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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透
第15話:無自覚な搾取
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「知恵の実」の味は、甘美な陶酔の後に、耐えがたい渇きをもたらす。
繁華街での放蕩を覚えた安堂朔夜は、学校という平穏な空間に戻るたび、以前にも増して激しい苛立ちに支配されていた。一度解放してしまった「自分本位な欲望」は、もはや制御不能なレベルにまで膨れ上がり、彼の精神を内側から削り取っていた。
そして、その苛立ちの矛先は、常に彼のそばに留まろうとする唯一の存在――一ノ瀬唯花へと向けられる。
「……朔夜くん、あの。数学の課題、手伝おうか? 先生が、期限を過ぎてるって……」
放課後の無人の教室。唯花は、昨日あの街で見た安堂の残像を必死に打ち消すように、震える声で話しかけた。彼女の瞳は、もはや光を反射せず、どろりと濁った絶望が沈殿している。それでも彼女は、彼に縋ることでしか、自分のアイデンティティを保てなかった。
安堂は、机に突っ伏していた体をゆっくりと起こした。その顔は、睡眠不足と自堕落な生活のせいで酷く浮腫み、かつての爽やかさは微塵もない。
「……うるさいな。誰が手伝えなんて言った? 君はいつもそうだ。頼んでもいないのに勝手に僕の領域に踏み込んできて、『助けてあげてる』って顔をする。……それ、ただの押し売りだよ。わかってんの?」
安堂の放った言葉は、以前のような理論的な拒絶ではなく、ただの剥き出しの「八つ当たり」だった。だが、今の彼には、自分を肯定し続けてくれる唯花を痛めつけることでしか、失墜した自尊心を維持する術がなかった。
「ご、ごめんなさい……。でも、朔夜くんが困ってると思ったから……」
「困ってる? 困らせてるのは君だよ。君がそこにいて、死にそうな顔で僕を見てるから、僕はイライラするんだ。……そんなに僕に尽くしたいならさ、もっとマシなことしてよ。例えば、このアンケートの集計、全部やっておいて。あと、昼休みに僕の代わりに呼び出された生活指導の件も、適当に言い訳しておいてくれ」
安堂は、山積みになった書類を唯花の前に叩きつけた。それは、かつて彼が「みんなのために」と引き受けていた仕事の残骸であり、今はただの「面倒なゴミ」に成り下がったものだ。
「……私が、全部……?」
「そうだよ。僕を支えたいんだろ? だったら黙って僕の道具になれよ。……それとも何、やっぱり口先だけだったの? 結局、君も僕を『良い子』の型にはめてコントロールしたいだけなんだろ!」
安堂の怒声が教室に響く。
唯花は、叩きつけられた書類を一枚一枚、麻痺したような手つきで拾い集めた。 彼女にはわかっていた。今の安堂は、自分を「人間」として見ていない。ただ、自分のストレスをぶつけ、面倒事を押し付けるための「サンドバッグ」か「掃除機」のようにしか扱っていない。
これこそが、黒瀬が予言した「無自覚な搾取」の姿だった。
教室の入り口で、その光景を黒瀬凪が眺めていた。 安堂が唯花を罵倒するたびに、唯花の肩が小さく跳ね、その瞳から最後の残光が消えていく。
(……完成だ。アダムは己の欲望に溺れて理性を失い、イブは自己犠牲という名の呪いで、魂を売り払った)
安堂は「自由」を履き違え、ただの利己的な暴君へと堕ちた。
唯花は「献身」を履き違え、自ら搾取されることを選ぶ奴隷へと堕ちた。
二人の間には、もはや「対等な対話」など存在しない。あるのは、食う者と食われる者の、無機質な関係だけだ。
「……酷いね、安堂くん。君は彼女が死ぬまで、その優しさを吸い尽くすつもりかい?」
黒瀬が皮肉を込めて声をかけると、安堂は鼻を鳴らした。
「ふん。こいつが勝手にやってるんだよ。僕は何も強制してない。……だろ、一ノ瀬?」
安堂に促され、唯花はゆっくりと首を縦に振った。
「……うん。私が、やりたいの。朔夜くんのためなら……何でも……」
その声には、もはや感情が乗っていなかった。 彼女の瞳から完全に光が消え、硝子玉のような空虚さが、黒瀬の視線を捉えた。
黒瀬は、一瞬だけ胸の奥がざわつくのを感じた。
自分が望んだ通りの光景だ。二人は壊れ、孤独の泥沼に沈んだ。嘲笑うべき場面だ。
それなのに、唯花の死んだような瞳を見た瞬間、黒瀬の頭の中に、覚えのない「痛み」のようなノイズが走った。
「……そうか。なら、勝手にすればいい」
黒瀬は吐き捨てるように言い、背を向けた。
蛇が仕掛けた毒は、今や宿主である二人を完全に蝕み、そして黒瀬自身にも、予期せぬ「副作用」をもたらし始めていた。
夕闇の教室で、書類をめくる乾いた音だけが、絶望のメトロノームのように響き続けていた。
繁華街での放蕩を覚えた安堂朔夜は、学校という平穏な空間に戻るたび、以前にも増して激しい苛立ちに支配されていた。一度解放してしまった「自分本位な欲望」は、もはや制御不能なレベルにまで膨れ上がり、彼の精神を内側から削り取っていた。
そして、その苛立ちの矛先は、常に彼のそばに留まろうとする唯一の存在――一ノ瀬唯花へと向けられる。
「……朔夜くん、あの。数学の課題、手伝おうか? 先生が、期限を過ぎてるって……」
放課後の無人の教室。唯花は、昨日あの街で見た安堂の残像を必死に打ち消すように、震える声で話しかけた。彼女の瞳は、もはや光を反射せず、どろりと濁った絶望が沈殿している。それでも彼女は、彼に縋ることでしか、自分のアイデンティティを保てなかった。
安堂は、机に突っ伏していた体をゆっくりと起こした。その顔は、睡眠不足と自堕落な生活のせいで酷く浮腫み、かつての爽やかさは微塵もない。
「……うるさいな。誰が手伝えなんて言った? 君はいつもそうだ。頼んでもいないのに勝手に僕の領域に踏み込んできて、『助けてあげてる』って顔をする。……それ、ただの押し売りだよ。わかってんの?」
安堂の放った言葉は、以前のような理論的な拒絶ではなく、ただの剥き出しの「八つ当たり」だった。だが、今の彼には、自分を肯定し続けてくれる唯花を痛めつけることでしか、失墜した自尊心を維持する術がなかった。
「ご、ごめんなさい……。でも、朔夜くんが困ってると思ったから……」
「困ってる? 困らせてるのは君だよ。君がそこにいて、死にそうな顔で僕を見てるから、僕はイライラするんだ。……そんなに僕に尽くしたいならさ、もっとマシなことしてよ。例えば、このアンケートの集計、全部やっておいて。あと、昼休みに僕の代わりに呼び出された生活指導の件も、適当に言い訳しておいてくれ」
安堂は、山積みになった書類を唯花の前に叩きつけた。それは、かつて彼が「みんなのために」と引き受けていた仕事の残骸であり、今はただの「面倒なゴミ」に成り下がったものだ。
「……私が、全部……?」
「そうだよ。僕を支えたいんだろ? だったら黙って僕の道具になれよ。……それとも何、やっぱり口先だけだったの? 結局、君も僕を『良い子』の型にはめてコントロールしたいだけなんだろ!」
安堂の怒声が教室に響く。
唯花は、叩きつけられた書類を一枚一枚、麻痺したような手つきで拾い集めた。 彼女にはわかっていた。今の安堂は、自分を「人間」として見ていない。ただ、自分のストレスをぶつけ、面倒事を押し付けるための「サンドバッグ」か「掃除機」のようにしか扱っていない。
これこそが、黒瀬が予言した「無自覚な搾取」の姿だった。
教室の入り口で、その光景を黒瀬凪が眺めていた。 安堂が唯花を罵倒するたびに、唯花の肩が小さく跳ね、その瞳から最後の残光が消えていく。
(……完成だ。アダムは己の欲望に溺れて理性を失い、イブは自己犠牲という名の呪いで、魂を売り払った)
安堂は「自由」を履き違え、ただの利己的な暴君へと堕ちた。
唯花は「献身」を履き違え、自ら搾取されることを選ぶ奴隷へと堕ちた。
二人の間には、もはや「対等な対話」など存在しない。あるのは、食う者と食われる者の、無機質な関係だけだ。
「……酷いね、安堂くん。君は彼女が死ぬまで、その優しさを吸い尽くすつもりかい?」
黒瀬が皮肉を込めて声をかけると、安堂は鼻を鳴らした。
「ふん。こいつが勝手にやってるんだよ。僕は何も強制してない。……だろ、一ノ瀬?」
安堂に促され、唯花はゆっくりと首を縦に振った。
「……うん。私が、やりたいの。朔夜くんのためなら……何でも……」
その声には、もはや感情が乗っていなかった。 彼女の瞳から完全に光が消え、硝子玉のような空虚さが、黒瀬の視線を捉えた。
黒瀬は、一瞬だけ胸の奥がざわつくのを感じた。
自分が望んだ通りの光景だ。二人は壊れ、孤独の泥沼に沈んだ。嘲笑うべき場面だ。
それなのに、唯花の死んだような瞳を見た瞬間、黒瀬の頭の中に、覚えのない「痛み」のようなノイズが走った。
「……そうか。なら、勝手にすればいい」
黒瀬は吐き捨てるように言い、背を向けた。
蛇が仕掛けた毒は、今や宿主である二人を完全に蝕み、そして黒瀬自身にも、予期せぬ「副作用」をもたらし始めていた。
夕闇の教室で、書類をめくる乾いた音だけが、絶望のメトロノームのように響き続けていた。
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