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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透
第16話:毒の効力
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降り続く長雨が、校舎を湿った沈黙で包み込んでいた。
一ノ瀬唯花の献身――あるいは安堂朔夜による搾取は、もはやクラスの誰もが目を逸らすほどに露骨なものとなっていた。安堂はもはや「良い人」の仮面を被ることさえ忘れ、自分に都合の悪いことはすべて唯花に押し付け、自分は放課後の街へと消えていく。
その日、安堂はさらに踏み込んだ要求を唯花に突きつけた。
「……ねぇ、これ。明日の朝までに終わらせておいて。それから、放課後に部活の連中に呼び出されてるんだけど、適当に体調不良ってことにして断っておいて。僕は今日、どうしても外せない用事があるから」
安堂が差し出したのは、彼がサボり続けて溜まった膨大なレポートと、友人たちへの嘘の片棒を担ぐための「指示書」だった。
唯花は、その紙束をじっと見つめていた。彼女の指先は、冷たい雨に打たれたように白く震えている。
「……朔夜くん。それは、できないよ」
蚊の鳴くような、けれど決定的な拒絶だった。
安堂は、耳を疑ったように眉を跳ね上げた。
「……今、なんて言った?」
「できない。……嘘をつくのも、朔夜くんの代わりに全部やるのも、もう無理。私、もう……自分が何をしてるのか、わからなくなっちゃったの」
唯花の声は震えていたが、その瞳には、死にかけた焚き火のような、最後の一振りの意思が宿っていた。
安堂は、自分の「所有物」が反旗を翻したことに、激しい屈辱と怒りを感じた。彼は唯花の肩を強く掴み、彼女を壁際へと押し込んだ。
「ふざけるなよ! 君が『何でもする』って言ったんだろ! 君が僕をこんな風にしたんだ! 責任を取れよ! 君が僕を甘やかして、僕を『特別』だと思い込ませたんだから、最後まで僕の面倒を見るのが君の役目だろ!」
安堂の叫びは、もはや理屈ではない。ただの子供のような、醜い依存の叫びだった。
唯花は、安堂の手を、力を振り絞って振り払った。
「……違う。私は、朔夜くんの道具じゃない。……さよなら」
唯花は、安堂を突き放すと、逃げるように教室を飛び出した。
後に残された安堂は、自分の手が空を切った感覚に呆然とし、やがて激しい怒りに任せて机を蹴り飛ばした。
廊下の影で、その一部始終を見ていた黒瀬凪は、壁に背を預けて低く笑った。
(……素晴らしい。ついに出たね、拒絶の言葉が。無垢なイブが、自分の足で楽園の瓦礫を越えようとしている。これこそが僕の望んだ『自立』だ。おめでとう、一ノ瀬さん。君は今、初めて自分の意志で、孤独を選び取ったんだ)
黒瀬は、心の中で喝采を送った。
安堂が暴君として完成し、唯花が彼を切り捨てる。これによって二人の絆は完全に断絶し、修復不可能な荒野が広がる。計画は、一分の狂いもなく完遂されようとしていた。
だが。
黒瀬が教室を出て、雨の降りしきる中、一人で校門へと向かう唯花の背中を見つけた時、異変が起きた。
彼女は、傘も差さずに雨に濡れ、今にも折れてしまいそうなほど肩を震わせて泣いていた。その泣き声は、勝利の産声などではなく、自分の半身を引きちぎられた者の、悲痛な絶叫のようだった。
「……っ」
黒瀬の胸の奥で、ドクン、と不快な衝撃が走った。
心拍が早まり、喉の奥が焦げ付くように熱くなる。
(なんだ……? この不快感は。計画は成功した。彼女は自立し、安堂は墜ちた。僕は、この景色をずっと見たかったはずだ)
嘲笑いたい。
「滑稽だね」と声をかけ、彼女の絶望をさらに煽ってやりたい。
それなのに、黒瀬の足は、彼女を追いかけることも、その場から立ち去ることもできず、金縛りにあったように動かなかった。
雨に濡れる唯花の細い背中が、黒瀬の網膜に焼き付いて離れない。
それは、彼がかつて屋上から見下ろしていた「個体群」の姿ではなかった。
知恵を得て、痛みを引き受け、それでもなお、愛したものを失った絶望に震える、一人の「人間」の姿だった。
(……黙れ。動悸が止まらない。……僕は、ただ嘲笑いたいだけなのに。……なぜ、こんなに胸が痛む?)
黒瀬凪は、自分の胸を強く押さえた。 蛇が仕掛けた毒の効力は、今や彼自身の冷徹な理性を侵食し始めていた。
計画の完成を前にして、黒瀬は初めて、自分の「知恵」では制御できない、生々しい感情の蠢きに、激しい嫌悪と困惑を感じていた。
雨音だけが、黒瀬の激しい鼓動を隠すように、激しさを増していった。
一ノ瀬唯花の献身――あるいは安堂朔夜による搾取は、もはやクラスの誰もが目を逸らすほどに露骨なものとなっていた。安堂はもはや「良い人」の仮面を被ることさえ忘れ、自分に都合の悪いことはすべて唯花に押し付け、自分は放課後の街へと消えていく。
その日、安堂はさらに踏み込んだ要求を唯花に突きつけた。
「……ねぇ、これ。明日の朝までに終わらせておいて。それから、放課後に部活の連中に呼び出されてるんだけど、適当に体調不良ってことにして断っておいて。僕は今日、どうしても外せない用事があるから」
安堂が差し出したのは、彼がサボり続けて溜まった膨大なレポートと、友人たちへの嘘の片棒を担ぐための「指示書」だった。
唯花は、その紙束をじっと見つめていた。彼女の指先は、冷たい雨に打たれたように白く震えている。
「……朔夜くん。それは、できないよ」
蚊の鳴くような、けれど決定的な拒絶だった。
安堂は、耳を疑ったように眉を跳ね上げた。
「……今、なんて言った?」
「できない。……嘘をつくのも、朔夜くんの代わりに全部やるのも、もう無理。私、もう……自分が何をしてるのか、わからなくなっちゃったの」
唯花の声は震えていたが、その瞳には、死にかけた焚き火のような、最後の一振りの意思が宿っていた。
安堂は、自分の「所有物」が反旗を翻したことに、激しい屈辱と怒りを感じた。彼は唯花の肩を強く掴み、彼女を壁際へと押し込んだ。
「ふざけるなよ! 君が『何でもする』って言ったんだろ! 君が僕をこんな風にしたんだ! 責任を取れよ! 君が僕を甘やかして、僕を『特別』だと思い込ませたんだから、最後まで僕の面倒を見るのが君の役目だろ!」
安堂の叫びは、もはや理屈ではない。ただの子供のような、醜い依存の叫びだった。
唯花は、安堂の手を、力を振り絞って振り払った。
「……違う。私は、朔夜くんの道具じゃない。……さよなら」
唯花は、安堂を突き放すと、逃げるように教室を飛び出した。
後に残された安堂は、自分の手が空を切った感覚に呆然とし、やがて激しい怒りに任せて机を蹴り飛ばした。
廊下の影で、その一部始終を見ていた黒瀬凪は、壁に背を預けて低く笑った。
(……素晴らしい。ついに出たね、拒絶の言葉が。無垢なイブが、自分の足で楽園の瓦礫を越えようとしている。これこそが僕の望んだ『自立』だ。おめでとう、一ノ瀬さん。君は今、初めて自分の意志で、孤独を選び取ったんだ)
黒瀬は、心の中で喝采を送った。
安堂が暴君として完成し、唯花が彼を切り捨てる。これによって二人の絆は完全に断絶し、修復不可能な荒野が広がる。計画は、一分の狂いもなく完遂されようとしていた。
だが。
黒瀬が教室を出て、雨の降りしきる中、一人で校門へと向かう唯花の背中を見つけた時、異変が起きた。
彼女は、傘も差さずに雨に濡れ、今にも折れてしまいそうなほど肩を震わせて泣いていた。その泣き声は、勝利の産声などではなく、自分の半身を引きちぎられた者の、悲痛な絶叫のようだった。
「……っ」
黒瀬の胸の奥で、ドクン、と不快な衝撃が走った。
心拍が早まり、喉の奥が焦げ付くように熱くなる。
(なんだ……? この不快感は。計画は成功した。彼女は自立し、安堂は墜ちた。僕は、この景色をずっと見たかったはずだ)
嘲笑いたい。
「滑稽だね」と声をかけ、彼女の絶望をさらに煽ってやりたい。
それなのに、黒瀬の足は、彼女を追いかけることも、その場から立ち去ることもできず、金縛りにあったように動かなかった。
雨に濡れる唯花の細い背中が、黒瀬の網膜に焼き付いて離れない。
それは、彼がかつて屋上から見下ろしていた「個体群」の姿ではなかった。
知恵を得て、痛みを引き受け、それでもなお、愛したものを失った絶望に震える、一人の「人間」の姿だった。
(……黙れ。動悸が止まらない。……僕は、ただ嘲笑いたいだけなのに。……なぜ、こんなに胸が痛む?)
黒瀬凪は、自分の胸を強く押さえた。 蛇が仕掛けた毒の効力は、今や彼自身の冷徹な理性を侵食し始めていた。
計画の完成を前にして、黒瀬は初めて、自分の「知恵」では制御できない、生々しい感情の蠢きに、激しい嫌悪と困惑を感じていた。
雨音だけが、黒瀬の激しい鼓動を隠すように、激しさを増していった。
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