薔薇の死神と神殺しの聖女

紺坂紫乃

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Ⅴ(後)

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 神戸空港からハイヤーで走る事、小一時間。一行が足を踏み入れたのは、桜が満開の姫路城であった。ヨーロッパにも城跡は数あるが、日本は様式が全く異なる。なによりも姫路城はギリシャの沿岸沿いにも似た白い壁が陽光を受け、舞い散る桜吹雪の薄桃色が絵画のようだ。

「わあ……京都にもあったけれど、このお城は真っ白なのね。なんて綺麗……! それに桜がいっぱい。人も多いのね」

「姫路城は別名を白鷺しらさぎ城ともいう。毎年、大きな観桜会をやるが、日本の城の中で一番美しいと言われておる。今は『平成の大改修』が終わったばかりじゃから、儂もこんな美しい城を見られて満足じゃ」

 感動のあまり口を開けっぱなしのリリィにグランパが並んで城を仰ぎ見る。

「夜にはライトアップされるわ。夜桜もまた風情が違って素敵よ。どう? お気に召した?」

「tres bien(さいっこう)!! 月、大好き!」

 リリィは月に飛びつく。それを見ていたヴィンセントは「大好き、か。最近よく使うな」と感じた。

「……アベルにあまり言えなかったからだそうよ。最愛だったのに、実の父以上に想っていたのに言葉にしてやれなかったから、って」

 心中で呟いていたつもりだったが、思わず口にしていたようだ。突然、ジャンヌが補足に入ってくるので、ヴィンセントははっとする。

 ――自分らしくない。ジャンヌの気配に気づきもしないとは。

「最愛……か」

「どんなに笑っていても、心の傷は簡単には治るものじゃないわ。下手をすれば一生抱えて行かなければならない。皮肉ね……最高神を従えているあの子が、一番救われない存在だなんて……」

「やめろ」

「ヴィンセント?」

「あいつに救いがない? 未来を簡単に決めつけるんじゃねえよ」

 ほのかな怒りすら感じるヴィンセントの言葉に、ジャンヌは目を丸くする。

「……ごめんなさい。言葉が過ぎたわ。でも、貴方からそんな言葉が出るなんて、いったいどうしたの?」

 ジャンヌとヴィンセントの付き合いは長い。ジャンヌがグランパの下で働き始めた頃には、すでにアベルとヴィンセントとはよく顔を合わせていた。ジャンヌは神界と人間界の双方に精通する情報屋であり、双方の繋ぎ役であるグランパの補佐だ。ゆえに自然とシルバ兄弟とも共有する時間が長いので、二人の性格も熟知していると思っていたが、それはどうやら誤りであったようだ。

「別に。以前アベルがリリィに言っていたことを反芻はんすうしただけだ」

 それだけを言い捨てて、ヴィンセントは不機嫌そうにジャンヌから距離を取るように、月達と笑うリリィの方へと歩み始めてしまった。一方、置いてけぼりを食らったジャンヌは、妙な焦燥感にかられる。

「ヴィンセント……もしかして……」

 その先は、言葉にするには性急すぎる。不意に浮かんだ可能性を振り払うようにジャンヌは首を横に振った。

◇ 

「焼きもろこし!!」
「ベビーカステラ!!」
「……揚げ餅」
「それだ!!」

 次に口にする屋台の食べ物は、塩気の物か、お菓子系かと低レベルな衝突をしていた月と明光の不毛な言い争いは、リリィの一言で決着がついた。最後は、二人とも声を揃えてリリィに同意する。

「大人げない、って言うんですよね。こういうの」

「……お前、リリィ以上に達観たっかんしているな」

 一番年下の雪が、なぜだか全く自己主張しない。むしろ、慣れているのか、自分一人で食べたいものを勝手に選んで口にしている。我が道を行く雪に、ヴィンセントは思わず感心してしまった。

「揚げ餅なら、おろしポン酢もあるし、きな粉もありますもんね。リリィさん、さすが頭が良いなあ」

「あのカップル、いつもああなのか?」

「うーん……姉が主導に見えて、その実は明光さんが言葉巧みに物事を進める感じでしょうか。僕は見守り役に徹しています。日本では『痴話喧嘩は犬も食わない』って言うんです。もしくは」

「『触らぬ神に祟りなし』とか?」

「お、ヴィンセントさんもよくご存知ですね」

「職業柄、耳にしたことがある。ところで、お前の年齢は?」

「先月で八つになりました」

 つまり、学年は一つ下だが、リリィと同じ年になるということになる。「年齢詐欺だ」とヴィンセントは思ったが、今度は決して口には出さなかった。しかし、表情で読まれてしまったのか、雪はチョコバナナを食べながら「年相応に見えないってよく言われます」と笑っていた。
 リリィも個人主義の国育ちの割には物分かりの良すぎる子供だが、雪はまた一味違った子供だと、ヴィンセントは感じる。

「お前の姉貴、癖の強いキャラクターだと思っていたが、お前も食えないな」

「そうですね。姉は音楽という才能に恵まれたから。対して、僕は特筆すべき才能に恵まれなかったからだと思っています。姉は姉だし、僕は僕。羨ましいという土俵に上がることすら、僕は放棄しました。それだけ姉の才能は圧倒的すぎるんです」

「……それは、少し解る気がするな。俺にも兄貴が居た。力は俺の方が強いが、存在感や好感度は正反対だ。だが、俺も妬んだことは無かったはずなんだがな……」

 ヴィンセントの歯切れの悪い物言いに雪はチョコバナナを食べるのを止めた。

「『居た』『はずだった』という過去形から、勝手に想像しますけど……思い出って美化されるものらしいですよ。亡くなった方を越えようなんて、どだい無理な話。……でもヴィンセントさんは頭で理解していても心が追いつかない――なのに無理をして解ろうとする方、という印象ですね」

「今度はエスパーになったな」

「おじいちゃんの受け売りですよ。オーリックのおじいちゃんは妹の結婚に親と一緒に大反対して、結局妹は売れないピアニストと駆け落ち同然に家を出てしまった。数十年後、子供が音楽関係の仕事をしていると聞いて、イギリスに駆けつけた時には、妹もその夫もこの世の人では無かった。それが姉と僕の本当の祖父母の話です。だからオーリックのおじいちゃんは、ずっと後悔していて……元々敬虔けいけんなクリスチャンなので、今でも懺悔ざんげ室に通っているんです」
 雪の語りは、複雑で哀しい話のはずなのに、彼は哀愁を微塵もみせることなく、事務的に話す。ヴィンセントが茶化しても動じることはない。彼の前では年齢などという物差しも意味を為さない、と実感させられる。

「だから、オーリックのおじいちゃんは本当の孫――僕らのCousine au second degré(はとこ)同様に分け隔てなく愛してくれています。そのはとこが今度パティスリーを日本に出店するので、師匠でもあるおじいちゃんも一緒に日本に移住してくるそうです」

「ほう、じゃあ『サン・ミッシェル』はパリから無くなるのか。リリィが落ち込むな……」

「ふふ、ヴィンセントさん、ご自身で気づいているんですか? それとも無意識なのかなあ」

「なにがだ?」

 雪はチョコバナナの最後の一口を口に放り込んだ。暗に「教えない」と言われたヴィンセントは眉間に深い皺を刻んだ。本条家は姉弟共に難敵だ。否――感性の塊の姉を持つがゆえに人の感情の機微を覚るに長けている分、弟の方がタチが悪いのかもしれない。



 はしゃぎつかれたリリィ達は、グランパが腰掛けていた大きな桜の下にあるベンチに集まって、一息ついた。

春雨はるさめは、いたくな降りそ桜花さくらばな、いまだ見なくに、散らまく惜しも」

 グランパが、ひらひらと降ってくる一枚の花びらを、まるで壊れ物を招くように掌へと迎え、そう謳った。

「万葉集ね。本当にグランパは、なんでもよく知っていて感心してしまうわね」

「ほほ、伊達に歳をとってはおらんよ。儂が懇意こんいにしていた日本人のカメラマンがおってな。もう亡くなってしまったが、彼が遺した写真集は桜がほとんどじゃった。万葉集は梅が題材の歌が多いが桜を詠んだ歌も、少なからずある」

「あしひきの山桜花やまさくらばな、日並べて、かく咲きたらば、いと恋ひめやも」

「姉さん、説明してよ」

 グランパと月の間で成立している会話に、リリィが頭に疑問符を浮かべていると雪がフォローとして説明を求める。

「ざっくりいうと、グランパのは『まだ桜を愛でていたい』って意味。私の方は『桜をこんなに美しいと感じるのは、あっという間に散ってしまう儚い花だからだろう』って感じね。詠み人や歌手によっては、花の散り様を称える人もいるから、花は咲いても散っても褒められるのよ」

 月も頭上に大きなドームを作っている桜を見上げて説明をする。リリィはその晴れやかな横顔を見て「咲いても散っても美しい」と口の中で、月の言葉を咀嚼する。なぜかリリィの中で、アベルの顔が浮かんだ。次いで桜と似た色の小さな薔薇の蕾――リリィはなにか大切なことのように思えた。深い意味があるようで、これは吟味せねばならない言葉だ、と己に言い聞かせる。だが、逸る思考に感情が追いつかない。ばくばくと心臓だけが早鐘を鳴らす様は、まるで警鐘のようだ。
 そんなリリィは、咄嗟に天守閣から下りてきた人々が「足が笑っている」などと歓談をしながら過ぎて行くのを聞く。そして考えるよりも先に言葉が出た。

「あ……月。私、お城の一番上まで行きたい!」

「天守閣に? 日暮れまで時間があるから、それは構わないけど……姫路城は階段が急勾配だから、しんどいよ?」

「が、頑張る!」

 きょとんとする一行を尻目にリリィが要望を貫き通そうとする。その後頭部を、こつんと軽くヴィンセントが小突いた。

「服装を考えて言え。第一、お前はミュールだろう」

 彼の言う通り、今日のリリィは薄黄色のワンピースドレスに緑のミュール姿だ。とても城の中を探索するような恰好ではない。

「う……で、でも……」

 小突かれた部分を撫でながら、リリィは下を向いた。

「どうしても登りたいなら、衣装はすぐに調達して貰うよ。ジャージとスニーカー程度なら、今日宿泊予定の家にも置いてあると思う。……どうする、天使?」

 諦めきれないリリィの様子を見かねたのか、明光がそう提案してくれた。リリィはヴィンセントの顔色をそろりとうかがう。

「良い?」

「好きにしろ。途中で音を上げたら置いて行くぞ」

「うん、絶対弱音は吐かない! アキテル、じゃあお願いします」

「了解。三十分だけ待っていてね」

 手でOKサインを作ってリリィに示すと、明光は素早くどこかに電話をした。服と足のサイズを訊かれて答えているリリィの背中に向かってヴィンセントは独り言ちる。

「……俺にはアレは無し、か……」



 明光が用意してくれた黒いジャージと真っ新なスニーカーに履き替えて、リリィはヴィンセントと共に天守閣を目指した。グランパとジャンヌはともかく、本条姉弟と明光が残ったのは意外だった。
 明光は「登ったことがあるから」だったが、月と雪は「面白いことになりそうだから」と意味深な理由で同行を辞退した。

「月がいないと解説してくれる人がいないよ?」とリリィが言ったが、月はリリィの肩を叩いて
「問題ない。観光客のおじさんが、頼まれなくても勝手に解説してくれるよ」と自信満々に述べ、渋々といった様子の二人を送りだした。

 大きさに差のある二つの背中を送りだすと、直後に月は雪に向き直る。

「さて、と。雪、いい加減に吐きなさい」

「いい加減って……どうせ姉さんと同じ考えだって解っているのに、あえて言葉にする意味ってあるの? 建設的じゃないよ。むしろ、野暮でしょ」

 とても十二歳と八歳の子供の遣り取りとは思えない。グランパとジャンヌが舌を巻いていると、姉弟を取り巻く空気を壊すように、にこにこと明光が割り込んだ。

「え、なに? あの二人の恋愛が発展するかどうかって話?」

 あまりに直球な物言いに、他の四人が言葉を失っているというのに、お構いなしに明光は一人で話を進める。

「俺はねー、まだ・・ムッシュウの独り相撲みたいな感じかな、って。でも、話題は天使のことが多いよね。彼はまだ保護者的な立ち位置で親愛と恋情の間を揺蕩たゆたっている。天使は恋愛どころじゃないね。完全に家族と接している感覚。でも、無意識なのかなあ。彼にだけは」

「大好き、って言わない」

「そう。雪くんの洞察眼に俺は毎度敬意を表する」

「あの二人にとって、亡くなったお兄さんの存在が大きすぎるんでしょ」

 ――なぜこの子供達は、たった一日や二日で何年も見守ってきたグランパ達が口にできなかったことを見極め、さも当然であるかのように語り合っているのだ。

 月は解る。リリィと同じく天才児としてフランスで飛び級をし、もう高校卒業資格を有している。アベルの葬儀にも参列してくれた。だが、雪と明光は違う。昨夜がまったくの初対面だ。しかし、ヴィンセントとリリィの間柄を適格に見極め、分析している。

 ジャンヌが性急すぎる、と無かった事にした話題だった。思わず彼女の口から疑問が零れた。

「……どうして」

「解るかって思いますよね、普通は。言葉にするのは難しいのですが……強いて言うなら姉さんと明光さんは感性が常人の何倍も強いせい。僕はさっきヴィンセントさんと話したからですかね」

 雪の落ち着いた回答に、ジャンヌはますます混乱してしまった。感性が強いと言われても、たったのひと時話しただけで見抜けるほどの洞察眼を持っていたとしても、この子供達は「鋭い」という一言だけでは済まされない。異常性すら感じ、背筋が寒くなる。
 ジャンヌの困惑した顔を見て、月が苦笑する。

「何を言っても理解には苦しむと思います。大人からすれば、私たちは本当にまだ子供で、保護者の庇護ひごの下で教育に励んでいる年齢なのでしょう。でも、私達はある意味で世間一般の子供とは一線を画すようになりました。信じがたいのかもしれませんが、こういう子供だと諦めて下されば幸いです。……決してあの二人を茶化したい訳じゃない。未来は無限に広がっているからこそ、親友を幸せにしてくれるかもしれない人を応援したいんです」

 ――リリィの未来は選び放題だねえ。

 アベルのあの喜びに満ちた声が反響する。この子供達も同じ言葉を使った。「未来は限られていない」と。グランパはそっと瞑目した。

「御見それした。世界は広いのぉ。こんな爺になって、世界の情報収集に長けていると自負していても、お前さん達のような子供や……アベルのような若者のほんの些細な一言に驚かされる」

「異端とも取られました。でも、これがありのままの姿なのだから、偽りの仮面は使い処さえ間違えなければ良いというのが私達の信条です」

 リリィは友人に恵まれた。願わくば、未だアベルの死に囚われているあの二人の未来に光があらんことを――グランパは先刻の月のように桜のドームを仰ぎ見た。



 城の中はひたすら狭い階段を登るだけの作業だった。体力にはあまり自信がないリリィにとっては苦行でしかなかったが、ただ天守閣を目指すという目標で頭がいっぱいだったので、余計な事を考える暇はないことが幸いだった。

「おい、大丈夫か? もうすぐ到着するから」

「ん、平気。……そういうヴィンセントはどうして疲れないの?」

「死神に『疲れ』という感覚はない」

 肩で息をしているリリィとは正反対だ。額の汗で前髪が張り付くのが不快で、リリィは何度も汗を袖で拭っている。呼吸もどんどん感覚が短くなって行くと言うのに、前を行くヴィンセントは汗どころか、呼吸の乱れもない。
 少し悔しいが、リリィは最後まで絶対に弱音を吐かなかった。最後の階段で、ヴィンセントが引き上げてやると小さく礼を言い、引き寄せられるように木の匂いの中、蒼穹が見える窓へと歩んでいく。
 空が近かった――見下ろした薄紅色の絨毯と黒い人波、そして暮れ行く空の青紫色に目が離せない。

「桜は散り様も綺麗、か」

「ええ、日本人の誇りですよ」

 リリィの呟きに返答があったことに驚いた。隣を見やると、眼鏡をかけた小太りの中年男性が笑顔を向けていた。月の言った通り、観光客が解説者になってくれる。

「どこからいらしたのかな?」
「フランスだ」

 リリィを守るように、ヴィンセントが牽制けんせいするような声で答えた。

「ほう、それは遠いところから。だが、日本語がお上手だ。ご存知かな? 桜は咲いても散っても美しい。けれど、花だけが美しいのではないのですよ」

「どういう、意味ですか?」

「桜はね、『樹皮染め』と言って、桜の樹を切って枝や樹皮を煮た染液から布を染めて、淡い桜色の染め物ができるのです」

「花じゃなくて、樹皮から色が出るの?」

「そうです。なかなか無いでしょ。せっかくこれから咲こうとしている樹を伐(き)ってしまうから、贅沢な染め物ですがね。もし詳しい方がお知り合いにいらしたら訊いてみると良い。それに桜の花も葉っぱも塩漬けにして食べますよ」

「あ、それは今朝のデザートで桜のムースが出たわ。美味しかったけど、独特な味がしました。……本当に、日本は桜で溢れているのね。中国は桃だったけれど」

 リリィがもっと聴きたいと言うように受け答えするせいもあってか、男性は笑みを深くして色々な知識をくれる。

「お隣なのに不思議でしょう。これからの日本は花が列島を埋め尽くしますよ。白木蓮はくもくれん辛夷こぶし躑躅つつじ沈丁花じんちょうげ、あとひと月もすれば百日紅さるすべりです。海外の方にはチューリップの方がお馴染みかな」

「みな、咲いて散っていくのね」

「そうです。精一杯生きて、その証を我々に示してから眠りにつく。そして、また一年が巡れば、また……」

「精一杯、生きて……でも、桜染めはこれからの命を奪うの? 人間のエゴで?」

「そうです。だからこそ、我々はその奪った命を纏い、或いは身につけ、己が朽ち果てる日までそれを愛しぬくべきだと私は思います。そして己が朽ちても、桜染めのモノは子や孫に、恵まれればもっと先の未来に遺していける」

「――未来に遺す……」

 リリィが呟くと、男性は背後からの視線に気づいて、わざと肩を竦めてみせた。

「おっと、少しお喋りが過ぎたかな? 妻が般若のように睨んでいます。――どうぞ良い旅を」

「ええ、貴重なお話しをありがとうございました」

 男性と握手を交わして別れると、リリィはヴィンセントに囁きかける。

「ねえ、ヴィンセント。アベルは桜の――いえ、花のような人だと思った」

「ほお、その真意は?」

「目いっぱいの愛をくれたわ。私という百合が育つように、と。自分のようにとは決して言わないけれど、彼は常に未来を見ていた。私は今でもアベルが大好きよ。でも、貴方やグランパやジャンヌ、それに月達……。私ね、初めて墓地で出逢った時、アベルは天使だと思った。救ってくれただけでも充分だったのに、慈しんで、愛してくれた。あんな最期だったけれど、確かに私達に遺して眠りについた。――本当に桜のよう」

 外を見ればすっかりと日は暮れ、群青が広がっていた。ライトアップがされているのか、白く浮かび上がる桜は月の言う通り、陽の下で見る物とはまるで別物のようだ。気がつけば、天守閣の中も人が少なくなっている。だが、唐突に今度はヴィンセントが語り始める。

「兄貴は、俺にとっても花だった。失ってから気づかされたのが悔しいが、あいつは確かに薔薇のような豪奢な花ではなく……樹の花だ。俺は口下手だから、月達のようにはうまく言えんが、アベルは俺にお前という百合を託して逝った。――だから、護りたい。俺はお前を……護らせて欲しい」

「ヴィンセントは、いつだって私を護ってくれているのに、まだ傍に居てくれるの?」

「約束する」

「ありがとう――嬉しい、大好きよ……ヴィンセント」

 ヴィンセントはこの時のリリィの泣きそうなのを堪えている笑顔が忘れられない。欲しかった言葉も、忘れはしないと心に誓った。



 天守閣から下りて、月達が待っているはずのベンチに向かうと、そこには人だかりができていた。なにごとかと二人で顔を見合わせ、人だかりを掻い潜って一番手前に辿り着くとそこには明光のヴァイオリンに合わせて歌う月の姿があった。
 二人はリリィとヴィンセントを見止めると、曲をひと段落させる。

「――では最後に、この壮大な桜に敬意を表して、この歌を」

 マイクなど無い。ただヴァイオリンは示し合わせたかのように甘くたかぶる、だがどこか哀しい音色を奏で始めた。
 その旋律に合わせる月の歌は、別れた誰かと『桜の下でもう一度逢うことができたなら――もう離しはしない』という熱烈な愛の歌だった。
 月の声は高く澄んで響き渡る。音響など無くても、彼女はたったの一小節で人を虜にする魔性の声の持ち主だった。人垣からは啜り泣きが聞こえてきた。

「良いから――我慢をするな」

 喉がカラカラになって唇を震わせていたリリィの頭をヴィンセントが柔く抱いた。
 淡い薔薇の香りの中で、リリィは声もなく泣いた。滂沱ぼうだと流れる涙を押しとどめることなどせず――あの日、アベルを失って泣き叫んだ時とは正反対にヴィンセントに縋って、溢れる涙で土を濡らした。

 夜桜は最高のステージだった。

 拍手喝采の中、月にまた飛びついたリリィを、月と明光はしゃぐしゃに撫でまわす。その様子をグランパやヴィンセントが見守る。

 空を支配した寝待月のように。


続...
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