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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透
第14話:林檎の香り
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放課後の校門を抜けると、街は湿り気を帯びた夕闇に包まれていた。
一ノ瀬唯花は、黒瀬から渡されたメモを掌の中で何度も握りしめていた。その紙の角が指に食い込み、微かな痛みを刻んでいる。彼女の隣を、黒瀬凪が影のように等間隔で歩いていた。
住宅街を抜け、次第にネオンの毒々しい光が混ざり始める繁華街の入り口。
空気に混じる排気ガスと、どこか頽廃的な夜の匂い。唯花がこれまで「私には関係のない場所」として切り捨ててきた世界の香りが、彼女の鼻腔を突いた。
「……一ノ瀬さん。この匂いが、林檎の香りだよ」
黒瀬が不意に足を止め、沈む太陽の残滓を見つめて言った。
「え……? 林檎……?」
「エデンに実っていた知恵の実さ。芳醇で、甘美で……そして、一度嗅いだら最後、鼻の奥にこびりついて二度と消えない。この街の汚れも、人間の内側に溜まった濁りも、すべては『知恵』を知ってしまった代償だ」
唯花は、メモに記された住所――安堂が入り浸っているというゲームセンターや、素行の悪い連中が集まる路地裏を見つめた。そこから漏れ聞こえる下品な笑い声や、金属的な電子音。
彼女が知っている安堂朔夜は、クラシック音楽を好み、常に清潔な制服を纏い、正しい言葉しか口にしない少年だったはずだ。
「……知ることは、もう戻れない孤独の始まりだ」
黒瀬の声は、風に乗って唯花の耳に静かに浸透していく。
「君はこれまで、安堂くんと同じ色に染まることで、孤独を回避してきた。二人で一つの『楽園』を演じていれば、自分という個体が抱える空虚さを見つめずに済んだからね。……でも、彼は先に実を食べてしまった。君を置き去りにして、自分だけの欲望の中に逃げ込んだんだ」
「私は……、私はただ、朔夜くんと一緒にいたかっただけ。同じ景色を、見ていたかっただけなのに……」
「それは無理な相談だ。……人間は、自分の内側にある暗闇を他人に完全に理解させることなんてできない。知恵を得るということは、自分が決定的に独りであることを悟ることなんだ。……僕を見てごらんよ」
黒瀬は、冷たい瞳で唯花を射抜いた。その瞳の奥には、長年彼が一人で飼い慣らしてきた、巨大で凍てつくような孤独の怪物が見えた。
「僕は、君たちのことが羨ましかったよ。……何も疑わず、互いの嘘を『優しさ』だと信じ込んで、ぬくぬくと眠っていられたあの時間がね。でも、僕は最初から知っていた。その温もりが、いつか冷めることも、君たちが互いを自分の欠落を埋めるための道具としてしか愛していないことも。……だから、僕は君たちに味合わせたいと思った。この、息もできないほど澄み切った、絶対的な孤独をね」
黒瀬の言葉は、告白であり、同時に呪告だった。
彼は、二人を単に不幸にしたいわけではない。
自分の立っている、この「知恵という名の絶望」の地平に、彼らを引きずり下ろしたかった。独りきりで世界を呪う寂しさを、最も眩しく輝いていた二人に分かち合わせたかった。
「……さあ、あそこの角を曲がってごらん。君の信じていた『アダム』が、泥の中でどんな風に笑っているか、その眼で確かめるといい」
唯花は、震える足で一歩を踏み出した。 角を曲がった先、安堂朔夜がいた。
彼は、見知らぬ派手な少女たちに囲まれ、タバコの煙が漂う入り口で、これまで唯花には一度も見せたことのない、下卑た、それでいて心底楽しそうな笑い声を上げていた。
その瞬間、唯花の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
林檎の香りが、彼女の喉を焼き、肺を汚していく。
黒瀬凪は、その崩壊の瞬間を、フェンスに背を預けて眺めていた。
彼の唇が、月光の下で微かに弧を描く。
「……ようこそ、一ノ瀬さん。ここが、僕たちが住む、本当の世界だ」
街の喧騒にかき消されるような、静かな歓迎の言葉。
二人の間に流れる孤独は、もう、誰にも埋めることはできなかった。
一ノ瀬唯花は、黒瀬から渡されたメモを掌の中で何度も握りしめていた。その紙の角が指に食い込み、微かな痛みを刻んでいる。彼女の隣を、黒瀬凪が影のように等間隔で歩いていた。
住宅街を抜け、次第にネオンの毒々しい光が混ざり始める繁華街の入り口。
空気に混じる排気ガスと、どこか頽廃的な夜の匂い。唯花がこれまで「私には関係のない場所」として切り捨ててきた世界の香りが、彼女の鼻腔を突いた。
「……一ノ瀬さん。この匂いが、林檎の香りだよ」
黒瀬が不意に足を止め、沈む太陽の残滓を見つめて言った。
「え……? 林檎……?」
「エデンに実っていた知恵の実さ。芳醇で、甘美で……そして、一度嗅いだら最後、鼻の奥にこびりついて二度と消えない。この街の汚れも、人間の内側に溜まった濁りも、すべては『知恵』を知ってしまった代償だ」
唯花は、メモに記された住所――安堂が入り浸っているというゲームセンターや、素行の悪い連中が集まる路地裏を見つめた。そこから漏れ聞こえる下品な笑い声や、金属的な電子音。
彼女が知っている安堂朔夜は、クラシック音楽を好み、常に清潔な制服を纏い、正しい言葉しか口にしない少年だったはずだ。
「……知ることは、もう戻れない孤独の始まりだ」
黒瀬の声は、風に乗って唯花の耳に静かに浸透していく。
「君はこれまで、安堂くんと同じ色に染まることで、孤独を回避してきた。二人で一つの『楽園』を演じていれば、自分という個体が抱える空虚さを見つめずに済んだからね。……でも、彼は先に実を食べてしまった。君を置き去りにして、自分だけの欲望の中に逃げ込んだんだ」
「私は……、私はただ、朔夜くんと一緒にいたかっただけ。同じ景色を、見ていたかっただけなのに……」
「それは無理な相談だ。……人間は、自分の内側にある暗闇を他人に完全に理解させることなんてできない。知恵を得るということは、自分が決定的に独りであることを悟ることなんだ。……僕を見てごらんよ」
黒瀬は、冷たい瞳で唯花を射抜いた。その瞳の奥には、長年彼が一人で飼い慣らしてきた、巨大で凍てつくような孤独の怪物が見えた。
「僕は、君たちのことが羨ましかったよ。……何も疑わず、互いの嘘を『優しさ』だと信じ込んで、ぬくぬくと眠っていられたあの時間がね。でも、僕は最初から知っていた。その温もりが、いつか冷めることも、君たちが互いを自分の欠落を埋めるための道具としてしか愛していないことも。……だから、僕は君たちに味合わせたいと思った。この、息もできないほど澄み切った、絶対的な孤独をね」
黒瀬の言葉は、告白であり、同時に呪告だった。
彼は、二人を単に不幸にしたいわけではない。
自分の立っている、この「知恵という名の絶望」の地平に、彼らを引きずり下ろしたかった。独りきりで世界を呪う寂しさを、最も眩しく輝いていた二人に分かち合わせたかった。
「……さあ、あそこの角を曲がってごらん。君の信じていた『アダム』が、泥の中でどんな風に笑っているか、その眼で確かめるといい」
唯花は、震える足で一歩を踏み出した。 角を曲がった先、安堂朔夜がいた。
彼は、見知らぬ派手な少女たちに囲まれ、タバコの煙が漂う入り口で、これまで唯花には一度も見せたことのない、下卑た、それでいて心底楽しそうな笑い声を上げていた。
その瞬間、唯花の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
林檎の香りが、彼女の喉を焼き、肺を汚していく。
黒瀬凪は、その崩壊の瞬間を、フェンスに背を預けて眺めていた。
彼の唇が、月光の下で微かに弧を描く。
「……ようこそ、一ノ瀬さん。ここが、僕たちが住む、本当の世界だ」
街の喧騒にかき消されるような、静かな歓迎の言葉。
二人の間に流れる孤独は、もう、誰にも埋めることはできなかった。
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