんなの! 死んだら終わりなんすから、間違ったことをやり直すのも、もう一回挑戦するのも、できなくなるんすよ! だからダメっす!」
酔いが回ってうまく言葉にならない。それでも繰り返し訴える白陽のことを、飛次はしばらくの間きょとんとして眺めていた。
が。
「――くくっ、くくく! ふふふっ、あはははは!」
やがておかしそうに声をあげ、からからと笑い始めた。
「な、なんすか、笑いごとじゃないっすよ!?」
突如笑い転げる飛次を見て呆然としていた白陽も、途中で我に返って声を張る。心配してるのに笑われるなんて心外だ。
「いや、ははは、くくくく! そんなこと言われたのは初めてだよ、あはは!」
飛次はしばらくの間笑い続け、それから呼吸を整える。手のひらで目じりの涙をぬぐうと、相好を崩してひらひらと手を振る。
「いやいや、悪かった。お兄ちゃんよォ、お前さん本当にいいやつだなァ。いいやつすぎて心配にならァ」
それは果たして褒められているのだろうか。む、と口をとがらせる白陽に手を伸ばし、飛次がぽんと頭を撫でる。大きな手だった。
「ふふ、じゃあしょうがねェやな、世見坂の旦那とやり合うのは諦めてやるよ」
それからくしゃくしゃと髪を混ぜられて、白陽は急に気恥ずかしくなった。これじゃあまるで、頑是ない子どもがわがままを通したみたいになっているじゃないか。自分はもう、二十も半ばになるというのに。
「わ、ちょっと、もう……子どもじゃないんすよ!」
「くくく、悪ィ悪ィ」
飛次はちっとも悪びれていない様子で手を離した。それから酒瓶を手にしてにやりと笑う。牙のような八重歯が覗いて、大型の獣のような印象を濃くしていた。
「じゃ、オトナなんだから付き合えるよなァ? ほら、もっと飲めよ」
酒精で潤んだ紅い瞳は据わっている。もしかしなくても絡み酒なのか。この状態では逃げることもできなさそうだが、こちらとしても動けなくなるのは困る。ダメそうなときは断固として断ろう。そう胸に誓いながら、白陽は椀の縁を裾で拭う。
「もう、ちょっとだけっすからね? 明日は人探しに行くんすから」
「おうおう、いいぜェ、大丈夫大丈夫」
どこまで聞いているのやら。白陽は内心で嘆息しつつ、仕方なしに椀を差し出す。飛次は楽し気に瓶を傾け、白陽の椀いっぱいに酒を注いだ。
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