智恵の実は、まだ熱い

篠雨

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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物

第5話:毒の調合

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「あの美しい無知が、現実に直面して壊れる様が見たい」 

 その欲動は、黒瀬凪の内で形を成し、具体的な計画へと昇華されていた。

 ただ遠くから嘲笑っているだけでは足りない。彼らの皮膚の内側に、じわりと染み込むような遅効性の毒を流し込む必要がある。そのためには、蛇はまず、彼らの警戒心を解き、懐へと滑り込まねばならなかった。

 機会は、期末試験を一週間後に控えた放課後の図書室で訪れた。

 静寂が支配する館内の片隅で、安堂朔夜と一ノ瀬唯花が頭を突き合わせていた。二人の間には数学の教科書が広げられ、安堂が困ったようにペンを回し、唯花が申し訳なさそうにノートを覗き込んでいる。

「……あ、安堂くん、ここ。多分、公式の使い方が違うんだと思う。ごめんね、私もうまく説明できなくて」 

「いや、唯花が謝ることないよ。僕がもっとちゃんと授業聞いてればよかったんだ。……うーん、これ、誰かに聞かないとまずいかな」

 安堂が周囲を見渡す。そこへ、黒瀬は音もなく近づいた。その手には、彼らのレベルを遥かに超越した難解な数学の専門書が握られている。

「……そこは、導関数の定義を勘違いしている」

 低く、抑揚のない声。二人が驚いたように顔を上げる。

「黒瀬くん」 

「あ、えっと、数学得意なんだっけ……?」

 黒瀬は無表情のまま、二人のテーブルに視線を落とした。安堂のノートは、計算の跡でひどく散らかっている。誰にでも親切な男は、自分の脳内を整理することすら、他人への配慮にリソースを割きすぎて疎かになっているらしい。

「得意かどうかは知らないが。……安堂くんがさっきから同じところで躓いているのは、屋上の隅から見ていても分かるレベルだ」

 黒瀬はあえて、突き放すような、けれど「正論」という名の餌を投げた。安堂のようなタイプは、自分を正してくれる知性に弱い。

「えっ、あ、そんなに分かりやすかったかな。……参ったな、恥ずかしいよ。もしよかったら、少しだけ教えてもらえないかな。黒瀬くん、頭良いって有名だし」

 安堂が、いつもの「懐に飛び込む」笑顔を見せる。黒瀬はその笑顔の奥にある、自分より優れた者への微かな劣等感と、それを覆い隠すための愛嬌を冷徹に見抜く。

「……別にいいよ。僕もここで自習するつもりだったから」

 黒瀬は椅子を引き、安堂の隣に座った。唯花は少し緊張した面持ちで、黒瀬を眩しいものでも見るような目で見つめている。

「ありがとうございます、黒瀬くん。……朔夜くん、よかったね」 

「うん、助かるよ。黒瀬くん、本当にお願いします」

 毒の調合は、ここから始まる。 

 黒瀬は、まずは極めて誠実に「家庭教師」の役割を演じた。安堂の理解の穴を的確に指摘し、唯花の思考の遅さを論理的にフォローする。二人は、黒瀬の鮮やかな解法に感嘆し、次第に緊張を解いていった。

(まずは『有用な存在』だと認識させること。……警戒心を捨てさせ、依存の土壌を作る)

 二時間はあっという間に過ぎた。 

 勉強会が終わり、図書室が閉館の時間を迎える頃には、二人の黒瀬に対する眼差しには、明らかな「信頼」が混じっていた。

「黒瀬くん、本当にありがとう! おかげでやっと光が見えたよ。……ねぇ、明日も教えてもらえないかな?」

 安堂が、期待に満ちた瞳で黒瀬を見る。黒瀬は、心の中で冷たい舌なめずりをした。

「……気が向けば。ただ、安堂くんは少し『他人を頼る』のが癖になりすぎている気がするけど」

 ポツリと、最初の棘を潜ませる。

「え?」

「いや。……明日もここで待ってるよ」

 黒瀬はそれ以上何も言わず、荷物をまとめて立ち上がった。

 背後で、安堂と唯花が「黒瀬くんって、案外優しいんだね」「うん、ちょっと不器用なだけかも」と囁き合う声が聞こえる。

 優しい。不器用。 

 彼らが自分に貼り付けたそのラベルを、黒瀬は心底軽蔑した。

(おめでたい連中だ。……蛇が牙を隠しているのは、優しさからだと思っているのか?)

 黒瀬凪は、黄昏時の校舎を歩きながら、胸の内で毒を攪拌する。 

 勉強を教えるという行為は、彼らにとっての「薬」に見えるだろう。だが、それは安堂の自立心を奪い、唯花の盲信を加速させるための前段階に過ぎない。

 薬と毒は、紙一重だ。 
 二人の輪に深く入り込み、その中心から「知恵の実」を差し出す。 

 その時、彼らはそれを「黒瀬くんからのアドバイス」だと信じて、喜んで飲み込むだろう。

「……さあ、味付けを始めようか」

 黒瀬は校門を出て、一度だけ振り返った。 

 夕闇に沈む校舎。そのどこかで、まだ自分を「友人」だと勘違いし始めている二人の、無垢な笑い声が響いているような気がした。
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