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第二章

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 翌日からさらに蓮は部屋に籠って、自分から人に会おうとはしなかったが、実津瀬、榧、宗清に珊が代わる代わる顔を見せに来る。
 私のことを気にかけてくれているのね、とありがたく思った。
 兄妹たちとたわいもない話をしていると気が紛れるが、ふっとしたときに夫のことが頭をよぎる。食事は食べているかしら、着るものは整っているかしら、と。
 ……ああ、元夫だ、とその立場を言い換えた。
 あの日から三日がたったが、景之亮の影すらみない。
 未練を断ち切るために、また断ち切らせるために、渾身の言葉をぶつけたのだから、来るはずがないのだが、それでも来てくれることを期待している、甘えた自分の気持ちに気づいて、蓮は自分を戒めた。
 あんなに良い夫を傷つけた自分には罰が必要と、そう思っているわけではないが意識の下ではそのような考えが働いて、蓮はぶっ続けで写本をする。
「蓮!」
 蓮が一心不乱に写本をしていると、庇の間に実津瀬が現れた。その腕には息子の淳奈が抱かれていて、庇の間に入ると降ろしてくれと言う。実津瀬が下に下ろすと、一目散に蓮をめがけて走って来た。
「れんたま」
 元気な声が蓮の名を呼んだ。
 淳奈が初めに人を呼んだのは、当たり前だが母、そして父だった。かあたまやとうたまと言った。しかし、その次に淳奈が覚えたのはおばあさまやおじいさまではなく。
「れんたま」
 だった。蓮様、という周りの者の言葉を真似て蓮に向かって言ったのだが、舌足らずでれんたまになってしまったのだった。これは蓮の自慢だった。祖父母より、蓮の名を覚えて言うのは、それだけ淳奈が懐いているのは父母の次に叔母の蓮であることの現れだからだ。
「淳奈」
 蓮は筆を置いて、走って来た淳奈を胸で受け止めた。
「淳奈は元気ね」
 蓮の言葉ににこにこと笑顔を返す。なんとも愛らしい。
 遅れて実津瀬が部屋に入って来たが、その後ろには妻の芹もいた。
 侍女の曜が持って来た円座に二人は座った。
「写本かい?」
 実津瀬が言った。
「ええ、そうよ」
「あまり根をつめてはいけない。たまには離れの庭においでよ。母屋の庭とはまた趣が違うから、気分が変わるだろう。秋の花が咲き始めているよ」
 蓮は頷いた。膝の上に座っている淳奈が机の上の筆に手を伸ばしたので、蓮は一緒に持って、書き損じの紙に筆を走らせた。書いた紙を手に持って、淳奈は母の膝へと移り、自分が書いた字を見せた。
「上手に書けたわね。蓮様と一緒に書いたのね」
 芹が言うと、淳奈はにっこりと笑い。
「れんたま」
 と蓮を振り返ってその可愛らしい笑顔を見せた。蓮も淳奈に微笑み返した。
「今ね、近いうちに束蕗原に行くので、その準備について話しているんだ」
「束蕗原へ……」
 束蕗原とは、都の北東に位置する、実津瀬と蓮の母、礼の叔母である去が治める土地で、都から馬で半日、車を使って一日かかる距離にある。実津瀬と蓮はその束蕗原で生まれて、淳奈くらいの歳までそこで育った。また、その間の一時期、母は束蕗原を離れたため、去の手で育てられた。だから、束蕗原も去もなじみである。去は、母である礼の医者としての師でもある。去はこの土地を親から譲り受けて住み、長年、薬草の研究を積み、異国の知識人と交流し、書物から得た豊富な知識を持った熟練の医者である。土地に住む者たちにとても信頼されている統治者なのだ。
束蕗原に住む者たちは作った作物を税として納め、去は領地の住人の生活を助け、医療を提供している。束蕗原では統治者と住民が豊な暮らしを享受しようとお互いに助け合っているのだった。
「うん、母上が二月ほど束蕗原に行くらしい。あそこはとてもいいところだ。緑も多くて、景色も良い。静かで、温泉もある。少しゆっくりするのにいい。芹と」
 と言って、実津瀬は妻の顔を見た。
「淳奈は都を出て、のんびりと過ごすのもいいと思って、母上について行くことにしたんだ」
「……そうなの」
 蓮もその話を聞いて、束蕗原を懐かしく思った。
 去の住む館は丘上にあって、そこから眺める山々に囲まれた村の景色は美しいし、温泉が湧いていて、体を休めるのには良い場所だ。
 芹は流産して、気持ちが落ち込んでいる。都の塀の中で暮らすより、開放的なあの景色の中で、温泉に入って体を温めれば、気持ちも自然と前を向くのではないかと実津瀬は考えた。
「……私も一緒に行きたいわ……お母さまに相談してみようかしら」
「そうだ、蓮が一緒ならいいね。私も安心だ」
 それから、淳奈を中心に三人はしばらく話をして、実津瀬たちは離れの自分達の部屋に帰って行った。
 蓮は、簀子縁まで出て三人を見送り、その場で大きく伸びをした時、曜が手に盆を持って簀子縁を歩いて来る姿が見えた。
 今から写本の続きをしようと思っていたのに、次から次へと人が訪ねてくる。
「蓮様、もうすぐ礼様と榧様がこちらに来られますよ」
 なあに、と曜が持つ盆の上を覗き込むと、切った桃の実が盛られていた。 
 蓮は机の上を片付けて、盆を載せる台を持って来て、円座の真ん中に置いた。その上に曜が盆を置くと同時に庇の間に礼と榧が入って来た。
「蓮!」
「姉さま!」
 二人は楽し気な声で蓮を呼び、先ほどまで実津瀬と芹が座っていた円座に腰を下ろした。
「桃をいただいたのよ。みんなで食べましょう」
 礼が言って、榧の前に盆を差し出した。榧が一切れ手に取ったら、次に蓮の前に差し出す。
「先ほどまで実津瀬と芹と淳奈がここに来ていたのよ」
「そうなの?離れにも桃を持って行くように言ったから、今頃同じように桃を食べているわね」
 蓮が桃をとると、礼も盆を台に置いて自分に一切れ取ってすぐに口に入れた。それを見て、榧も小さく一口かじる。
「お母さま、実津瀬から聞いたわ。束蕗原に行くこと」
「ええそうよ。去様に、異国から届いた書物を届けに行くの。また、人の入れ替えもあるから、実津瀬と芹も連れだって一緒に行こうと決まったのよ。実津瀬は数日滞在したら、都に戻るのだけどね。私たちはそのまま滞在するわ。帰る時はお父さまが迎えに来てくれる予定なのよ」
「私も一緒に行っていいかしら……久しぶりに束蕗原に行ってみたいわ」
「そう、では一緒に行きましょう。あなたの写した本を去様はとても喜んでくださっているのよ。どんな風に役に立っているかを見るのもいいわね。珊は一緒に連れて行くつもりだけど、榧と宗清はここに残ってお留守番なの」
「まあ、そうなの。宗清はいいでしょうけど、榧は少し寂しいかしら。それに、お父さまのお世話は榧の仕事になるわね」
 と蓮が言った。
「お父さまと宗清だけというのは、寂しいわ……。澪は残るのでしょう。私と波とではお父さまのお世話は力不足だわ」
 澪は礼の侍女として、長年実言と礼の傍に仕えている。波は榧の侍女である。
「澪は残るけれど、お父さまはそんなに手の掛かる方ではないでしょうに。ひどいことを言うわね」
 と礼が言って、皆で笑った。
 実言は自分の身の周りのことは何でも一人でできるが、妻の礼には甘えて、何かと頼っている。
いつも母がかいがいしく世話をする姿を見ている娘たちは、あれほどきめ細やかに世話をするのは大変だと想像したのだ。
 父と母の姿を見ていたからか、蓮も景之亮の身の回りのことは何でもやっていた。今思い返しても大変とは思ったことはなかった。どうすれば景之亮のためになるのか、とあれやこれやと考えるのは楽しかった。
「出発は、五日後なのよ。実津瀬の都合で、急遽そうなったの。準備をしておきなさい」
 盆の上の桃をもう一切れずつ取った。榧はいらないというので、後ろに控えていた曜に回された。
 この後、話は岩城一族出身の前大王の第五の妃、碧妃が母である有馬王子と岩城本家の娘、藍の結婚の話になった。現大王の香奈益王の子供は姫一人だけだった。そのため、現在、大王継承者一位は、この有馬王子になる。そうなることを予想して、早くから有馬王子の妻が岩城家から選ばれるように一族は取り組んできた。王子と歳も近く、美貌の娘を一族から探して見出されたのが藍である。それは仕組まれたことだが、何度か有馬王子と藍が顔を合わせた。その度に、有馬王子の記憶に深くその美貌の娘は刻まれ、この度正式に結婚が決まった。すでに王子は王族の中から第一の妻を娶っている。第二の妃として藍は王子の宮殿に入るのだ。その準備を本家で行っており、榧はその手伝いをしている。
 手伝いと言っても、宮殿の自分の部屋に持って行くものを選定する作業を藍と一緒にやっているのだ。持って行く身の回りの調度品。美しい織の入った上着、裳、帯、装飾品。目にも美しい色とりどりの衣装を選ぶ。その岩城家が権力と財力を使って集めたものを藍が選び終わった後は、榧が気に入ったものをもらってもいいことになっており、榧も楽しみにしているのだった。
王子の妻の支度はどれほどの準備が必要であるか、用意する品物はどれほど豪華か、と三人は話が盛り上がった。
 翌日、景之亮の邸から蓮の持ち物が五条に戻って来た。
 蓮が鷹取邸に持って行った愛用の机や、衣類とそれを入れていた箱などが蓮の部屋に運び込まれた。机だけは自分の部屋に置いた。父から贈られたお気に入りの机だからだ。これだけは、どれほど景之亮との思い出があっても自分の傍に置いておく。他の衣装の入った箱は開けることなく、納戸へと押し込んだ。
 あっという間に、束蕗原に出発する日が来た。前日に荷物を積んだ一陣が出発していて、途中道が途絶しているなどの異常があればすぐに邸に帰ってくることになっているが、そういったことは起こっていないので、束蕗原の道は繋がっているようだ。
夜明け前に先発隊三人が出発した。夜が明けて、たんと朝餉を食べると、実津瀬は馬に乗って先頭を行き、礼と珊、芹と淳奈が載った二台の車の前後に使用人たちを配備して、一行は束蕗原を目指した。
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