智恵の実は、まだ熱い

篠雨

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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透

第12話:鏡の中の欲望

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「爆発」から数日が経過した。 

 安堂朔夜は、以前とは打って変わった「静かな拒絶」を纏って教室に君臨していた。周囲の生徒たちは、あの激昂を恐れて安易な雑用を振るわなくなり、結果として安堂の周囲には、不自然なほどの空白が生まれていた。

 その空白を埋めようと、必死に手を伸ばし続けているのが一ノ瀬唯花だった。

「朔夜くん、これ。……今日、お家で焼いたクッキーなんだけど。少しでも元気になってもらえたらと思って」

 昼休みの屋上へと向かう階段の途中で、唯花は安堂を呼び止めた。彼女の手には、丁寧にラッピングされた小箱。その震える指先は、彼女がどれほどの覚悟で、傷ついた「かつての安堂」に触れようとしているかを物語っていた。

 以前の安堂であれば、たとえ腹が減っていなくとも満面の笑みで受け取り、彼女の気遣いを何倍もの言葉で褒め称えていただろう。 

 だが、今の安堂の瞳に映っているのは、彼女の善意ではなく、その裏にある「私を必要として」という、押し付けがましい執着だった。

「……一ノ瀬さん。何度も言ったはずだけど、そういうのはもう、いらないよ」

 安堂の声は、驚くほど冷徹だった。黒瀬凪から教わった「自分を守るための、合理的で冷たい言葉」が、淀みなく口から漏れ出す。

「え、でも……。朔夜くん、最近ちゃんと食べてないみたいだし。私、心配で……」

「心配、か。それは君が、僕に『感謝している可哀想な自分』でいてほしいからじゃないの? 君がそうやって尽くすことで、僕は君に『借り』を作らされる。その見えない鎖が、今の僕には何よりも重いんだ」

 唯花の顔が、衝撃に歪む。 

 安堂は彼女の表情を観察した。以前なら胸を締め付けられたであろうその「悲劇のヒロイン」のような顔が、今はただ、自分の自由を奪おうとする「束縛の象徴」にしか見えない。 

 黒瀬が言っていたことは本当だった。 

 自分を優先した途端、彼女の純粋さは、自分を元の「檻」へ連れ戻そうとする不快な雑音へと変わった。

「貸し借りなんて、そんなつもり……ないよ……」

「自覚がないなら、なおさら質が悪いね。……もう、僕に関わらないでくれ」

 安堂は、唯花が差し出していたクッキーの箱を、受け取ることさえせずにその横を通り過ぎた。   

 階段を上がり、屋上へ出ると、そこにはフェンスに寄りかかって読書をしている黒瀬凪がいた。彼は顔を上げることなく、ページをめくる音だけを響かせる。

「……いい手際だったね、安堂くん。彼女の顔、見たかい? 自分の存在そのものを否定されたような、あの絶望した瞳を」

「……黒瀬。言われた通りにしたよ。あいつを突き放したら、確かに、肩の荷が下りた気がする。あいつが僕を『いい人』に固定しようとする視線から、やっと逃げられた」

 安堂は黒瀬の隣に並び、鏡のように磨かれたスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこに映る自分の顔は、以前よりも少しだけ暗く、けれどどこか鋭い。  彼は、唯花には決して言えない「秘密」を抱え始めていた。 

 学校帰りに一人で立ち寄る、以前なら「不真面目だ」と避けていた場所。誰にも気を遣わず、ただ自分の欲動のままに消費する時間。その利己的な快楽が、彼の中に「欲望」という名の新しい人格を育てていた。

「秘密を持つことは、強くなることだ。誰にも踏み込ませない聖域を持つことで、君の輪郭はより明確になる。……一ノ瀬唯花という『古い安堂朔夜の飼い主』を、君はもう必要としていない」

 黒瀬の言葉に、安堂は満足げに頷く。   

 一方で、階段に取り残された唯花は、受け取られなかったクッキーの箱を抱きしめたまま、音もなく涙を流していた。 
 彼女には、安堂の変化が「成長」だとはどうしても思えなかった。 

 優しかった安堂が、知らない男の顔をして、自分を汚らわしいもののように蔑んでいる。

 黒瀬は、階下から微かに漂ってくる「絶望の気配」を、鼻先で楽しみながら、安堂の肩を叩いた。

「おめでとう、安堂くん。君は今、初めて『自分自身の主人』になったんだ」

 安堂の瞳に、昏い、野心的な火が灯る。 
 それは唯花の知る「朔夜くん」を完全に殺し、黒瀬が望んだ「怪物」への変貌を決定づける火だった。 

 楽園の果実は、安堂の胃の中で、もう消化され始めていた。
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