智恵の実は、まだ熱い

篠雨

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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物

第4話:失われた楽園の記憶

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 夜。黒瀬凪の自室は、最低限の明かりだけが灯された冷たい静寂に包まれていた。 

 机の上には、開きっぱなしの古ぼけた聖書と、何冊かの哲学書が積まれている。彼は椅子に深く沈み込み、天井を見つめていた。

(神は蛇を、どの生き物よりも賢く造った。……それ自体が、最初の呪いだったのではないか)

 黒瀬は、時折考える。 

 なぜ、自分には見えてしまうのか。なぜ、他人の言葉の裏にある腐臭や、笑顔の隙間に隠された打算を、吸い込む空気のように理解してしまうのか。  

 それは、幸福を享受する権利の剥奪だった。 

 何も知らなければ、安堂朔夜の笑顔を「優しさ」だと信じられただろう。一ノ瀬唯花の献身を「尊いもの」だと、共に涙を流せたかもしれない。 

 だが、黒瀬の脳はその情報を拒絶する。 
 彼らが「善」だと思い込んでいるものの正体が、単なる自己防衛や思考放棄の変種であることを、解析し尽くしてしまう。

 彼らには、世界がどう見えているのだろうか。

 安堂と一ノ瀬。あの二人が纏う空気は、あまりに眩しすぎる。 
 それは、かつて数千年も前に、神に愛されていた最初の人間たちが持っていた「無垢」そのものだ。

 神の愛を疑わず、恥じることもなく、ただそこに存在することを許されていた存在。 
 自分という「個」の境界線すら曖昧なまま、世界を丸ごと肯定できていた者たち。   

 黒瀬は、彼らが憎かった。  

 自分は、生まれた時から「裸」ですらなかった。 

 知恵という名の服を無理やり着せられ、他人の眼差しという鏡に映る自分の醜さを、常に意識させられて生きてきた。 

 他人が自分をどう評価するか。自分のこの一言が、どういった利害関係を生むか。そんなことばかりを秒単位で演算し、泥の上を這うように生きてきた。

 なのに、あいつらはどうだ。  

  安堂は、自分が搾取されていることすら知らないまま「善人」を演じている。 

 一ノ瀬は、自分が踏みにじられていることすら自覚せずに「聖女」を演じている。   

智恵の実を食べ、楽園を追放された先がこの地であるはずなのに。

 あいつらはこの泥沼の中でなお、知恵など知らないフリをして、綺麗な存在であり続けている。

(ふざけるなよ。……何が楽園だ)

 黒瀬の胸の奥で、鋭い爪が心臓をひっかくような、乾いた嫉妬が暴れる。 

 それは、彼らが幸福であることへの怒りではない。

 彼らが「自分たちの不完全さ」にすら気づかぬまま、世界を愛していることへの、耐えがたい拒絶だった。  

 かつて、蛇は人間に実を食わせた。 

 それは単なる悪意だったのだろうか。あるいは、あまりに孤独だった蛇が、自分と同じ「苦しみ」を分かち合える相手を欲した、歪んだ求愛だったのではないか。

 知恵とは、すなわち「断絶」だ。 

 自分と他人が違うことを知り、言葉が真意を伝えないことを悟り、愛がいつか冷めることを予見する力。 

 その毒を飲み込んだ者だけが、初めて「個」としての孤独な歩みを始める。

「……君たちも、知るべきだ」

 黒瀬は暗闇の中で、独り言を漏らす。

「何も疑わずにいられる時間は、もう終わりだ。……君たちが信じているその楽園は、ただの厚紙でできた書き割りに過ぎない。それを僕が、一枚ずつ丁寧に剥がしてやる」

 安堂が、自分の笑顔の裏にある「卑屈な虚栄」を自覚したとき。 

 一ノ瀬が、自分の献身の裏にある「拒絶への恐怖」に震えたとき。  

  彼らは初めて、神の腕の中から放り出され、この冷たい泥の上に、僕と同じ高さにまで墜ちてくる。 

 その瞬間を想像するだけで、黒瀬の血管に熱い愉悦が駆け巡る。   

 嫉妬ではない。これは、彼らを救済する儀式だ。 

 いつまでも子供のまま、搾取され、搾取し合う偽りの幸福に浸っている彼らを、知恵という名の「現実」で殴り倒してやること。  

  黒瀬凪という蛇は、孤独だ。 

 だからこそ、彼は誰よりも鮮やかに、その楽園を燃やし尽くす方法を知っている。  

 明日。

 明日、また学校へ行けば、あの眩しい二人がそこにいる。 

 安堂が周囲に愛嬌を振りまき、一ノ瀬が他人の不始末を片付けている。

「……あと少し。あと少しで、その綺麗な瞳が濁る」

 黒瀬は本を閉じ、照明を消した。

 暗闇に慣れた彼の瞳は、もはや光を必要としていない。 

 ただ静かに、獲物が罠にかかる瞬間を待つ、深淵のような冷たさを湛えていた。

 楽園の記憶は、もういらない。 
 知恵という名の火を放ち、灰の中から生まれる「真実」だけを、彼は欲していた。
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