智恵の実は、まだ熱い

篠雨

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第1部:【知恵】泥を這う、高みの見物

第8話:「盲目」の虚像

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 安堂朔夜の様子がおかしいことに、クラスの誰もが気づき始めていた。

 相変わらず頼まれごとは引き受けている。笑顔も絶やさない。だが、その微笑みは以前のような「陽光」ではなく、どこか無理やり引き伸ばされた「仮面」のような不自然さを帯びていた。

 そして、その変化に最も敏感に、かつ最も愚かに反応していたのが一ノ瀬唯花だった。

「……黒瀬くん。朔夜くんのことなんだけど」

 放課後の図書室。勉強会の合間に、唯花が黒瀬の袖を小さく引いた。 

 安堂は今、教師に頼まれた資料の整理で席を外している。二人きりになった空間で、唯花の瞳には隠しきれない不安が滲んでいた。

「最近の朔夜くん、なんだか疲れてるみたいで……。きっと、みんなの期待に応えようとして、頑張りすぎちゃってるんだと思うの。私、もっと彼を支えてあげなきゃって」

 黒瀬は、開いていた参考書から視線を上げることなく、鼻で笑った。

「支える、ね。具体的にどうするつもりだ? 彼の代わりに雑用を倍に増やすのか、それとも、あんな風に壊れかけた笑顔を『優しいからだ』と全肯定し続けるのか」

「……っ。黒瀬くん、どうしてそんな言い方をするの? 朔夜くんが今、苦しんでいるのは事実でしょ?」

 唯花の声が、わずかに尖った。 
 黒瀬はゆっくりと顔を上げ、彼女の透明な瞳を真っ向から見据えた。

「一ノ瀬さん。君は、安堂くんがなぜ苦しんでいるか、本当に理解していないのか? あるいは、理解したくないのか」

「……どういう、こと?」

「彼は『みんなのために頑張っている自分』に限界を感じているんじゃない。そんな薄っぺらな自分を見透かされることに怯えているんだよ。……そして、君のその『疑わない善意』が、今の彼にとっては一番の重荷になっている」

 唯花は息を呑んだ。 

 彼女は安堂の変化を、単なる「多忙」や「責任感」という言葉で整理しようとしていた。それが彼女にとって最も心地よい「解釈」だからだ。安堂が自分を偽り、周囲を、そして何より唯花自身を疎ましく思い始めているという可能性を、彼女の脳は全力で拒絶している。

「嘘だよ……。朔夜くんが、私を重荷に思うなんて……」

「君は、安堂くんがクラスメイトの悪口を言っているのを聞いたことがあるか?」

 突然の問いに、唯花は首を振った。  

 「ないだろうね。でも、彼は言いたがっている。本当は、毎日自分を便利屋扱いする連中に中指を立て、自分に縋ってくる君を突き放したいと思っている。……昨日、彼が図書室のゴミ箱を蹴り飛ばしているのを見た。君が彼のために淹れたお茶を、一口も飲まずに捨てた後でね」

 唯花の顔から、一気に血の気が引いた。 

 「そんな……、朔夜くんがそんなことするはずないよ。きっと何かの間違いか、黒瀬くんの……」

「見間違いだと言いたいのか? 鏡を見てごらんよ、一ノ瀬さん。君のその『信じたい』という盲目さが、彼を追い詰めているんだ。君が彼を『完璧な善人』として扱い続ける限り、彼は本当の弱音を吐く場所を失う。……君は彼を救っているんじゃない。聖母を演じることで、彼を窒息させているんだよ」

 黒瀬の言葉は、冷酷なまでに論理的だった。 

 唯花がこれまで「優しさ」だと信じて疑わなかった献身が、実は安堂という人間に「理想の自分」という呪いをかけ続ける暴力であったという指摘。

「……私は、ただ……」

 唯花の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。 

 だが、黒瀬は手を差し伸べない。むしろ、その涙が彼女の「無垢」という防壁を溶かしていく様子を、冷たく観察していた。

「君がしているのは、思考の放棄だ。相手のドロドロした本音に触れるのが怖いから、美しい虚像だけを愛している。……それは愛じゃない。単なる自己満足の搾取だ」

「違う……、違います……!」

 唯花は叫ぶように言い、荷物を掴んで図書室を飛び出していった。   

 静寂が戻った館内で、黒瀬は再びペンを走らせる。   

(さあ、どうする、一ノ瀬。……信じていた自分の『正しさ』が、最も愛する人を傷つけていたと知って。それでも君は、まだその目を閉じ続けるのか?)

 イブの盲目は、今、知恵という名の鋭利な光によって、強制的に開かれようとしていた。 
 彼女が安堂の「濁り」を直視したとき、この偽りの楽園は、音を立てて崩れ去るだろう。   

 黒瀬の心には、憐憫など微塵もなかった。 
 あるのは、実験が成功しつつある科学者のような、静かで確かな高揚感だけだった。
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