智恵の実は、まだ熱い

篠雨

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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透

第18話:安堂の焦燥

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「良い人」という役割を捨てれば、自由になれるはずだった。 

 だが、安堂朔夜が手に入れたのは、自由などではなく、ただの「空白」だった。

 文化祭の準備期間も終盤に差し掛かり、クラスは活気に満ちている。かつてはその中心で、誰からも頼られ、誰からも愛されていた安堂は今、自分の席で一人、スマートフォンの画面を眺めることしかできずにいた。

 周囲からの評価は、驚くほどの速さで失墜した。 

 一度でも「牙」を剥き、周囲を拒絶した安堂に対し、クラスメイトたちは手のひらを返したように冷淡になった。

 「安堂って、結局あんな奴だったんだな」 
「一ノ瀬さんに全部押し付けてたってマジ? 最低じゃん」 

 壁を隔てて聞こえてくる囁きは、かつての賞賛を塗り潰し、彼を「排斥されるべき異物」として定義していく。

「……っ、あいつら、勝手なことばかり……!」

 安堂は机の下で拳を握りしめた。 

 自分を追い詰めたのは周囲の連中だったはずだ。自分はただ、それに対して異議を唱えただけ。それなのに、なぜ自分だけがこれほどまでに惨めな思いをしなければならないのか。

 さらに、彼を苛立たせていたのは、一ノ瀬唯花の不在だった。 

 あの日、自分を拒絶して去った唯花は、翌日から学校を休み続けている。 

 自分に代わって泥仕事を片付けてくれる人間も、どんなに醜態を晒しても「朔夜くんは悪くない」と肯定してくれる盲目な信者も、もうどこにもいない。

 安堂は、自分がどれほど「唯花という盾」に守られていたかを、今さらながらに思い知らされていた。

「……おい、安堂」

 聞き慣れた、けれど今は疎ましく思える声。黒瀬凪が、安堂の机の前に立っていた。

「なんだよ、黒瀬。……今の僕を見て、また笑いに来たのか?」

「笑う? まさか。僕はただ、君がどれほど鮮やかに『自立』したかを確認しに来ただけだよ。……どうだい、安堂くん。誰も君に期待せず、誰も君を愛さないこの静かな放課後は。君が望んだ、自由そのものだろう?」

 黒瀬の言葉は、安堂の神経を逆なでする。 

 安堂は立ち上がり、黒瀬の胸ぐらを掴もうとしたが、その手の震えは隠せなかった。

「自由なわけないだろ! みんな僕を避けてる。唯花もいない。これじゃ、ただの独りぼっちじゃないか……!」

「そう。それが孤独だ」

 黒瀬は、安堂の腕を冷酷に振り払った。

「君は『知恵』を、他人を攻撃するための武器としてしか使わなかった。結果、君の周りには何も残らなかった。……でも、それが現実だ。君がこれまで積み上げてきた評価なんて、所詮はその程度の砂の城だったんだよ」

「……黙れ! まだ終わってない。僕には、まだ……」

「何がある? 嘘で塗り固めた自尊心か、それとも現実逃避のための放蕩か。……安堂くん、君は焦っているね。自分が、黒瀬凪という蛇がいなければ、一人で立つことすらできない無力な子供だと、気づき始めているからだ」

 安堂は絶句した。 

 黒瀬の指摘は、図星だった。 

 「自由」を囁いてくれた黒瀬こそが、今の自分にとって唯一の「理解者」であるという歪んだ認識。けれど、その理解者は、自分の墜落を誰よりも愉しんでいる。

 安堂は、教室の窓に映る自分の顔を見た。 

 そこには、かつての「アダム」の面影など微塵もない、焦燥と孤独に焼き尽くされた男の抜け殻があった。

「……僕は、どうすればいいんだ」

 弱々しく漏れた安堂の言葉。黒瀬は、それを拾い上げることはしなかった。  

 「さあね。自分で考えればいい。……君はもう、子供じゃないんだろう?」

 黒瀬は、絶望の淵で立ち尽くす安堂を置き去りにして、教室を出た。   

 安堂朔夜という歯車は、もはや修復不可能なほどに歪んでいた。 

 彼に残された道は、さらなる深淵へと堕ちていくか、あるいは――。   


 安堂の焦燥は、ついに狂気の一歩手前まで膨れ上がり、静まり返った教室に彼の荒い呼吸だけが響き渡っていた。
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