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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物
第3話:搾取される無垢
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放課後の教室は、西日のオレンジ色に染め上げられ、埃の粒子が光の筋の中で無数に踊っていた。
多くの生徒が部活動や遊びへと繰り出し、静寂が戻りつつある教室で、黒瀬凪は一人、自分の席で読書を続けていた。……ふりをしていた。
彼の視線は、開かれたページの文字ではなく、教室の後方、掃除用具入れの近くで一人立ち尽くしている一ノ瀬唯花に注がれていた。
「あーあ、またか」
黒瀬は心の中で小さく毒づく。
今日の清掃当番は、唯花の他にも三人の女子生徒がいたはずだった。しかし彼女たちは、
「塾がある」
「急用ができた」
などと、耳を澄ませば子供でも見抜けるような稚拙な言い訳を並べ立て、その全ての皺寄せを唯花に押し付けて去っていった。
そして唯花はと言えば、その嘘を疑うどころか、「大変だね、ゆっくり休んで」などと、聖母のような微笑みで見送ったのだ。
(知能が低い、というよりも、もはや生存本能が欠落しているな)
黒瀬は、ペンを回しながら彼女の動作を観察する。
唯花は一人、重い机を動かし、床を掃き、ゴミをまとめる。その指先は細く、慣れない重労働に時折震えているのが、遠目からでも分かった。
黒瀬にとって、彼女のその「献身」は、安堂のそれよりもさらに質が悪いものに映った。
安堂が「自分の居場所を確保するための投資」として善人を行っているのに対し、唯花は「自分が傷ついていることにすら気づかない」ほど、精神の防衛膜が薄い。あるいは、他人の悪意を自分の内側で強引に「善意」へと濾過してしまう、致命的なバグを抱えている。
「一ノ瀬さん、まだ残ってたんだ」
黒瀬は本を閉じ、音もなく立ち上がって彼女に近づいた。
唯花は驚いたように肩を揺らし、振り返る。その瞳は夕日を反射して、吸い込まれそうなほど純粋で、透明だった。その透明さが、黒瀬の胸の奥にある「知恵の毒」を疼かせる。
「あ、黒瀬くん。……うん、もう少しで終わるから。黒瀬くんも、勉強頑張ってたんだね」
彼女は、額の汗を制服の袖で拭いながら、ふわりと笑った。
その笑みに、黒瀬は言いようのない苛立ちを覚える。
「……他の当番はどうしたの。三人いたはずだろう」
黒瀬の問いに、唯花は少しだけ困ったように眉を下げた。
「みんな、急な用事ができちゃったみたいで。……でも大丈夫、私、今日はお母さんも遅いから、時間はたっぷりあるの」
「用事、ね。……君は、あいつらが廊下に出た途端に駅前のカフェの話をしていたのを聞かなかったのか? 一ノ瀬なら文句言わないし、押し付けちゃおうって、笑い合っていた声を」
黒瀬はあえて、彼女が濾過して捨て去ったはずの「真実」を、目の前に突きつけた。 唯花の表情が一瞬、凍りついたように静止する。
黒瀬は期待した。
彼女の瞳に、初めて「怒り」や「不信」の色が混ざることを。
だが、唯花が数秒の沈黙の後に口にしたのは、黒瀬の予想を斜め上に裏切る言葉だった。
「……きっと、そうやって明るく振る舞わないと、申し訳なくて帰れなかったのかも。私に気を遣わせないように、わざと楽しく話していただけだと思うな」
(……正気か?)
黒瀬は、思わず絶句した。
彼女の知能指数を疑うべきか、それともその病的なまでの善意を憐れむべきか。
彼女は、自分を搾取している連中の中にさえ、「理由」という名の救いを見つけ出そうとする。それは優しさなどではない。現実を直視する勇気がないだけの、臆病な逃避だ。
「君は、自分がどれだけ馬鹿なことを言っているか自覚してる? 拒絶という選択肢を持たないのは、優しさじゃない。ただの思考放棄だ。……君は、誰かに利用されるために生まれてきたのか?」
黒瀬の言葉は、鋭い刃となって唯花の無防備な自意識を切り刻む。
唯花は、床を見つめたまま立ち尽くした。
彼女の白い指が、モップの柄をぎゅっと握りしめる。
「……私は、疑うのが怖いの」
絞り出すような、小さな声だった。
「誰かを疑って、もしその人が本当に困っていたら……その人を傷つけてしまう。だったら、私が一人で掃除をするくらい、なんてことないよ。黒瀬くんみたいに、みんなが強くないから……」
みんなが強くないから。
その言葉に、黒瀬は激しい拒絶反応を覚えた。
彼女は、搾取する側の醜さを、自分の「強さ」という美徳で正当化してしまったのだ。
「……滑稽だな。君がそうやって汚れを一人で引き受けている間に、あいつらは君を『便利なゴミ箱』だと認識し始める。一度味をしめた人間は、二度と君を対等な人間としては扱わない」
黒瀬は、彼女の隣を通り抜け、教室の出口へと向かう。
「君が信じているその『無垢』は、ただの欠陥だ。……いつか、その重みに耐えきれなくなって壊れる日が来る。その時、君の隣に誰もいないことに気づいても、もう遅いよ」
唯花の返事はなかった。
背後で、再びモップが床を擦る、乾いた音が聞こえ始めた。
黒瀬は廊下を歩きながら、自分の手のひらを見つめる。
彼女の「無知という名の幸福」を、木っ端微塵に破壊してやりたい。
その透明な瞳が、絶望に染まり、濁り、自分と同じ「知恵」の苦しみを知る瞬間を、この眼で確認したい。
安堂朔夜という「アダム」と、一ノ瀬唯花という「イブ」。
一方は虚栄のために、一方は臆病のために、その身を削り合っている。
(楽しみだよ、一ノ瀬。君が自分の『愚かさ』に気づいて、初めて誰かを呪いたくなった時……その時初めて、君は本当の意味で目覚めるんだ)
校門を出ると、夕闇が街を飲み込もうとしていた。
蛇は闇の中で、次の一手を静かに練り上げる。
楽園の壁を壊すのは、外側からの力ではない。内側に潜む、彼ら自身の「不完全さ」なのだから。
多くの生徒が部活動や遊びへと繰り出し、静寂が戻りつつある教室で、黒瀬凪は一人、自分の席で読書を続けていた。……ふりをしていた。
彼の視線は、開かれたページの文字ではなく、教室の後方、掃除用具入れの近くで一人立ち尽くしている一ノ瀬唯花に注がれていた。
「あーあ、またか」
黒瀬は心の中で小さく毒づく。
今日の清掃当番は、唯花の他にも三人の女子生徒がいたはずだった。しかし彼女たちは、
「塾がある」
「急用ができた」
などと、耳を澄ませば子供でも見抜けるような稚拙な言い訳を並べ立て、その全ての皺寄せを唯花に押し付けて去っていった。
そして唯花はと言えば、その嘘を疑うどころか、「大変だね、ゆっくり休んで」などと、聖母のような微笑みで見送ったのだ。
(知能が低い、というよりも、もはや生存本能が欠落しているな)
黒瀬は、ペンを回しながら彼女の動作を観察する。
唯花は一人、重い机を動かし、床を掃き、ゴミをまとめる。その指先は細く、慣れない重労働に時折震えているのが、遠目からでも分かった。
黒瀬にとって、彼女のその「献身」は、安堂のそれよりもさらに質が悪いものに映った。
安堂が「自分の居場所を確保するための投資」として善人を行っているのに対し、唯花は「自分が傷ついていることにすら気づかない」ほど、精神の防衛膜が薄い。あるいは、他人の悪意を自分の内側で強引に「善意」へと濾過してしまう、致命的なバグを抱えている。
「一ノ瀬さん、まだ残ってたんだ」
黒瀬は本を閉じ、音もなく立ち上がって彼女に近づいた。
唯花は驚いたように肩を揺らし、振り返る。その瞳は夕日を反射して、吸い込まれそうなほど純粋で、透明だった。その透明さが、黒瀬の胸の奥にある「知恵の毒」を疼かせる。
「あ、黒瀬くん。……うん、もう少しで終わるから。黒瀬くんも、勉強頑張ってたんだね」
彼女は、額の汗を制服の袖で拭いながら、ふわりと笑った。
その笑みに、黒瀬は言いようのない苛立ちを覚える。
「……他の当番はどうしたの。三人いたはずだろう」
黒瀬の問いに、唯花は少しだけ困ったように眉を下げた。
「みんな、急な用事ができちゃったみたいで。……でも大丈夫、私、今日はお母さんも遅いから、時間はたっぷりあるの」
「用事、ね。……君は、あいつらが廊下に出た途端に駅前のカフェの話をしていたのを聞かなかったのか? 一ノ瀬なら文句言わないし、押し付けちゃおうって、笑い合っていた声を」
黒瀬はあえて、彼女が濾過して捨て去ったはずの「真実」を、目の前に突きつけた。 唯花の表情が一瞬、凍りついたように静止する。
黒瀬は期待した。
彼女の瞳に、初めて「怒り」や「不信」の色が混ざることを。
だが、唯花が数秒の沈黙の後に口にしたのは、黒瀬の予想を斜め上に裏切る言葉だった。
「……きっと、そうやって明るく振る舞わないと、申し訳なくて帰れなかったのかも。私に気を遣わせないように、わざと楽しく話していただけだと思うな」
(……正気か?)
黒瀬は、思わず絶句した。
彼女の知能指数を疑うべきか、それともその病的なまでの善意を憐れむべきか。
彼女は、自分を搾取している連中の中にさえ、「理由」という名の救いを見つけ出そうとする。それは優しさなどではない。現実を直視する勇気がないだけの、臆病な逃避だ。
「君は、自分がどれだけ馬鹿なことを言っているか自覚してる? 拒絶という選択肢を持たないのは、優しさじゃない。ただの思考放棄だ。……君は、誰かに利用されるために生まれてきたのか?」
黒瀬の言葉は、鋭い刃となって唯花の無防備な自意識を切り刻む。
唯花は、床を見つめたまま立ち尽くした。
彼女の白い指が、モップの柄をぎゅっと握りしめる。
「……私は、疑うのが怖いの」
絞り出すような、小さな声だった。
「誰かを疑って、もしその人が本当に困っていたら……その人を傷つけてしまう。だったら、私が一人で掃除をするくらい、なんてことないよ。黒瀬くんみたいに、みんなが強くないから……」
みんなが強くないから。
その言葉に、黒瀬は激しい拒絶反応を覚えた。
彼女は、搾取する側の醜さを、自分の「強さ」という美徳で正当化してしまったのだ。
「……滑稽だな。君がそうやって汚れを一人で引き受けている間に、あいつらは君を『便利なゴミ箱』だと認識し始める。一度味をしめた人間は、二度と君を対等な人間としては扱わない」
黒瀬は、彼女の隣を通り抜け、教室の出口へと向かう。
「君が信じているその『無垢』は、ただの欠陥だ。……いつか、その重みに耐えきれなくなって壊れる日が来る。その時、君の隣に誰もいないことに気づいても、もう遅いよ」
唯花の返事はなかった。
背後で、再びモップが床を擦る、乾いた音が聞こえ始めた。
黒瀬は廊下を歩きながら、自分の手のひらを見つめる。
彼女の「無知という名の幸福」を、木っ端微塵に破壊してやりたい。
その透明な瞳が、絶望に染まり、濁り、自分と同じ「知恵」の苦しみを知る瞬間を、この眼で確認したい。
安堂朔夜という「アダム」と、一ノ瀬唯花という「イブ」。
一方は虚栄のために、一方は臆病のために、その身を削り合っている。
(楽しみだよ、一ノ瀬。君が自分の『愚かさ』に気づいて、初めて誰かを呪いたくなった時……その時初めて、君は本当の意味で目覚めるんだ)
校門を出ると、夕闇が街を飲み込もうとしていた。
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