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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透
第13話:唯花の孤独
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放課後の教室の片隅。夕闇が落ちる中、一ノ瀬唯花は一人、自分の席でうつむいていた。
かつて彼女の周りには、安堂朔夜という温かな光があり、それを慕って集まる人々がいた。しかし今、安堂は冷たい静黙の壁を作り、彼女の言葉を一切受け付けない。安堂が彼女を遠ざけると、クラスメイトたちもまた、彼女を「安堂を怒らせた面倒な存在」として扱い、潮が引くように去っていった。
孤独。それは、唯花が生まれて初めて知る、皮膚を刺すような冷たさだった。
「……ひどく静かだね、一ノ瀬さん」
音もなく現れた黒瀬凪が、彼女の前の席に反対向きに座った。唯花は顔を上げない。肩が小さく、一定の周期で震えている。
「黒瀬くん。……私は、どうすればよかったの? 朔夜くんを支えたかっただけなのに。彼が苦しんでいるなら、一緒に背負いたかっただけなのに。どうして……あんな風に、ゴミみたいに言われなきゃいけないの……」
嗚咽混じりの問い。黒瀬は、彼女の机に散らばった涙の跡を、無機質な眼差しで見つめる。
「君は『支えたい』と言ったね。だが、それは彼が『支えられるべき弱者』でなければ成立しない。君が愛していたのは安堂朔夜という人間ではなく、彼を助けている時の自分自身の清らかさだったんじゃないか?」
「違う……、私はただ……」
「君がしているのは、ただの直視からの逃避だ」
黒瀬の声が一段と低くなる。彼は身を乗り出し、唯花の耳元で、かつて安堂に投げたものと同じ毒を、今度は彼女のために調合して注ぎ込む。
「教えてあげようか。安堂くんがなぜ君を拒絶したのか。それは、君が『鏡』だからだ。君のその無垢な瞳を見ていると、彼は自分の内側に隠しているドロドロとした本音を突きつけられる。君が清らかであればあるほど、彼は自分が汚れていることを自覚させられるんだ。……君の存在そのものが、今の彼にとっては拷問なんだよ」
唯花が、ようやく顔を上げた。その瞳は赤く腫れ、絶望という名の深い霧が立ち込めている。
「拷問……。私が、朔夜くんを苦しめていたの?」
「そうだ。君が信じている『善意』が、最も残酷な形で彼を追い詰めた。……一ノ瀬さん、一つ聞いていいかな。君は、真実を知る覚悟はあるか?」
「真実……?」
「安堂くんが今、放課後にどこへ行き、誰の視線も気にせずに何を口にしているか。君がこれまで『汚らわしい』と遠ざけてきたものを、彼が今、どれほど悦んで享受しているか。……それを知れば、君の信じていた『朔夜くん』は跡形もなく消えてなくなる。それでも、君は彼の本性を暴きたいと思うかい?」
黒瀬は、ポケットから一枚のメモを取り出し、彼女の机に置いた。そこには、安堂が最近通い詰めている、およそ彼には似つかわしくない不健全な繁華街の住所が記されていた。
「これを見に行けばいい。そうすれば、君は孤独から解放されるかもしれない。……代わりに、もう二度と『無垢な少女』には戻れなくなるけれど」
唯花は、震える手でそのメモを見つめた。
知ることは、楽園からの追放を意味する。
信じ続けていれば、いつか彼が戻ってくると夢見ることもできるだろう。だが、このメモを手に取れば、その最後の幻想すらも、黒瀬の「知恵」によって焼き尽くされる。
「……怖い、の。知るのが……怖い……」
「だろうね。知恵とは孤独の始まりだ。自分と他人が、決定的に違う醜い生き物だと悟るためのね。……さあ、どうする? このままここで一人、いつ届くかわからない光を待って泣き続けるか。それとも、泥沼の底に降りて、彼の本当の姿を確認するか」
黒瀬は立ち上がり、彼女に背を向けた。
「君がどちらを選んでも、僕は構わないよ。ただ、どちらを選んでも……君はもう、一人だ」
黒瀬が教室を出る間際、背後で、カサリと紙を掴む音がした。
蛇の微笑みが、暗い廊下に浮かび上がる。
アダムは既に実を食った。
そして今、イブもまた、震える指で禁断の果実に手を伸ばしたのだ。
夕闇の校舎を、一陣の冷たい風が吹き抜けていった。
かつて彼女の周りには、安堂朔夜という温かな光があり、それを慕って集まる人々がいた。しかし今、安堂は冷たい静黙の壁を作り、彼女の言葉を一切受け付けない。安堂が彼女を遠ざけると、クラスメイトたちもまた、彼女を「安堂を怒らせた面倒な存在」として扱い、潮が引くように去っていった。
孤独。それは、唯花が生まれて初めて知る、皮膚を刺すような冷たさだった。
「……ひどく静かだね、一ノ瀬さん」
音もなく現れた黒瀬凪が、彼女の前の席に反対向きに座った。唯花は顔を上げない。肩が小さく、一定の周期で震えている。
「黒瀬くん。……私は、どうすればよかったの? 朔夜くんを支えたかっただけなのに。彼が苦しんでいるなら、一緒に背負いたかっただけなのに。どうして……あんな風に、ゴミみたいに言われなきゃいけないの……」
嗚咽混じりの問い。黒瀬は、彼女の机に散らばった涙の跡を、無機質な眼差しで見つめる。
「君は『支えたい』と言ったね。だが、それは彼が『支えられるべき弱者』でなければ成立しない。君が愛していたのは安堂朔夜という人間ではなく、彼を助けている時の自分自身の清らかさだったんじゃないか?」
「違う……、私はただ……」
「君がしているのは、ただの直視からの逃避だ」
黒瀬の声が一段と低くなる。彼は身を乗り出し、唯花の耳元で、かつて安堂に投げたものと同じ毒を、今度は彼女のために調合して注ぎ込む。
「教えてあげようか。安堂くんがなぜ君を拒絶したのか。それは、君が『鏡』だからだ。君のその無垢な瞳を見ていると、彼は自分の内側に隠しているドロドロとした本音を突きつけられる。君が清らかであればあるほど、彼は自分が汚れていることを自覚させられるんだ。……君の存在そのものが、今の彼にとっては拷問なんだよ」
唯花が、ようやく顔を上げた。その瞳は赤く腫れ、絶望という名の深い霧が立ち込めている。
「拷問……。私が、朔夜くんを苦しめていたの?」
「そうだ。君が信じている『善意』が、最も残酷な形で彼を追い詰めた。……一ノ瀬さん、一つ聞いていいかな。君は、真実を知る覚悟はあるか?」
「真実……?」
「安堂くんが今、放課後にどこへ行き、誰の視線も気にせずに何を口にしているか。君がこれまで『汚らわしい』と遠ざけてきたものを、彼が今、どれほど悦んで享受しているか。……それを知れば、君の信じていた『朔夜くん』は跡形もなく消えてなくなる。それでも、君は彼の本性を暴きたいと思うかい?」
黒瀬は、ポケットから一枚のメモを取り出し、彼女の机に置いた。そこには、安堂が最近通い詰めている、およそ彼には似つかわしくない不健全な繁華街の住所が記されていた。
「これを見に行けばいい。そうすれば、君は孤独から解放されるかもしれない。……代わりに、もう二度と『無垢な少女』には戻れなくなるけれど」
唯花は、震える手でそのメモを見つめた。
知ることは、楽園からの追放を意味する。
信じ続けていれば、いつか彼が戻ってくると夢見ることもできるだろう。だが、このメモを手に取れば、その最後の幻想すらも、黒瀬の「知恵」によって焼き尽くされる。
「……怖い、の。知るのが……怖い……」
「だろうね。知恵とは孤独の始まりだ。自分と他人が、決定的に違う醜い生き物だと悟るためのね。……さあ、どうする? このままここで一人、いつ届くかわからない光を待って泣き続けるか。それとも、泥沼の底に降りて、彼の本当の姿を確認するか」
黒瀬は立ち上がり、彼女に背を向けた。
「君がどちらを選んでも、僕は構わないよ。ただ、どちらを選んでも……君はもう、一人だ」
黒瀬が教室を出る間際、背後で、カサリと紙を掴む音がした。
蛇の微笑みが、暗い廊下に浮かび上がる。
アダムは既に実を食った。
そして今、イブもまた、震える指で禁断の果実に手を伸ばしたのだ。
夕闇の校舎を、一陣の冷たい風が吹き抜けていった。
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