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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物
第6話:観察の距離感
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「三人」という形が、いつの間にかクラスの風景として定着し始めていた。
昼休みの学食の片隅、あるいは放課後の図書室。中心にいるのは常に、太陽のような快活さを放つ安堂朔夜であり、その傍らには、月のように穏やかな微笑みを湛えた一ノ瀬唯花がいる。
そしてその円環の、わずかに外側に、黒瀬凪という「異物」が鎮座していた。
黒瀬にとって、この距離は絶好の観察ポイントだった。
遠く屋上から眺めていた時とは違い、今は二人の呼吸の乱れ、声の微かな震え、そして視線の交差に含まれる無意識のメッセージまでを、文字通り手に取るように把握できる。
「……なぁ、黒瀬。ここの構文、昨日教えてもらった通りに訳したんだけど、これで合ってるか?」
安堂が、身を乗り出すようにしてノートを黒瀬に差し出す。その距離は、親しい友人としてのそれだ。黒瀬は微かに鼻をつく安堂の柔軟剤の香りに、生理的な嫌悪を覚えながらも、それを表情には出さない。
「……あぁ、概ね問題ない。ただ、安堂くん。君はいつも『直訳』に逃げるよね。言葉の裏にある話し手の意図を汲み取るのが、どうも苦手らしい」
「うっ、痛いところを突くね。……意図かぁ。僕は、言葉通りに受け取るのが一番誠実だと思っちゃうんだけどな」
安堂は苦笑いしながら、後頭部を掻いた。
黒瀬はその「苦笑い」を、見逃さない。それは自分を卑下しているようでいて、実際には「言葉の裏を読まない自分こそが清廉潔白である」という、無意識の優越感に支えられた表情だ。
(自覚なき傲慢。……君の言う誠実さは、単なる思考の怠慢だよ、安堂くん)
黒瀬は冷徹に分析する。安堂は、相手の本心に向き合うのが怖いのだ。だから「言葉通り」という盾に隠れ、波風を立てないことだけを優先する。
「朔夜くんは、優しいからだよ」
隣で、唯花が慈しむような声を出す。彼女は安堂のために購買で買ってきたお茶のキャップを開け、当たり前のように彼に手渡した。
「人を疑わないのは、素敵なことだと思うな。私は、そんな朔夜くんを尊敬してるよ」
唯花の言葉は、甘い蜜のようだ。安堂はその蜜を疑うことなく飲み込み、「唯花にそう言ってもらえると、救われるよ」と相好を崩す。
その光景を、黒瀬は冷めた紅茶を啜りながら見つめていた。
唯花は、安堂の「思考放棄」を「優しさ」と定義し、安堂は唯花の「盲信」を「理解」と受け取る。二人は互いの欠陥を、美しい言葉の包装紙で丁寧に包み込み、腐敗が進んでいることに気づかない。
(共依存の完成系、というわけか。……反吐が出るほどに純粋だ)
黒瀬は、唯花の視線を追ってみた。彼女の瞳は安堂に向けられているが、その奥にあるのは「安堂を支える自分」への陶酔だ。彼女は安堂という光に寄り添うことで、自分の輪郭を保っている。安堂が欠陥だらけであればあるほど、彼女の価値は高まるのだ。
「……一ノ瀬さん。君も、もう少し自分のために時間を使ったらどうだ。安堂くんのノート整理まで引き受けていたら、君自身の予習が疎かになる」
黒瀬が淡々と指摘すると、唯花は驚いたように瞬きをした。
「えっ……? あ、私なら大丈夫だよ。朔夜くんはいつもみんなのために頑張ってるから、これくらい、なんでもないの」
「『なんでもない』が口癖だね。……君のその自己犠牲は、いつか安堂くんを駄目にするとは思わないのか?」
空気が、一瞬だけ凍りついた。
安堂と唯花が、同時に黒瀬を見る。黒瀬は動じることなく、二人の瞳の奥に、初めて「小さな疑念」の種が落ちるのを確認した。
「……あはは、黒瀬は相変わらず手厳しいなぁ。でも、確かに一ノ瀬には甘えすぎちゃってるかも。ごめんね、唯花」
「ううん、そんなことないよ! 黒瀬くん、ちょっと考えすぎだよ」
二人は笑ってその場を収めようとしたが、その笑い声は、先ほどまでの純度を失い、どこか不自然に響いた。
黒瀬は確信する。 今、二人の心という密室に、一筋の冷たい隙間風を送り込んだ。
知恵という名の猛毒を、彼らはまだ「厳しい助言」だと思い込んでいる。
「……そう。考えすぎなら、それでいい」
黒瀬は立ち上がり、トレイを片付け始めた。
背中越しに感じる二人の視線。それは、もはや「不気用な友人」を見るものではない。自分たちの楽園に、見たこともない鋭利な刃を持ち込んだ「蛇」への、無意識の恐怖が混じり始めていた。
(観察のフェーズは、もう十分だ。……そろそろ、アダムの足元を崩しに行こうか)
午後の光が差し込む廊下を歩きながら、黒瀬凪は静かに微笑んだ。
彼の心の中では、次の「対話」という名の解剖手術の準備が、着々と整いつつあった。
昼休みの学食の片隅、あるいは放課後の図書室。中心にいるのは常に、太陽のような快活さを放つ安堂朔夜であり、その傍らには、月のように穏やかな微笑みを湛えた一ノ瀬唯花がいる。
そしてその円環の、わずかに外側に、黒瀬凪という「異物」が鎮座していた。
黒瀬にとって、この距離は絶好の観察ポイントだった。
遠く屋上から眺めていた時とは違い、今は二人の呼吸の乱れ、声の微かな震え、そして視線の交差に含まれる無意識のメッセージまでを、文字通り手に取るように把握できる。
「……なぁ、黒瀬。ここの構文、昨日教えてもらった通りに訳したんだけど、これで合ってるか?」
安堂が、身を乗り出すようにしてノートを黒瀬に差し出す。その距離は、親しい友人としてのそれだ。黒瀬は微かに鼻をつく安堂の柔軟剤の香りに、生理的な嫌悪を覚えながらも、それを表情には出さない。
「……あぁ、概ね問題ない。ただ、安堂くん。君はいつも『直訳』に逃げるよね。言葉の裏にある話し手の意図を汲み取るのが、どうも苦手らしい」
「うっ、痛いところを突くね。……意図かぁ。僕は、言葉通りに受け取るのが一番誠実だと思っちゃうんだけどな」
安堂は苦笑いしながら、後頭部を掻いた。
黒瀬はその「苦笑い」を、見逃さない。それは自分を卑下しているようでいて、実際には「言葉の裏を読まない自分こそが清廉潔白である」という、無意識の優越感に支えられた表情だ。
(自覚なき傲慢。……君の言う誠実さは、単なる思考の怠慢だよ、安堂くん)
黒瀬は冷徹に分析する。安堂は、相手の本心に向き合うのが怖いのだ。だから「言葉通り」という盾に隠れ、波風を立てないことだけを優先する。
「朔夜くんは、優しいからだよ」
隣で、唯花が慈しむような声を出す。彼女は安堂のために購買で買ってきたお茶のキャップを開け、当たり前のように彼に手渡した。
「人を疑わないのは、素敵なことだと思うな。私は、そんな朔夜くんを尊敬してるよ」
唯花の言葉は、甘い蜜のようだ。安堂はその蜜を疑うことなく飲み込み、「唯花にそう言ってもらえると、救われるよ」と相好を崩す。
その光景を、黒瀬は冷めた紅茶を啜りながら見つめていた。
唯花は、安堂の「思考放棄」を「優しさ」と定義し、安堂は唯花の「盲信」を「理解」と受け取る。二人は互いの欠陥を、美しい言葉の包装紙で丁寧に包み込み、腐敗が進んでいることに気づかない。
(共依存の完成系、というわけか。……反吐が出るほどに純粋だ)
黒瀬は、唯花の視線を追ってみた。彼女の瞳は安堂に向けられているが、その奥にあるのは「安堂を支える自分」への陶酔だ。彼女は安堂という光に寄り添うことで、自分の輪郭を保っている。安堂が欠陥だらけであればあるほど、彼女の価値は高まるのだ。
「……一ノ瀬さん。君も、もう少し自分のために時間を使ったらどうだ。安堂くんのノート整理まで引き受けていたら、君自身の予習が疎かになる」
黒瀬が淡々と指摘すると、唯花は驚いたように瞬きをした。
「えっ……? あ、私なら大丈夫だよ。朔夜くんはいつもみんなのために頑張ってるから、これくらい、なんでもないの」
「『なんでもない』が口癖だね。……君のその自己犠牲は、いつか安堂くんを駄目にするとは思わないのか?」
空気が、一瞬だけ凍りついた。
安堂と唯花が、同時に黒瀬を見る。黒瀬は動じることなく、二人の瞳の奥に、初めて「小さな疑念」の種が落ちるのを確認した。
「……あはは、黒瀬は相変わらず手厳しいなぁ。でも、確かに一ノ瀬には甘えすぎちゃってるかも。ごめんね、唯花」
「ううん、そんなことないよ! 黒瀬くん、ちょっと考えすぎだよ」
二人は笑ってその場を収めようとしたが、その笑い声は、先ほどまでの純度を失い、どこか不自然に響いた。
黒瀬は確信する。 今、二人の心という密室に、一筋の冷たい隙間風を送り込んだ。
知恵という名の猛毒を、彼らはまだ「厳しい助言」だと思い込んでいる。
「……そう。考えすぎなら、それでいい」
黒瀬は立ち上がり、トレイを片付け始めた。
背中越しに感じる二人の視線。それは、もはや「不気用な友人」を見るものではない。自分たちの楽園に、見たこともない鋭利な刃を持ち込んだ「蛇」への、無意識の恐怖が混じり始めていた。
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