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第四章

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「朱鷺世!手だ!手!」
淡路の大声が稽古場に響いた。淡路の後ろには楽団の長である麻奈見が腕組して朱鷺世の舞を見ている。
「手を意識したら、次は足が疎かになっている!」
淡路は朱鷺世に近寄って手にしていた短鞭を振るった。
空を切った短鞭はビシッという音をさせて朱鷺世の太腿にあたった。
朱鷺世の顔は一瞬怒気を含んだ表情に変わったが、すぐに元の表情に戻って、舞の続きを演じた。
最近、朱鷺世は楽団の長である麻奈見と楽団一の舞手である淡路の厳しい指導を受けている。これまでも指導は受けていたが、これほど長い時間を付きっ切りで、それに短鞭を用いられることはなかった。
二人の真剣な指導に、朱鷺世はなぶられているとは感じていないのだが、急に熱のこもった指導に驚いている。
同僚たちからの朝餉に虫を入れることや椀をひっくり返して食べられなくするような嫌がらせは無くなったが、椀の中身が少なくなった。匙で一度掬えば全て食べられるくらいの量しかない。朱鷺世が食堂に行くまでの間に、誰かが椀の中の粥を取っているのだろう。
朱鷺世は虫を入れられるよりましだと思って、たった一口の粥を口の中に入れた。しかし、それだけの食事量では今の稽古に堪えて、この体を動かし続けるには無理がある。
麻奈見と淡路の激しい指導に、腹の空いた朱鷺世はついていけなくなる。時に意識が飛んでいるが、体だけは動いていて、後で何をしたのか覚えていない時がある。
今稽古している舞を最初から通しで舞い終わると。
「朱鷺世、もっと身を入れて練習をしないといけないよ」
淡路がそう声を掛けて、その日の稽古は終わった。
その言葉が合図となり、朱鷺世は両ひざをついて崩れ落ちた。
全身で呼吸をして、その場に寝転んだ。しかし、そんな朱鷺世の姿を心配する者はおらず、見向きもせずに皆、稽古場から出て行った。
朱鷺世はたった一人残された稽古場に大の字になって、大きく呼吸をした。
このまま自分は死んでしまうのではないか、と感じるほど体は苦しみの悲鳴を上げていた。
なぜ、自分はこれほどの厳しい稽古を受けなければならないのだろう……。
理由のわからない厳しい稽古に、反発する気持ちが湧いてくるが、そんな感情をかき消すほど今は体が痛くて、耐えるために唸り声を上げた。
朱鷺世は激しい呼吸が収まるまで板の上に寝転がっていた。
胸の上下が収まると、むくりと体を起こした。
誰もいなくなった稽古場は寒くて、寂しくて、泣いてしまいそうになった。
朱鷺世は稽古場の扉を押して、外に出た。陽の陰った薄暗い外の世界は、より寂しさが増した。
厳しい稽古と、うまく舞えない時の罰として振るわれる鞭の痛さで体はぼろぼろだ。時には夕餉を食べる気力もなくて住居に戻ったら、そのまま部屋の端に寝転んだが最後、夜明けまで眠ることもあった。
なぜ、急に、麻奈見や淡路が厳しい稽古をするようになったのか、理由を教えてもらえていないので、わからない。
自分に期待をしてくれて、それで熱が入って厳しくなっているのだろうか。
それにしても、厳しすぎやしないか。
鞭が多くなると、皮膚が裂ける。治りきらずにまた叩かれると血がにじむこともある。
痛みで、体がふらついて、舞がうまく舞えなくてまた怒られるなんてこともある。
素直に期待されている、ということであれば嬉しい気持ちもあるが、周りの者たちと同じように王族に褒められていい気になっているからその鼻をへし折ってやる、ということなら自分はどうしたらいいのだろう。ただただ嬲られ役を引き受けておけばいいのだろうか。
やっと居場所ができたのに。
今から夕餉を食べに食堂に行っても、食べる物は残っていないだろう。
朱鷺世は重い体を引きずって侍女たちが住む住居の区画へと向かった。
腹が減って、歩くのものやっとで、住居前に立ちならぶ木立の一本の根元に座り背を預けた。足の痛みがおさまるのを待って、朱鷺世は指笛を吹いた。
一度鳴らしただけで、しばらく待っていると、一番端の戸が開いて、女人が一人出て来た。
ほぼ毎日のように朱鷺世はここへ来て、指笛で露を呼び出す。
「朱鷺世……」
露は朱鷺世の前に立って見下ろす。
「具合が悪そう……どうしたの?熱……」
露が朱鷺世の前にしゃがみ、額に手を置こうとすると、朱鷺世は頭を振って露の手から逃れる。いきなり立ち上がって、侍女の住居の裏に広がる森のような庭の奥へと入って行く。
「朱鷺世!」
露は慌てて立ち上がり、朱鷺世の背中を追った。
体のどこかが痛いのか、朱鷺世の歩みはゆっくりだ。露にとっては、体の大きな朱鷺世について行くには丁度良い速度になっている。
しばらく歩いて、朱鷺世は木の根元に腰を下ろした。ここまで来れば、すぐ人の目に着くことはない。
露を見上げる朱鷺世の目は、求めている。
「はい、どうぞ」
察した露は後ろに隠していた手を朱鷺世の目に前に出した。その手には葉に包まれた搗き米の握ったものが載っていた。
朱鷺世は黙ってそれを受け取り、葉を一枚一枚むしって出て来た搗き米を一口かじった。何度も咀嚼して、その甘味を体に感じた。
露も朱鷺世の左隣に腰を下ろし、黙って搗き米を食べる様子を見ていた。
宮廷内は、梅が薫って春めいてきたと言っても、まだまだ肌寒い。
ぴゅうっと風が吹いて、露は反射的に手が襟を掴み、風が入らないように首を竦めた。顔を上げると、朱鷺世が左手に持っていた搗き米を右手に持ち替えて、左側の膝を外向きに倒した。
朱鷺世は何をしているのだろうと、露は不思議そうにその様子を見つめていると、あっちを向いていた朱鷺世が露の顔を見てから自分の左腿を見た。その視線の動きで、朱鷺世はこっちに来いと言いたいのだと解り、露は膝をついて這って、朱鷺世の左腿に座って、右腿の下に足を畳んで入れた。朱鷺世の左手が露の腰に回されたが、朱鷺世はあっちを向いて無心で搗き米を食べている。
露は朱鷺世の胸に寄りかかってじっとしていた。じんわりと朱鷺世の温かさが伝わってきて、頭を朱鷺世の肩に載せた。
薄暗闇の中で、どこを見ているのかわからないが、朱鷺世は手にした搗き米を噛んでは、口に無くなったらまた齧ってを続けている。
手から米が無くなったら、朱鷺世は我に返ったように、自分の懐に収まっている露に目を落とした。
小さな体がさらに小さく縮こまっている。
朱鷺世はそれまで米を持っていた右手を露の右足の甲に置いた。足は冷たくて反射的に指先を握った。
「あっ!」
驚いた露が声を上げた。
「冷たいでしょ?」
露の言葉には答えず、朱鷺世は裾を上げて、自分の太腿の内側に露の足先を持っていった。
今は袴をはいておらず長い上着を纏っただけの朱鷺世は、冷えた露の足を温めてやるのには都合がよかった。
「そんなことしないで。朱鷺世の足が冷たいでしょう?いいのよ、私は大丈夫」
露は朱鷺世に申し訳ないと思って、足を引っ込めようとしたが、朱鷺世は足を裏から掴んで、引っ込めるのを止めた。
「朱鷺世……」
露はすぐ上にある朱鷺世の顔を見上げた。いつものように何を考えているのかわからない、表情のない顔で、露の足を見ている。露も自分の足を見たが、すぐに他のことに気を取られた。
「どうしたの?傷!」
朱鷺世の腿に皮膚の裂けたような痛々しい傷が見えた。赤くなっていて、ひりひりとした痛みが見ただけで伝わってくるようだった。思わず、露は身を起こして、朱鷺世に訴えた。
「どうしてこんな傷が!痛いでしょう。手当は?塗り薬をもらって来るわ」
矢継ぎ早に露は言った。
その言葉を止めるために、朱鷺世は両手を広げて、露の体を包み込んだ。
「朱鷺世……痛いでしょう?」
朱鷺世の肩が露の顎の下に入るくらい、体を近づけた。
「朱鷺世!」
「いい」
「いいって、手当しないと」
「いいんだ。そのうち治るから。静かに」
朱鷺世は言って、露の肩に顔を伏せた。
朱鷺世の体は温かい。内腿にくっつけた足も朱鷺世の温かさで、冷たさが薄らいだ。
私が寒いだもの、朱鷺世も寒いでしょうね。
私の温かさを分けてあげたい。二人で温め合ったらいいわ。
露も自分を抱く朱鷺世の腕に掴まって、朱鷺世の肩に頭を預けた。
朱鷺世はこの前みたいなことはしないのかしら……。
露は十日ほど前のことを思い出していた。
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