拗らせた恋の行方は

山田太郎

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染み入る優しさ

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 翌朝、亮介から届いたメールには『悪かった』と一言だけ書かれていた。ベッドの上でそれを確認した浩司は、はあとため息をついてパタリとスマホを持った手を倒した。
 どうせなにが悪かったのかなんて大してわかっていないのだ。でも自分の言動のなにかが浩司の機嫌を損ねたのは察していて、機嫌を伺うように謝罪の文章を送ってくる。亮介がこんな風に気を使うのも、自分から謝るのも浩司にだけで、それが長年浩司を勘違いさせてきた要因でもあった。
「こういう時だけ可愛げあるんだよな…」
 一晩たって冷静になってみて、許してやってもいいと思う気持ちがでてきていた。こういうところが自分の甘い点で、亮介につけ込まれる部分なのだとはわかっているが、今更変えられるものでもない。
 それに昨日の一件によって、浩司の亮介への気持ちは、完璧に友人に対するものに切り替えられていた。いつまでもズルズルと引きずっていたのが、亮介自身の手によって全く脈がなかったと幕引きされたことによって、未練がましい気持ちがすっぱりと切られたのだった。まだ心の奥底にじくじくと痛む傷はあるのだが、やがて瘡蓋ができて古傷になっていくのだろうと、そう思えた。
『許す』
 一言だけそう打って返信すると、浩司は伸びをしながらベッドから起き上がり、出社の準備を始めたのだった。




 朝から精力的に仕事をし、進行中のプロジェクトの打ち合わせをいくつか済ませる。気づけば12時を過ぎていて、昼休憩に行くために席を立った。外回りからちょうど帰ってきた安藤を捕まえ、連れだって昼飯に出かける。この前加賀と行った魚定食の美味い店に足を運び、今日は煮魚の定食を選んだ。安藤は若いだけあってカツ煮定食を頬張っていて、浩司は見ているだけでげんなりする気持ちになりながら、よく食うな、と声をかけた。安藤は口をもぐもぐと動かしながら首を傾げる。
「やっぱり動くと腹が空くんっすよね」
「そのくせ痩せてるよな、お前」
「おれ、脂肪もつかないけど、筋肉もつかない体質なんっすよねー。部活やってた頃は苦労しました。おかわりもらっていいっすか」
「ああ。食え食え」
 結局安藤は三杯ご飯をおかわりし、午後からも元気に外回りに出かけていった。それを苦笑いしながら見送り、浩司も別の後輩を連れて、別口の取引先のもとに打ち合わせに出かける。複数の会社を回って帰ってきた時にはすでに18時半をまわっており、加賀との約束の時間が近づいていた。
 営業部に入ると、自分の席の近くにここ数週間で見慣れた秀麗な容姿の男が目に入る。加賀はどうやら先に帰っていたらしい安藤と何か言葉を交わしているようで、同じチームではあるがあの二人はそんなに親しかっただろうかと、入り口付近で立ち止まりながら、浩司は首をひねった。
「あ、大澤さん、お疲れ様です」
 そうこうしているうちに安藤に先に見つけられ、元気に声をかけられる。その頭の上に耳としっぽを見ながら、浩司は曖昧に笑って隣の男に視線を移した。
「お疲れ。あの、あんたは…」
「迎えに来た。まだかかるか?」
 確かに加賀は帰り支度を済ませた格好をしていて、今すぐにでも帰れそうな様相をなしていた。まだ待ち合わせの時間には早いが、浩司も特に今日やるべき仕事が残っているわけではなかったので、首を振って鞄の中から持ち出し不可の資料を取り出す。
「いや、もう帰れる。わざわざ来てもらって申し訳ないな」
「俺こそ早めに来すぎたと思ってちょっと反省してたんだ。また逃げられたらかなわないからな」
「ここまで来て逃げたりしない」
 むっつりと眉をひそめてそう言うと、加賀は軽やかな笑い声を上げて浩司の肩に腕を回した。その様子を目を丸くしながら見ていた安藤が「仲いいんすねー」と見当違いの感想を述べる。違うともそうだとも言えずに浩司はじろりと背後の男を睨んだが、加賀はどこを吹く風で全く気にしていないようだった。
 会社を出て、加賀が駅と反対の方向に歩き出した所で違和感を覚えた。どこの店に行こうとしているのかは知らないが、繁華街とは逆方向である。店選びは加賀が任せろと言うので放置していたのだが、これはなんだか妙なところに連れて行かれようとしているのではないだろうか。前を行く加賀に、おい、と声をかける。
「どこの店に行く気なんだ?」
「この辺に知り合いがやってるバーがあってな。酒もつまみも美味いから、お前に教えてやろうと思って」
 加賀は浩司の不審そうな目にも動じず、その長い足をゆったりと動かしながら飄々とそう言った。この辺りと言うだけあって、5分も歩くと加賀が言っていたのであろうバーの看板が見えてきた。その洒落た外観にちょっとホッとしながら、浩司は加賀の後に続いて店の中に入った。
 店内は薄暗く、外観から想像していたよりかなり広さがあった。一般的なバーと造りにさほどの差はなく、金曜日の夜ということもあってかなかなか盛況なようで、早い時間ではあるが、ちらほら飲み始めている客の姿が見えた。店をぐるりと見回したところで、浩司は違和感を覚えて首をかしげた。女性客の姿が一人も見えない。ないことはないが、珍しいなと思う。
「大澤、こっち」
「あ、ああ」
 早くもカウンターに腰掛けていた加賀に声をかけられ、入り口付近で立ち尽くしていた浩司は考え事を切り上げて、加賀の隣の席へと座った。
 カウンターの中にはバーテンダーの服を着た男性がシェイカーを振っている。歳の頃はおそらく加賀と同じか少し上ぐらいで、整えられた顎髭がセクシーな色気を放っている。席の前にはすでにお絞りと冷水が用意されており、浩司はそれで手を拭きながら、隣で水を飲んでいる加賀を横目で盗み見た。視線に気づいたらしい加賀が、微笑を浮かべて浩司の方を向いた。
「こういうところは、初めてか?」
「いや…バーには亮介に連れられて何度か行ったことがある。こんな洒落たところじゃなかったが」
「そうか。そりゃ、今日は楽しんで行けよ。ここはママのオムライスが美味いんだよ。なあ、ママ」
 ママ?と頭にハテナマークを浮かべる浩司の前で、先程のバーテンダーがグラスにカクテルを注ぎながら、加賀の方をじろりと睨む。
「ここは食事処じゃないって何度も言ってんでしょ」
 その重低音から繰り出された女言葉に、浩司はびっくりして思わず椅子から腰を浮かせた。女性客の姿が見えない店内をバッと振り返り、加賀の肩を掴む。
「ちょっ、ここもしかして」
「ああ、やっぱり気がついてなかったのか」
「なあに、加賀ちゃんここがどんな店だか、この子になんにも説明してないの?」
 掴まれた肩を揺らして笑う加賀の頭を思わず引っ叩きたくなりながら、浩司はママの顔がずいと近づいてきたのに、ぎょっと身を引いた。加賀は浩司の肩を引き寄せ、落ち着かせるようにその肩を軽く叩く。
「ママ、あんまり怖がらせないでやってよ。こういう場所初めてなんだ、こいつ」
「あら、そうなの。でもお仲間よね?」
 ママは不思議そうな顔で浩司を見ていた。その歳で、と言外に言われたような気がして浩司は身構えるが、ママはにっこりと笑って、大丈夫よぉと声を上げる。
「40過ぎてから自覚する人もいるんだから。別に恥ずかしいことじゃないわよ」
 その話が冗談なのか本当なのかもわからず、浩司は加賀の顔を伺う。加賀が本当だというふうに頷いたのを見て、浩司はほっとため息をついた。
 じゃあサービスしてあげる、と言いながらオムライスを作りに行ってしまったママを見送り、改めて店内の様子を眺め見る。想像していたいわゆるゲイバーと言うものよりもずっと落ち着いた雰囲気で、あちこちでゆったりと酒を飲みながらお喋りを楽しんでいるようだった。
「ここはママのお眼鏡にかなった奴しか来れないからな。ほかのゲイバーより、断然変な奴が少ない」
 お通しをつまみながら、加賀がポツリとそう言う。以前亮介の結婚式で視野を広げろと言われたが、これは中々一歩を踏み出せない浩司への加賀なりの優しさなのだろう。改めて店内を見渡すと、明らかに口説いているのだろうとわかるような雰囲気を漂わせている客も何組かいる。今までゲイであるということを誰にもカミングアウトせずに生きてきた浩司にとって、ここにいる人は皆自分と同じ指向を持った人間なのだと思うと、なんだか奇妙な気分がした。
「みんな…普通だ」
「まあ中には変なのもいるけどな。ママみたいなのもいる」
 そういう意味ではなかったが、加賀の言葉に浩司は頷いて応える。感謝の言葉は自然と口からこぼれ落ちた。
「ありがとう。わざわざ連れて来てくれたんだな」
 加賀が連れて来てくれなければ、浩司がこういう場に来るのは、もっとずっと後になっていただろう。自分をゲイだと認める気持ちはあったが、女性とも付き合える浩司にとって、ゲイという存在は普通ではなく、そして自分が普通から外れることにかなり強い抵抗があった。
 自分は世間一般のゲイとは違うのだ、と言い方は悪いが、彼らを見下すような気持ちが心の奥底にあったことは否定できない。結局ずっと、自分が一番自身のそういった部分を認めてやれておらず、どうせ恋愛などできないのだと身近なノンケにーー亮介に逃げていたのだろうと、今なら自覚できた。
 加賀は驚いたようにちょっと口を開けて浩司の方を見ていたが、やがて困ったように片手で顎を擦りながら、もう片方の手でグラスを掴んだ。
「今日はどうも、特に素直だな」
 そんなふうに言われると恥ずかしくなって、浩司は耳を赤くし、いつものようにむっつりと口の端を下げる。
「悪いか」
「悪くはないが…昨日、亮介となんかあったのか」
 思いがけない人物の名前に、浩司は不意を突かれて表情を取り繕いそこなった。一瞬わずかに歪んだ顔を見られたことに気がつき、誤魔化すことを諦めて視線を逸らす。
「なんで亮介と飲みに行ったことをあんたが知ってるんだ…」
「安藤くんが教えてくれたぞ、昨日は大学の友達と飲みに行ってたって。その反応はアタリだな」
 口の軽い後輩に舌打ちしたい気分になりながら、浩司は「たいした話じゃない」とその話を切り上げようとする。そんな言葉で加賀が誤魔化されてくれるワケもなく、あれよと言う間に昨日の一部始終について吐かされてしまう。歳がいくらか上だからといって、営業の自分がこんなにも簡単に言いくるめられているのは釈然としなかったが、言っても変わらないので浩司は開き直って簡単に説明した。
「まあそんなわけで、もう未練は欠片もないというか…そんな感じだ」
「ふうん…」
「あんたには感謝してる。あの日加賀さんに会わなかったら、今でも俺はずっと引きずっていただろうから。だから、ありがとう。あんたのおかげだ」
 浩司は俯いて静かに笑う。グラスに映った自分の顔が晴れやかとは言い難いのを見ながら、これでよかったのだと自分に言い聞かせた。そこを、浩司の目の前に長くしなやかな指が伸びて来て、彼の顎を捕まえる。驚く浩司の唇に柔らかいものが押し当てられ、チュッと軽いリップ音と共に加賀の端正な顔が離れていく。榛色の瞳が薄暗い色の照明を反射して、吸い込まれそうな美しさを放っていた。
「な、なにを…」
 呆然と唇を押さえる浩司に、加賀は悪戯っぽく笑いながら頬杖をつく。
「いや? なんかそういう雰囲氣だったから」
「ハイ、離れてー」
 突如上から降って来た野太い声に、浩司は飛び上がってそちらを振り向いた。カウンターの前では湯気を立てたオムライスを持ったママが仁王立ちしており、二人の前に皿を置きながら、加賀に不機嫌そうな顔で「ウチの店で不埒なマネすんじゃないって言ったわよね?」と釘を刺す。ママは呆気にとられている浩司の方も振り返り、「アンタも!」と野太い声で叱る。
「ホイホイ手出されてちゃダメよ、アンタみたいな子羊ちゃん、この節操なし男にパクッと食べられちゃうわよ!」
 紛然としながら去っていくママを見送り、浩司は見られていたという羞恥で首まで赤くしながら小さく「はい…」と返事をする。加賀は全く堪えていないような顔で早々とスプーンを手にとっていた。ママの登場でさっきの妖しい雰囲気はどこかに吹き飛んでいて、浩司はそれにどこかで安心しながら、加賀と並んでママの出してくれたオムライスに舌鼓を打ったのだった。
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