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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物
第1話:地を這う瞳
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湿り気を帯びた六月の風が、屋上のフェンスを揺らして低く鳴っていた。
黒瀬凪は、立ち入り禁止の鎖を跨いだ先の、コンクリートが剥き出しになった縁に背を預けていた。ここは校舎の中で最も空に近い場所であり、同時に、地上の喧騒を最も効率的に「鑑賞」できる観覧席でもある。
眼下には、昼休みという短い免罪符を与えられた生徒たちが、青々とした人工芝の校庭に溢れ出していた。 サッカーボールを追いかけ、意味のない叫び声を上げる男子生徒。円陣を組み、スマートフォンの画面を覗き込んでは、示し合わせたように高い声で笑う女子生徒。
(……浅瀬で睦み合う、無知な個体群)
黒瀬は、指先に残る微かなインクの汚れを見つめながら、喉の奥で冷たく呟いた。
彼にとって、地上の光景は「青春」などというキラキラした言葉で括れるものではない。それは、自意識という名の枷をはめられた多細胞生物が、互いの孤独を誤魔化すために演じている、拙い集団劇に過ぎなかった。
黒瀬は、生まれつき「賢すぎた」のだと思う。
それは学校の成績が良いといった、偏差値という物差しで測れる程度の話ではない。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、蛇が最も賢かったとされるように、彼は「余計なもの」に気づきすぎる性質を持って生まれてきた。
例えば、あそこで談笑しているグループの一人。リーダー格の男子の話に大袈裟に頷いている少年は、頷くたびにわずかに眉根を寄せている。彼は今、内心でその話の内容に反吐が出るほどの退屈を感じており、同時に「ここで笑い損ねれば、放課後のLINEグループから自分が消されるのではないか」という薄汚い恐怖に支配されている。
黒瀬の耳には、彼らが発する音声よりも先に、その背後にへばりついた「濁った本音」が届いてしまう。
微かな瞳の揺らぎ。呼吸の浅さ。言葉の端々に混じる、自己防衛のための微かな毒。
洞察力という名の、研ぎ澄まされたメス。
黒瀬は望まずとも、周囲の人間の精神を解剖し、その内側に詰まった卑怯さや、臆病さや、無自覚な残虐さを露わにしてしまうのだ。
「……反吐が出る」
吐き捨てた言葉は、重く湿った空気に溶けていった。
全てを疑わずにいられない。裏のない善意などこの世には存在せず、全ての微笑みには何らかの計算が、全ての沈黙には何らかの逃避が潜んでいる。
それを知っている黒瀬にとって、世界は欺瞞に満ちた泥沼だった。そして、その泥沼に浸かりながら「私たちは幸せだ」と信じ込んでいる彼らが、狂っているようにしか見えなかった。
その時、黒瀬の視線がある一点で止まった。
校庭のちょうど中央。まるでそこだけがスポットライトを浴びているかのように輝いて見える、一際「無垢」な一団。
安堂朔夜と、一ノ瀬唯花。
安堂は、クラスの、いや学年の中心だった。
整った顔立ちに、常に絶やさない柔和な微笑み。誰に対しても分け隔てなく親切で、彼の周りには常に穏やかな空気が流れている。
その隣に並ぶ一ノ瀬唯花もまた、雪のような純粋さを纏っていた。控えめだが芯が強く、他人のために自分を犠牲にすることを厭わない。
二人は、この醜悪な教室という檻の中にあって、唯一「楽園」を体現している存在だった。
彼らは信じているのだ。世界は美しく、人は分かり合えるものであり、善意は必ず報われるのだと。
黒瀬の胸の奥で、黒い澱のような感情がじわりと広がった。
それは嫉妬であり、憎悪であり、そして抗いがたい執着だった。
なぜ、自分だけがこの泥沼の深さを知っていなければならないのか。なぜ、彼らだけがその泥の上を、汚れを知らぬ足取りで歩いていけるのか。
皆に愛され、醜い感情など微塵も知らないという顔をして過ごす二人。
その「無知」という名の特権が、黒瀬には許しがたかった。
(――ああ、どうか。君たちもこちら側へ堕ちてくればいいのに)
信じていた楽園がただの幻想であることを知り、隣にいる人間を疑い、自分の内側に潜む邪悪さに絶望して欲しかった。
黒瀬は、フェンスを掴む手に力を込めた。
(安堂、君のその完璧な笑顔は、いつまで保つのかな)
(一ノ瀬、君が信じているその隣の男が、君を裏切る瞬間の顔が見てみたい)
蛇は、最も賢いがゆえに、最も邪悪な役割を引き受ける。
それは誘惑などという甘い言葉ではない。
「知恵」という名の、戻ることのできない毒を彼らの血管に流し込むことだ。
一度でもその毒を知ってしまえば、二人は二度と、あんな風に何も疑わずに笑うことはできない。
目が開け、善悪を知る者となり、己の裸を恥じるようになる。
それこそが、黒瀬が彼らに与えてやりたい、唯一の「救済」だった。
「……さあ、始めようか。君たちが、自分たちの『知恵』で壊れていく様を」
黒瀬凪は、屋上の縁から静かに身を引いた。
彼の「蛇の瞳」が、二人を標的として捉えた瞬間だった。
教室に戻る階段を下りながら、黒瀬は頭の中で綿密な計算を開始した。
安堂朔夜という「アダム」をどう揺さぶるか。
一ノ瀬唯花という「イブ」に、どうやって実を食べさせるか。
五限目の予鈴が鳴り響く。
それは、楽園崩壊の序曲のように、黒瀬の耳には心地よく響いていた。
黒瀬凪は、立ち入り禁止の鎖を跨いだ先の、コンクリートが剥き出しになった縁に背を預けていた。ここは校舎の中で最も空に近い場所であり、同時に、地上の喧騒を最も効率的に「鑑賞」できる観覧席でもある。
眼下には、昼休みという短い免罪符を与えられた生徒たちが、青々とした人工芝の校庭に溢れ出していた。 サッカーボールを追いかけ、意味のない叫び声を上げる男子生徒。円陣を組み、スマートフォンの画面を覗き込んでは、示し合わせたように高い声で笑う女子生徒。
(……浅瀬で睦み合う、無知な個体群)
黒瀬は、指先に残る微かなインクの汚れを見つめながら、喉の奥で冷たく呟いた。
彼にとって、地上の光景は「青春」などというキラキラした言葉で括れるものではない。それは、自意識という名の枷をはめられた多細胞生物が、互いの孤独を誤魔化すために演じている、拙い集団劇に過ぎなかった。
黒瀬は、生まれつき「賢すぎた」のだと思う。
それは学校の成績が良いといった、偏差値という物差しで測れる程度の話ではない。
主なる神が造られた野の生き物のうちで、蛇が最も賢かったとされるように、彼は「余計なもの」に気づきすぎる性質を持って生まれてきた。
例えば、あそこで談笑しているグループの一人。リーダー格の男子の話に大袈裟に頷いている少年は、頷くたびにわずかに眉根を寄せている。彼は今、内心でその話の内容に反吐が出るほどの退屈を感じており、同時に「ここで笑い損ねれば、放課後のLINEグループから自分が消されるのではないか」という薄汚い恐怖に支配されている。
黒瀬の耳には、彼らが発する音声よりも先に、その背後にへばりついた「濁った本音」が届いてしまう。
微かな瞳の揺らぎ。呼吸の浅さ。言葉の端々に混じる、自己防衛のための微かな毒。
洞察力という名の、研ぎ澄まされたメス。
黒瀬は望まずとも、周囲の人間の精神を解剖し、その内側に詰まった卑怯さや、臆病さや、無自覚な残虐さを露わにしてしまうのだ。
「……反吐が出る」
吐き捨てた言葉は、重く湿った空気に溶けていった。
全てを疑わずにいられない。裏のない善意などこの世には存在せず、全ての微笑みには何らかの計算が、全ての沈黙には何らかの逃避が潜んでいる。
それを知っている黒瀬にとって、世界は欺瞞に満ちた泥沼だった。そして、その泥沼に浸かりながら「私たちは幸せだ」と信じ込んでいる彼らが、狂っているようにしか見えなかった。
その時、黒瀬の視線がある一点で止まった。
校庭のちょうど中央。まるでそこだけがスポットライトを浴びているかのように輝いて見える、一際「無垢」な一団。
安堂朔夜と、一ノ瀬唯花。
安堂は、クラスの、いや学年の中心だった。
整った顔立ちに、常に絶やさない柔和な微笑み。誰に対しても分け隔てなく親切で、彼の周りには常に穏やかな空気が流れている。
その隣に並ぶ一ノ瀬唯花もまた、雪のような純粋さを纏っていた。控えめだが芯が強く、他人のために自分を犠牲にすることを厭わない。
二人は、この醜悪な教室という檻の中にあって、唯一「楽園」を体現している存在だった。
彼らは信じているのだ。世界は美しく、人は分かり合えるものであり、善意は必ず報われるのだと。
黒瀬の胸の奥で、黒い澱のような感情がじわりと広がった。
それは嫉妬であり、憎悪であり、そして抗いがたい執着だった。
なぜ、自分だけがこの泥沼の深さを知っていなければならないのか。なぜ、彼らだけがその泥の上を、汚れを知らぬ足取りで歩いていけるのか。
皆に愛され、醜い感情など微塵も知らないという顔をして過ごす二人。
その「無知」という名の特権が、黒瀬には許しがたかった。
(――ああ、どうか。君たちもこちら側へ堕ちてくればいいのに)
信じていた楽園がただの幻想であることを知り、隣にいる人間を疑い、自分の内側に潜む邪悪さに絶望して欲しかった。
黒瀬は、フェンスを掴む手に力を込めた。
(安堂、君のその完璧な笑顔は、いつまで保つのかな)
(一ノ瀬、君が信じているその隣の男が、君を裏切る瞬間の顔が見てみたい)
蛇は、最も賢いがゆえに、最も邪悪な役割を引き受ける。
それは誘惑などという甘い言葉ではない。
「知恵」という名の、戻ることのできない毒を彼らの血管に流し込むことだ。
一度でもその毒を知ってしまえば、二人は二度と、あんな風に何も疑わずに笑うことはできない。
目が開け、善悪を知る者となり、己の裸を恥じるようになる。
それこそが、黒瀬が彼らに与えてやりたい、唯一の「救済」だった。
「……さあ、始めようか。君たちが、自分たちの『知恵』で壊れていく様を」
黒瀬凪は、屋上の縁から静かに身を引いた。
彼の「蛇の瞳」が、二人を標的として捉えた瞬間だった。
教室に戻る階段を下りながら、黒瀬は頭の中で綿密な計算を開始した。
安堂朔夜という「アダム」をどう揺さぶるか。
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