幽々として誘う

舞台譲

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第二夜 死相

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 右足の踵が、路上に捨てられた空き缶を踏みつけた。

 そのせいで体が傾き、一瞬、走る速度が緩む。体勢を立て直し、すぐに速さを取り戻したが、そんな些細なことにも苛立つほど、成瀬蓮司から余裕は消えていた。

 背後を少し振り向くと、蓮司を追ってくる中年の男の姿があった。ピンク色の看板をかけたラブホテルの前を過ぎるところだ。

 蓮司は舌打ちし、曲がり角を右に曲がった。その先にも、幾つものホテルが並んでいる。

 失敗した。新宿駅からこの街を出ようと思ったのに、追手に追われるうちにいつの間にか人気のないホテル街にまで追い込まれてしまった。ここは駅周辺とは違い人通りも少ない。人ごみに紛れることも叶わず、こうして追われるばかりになっている。 

 助けを呼んでも、ひとが来てくれるかどうか。いや、そもそもあの追手を他人がちゃんと認識してくれるかもわからない。ここに来るまで何度か助けを呼んだ。タクシーを呼んで、逃げようとも考えた。けれど、まるで自分だけ世界から見放されたように、なぜか誰もが助けを呼ぶ声を無視して行ってしまう。正直、わけがわからない状況だ。

 右肩にかけたショルダーバックが酷く邪魔だ。家出のために用意した品が、いまはなんの役にも立たないのが恨めしい。

 全速力で走っていると、進行方向から、こちらに向かってくる青年の姿が見えた。

 駄目もとで助けを呼ぼうかと考えたが止めた。表面的には普通でも、蓮司の瞳には、その男
がこの上ないほどの異常であることが視えたからだ。

 蓮司の眼には、青年は筋繊維が寄り集まったような肉人形に視えた。

 後ろから追って来る中年の男の同類だ。

 こちらを認識した瞬間、青年は蓮司を捕らえようと走り出した。

 このままでは挟み撃ちだ。逃げ場はないかと視線を動かすと、通りの半ばに脇道があるのがわかった。迷うことなく、蓮司はその道へ逃げ込んだ。

 ビルとビルに挟まれた道は狭く、路上にはちり紙やビニール袋が捨てられている。蓮司が来た瞬間、エアコンの室外機に乗っていた猫が驚いて逃げ出した。これだけ狭い道となると、二人同時に追って来るのは難しい。上手くすれば、それなりの距離を稼げる。

 道幅を狭くしている室外機を越え、反対側の通りへと近づく。

 壁と壁の間から差し込む街灯の明かりが、いまはほんの少しの希望に見えた。

 だが道を出ようとした瞬間、向かい側から金髪の青年が入ってきた。

 こんな狭い道で避けられるわけもなく、蓮司は青年とぶつかり、その場に尻餅をついた。

 青年には友人と思わしき坊主頭の男がおり、壁に体をぶつけた彼を気遣った。

 すぐにこの場から逃げようと蓮司は立ち上がるが、その肩を金髪の男が掴んだ。

「てめぇっ、人にぶつかっといて謝罪もなしか!」

 金髪を引き剥がそうと、蓮司は強引に腕を動かした。肩の手は外れた。その代わり、蓮司の肘は青年の頬を強く強打した。

 金髪の男は怒りも露わに、蓮司の服の襟を掴み地面に引き倒した。

 すぐに立ち上がろうと体を起こす。だがそれより先に金髪は蓮司の顔を殴りつけてきた。続けざまに加えられる暴行。金髪の怒りが伝播したのか、坊主頭もリンチに加わった。

 両腕で体を庇うなか、体の痛みよりも、背後の男の方が蓮司には恐ろしかった。

 ふと、蓮司は肉の腐ったような匂いが鼻をつくのを感じた。

 男たちの拳から身を守りながら、蓮司は恐る恐る、背後に視線をやった。

 死相の男が、あと三メートルほどの距離にいた。男の顔から、何かが手の平ほどの大きさのものがこぼれ落ちる。
それは挽肉を固めて作られたような一匹の鼠だった。男の顔は、その鼠の分だけ欠け、頬は引き千切られたかのように、その下に隠れていた歯茎と筋繊維がを見えた。
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