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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物
第7話:微かな『濁り』
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放課後の喧騒が遠ざかった、誰もいない特別棟の廊下。
黒瀬凪は、自動販売機の横で一人、缶コーヒーを煽っていた。不自然なほどに無機質な空間に、背後から近づく足音が響く。
「……あ、黒瀬。こんなところにいたんだ」
安堂朔夜だった。その表情には、いつもの眩しいほどの陽光は宿っていない。夕闇の影が彼の整った顔立ちに落ち、どこか疲れ果てた影を落としていた。
「何の用だ。また勉強の質問か?」
黒瀬は缶をゴミ箱に放り込み、振り返らずに尋ねた。安堂は黒瀬の隣に並び、深く、吐き出すような溜息をついた。
「いや、今日は……ちょっと、誰とも話したくなくて。でも、黒瀬なら、変に気を遣わなくていいかなって思って」
誰とも話したくない。
安堂朔夜の口から出たその言葉は、彼が必死に守り続けてきた「全方位に親切な自分」という聖域が、内側から腐食し始めている証拠だった。
黒瀬は心の中で冷たく、舌なめずりをする。
「おかしなことを言うね、安堂くん。君は、誰とでも話せるからこそ、クラスの太陽でいられるんだろう? 君を頼りにしている連中が、外で君を待っている。君が『いいよ』と言ってくれるのを、口を開けて待っているよ」
あえて突き放すような皮肉を投げた。安堂は自嘲気味に笑い、壁に頭を預けた。
「……そうだね。僕が『いいよ』って言えば、みんな笑ってくれる。みんなが笑ってくれるなら、僕が少し無理をすればいいだけなんだ。それが僕の……役割なんだと思う」
(役割、か。……なんて傲慢で、ひどく卑屈な言葉だ)
黒瀬は、安堂の横顔をじっと見据えた。
安堂の瞳の奥、そこに「濁り」が浮かんでいた。それは、他人への献身に対する見返りがないことへの不満ではない。
「本当は嫌だと言いたいのに、それを言ったら誰も自分を見てくれなくなる」という、底なしの恐怖心。愛されるための条件として「善」を演じ続けなければならない、奴隷のそれだ。
「安堂くん、君はさっき一ノ瀬さんの前で笑っていただろう。来月の文化祭、実行委員を押し付けられた時だ」
安堂の肩が、微かに跳ねた。
「……一ノ瀬さんは心配していたよ。君が無理をしているんじゃないかって。でも君は『唯花のためなら頑張れる』なんて、映画の台詞みたいなことを言っていた」
「それは……本当だよ。唯花には、心配かけたくないし」
「嘘だね」
黒瀬の声が、静かな廊下に鋭く突き刺さった。
「君は唯花さんのためじゃなく、唯花さんに『自分を犠牲にしてまで頑張る格好いい安堂朔夜』だと思われたかっただけだ。……そして、君のその顔。今、君は一ノ瀬さんのことさえ、少し『重い』と感じているだろう?」
「……っ! 黒瀬、お前……!」
安堂が黒瀬の襟首を掴もうと手を伸ばしたが、黒瀬はそれを冷たく払いのけた。
安堂の呼吸が激しくなる。その瞳には、かつてないほどの激動――怒りと、そして「見透かされたこと」への絶望が混ざり合っていた。
「自分の心の色に、気づいていないふりをするのはもうやめたらどうだ。君が唯花さんに注いでいるのは愛情じゃない。自分の価値を確認するための、一方的な押し付けだ。……そして、彼女がそれに純粋に応えようとすればするほど、君は自分の偽善が浮き彫りになって、苦しくなる。違うか?」
安堂は、言葉を失った。
彼がこれまで必死に隠してきた、内側の醜い空洞。そこにあるのは、誰をも愛していない自分への嫌悪だった。
黒瀬の「蛇の瞳」は、安堂が自分自身からさえ逃げようとしていた真実を、白日の下に晒し出した。
「……黒瀬。君は、本当に……最低だ」
安堂の声は、震えていた。
「でも。……指摘された通りだよ。僕は、自分がどう思われるかしか考えてない。みんなの願いを聞くのも、唯花を助けるのも、全部……。本当は、全部、投げ出したくてたまらないんだ」
アダムの告白。
楽園の住人が、初めて自分の内側にある「不浄」を認めた瞬間だった。
黒瀬は、その絶望に染まった安堂の顔を見て、深い満足感を覚えた。
「それでいい、安堂くん。……まずは自分の醜さを知ることだ。それが、君が『本物の人間』になるための、唯一の入り口なんだから」
黒瀬は、呆然と立ち尽くす安堂を残し、その場を去った。
階段を降りる足取りは軽く、胸の奥では黒い愉悦が静かに脈打っている。
アダムの化けの皮に、一筋の深い裂け目を入れた。
次は、その裂け目から見える景色を、イブ――一ノ瀬唯花にどう見せるかだ。
(濁ってきたね、安堂。……その色が、君に一番似合っているよ)
夕闇が完全に廊下を飲み込み、黒瀬の微笑みだけが闇に溶けていった。
黒瀬凪は、自動販売機の横で一人、缶コーヒーを煽っていた。不自然なほどに無機質な空間に、背後から近づく足音が響く。
「……あ、黒瀬。こんなところにいたんだ」
安堂朔夜だった。その表情には、いつもの眩しいほどの陽光は宿っていない。夕闇の影が彼の整った顔立ちに落ち、どこか疲れ果てた影を落としていた。
「何の用だ。また勉強の質問か?」
黒瀬は缶をゴミ箱に放り込み、振り返らずに尋ねた。安堂は黒瀬の隣に並び、深く、吐き出すような溜息をついた。
「いや、今日は……ちょっと、誰とも話したくなくて。でも、黒瀬なら、変に気を遣わなくていいかなって思って」
誰とも話したくない。
安堂朔夜の口から出たその言葉は、彼が必死に守り続けてきた「全方位に親切な自分」という聖域が、内側から腐食し始めている証拠だった。
黒瀬は心の中で冷たく、舌なめずりをする。
「おかしなことを言うね、安堂くん。君は、誰とでも話せるからこそ、クラスの太陽でいられるんだろう? 君を頼りにしている連中が、外で君を待っている。君が『いいよ』と言ってくれるのを、口を開けて待っているよ」
あえて突き放すような皮肉を投げた。安堂は自嘲気味に笑い、壁に頭を預けた。
「……そうだね。僕が『いいよ』って言えば、みんな笑ってくれる。みんなが笑ってくれるなら、僕が少し無理をすればいいだけなんだ。それが僕の……役割なんだと思う」
(役割、か。……なんて傲慢で、ひどく卑屈な言葉だ)
黒瀬は、安堂の横顔をじっと見据えた。
安堂の瞳の奥、そこに「濁り」が浮かんでいた。それは、他人への献身に対する見返りがないことへの不満ではない。
「本当は嫌だと言いたいのに、それを言ったら誰も自分を見てくれなくなる」という、底なしの恐怖心。愛されるための条件として「善」を演じ続けなければならない、奴隷のそれだ。
「安堂くん、君はさっき一ノ瀬さんの前で笑っていただろう。来月の文化祭、実行委員を押し付けられた時だ」
安堂の肩が、微かに跳ねた。
「……一ノ瀬さんは心配していたよ。君が無理をしているんじゃないかって。でも君は『唯花のためなら頑張れる』なんて、映画の台詞みたいなことを言っていた」
「それは……本当だよ。唯花には、心配かけたくないし」
「嘘だね」
黒瀬の声が、静かな廊下に鋭く突き刺さった。
「君は唯花さんのためじゃなく、唯花さんに『自分を犠牲にしてまで頑張る格好いい安堂朔夜』だと思われたかっただけだ。……そして、君のその顔。今、君は一ノ瀬さんのことさえ、少し『重い』と感じているだろう?」
「……っ! 黒瀬、お前……!」
安堂が黒瀬の襟首を掴もうと手を伸ばしたが、黒瀬はそれを冷たく払いのけた。
安堂の呼吸が激しくなる。その瞳には、かつてないほどの激動――怒りと、そして「見透かされたこと」への絶望が混ざり合っていた。
「自分の心の色に、気づいていないふりをするのはもうやめたらどうだ。君が唯花さんに注いでいるのは愛情じゃない。自分の価値を確認するための、一方的な押し付けだ。……そして、彼女がそれに純粋に応えようとすればするほど、君は自分の偽善が浮き彫りになって、苦しくなる。違うか?」
安堂は、言葉を失った。
彼がこれまで必死に隠してきた、内側の醜い空洞。そこにあるのは、誰をも愛していない自分への嫌悪だった。
黒瀬の「蛇の瞳」は、安堂が自分自身からさえ逃げようとしていた真実を、白日の下に晒し出した。
「……黒瀬。君は、本当に……最低だ」
安堂の声は、震えていた。
「でも。……指摘された通りだよ。僕は、自分がどう思われるかしか考えてない。みんなの願いを聞くのも、唯花を助けるのも、全部……。本当は、全部、投げ出したくてたまらないんだ」
アダムの告白。
楽園の住人が、初めて自分の内側にある「不浄」を認めた瞬間だった。
黒瀬は、その絶望に染まった安堂の顔を見て、深い満足感を覚えた。
「それでいい、安堂くん。……まずは自分の醜さを知ることだ。それが、君が『本物の人間』になるための、唯一の入り口なんだから」
黒瀬は、呆然と立ち尽くす安堂を残し、その場を去った。
階段を降りる足取りは軽く、胸の奥では黒い愉悦が静かに脈打っている。
アダムの化けの皮に、一筋の深い裂け目を入れた。
次は、その裂け目から見える景色を、イブ――一ノ瀬唯花にどう見せるかだ。
(濁ってきたね、安堂。……その色が、君に一番似合っているよ)
夕闇が完全に廊下を飲み込み、黒瀬の微笑みだけが闇に溶けていった。
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