智恵の実は、まだ熱い

篠雨

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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透

第17話:共感の芽生え

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 雨は止む気配を見せず、世界を重く沈んだ灰色に染めていた。

 黒瀬凪は、誰もいない図書室の窓際に立ち、自分の手のひらを見つめていた。指先が微かに、けれど確実に震えている。

(不愉快だ。あまりにも、不愉快だ)

 心臓を叩く不規則な鼓動。それは黒瀬にとって、最も忌むべき「制御不能なノイズ」だった。

 彼は、唯花のあの悲痛な背中を見た瞬間から、彼女の思考回路が、まるで自分の頭の中に投影されているかのように理解できてしまっていた。

 彼女がなぜ、あんなにもボロボロになりながら、初めて安堂を拒絶したのか。
 それは単なる怒りではない。自分が安堂を「愛している」と思っていたその正体が、実のところ自分自身の孤独を埋めるための身勝手な依存だったと、彼女自身が「知って」しまったからだ。

(……わかる。わかってしまう。彼女の絶望の正体が)

 黒瀬の賢すぎる知能は、皮肉にも、彼が最も軽蔑していたはずの「共感」という機能として作動し始めていた。

 唯花は今、楽園の門を閉め出され、冷たい荒野に一人で立っている。自分が信じていた「善意」という唯一の武器を捨て、丸裸で雨に打たれている。

 その孤独。内側から魂が削れるような、乾いた寒さ。

 それは、黒瀬がずっと一人で味わい続けてきた、「知恵」の代償としての孤独そのものだった。

「……僕と同じだと言いたいのか。あんな、無垢しか取り柄のなかった女と」

 黒瀬は吐き捨てるように呟いたが、その言葉は空虚に響くだけだった。

 かつての彼は、高みから泥沼を見下ろし、藻掻く二人を嘲笑うことで、自分の孤独を「高貴なもの」として正当化していた。

 だが、今の唯花は違う。彼女は黒瀬の手によって強制的に泥沼に引きずり下ろされたが、そこで自らの醜さを自覚し、血を流しながら「人間」としての第一歩を踏み出そうとしている。

 今の彼女は、もはや観察対象の「個体群」ではない。

 黒瀬凪という「蛇」が、この世で唯一、自分の「孤独の味」を共有できる対等な存在になりつつあった。

「……嫌だ。そんなことは、あってはならない」

 黒瀬は自分の頭を強く振った。

 嘲笑いたい。彼女が独りで泣いている姿を見て、「知恵の実の味はどうだい?」と、追い打ちをかけるような冷たい言葉を投げつけたい。

 それなのに、脳裏に浮かぶのは、彼女の頬を伝う涙を拭う自分の指先や、震える肩を抱き寄せるような、およそ自分らしくない甘ったるい幻想。

 幻想の中で、彼女がこちらを見上げる。
 ふと、目が合ったのは唯花ではなく、剥き出しの孤独に震えていた幼い日の自分だった。
 凪は、思わず顔を顰める。

(共感? 救済? ……笑わせるな。僕はただ、壊したかっただけだ。彼女を僕と同じ暗闇に落として、自分一人ではないことを確かめたかっただけだ……!)

 黒瀬は、自分が最も「卑怯」な欲望に突き動かされていたことに気づく。

 彼は、二人を救いたかったわけでも、正したかったわけでもない。
 ただ、自分一人だけが孤独であることに耐えきれず、他人を自分と同じ孤独に道連れにしたかっただけなのだ。

 安堂朔夜という「アダム」は、自らの欲望に溺れ、他者を傷つけることで孤独を紛らわせる「凡庸な怪物」へと堕ちた。

 だが、一ノ瀬唯花という「イブ」は、孤独を真正面から引き受け、痛みを抱えたまま立とうとしている。
 その高潔さが、黒瀬の濁った自尊心を激しく逆なでする。

「……一ノ瀬唯花」

 彼女の名を口にするだけで、心臓の奥が焼けるように熱くなる。

 それは「共感」という名の、最も治療困難な毒だった。

 黒瀬凪は、窓ガラスに映る自分の顔が、かつてなく「人間らしく」歪んでいるのを見て、激しい吐き気と、どうしようもない焦燥に震えた。

 嘲笑の牙は折れ、蛇は自らが用意した孤独の檻に、自ら囚われようとしていた。
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