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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物
第2話:『善人』の滑稽
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五時限目のチャイムが鳴り響き、気だるい午後の授業が始まった。
窓際の後方という、教室全体を斜め後ろから俯瞰できる席に黒瀬凪は座っている。教科書を開き、教師の退屈な朗読をBGMに流しながら、彼の視線は前方の、ちょうど教室の「陽だまり」のような場所に固定されていた。
そこには、安堂朔夜がいる。
彼は今、数学のプリントを回収している最中だが、その足取りは至極ゆっくりとしたものだった。なぜなら、列を移動するたびに誰かに呼び止められ、頼まれごとを引き受けているからだ。
「安堂、悪い!これ、ついでに提出しといてくんね?」
「あ、朔夜くん、ノート写させてくれない?先週休んじゃって……」
「安堂くーん、文化祭のアンケート、これ預かってもらえる?」
その一つひとつに対し、安堂は一度たりとも嫌な顔を見せない。
むしろ、待っていましたと言わんばかりの柔和な微笑みを浮かべ、
「いいよ、任せて」
「ノート、放課後ロッカーに入れとくね」と、鈴の鳴るような声で応じている。
黒瀬は、その光景を頬杖をつきながら、冷ややかな眼差しで眺めていた。
周囲の連中は安堂を「聖人君子」か何かのように崇めているが、黒瀬の目には、彼はただの「無料配布の便利屋」にしか映らない。
(笑止千万だな)
黒瀬の思考が、安堂朔夜という個体を切り刻み始める。
安堂が行っているのは「献身」ではない。それは、自分の価値を極限まで暴落させ、他人に差し出すことで得られる、安っぽい居場所の確保に過ぎない。
黒瀬が観察する限り、安堂を頼る連中の瞳に「感謝」の色は薄い。
あるのは「安堂ならやってくれるだろう」という慢心と、「こいつを使って自分の手間を省こう」という、無意識下の搾取だ。彼らは安堂を人間として尊重しているのではない。ただ、機能性の高い道具として重宝しているだけだ。
そして何より滑稽なのは、安堂自身がそのことに全く気づいていない――あるいは、気づかないふりをしていることだった。
「はい、黒瀬くん。プリント、もらってもいいかな?」
いつの間にか、安堂が黒瀬の席の横に立っていた。
至近距離で見るその笑顔は、恐ろしいほどに純粋だった。陶器のように整った肌、一点の曇りもない瞳。その「無垢」が、黒瀬の逆鱗に微かに触れる。
「……あぁ」
黒瀬は無表情のままプリントを差し出した。
安堂の手が触れる。その瞬間、安堂は少しだけ、不思議そうに首を傾げた。
「黒瀬くん、今日は一段と静かだね。何か、困ってることとかある?僕にできることなら、何でも言ってね」
何でも言ってね。
その言葉に含まれた絶対的な善意に、黒瀬は奥歯が浮くような嫌悪感を覚えた。
自分にできることなど、彼には一つもありはしない。この男が守っている「平和」は、彼自身の無知と、周囲の甘えが作り出した、薄氷の上の楽園だ。
「別に。……安堂くんこそ、そんなに色々背負い込んで大丈夫なの? 感謝もされない雑用まで、一人で引き受けて」
黒瀬は、あえて毒を含んだ言葉を投げた。
安堂は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにまたふわりとした笑みを浮かべた。
「え? ああ、みんな困ってるみたいだから。僕がやることで、少しでもクラスが回るなら、それでいいんだ。感謝なんて、そんなの、いいよ」
嘘だ。
黒瀬の知恵が、安堂の言葉を即座に否定した。
安堂の微笑みの端、わずかに動いた頬の筋肉。それは「自分を否定されたくない」という防衛本能の証だ。彼は「良い人」でいることでしか、自分の存在意義を確認できない呪いにかかっている。
「そう。……効率の悪い生き方だね」
黒瀬がそう突き放すと、安堂は「そうかなぁ」と困ったように笑い、次の列へと移動していった。
安堂が去った後の空気は、彼が振りまいた偽りの温もりが残っていて、ひどく居心地が悪かった。
黒瀬は再び窓の外を見る。
空は青く、平和そのものだ。だが、この平和を維持するために、安堂朔夜という男は自分の「個」を削り続け、搾取されることを「喜び」と履き違えている。
(あんなものは、美徳でも何でもない)
あれは欠陥だ。
自分という意志を持たず、他人の欲望を流し込むための器でしかない。
安堂が本当に守りたいのは、クラスの平和などではない。自分という人間が「誰にとっても無害で、価値のある道具である」という、偽りの全能感だ。
その隣で、一ノ瀬唯花が安堂に駆け寄るのが見えた。
彼女は安堂が抱えたプリントの山を半分取ってやり、「朔夜くん、手伝うよ」と微笑んでいる。
アダムとイブ。
互いの欠陥を補い合っているつもりで、実際には共依存という名の底なし沼に足を踏み入れている。
唯花は、安堂を助けているのではない。安堂という「搾取される犠牲者」を救う自分に酔っているだけだ。
黒瀬は、ノートの端に小さく蛇の鱗のような模様を描いた。
(安堂、君がその『善意の仮面』を剥がされた時、そこに何が残るのか。自分を搾取し続けていた連中を、君が初めて『憎い』と思った時、どんな色になるのか)
黒瀬の胸の内で、静かな愉悦が泡立つ。
知恵の実を与えるのは、まだ先でいい。
まずは、この男がいかに自分が「便利な道具」としてしか扱われていないかを、本人の自覚の隙間に滑り込ませる必要がある。
安堂朔夜。
君のその、美しくも無価値な献身を、俺が木っ端微塵にしてやるよ。
それが、君が本当の意味で「人間」になるための、最初の洗礼だ。
授業終了のベルが鳴った。
安堂はまた、別の生徒に「掃除代わって!」と頼まれている。
黒瀬は、それをただ、冷酷に見つめていた。
窓際の後方という、教室全体を斜め後ろから俯瞰できる席に黒瀬凪は座っている。教科書を開き、教師の退屈な朗読をBGMに流しながら、彼の視線は前方の、ちょうど教室の「陽だまり」のような場所に固定されていた。
そこには、安堂朔夜がいる。
彼は今、数学のプリントを回収している最中だが、その足取りは至極ゆっくりとしたものだった。なぜなら、列を移動するたびに誰かに呼び止められ、頼まれごとを引き受けているからだ。
「安堂、悪い!これ、ついでに提出しといてくんね?」
「あ、朔夜くん、ノート写させてくれない?先週休んじゃって……」
「安堂くーん、文化祭のアンケート、これ預かってもらえる?」
その一つひとつに対し、安堂は一度たりとも嫌な顔を見せない。
むしろ、待っていましたと言わんばかりの柔和な微笑みを浮かべ、
「いいよ、任せて」
「ノート、放課後ロッカーに入れとくね」と、鈴の鳴るような声で応じている。
黒瀬は、その光景を頬杖をつきながら、冷ややかな眼差しで眺めていた。
周囲の連中は安堂を「聖人君子」か何かのように崇めているが、黒瀬の目には、彼はただの「無料配布の便利屋」にしか映らない。
(笑止千万だな)
黒瀬の思考が、安堂朔夜という個体を切り刻み始める。
安堂が行っているのは「献身」ではない。それは、自分の価値を極限まで暴落させ、他人に差し出すことで得られる、安っぽい居場所の確保に過ぎない。
黒瀬が観察する限り、安堂を頼る連中の瞳に「感謝」の色は薄い。
あるのは「安堂ならやってくれるだろう」という慢心と、「こいつを使って自分の手間を省こう」という、無意識下の搾取だ。彼らは安堂を人間として尊重しているのではない。ただ、機能性の高い道具として重宝しているだけだ。
そして何より滑稽なのは、安堂自身がそのことに全く気づいていない――あるいは、気づかないふりをしていることだった。
「はい、黒瀬くん。プリント、もらってもいいかな?」
いつの間にか、安堂が黒瀬の席の横に立っていた。
至近距離で見るその笑顔は、恐ろしいほどに純粋だった。陶器のように整った肌、一点の曇りもない瞳。その「無垢」が、黒瀬の逆鱗に微かに触れる。
「……あぁ」
黒瀬は無表情のままプリントを差し出した。
安堂の手が触れる。その瞬間、安堂は少しだけ、不思議そうに首を傾げた。
「黒瀬くん、今日は一段と静かだね。何か、困ってることとかある?僕にできることなら、何でも言ってね」
何でも言ってね。
その言葉に含まれた絶対的な善意に、黒瀬は奥歯が浮くような嫌悪感を覚えた。
自分にできることなど、彼には一つもありはしない。この男が守っている「平和」は、彼自身の無知と、周囲の甘えが作り出した、薄氷の上の楽園だ。
「別に。……安堂くんこそ、そんなに色々背負い込んで大丈夫なの? 感謝もされない雑用まで、一人で引き受けて」
黒瀬は、あえて毒を含んだ言葉を投げた。
安堂は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにまたふわりとした笑みを浮かべた。
「え? ああ、みんな困ってるみたいだから。僕がやることで、少しでもクラスが回るなら、それでいいんだ。感謝なんて、そんなの、いいよ」
嘘だ。
黒瀬の知恵が、安堂の言葉を即座に否定した。
安堂の微笑みの端、わずかに動いた頬の筋肉。それは「自分を否定されたくない」という防衛本能の証だ。彼は「良い人」でいることでしか、自分の存在意義を確認できない呪いにかかっている。
「そう。……効率の悪い生き方だね」
黒瀬がそう突き放すと、安堂は「そうかなぁ」と困ったように笑い、次の列へと移動していった。
安堂が去った後の空気は、彼が振りまいた偽りの温もりが残っていて、ひどく居心地が悪かった。
黒瀬は再び窓の外を見る。
空は青く、平和そのものだ。だが、この平和を維持するために、安堂朔夜という男は自分の「個」を削り続け、搾取されることを「喜び」と履き違えている。
(あんなものは、美徳でも何でもない)
あれは欠陥だ。
自分という意志を持たず、他人の欲望を流し込むための器でしかない。
安堂が本当に守りたいのは、クラスの平和などではない。自分という人間が「誰にとっても無害で、価値のある道具である」という、偽りの全能感だ。
その隣で、一ノ瀬唯花が安堂に駆け寄るのが見えた。
彼女は安堂が抱えたプリントの山を半分取ってやり、「朔夜くん、手伝うよ」と微笑んでいる。
アダムとイブ。
互いの欠陥を補い合っているつもりで、実際には共依存という名の底なし沼に足を踏み入れている。
唯花は、安堂を助けているのではない。安堂という「搾取される犠牲者」を救う自分に酔っているだけだ。
黒瀬は、ノートの端に小さく蛇の鱗のような模様を描いた。
(安堂、君がその『善意の仮面』を剥がされた時、そこに何が残るのか。自分を搾取し続けていた連中を、君が初めて『憎い』と思った時、どんな色になるのか)
黒瀬の胸の内で、静かな愉悦が泡立つ。
知恵の実を与えるのは、まだ先でいい。
まずは、この男がいかに自分が「便利な道具」としてしか扱われていないかを、本人の自覚の隙間に滑り込ませる必要がある。
安堂朔夜。
君のその、美しくも無価値な献身を、俺が木っ端微塵にしてやるよ。
それが、君が本当の意味で「人間」になるための、最初の洗礼だ。
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