薔薇の死神と神殺しの聖女

紺坂紫乃

文字の大きさ
上 下
9 / 14

しおりを挟む


 万神庁に時刻の概念はない。
 太陽や月ですら管理する神が住まっている、この広大な神殿は常に朝靄あさもやの中に居るように曖昧な建造物だ。人間が見れば、外観はギリシャのパルテノン神殿や日干し煉瓦が重なったローマの遺跡を彷彿とさせる。そう見えるように『仕組まれて』いるからだ。まず人間が万神庁に足を踏み入れることはないのだが、万全を期してということらしい、とヴィンセントは知識として知っていた。
 ヴィンセントは浅葱あさぎ色の空気の中、ゆうに五百メートルを超える回廊を進む。横幅も三メートル以上ある回廊を進めば自然と靴が鳴る音が木霊する。だが、彼の目的地はさらに奥だ。神界に時間の概念は無いが、人間界の方は有限なので急ぎ足になるのも自明の理であった。
 目的地の奥殿へは、ヴィンセントもこれが初の侵入である。ハウンドが供であれば先行させて様子を探れるのだが、生憎今の供はパンサーである。ハウンドと違い、忠義心に欠けるパンサーを物見に放ったところで期待通りの答えは返ってこないだろう。
 奥殿が近づくと、空気が一変する。

「……パンサー、期待はしていないが入り口はどうなっている?」

「んあ? えー……なんか、有刺鉄線で雁字搦がんがらめ」

「鍵はあるか?」

「無い。でも見張りが二人いるぜ。あ、俺、鎌になる? バッサリ斬って押し入っちゃう感じ? なあ、主」

「ちょっと黙れ」

 影の中で姿が見えないにしてもやかましい。ハウンドとは正反対だ。いつもこの調子なので、ヴィンセントはパンサーを無機物以外には使わない。これは自我が強すぎる。
 パンサーを黙らせ、ひとまず今は奥殿に入ることを優先する。見張りが生物なら、利はこちらにある。
 ヴィンセントは奥殿の入り口と現在地の間にある渡り廊下の影に入り、その石壁に手をついた。すると、青々とした茨が柱を伝い、奥殿まで走っていく。茨は見張り役の兵装者の上で止まり、海の色をした薔薇を咲かせる。
 青い薔薇からはもやに擬態した花粉が吹き出し「交代はまだか」などと談笑していた兵は、唐突に強烈な眠気に襲われて足元が覚束なくなった。

「お、おい!」

 同僚の異変にもう一人の兵が声を上げようとしたが、彼もまた襲い来る睡魔に抗えず、同僚に重なるようにその場に倒れた。

「ひゅーう! えげつないねえ、主! 痺れるぜ。んで、ここからが俺の出番……っておい!」

 倒れた兵の周囲をふよふよと軽薄な印象を受けるひょうが、さも楽しそうに倒れた兵の周囲を飛び回るが、それを完全に無視してヴィンセントは有刺鉄線に右手を当てる。

「……この封印は生きているな。問題は、内部か。パンサー、お前はここで見張りだ。この兵士達の影に入ってろ」

「えー!?」

「うるせえんだよ、心底な。連れていける訳ないだろ。呼んだら鎌の姿で来い――じゃあな」

 背後でぶちぶちと文句を垂れるパンサーを置いて、ヴィンセントは単独でまた影の中に入り、奥殿の最奥を一気に駆け抜けた。

「……ここが最奥、か」

 影の中を遁甲とんこうしていると、見えない障壁にぶつかった。ヴィンセントはそこで地上に出る。
 行き着いた場所は彼が想像していた様子とは、遥かにかけ離れていた。
 例えるならば人間界で訪れた薔薇園や森林公園の花園である。色とりどりの花々が咲く花壇に囲まれて、白百合で縛を施された涙型のクリスタルが中央で空に浮いていた。

「……これが、あの双神の封印?」

 ヴィンセントが怪訝な面持ちでクリスタルに近づこうとすると、周囲の花壇から茎が伸び、ヴィンセントの行く手を阻むバリケードが生まれた。

「ヴィンセント・シルバ、主神の許しなく、それ以上立ち入ることは認められません」

 厳しい女の声が飛んだ。ヴィンセントがおもむろに振り返ると、緩やかなウエーブがかかった栗色の髪を、団子状に纏めた女神が立っていた。

「クロリス……そうか、ここはあんたの管轄なのか。道理で花だらけな訳だ」

 血の色をした紅い目でクロリスを流し見て、ヴィンセントはくつりとマスクの下で喉を鳴らす。

「……なにが、可笑しいのです。死神」

「別に。やはり利は俺にあると思っただけさ」

 一歩たじろぐクロリスに、ヴィンセントは目にも止まらぬ速さで距離を詰める。

「な……!?」

「なあ、花の女神よ。死神と悪魔の違いはなんだと思う?」

 答えに窮すクロリスの隙を見計らって、ヴィンセントは彼女のうなじに薔薇の棘を打ち込んだ。思考と視界を奪われ、うまく頭が回らないクロリスの唇に毒を吹き込むようにヴィンセントは自身のそれを重ねる。僅かな毒にすら耐性がない女神のなんともろいことか。 ヴィンセントはより深く、毒が回るよう彼女の舌も甘く吸い上げた。

「……ぅ……」

 クロリスから甘い声が漏れ出た瞬間、彼はさらに彼女の腰に手を回して抱き寄せ、耳元で囁く。

「あのクリスタル……言い伝えでは、あの神にも等しい――否、それ以上の力を持つ双子の天使を封じているはずだったよな? 真実を教えてもらおうか」

 死神の甘美な問いに、クロリスは震える唇で語り始めた。


「外道! あんた、やっぱ外道だな!」

 万神庁からの帰り道、影の中でパンサーがぎゃんぎゃんと吼える。

「うるせえな。お前こそ職務放棄した上にあっさりとクロリスを通しやがって、薔薇に変えてやろうか」

「おっと、ご勘弁! だってさあ、俺みたいなチンピラ使い魔が高位の女神様に勝てる訳ないじゃん。あんたなら上手くやると思ったからこそ、道を譲ったんだぜ? でも、よくやるよなぁ。本命の女の為とは言え、他の女を駒同然に使うんだから。おっそろしい主を持ったもんだ」

「よほど薔薇に変えられてえみたいだな……パンサー」

 地を這うような声で脅してくる主人に向かって、肩を竦めるとパンサーは「おお、怖い」とおどけてその姿を消した。

「……なんだってやるさ。護ると決めたんだからな」

 独り言ちるヴィンセントの言葉を聞く者は、もう誰もいない。



 空が白む頃、姫路から神戸、神戸からさらに成田へと一行は、一昨日前に辿った道程を逆走した。ただ行きと違うのは、飛行機の隣がヴィンセントではなく、月だったことだ。加えて、ジャンヌの隣に居たのもグランパではないということ。

「月……ごめんね。せっかく一週間のお休み取ってくれたのに……雪や明光も」

「なに言ってんの。イレギュラーな事態なんだから、謝るのは違うでしょ。逆に一週間の休みがあって良かったよ。そうじゃなきゃ、グランパの葬儀に出席できないままだもんね。ご遺体は故郷のアイルランドに埋葬するんだって?」

「うん。一緒に住んでいた頃、何度も連れて行ってもらったし、故郷の話をよく話してもらったから、一番ふさわしい場所かなって。ずっと昔に亡くなったご家族も、そこで眠っているって言っていたから」

「そっか」

 飛行機の中では、時折月と話すばかりだった。本当に問い質したいことは、胸の奥に仕舞いこんで、リリィはドゴール空港に降りたった。

 翌日、ジャンヌが手配してくれたグランパの葬儀は昨日の今日であるにも拘わらず、世界中から人種を問わず、教会が溢れかえるほどの人が集まった。それだけでグランパの為人ひととなりが知れるが、同時に列席者の視線はどうあってもリリィに向けられていた。

(まるでお祖父様の葬儀のよう……)

 だが、あの時のように幼すぎる『クラン』の新惣領への陰口などリリィは気にもならなかった。

 ――ただ一つの声を除いては。

「……“聖なる百合サン・ド・リス”」

 懐かしくもリリィの心の傷をえぐる呼称に、思わずリリィの身が跳ねた。おそるおそる声の主を探すと、そこにはリリィと同じハニーブロンドと碧眼の青年が立っていた。記憶の中の姿よりも、やや影を帯びているのは気のせいだろうか。

「……ルイス=ブライアン……。お兄様、どうしてここに居るの?」

「ファロア家の現当主は僕だ。『クラン』にも少なからず世話になった。その僕が列席するのはおかしいかい?」

「……いいえ」

 なにかを恐れるように兄を見る、リリィの腕を月が引いたが、リリィは「実の兄なの。大丈夫」と月の手をやんわりと離した。

「少し話したい。――そちらの弁護士殿も一緒に。構わないかな?」

「ジャンヌも?」

「ああ、僕は君が『クラン』の新惣領だということに納得がいかないからね。抗議を申し立てに来た」

 ジャンヌと――自動的にヴィンセントも付いてきて、四人はファロア家が用意した黒のリムジンに乗り込んだ。

「密室には最適という訳だ」

 黒いスーツのネクタイを外しながら、ヴィンセントは車内を一瞥する。リリィを中心に右にヴィンセント、左にジャンヌが腰を据える。ブライアンはリリィの正面に座った。

「ああ、そうだとも。さて、時間が惜しい。単刀直入に申し上げるが、我がファロア家は次女リリィ=アンジェ・ファロアの親権を放棄していない。それにも拘らず、なぜリリィが『クラン』先代惣領エイモン・ジョーンズの遺産および組織の後継者に指名されたのか、ご説明願えますか。マダム・オクタヴィア?」

 この時、リリィとヴィンセントは初めてグランパとジャンヌの本名を知った。二人の視線を受けながら、ジャンヌはどこか嘲りを含んだようにブライアンに対峙する。

「ジャンヌで結構と何度も申し上げたはずですが、ムッシュウ・ファロア。それに、貴方、リリィの親権はとうの昔にジョーンズ氏に譲渡されていることもご存じないのかしら? そちらの弁護士は相変わらず役に立たないわね」

「な、僕は妹の親権譲渡を許可した覚えはない!!」

「貴方は、ね。でも、貴方とリリィのご両親は同意書にサインされたわ。貴方がご両親を闇から闇へと葬る前に」

 思いがけないジャンヌのセリフに、リリィは震える声で兄に尋ねた。

「お兄様……お父様とお母様を、殺したの?」

 無言は肯定である。ブライアンはリリィから視線を逸らした。

「それだけじゃない。貴方のお姉様のメイリア嬢もよ。事故に見せかけて、と依頼したの。わざわざ殺し屋にね」

 顔を蒼白にするリリィにジャンヌは、さらに衝撃の事実を容赦なく突き付ける。
 真面目で清廉潔白な兄だと思っていた。リリィにとっては、ブライアンだけは間違いなくファロアの家で唯一の味方だった。そんな兄が、両親と妹を手にかけることもいとわないよう変わってしまった。
 いったいこの数年で何が彼を変えてしまったのだろう。

「虐待を容認しているような連中を……僕は血を分けた家族だなんて認めない……!」

「はっ、結局お前は俺達と同じ穴のむじなだってことか。ルイス=ブライアン。やはりリリィをファロアの屋敷に返さなくて正解だったな。グランパの判断が正しかったことが証明されたってことだ」

「ボディガード風情が……何が解る!!」

「そのボディガード風情が良いことを教えてやるよ。お前が殺しを依頼したロイド・スティンガーって殺し屋と、もう連絡が取れないだろう? なぜか――簡単だ。殺し屋を殺したのは、俺だからさ」

 その場の全員が息をのんだ。しかし、リリィだけは、膝の上で拳を作って震えていた。その様子を妙に感じたヴィンセントが声をかけようとしたが、リリィは虚ろな眼で兄に最後通告を宣告した。

「お兄様……いいえ、ムッシュウ・ファロア。これで私の周囲から脅威は去りました。私はグランパの遺志を継ぎ、ジャンヌ・オクタヴィアを補佐役として『クラン』の惣領となります。どうか仕事以外ではこのパリに居ても私に近づかないで。もしこの禁を破られたら、貴方が相手でも容赦はしない……!」

「リリィ!!」

「話は終わりよ。友人を待たせているの。――それに私にはやらなければならないことが山積みだから、さようなら、ルイス=ブライアン」

 怜悧れいりな視線で兄に別れを告げると、リリィはリムジンを降りた。最後まで背後で兄が叫んでいる声が聞こえていたが、彼女が振り返ることはなかった。

「追い打ちをかけた俺が言うのは気が引けるが……あれで良かったのか、お前の兄貴」

「私は最良の選択をしたわ――これ以上、血の匂いを嗅ぎたくないの。ジャンヌ、アイルランドのダブリンに行く道中でも構わないから、新しい惣領として仕事の内容を教えてね」

 ヴィンセントに視線すら寄こさず、リリィはジャンヌに仕事の話を進めていく。

「リリィ?」

 置いて行かれるように距離を取られたヴィンセントは違和感を覚える。

 あのよく泣き、花がほころぶように笑う彼女の姿はどこへ行ってしまったのか。彼女が心から笑っているのを、この数日全く目にしていない。それどころか、ヴィンセントを避ける様子すら見せる。

 それは日本に帰る月達を見送った後も、ダブリンでグランパの遺体を埋葬した後も続いた。リリィはジャンヌには表情こそ乏しいものの、積極的に話しかける。グランパの故郷が見たい、と言い出してダブリン郊外の草原を散策した時も、決してヴィンセントの隣を歩こうとはしない。呼べば振り向きはするものの、話題は仕事のことばかりで、かつてサン・ミッシェルや姫路城で語らったような心許す話し方や話題は絶対にしないようになってしまった。
 先に苛立ちの限界が来たのはヴィンセントだった。

「おい、あのガキ。どうなってる!?」

 リリィがリセに戻った間、パソコン前で膨大な資料に埋もれているジャンヌに八つ当たり同然にヴィンセントは問い質す。

「知らないわよ。貴方が何か地雷を踏みぬいたんじゃないの? ……っていうか、貴方、あの子の心配すらしないのね。そういう姿勢じゃない? あと無神経さ」

「……は?」

「だから! 日本に居る本条姉弟は毎日のように心配してメールなり、チャットなりしているのに、肝心の貴方は本当に護衛しかしていないでしょ。アキテルまで気にかけてメールしてくれてるってのに。極めつけは姫路を発つ前よ。私でさえ気づいたのに、あの繊細で敏感なリリィにバレていないとでも思っているの? 薔薇の死神が、他の花の匂いをぷんぷんさせて……お楽しみはせめてグランパの葬儀が終わってからにして欲しかったわね」

 ジャンヌはディスプレイから視線を外さず、それだけをまくし立てた。さらに「ほら、お姫様のお迎えの時間よ」と猫を追い払うようにヴィンセントはアパルトマンから追い出されてしまった。
 カルチェ・ラタンに向かう道々、ヴィンセントは頭を抱えた。つまり自分は傷心のリリィに労りの声すらかけず、それどころか節操もわきまえずに女とよろしくやっていたと勘違いされている、とのことらしい。

「とんだ濡れ衣だ……」

 確かにリリィに対する配慮は欠けていたかもしれないが、後半はひどい誤解である。早く誤解を解かねば、今後に影響する。自然とヴィンセントの歩みが速くなった。



 リセの正門前で苛立ちながらリリィを待っていたが、一向に百合の香りがする気配がない。腕時計を確認すれば、時刻は四時になろうとしている。

「あ、天使のお迎え」

 ちょうど何度か見た事のあるリリィのクラスメイト――名前は知らないが、彼女が「リリィなら早退したわよ。顔色も悪かったから、そのまま先生がお迎えを呼んで帰していたもの」と衝撃的な事実を教えてくれた。
 迎えを呼んだ、ということはジャンヌかヴィンセントのどちらかに連絡が入ってくるはずなのに、それがない。ジャンヌが隠しているとは思えなかった。なにせ起きてからジャンヌはパソコン前に張り付いたままだ。

「……くそ、どこに行った!」

 急いでスマートフォンを取り出して、リリィの現在地を検索するが、向こうがGPSをオフにしているようで、彼女の居場所は依然として知れない。

「ハウンド、パンサー!」

 ついには使い魔に命じてリリィを探すはめになった。その間も心当たりのあるカフェやテラスに手あたり次第に入って行くがリリィの姿は見当たらなかった。


「匿ってくれてありがとう。ベル」

「本当に良かったのか? かなり必死だったじゃないか、彼」

 ベルナール・オーリックは、サン・ミッシェルのオーナーであるアラン翁夫妻の孫である。つまりは月と雪のはとこだ。年齢はルイス=ブライアンと同じくらい離れているが、子供の頃から面識がある上に本条姉弟とも仲が良いので、リリィも気安く話しかけられる。ヴィンセントは一番にサン・ミッシェルにリリィを探しに来たが、ベルがすっとぼけて追い払ってくれたのだ。

「まあ、ユエからも色々聞いているし、日本に移るまでの間なら俺は構わないんだけどさ……。でも、これはいつまでも続かないよ?」

「うん……解ってるつもりなんだけど……」

 やっと厨房の奥から出てきたリリィはベルナールとアラン翁に礼を言うとサン・ミッシェルを後にした。ヴィンセントならやりかねない、と使い魔の目を眩ませる為に守護神と天使まで総動員して気配を断ったリリィは、とぼとぼと家路に着く。
 ほんの少し離れていただけで、楽しかったカルチェ・ラタンも色せて見える。アベルやヴィンセントと毎日楽しくその日のくだらない話題で盛り上がっていたのに、今はあの日々が幻想だったようにすら思えてきた。

「あの夕焼け、こんなに哀しい色だったっけ?」

 通学路ではないノートルダム橋の上から、地平線に沈みゆく夕陽を眺めてリリィは呟く。セーヌから流れてくる春の風が肩まで伸びたリリィの髪を撫ぜては去っていく。何度も鳴るスマートフォンは電源を切っている。守護神らのおかげで、ヴィンセントには見つからない。これは幸いなのか、リリィの世界は激変してしまった。

 ――リリィ、僕の可愛い娘
 ――幸せにおなり

「ごめんね。二人とも……また泣き方も忘れちゃった。罰当たりな娘だね……」

 日本で感じた風とは違う春の匂いが橋の上を流れていく。日本の風は桜の匂い、草花の青々とした命の芽吹きに浸れたのに、嗅覚まで馬鹿になってしまったのか、パリの端の上はセーヌ河の流れが運んでくる水の匂いしか感じないのだ。

「ねえ、守護神……お願いがあるの」

『聞くだけ聞こう』

「……私を――」

 その先は肩を掴む強い力に遮られた。どきりと心臓と共に身体まで跳ねる。痛いほどの力で肩を掴まれ、逃げるに逃げられない。瞬間、恐怖すら感じた。だが、片手ではリリィを逃がすまいと必死で捕まえ、疲れを知らないはずの死神はどれほど走り回ったのか、呼吸が乱れている。

「……こんの馬鹿が!! パリを一周させる気か!!」

「……ヴィンセント、ごめんなさい……」

 怒鳴りつけられて以前なら委縮してしまっていたが、今はただ冷ややかに感情の籠らない詫びを口にする。
 そんなリリィをお構いなしにヴィンセントは強く彼女を引き寄せ、骨が軋みそうなくらいに抱きしめられた。

「……どれだけ心配したと思ってる……お前になにかあったら」

「心配? 嘘つき! 女の人の匂いまでさせていたくせに! グランパが亡くなった次の朝にさせてくるような節操なしが、どの口で私みたいな子供の心配を語るのよ!!」

 力では敵わないと解っていても、この腕の中には居たくなかった。口からはせきを切ったようにこれまで溜めに溜めた不満が溢れて止まらない。

「うるさい。ちょっと黙ってろ。言い訳は後でする」

「な、に――っ!!」

 耳元で喚く口を口で塞げば、少女は零れ落ちそうなほどに目を見開いて硬直する。軽く唇を離してやれば、呼吸の為に僅かに開いた口から舌を差し入れて、抱きしめる力も強めた。

 ――ようやくだ。

 ずっと欲しかった少女――独占したくて、日を重ねるごとに狂暴になって行く心がやっと安息を知る。
 だが、そんなヴィンセントとは裏腹に、リリィから返ってきたのは強烈な平手打ちだった。

「……嫌い……大っ嫌い!!」

「聞け、リリィ……頼む、聞いてくれ」

「嫌!! もうやだ、ヴィンセントなんか嫌い。嫌いなのに……どうしてキスされてドキドキするの!? わかんないよ……もうやめて……これ以上、苦しめないでよお……」

 橋の上で尻すぼみになって行くリリィの告白に、ヴィンセントは彼女の脇に手を差し入れて無理やり橋の欄干に座らせる。

「あのな、リリィ。耳かっぽじってよく聞け。確かに神界で女神にちょっかいはかけたが、キスしただけだ。断じてお前やジャンヌが想像しているような関係じゃない。俺はお前以外の女をそういう対象で見た事はない。確かにタイミングが悪かった。――だが、お前に憑いている守護神と天使について調べに行った。俺はお前が絡むと冷静じゃなくなるから……誤解を生んだのは悪かったと思っている」

「嘘」

「アベルに誓う。――嘘は一つも吐いていない。兄貴は俺の嘘を見抜くのが上手かったから、あいつにだけは嘘は通用しねえよ……だから、兄貴に誓う」

「……ずるい。私、まだちゃんと聞いてない。……私も、言ってないけど」

 紅い眼と碧い眼が交錯する。
 この日、リリィは初めてヴィンセントの笑顔を見た。

「好きだよ……お前しか要らない。必要ない。傍に居てくれ、愛しているから」

 ――きっと、恋に身を焦がす日がくるよ

 月は予言者だ、とリリィは耳元までじんじん響く血流の音を聞きながらそんなことを考えた。

「私も……ヴィンセントが好きみたい。さっきは嫌いって言って、ごめん……あと殴った」

「じゃあ、次はお前からキスしてくれ」

 にたりと、なにかを企んでいる明光のような顔でヴィンセントは笑う。

「そ、それは……心の準備ができるまで待って」

「あまり長くは待てない」

 夕焼けに背を向けて、またヴィンセントから唇が重ねられる。さっきのような乱暴なものではなく、二度目のキスはこれまで甘やかされていた日々が比べ物にならないくらい優しく甘やかだった。

続...
しおりを挟む