智恵の実は、まだ熱い

篠雨

文字の大きさ
15 / 19
第2部:【孤独】智恵の毒の浸透

第15話:無自覚な搾取

しおりを挟む
「知恵の実」の味は、甘美な陶酔の後に、耐えがたい渇きをもたらす。

  繁華街での放蕩を覚えた安堂朔夜は、学校という平穏な空間に戻るたび、以前にも増して激しい苛立ちに支配されていた。一度解放してしまった「自分本位な欲望」は、もはや制御不能なレベルにまで膨れ上がり、彼の精神を内側から削り取っていた。

 そして、その苛立ちの矛先は、常に彼のそばに留まろうとする唯一の存在――一ノ瀬唯花へと向けられる。

「……朔夜くん、あの。数学の課題、手伝おうか? 先生が、期限を過ぎてるって……」

 放課後の無人の教室。唯花は、昨日あの街で見た安堂の残像を必死に打ち消すように、震える声で話しかけた。彼女の瞳は、もはや光を反射せず、どろりと濁った絶望が沈殿している。それでも彼女は、彼に縋ることでしか、自分のアイデンティティを保てなかった。

 安堂は、机に突っ伏していた体をゆっくりと起こした。その顔は、睡眠不足と自堕落な生活のせいで酷く浮腫み、かつての爽やかさは微塵もない。

「……うるさいな。誰が手伝えなんて言った? 君はいつもそうだ。頼んでもいないのに勝手に僕の領域に踏み込んできて、『助けてあげてる』って顔をする。……それ、ただの押し売りだよ。わかってんの?」

 安堂の放った言葉は、以前のような理論的な拒絶ではなく、ただの剥き出しの「八つ当たり」だった。だが、今の彼には、自分を肯定し続けてくれる唯花を痛めつけることでしか、失墜した自尊心を維持する術がなかった。

「ご、ごめんなさい……。でも、朔夜くんが困ってると思ったから……」

「困ってる? 困らせてるのは君だよ。君がそこにいて、死にそうな顔で僕を見てるから、僕はイライラするんだ。……そんなに僕に尽くしたいならさ、もっとマシなことしてよ。例えば、このアンケートの集計、全部やっておいて。あと、昼休みに僕の代わりに呼び出された生活指導の件も、適当に言い訳しておいてくれ」

 安堂は、山積みになった書類を唯花の前に叩きつけた。それは、かつて彼が「みんなのために」と引き受けていた仕事の残骸であり、今はただの「面倒なゴミ」に成り下がったものだ。

「……私が、全部……?」

「そうだよ。僕を支えたいんだろ? だったら黙って僕の道具になれよ。……それとも何、やっぱり口先だけだったの? 結局、君も僕を『良い子』の型にはめてコントロールしたいだけなんだろ!」

 安堂の怒声が教室に響く。 

 唯花は、叩きつけられた書類を一枚一枚、麻痺したような手つきで拾い集めた。  彼女にはわかっていた。今の安堂は、自分を「人間」として見ていない。ただ、自分のストレスをぶつけ、面倒事を押し付けるための「サンドバッグ」か「掃除機」のようにしか扱っていない。

 これこそが、黒瀬が予言した「無自覚な搾取」の姿だった。

 教室の入り口で、その光景を黒瀬凪が眺めていた。  安堂が唯花を罵倒するたびに、唯花の肩が小さく跳ね、その瞳から最後の残光が消えていく。

(……完成だ。アダムは己の欲望に溺れて理性を失い、イブは自己犠牲という名の呪いで、魂を売り払った)

 安堂は「自由」を履き違え、ただの利己的な暴君へと堕ちた。 

 唯花は「献身」を履き違え、自ら搾取されることを選ぶ奴隷へと堕ちた。

  二人の間には、もはや「対等な対話」など存在しない。あるのは、食う者と食われる者の、無機質な関係だけだ。

「……酷いね、安堂くん。君は彼女が死ぬまで、その優しさを吸い尽くすつもりかい?」

 黒瀬が皮肉を込めて声をかけると、安堂は鼻を鳴らした。

「ふん。こいつが勝手にやってるんだよ。僕は何も強制してない。……だろ、一ノ瀬?」

 安堂に促され、唯花はゆっくりと首を縦に振った。

「……うん。私が、やりたいの。朔夜くんのためなら……何でも……」

 その声には、もはや感情が乗っていなかった。  彼女の瞳から完全に光が消え、硝子玉のような空虚さが、黒瀬の視線を捉えた。

 黒瀬は、一瞬だけ胸の奥がざわつくのを感じた。 

 自分が望んだ通りの光景だ。二人は壊れ、孤独の泥沼に沈んだ。嘲笑うべき場面だ。 

 それなのに、唯花の死んだような瞳を見た瞬間、黒瀬の頭の中に、覚えのない「痛み」のようなノイズが走った。

「……そうか。なら、勝手にすればいい」

 黒瀬は吐き捨てるように言い、背を向けた。 

 蛇が仕掛けた毒は、今や宿主である二人を完全に蝕み、そして黒瀬自身にも、予期せぬ「副作用」をもたらし始めていた。

 夕闇の教室で、書類をめくる乾いた音だけが、絶望のメトロノームのように響き続けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

行き遅れた私は、今日も幼なじみの皇帝を足蹴にする

九條葉月
キャラ文芸
「皇帝になったら、迎えに来る」幼なじみとのそんな約束を律儀に守っているうちに結婚適齢期を逃してしまった私。彼は無事皇帝になったみたいだけど、五年経っても迎えに来てくれる様子はない。今度会ったらぶん殴ろうと思う。皇帝陛下に会う機会なんてそうないだろうけど。嘆いていてもしょうがないので結婚はすっぱり諦めて、“神仙術士”として生きていくことに決めました。……だというのに。皇帝陛下。今さら私の前に現れて、一体何のご用ですか?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...