智恵の実は、まだ熱い

篠雨

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第2部:【孤独】智恵の毒の浸透

第19話:砂の城

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一週間ぶりに姿を見せた一ノ瀬唯花は、まるで薄氷でできた彫像のようだった。 

 頬はこけ、制服は彼女の身体に対してわずかに余っているように見える。何よりも、その瞳から一切の感情が排され、ただ深い静寂だけを湛えていることが、彼女の変貌を決定づけていた。

 放課後。文化祭前日ということもあり、教室には準備に追われる生徒たちの熱気が充満していた。その喧騒の渦中で、安堂朔夜は唯花の姿を捉えた。

「……唯花。やっと来たのか」

 安堂が、縋るような、それでいて詰問するような声を出す。 

 この一週間、孤独と焦燥に焼かれていた安堂にとって、唯花は唯一、自分の「過去の栄光」を知る証人だった。彼女さえ自分の隣に戻れば、この惨めな現状を書き換えられる。そんな傲慢な期待が、彼の言葉に滲んでいた。

 だが、唯花は足を止め、安堂をじっと見つめ返した。その視線には、怒りも、悲しみも、執着もなかった。

「……安堂くん。何か、用かな」

 「安堂くん」。 
 その呼び方に、安堂の心臓が激しく脈打つ。かつての「朔夜くん」という甘い響きは、もう二度と彼女の唇から漏れることはない。

「……その呼び方はなんだよ。僕たち、そんな他人みたいな関係じゃないだろ。……悪かったよ。あの日、あんな言い方をしたのは。でも、僕も余裕がなかったんだ。君なら、わかってくれるだろ?」

 安堂は手を伸ばし、彼女の肩を掴もうとした。 

 しかし、唯花は一歩、冷徹なまでに正確な距離を保って、その手を躱した。

「……ううん。私、もうわからなくていいって思ったの。安堂くんのことも、自分のことも」

 唯花は、静かに言葉を続けた。

「私があなたにしていたのは、優しさじゃなかった。あなたの弱さに付け込んで、あなたを支配しようとしていただけだったんだって、黒瀬くんに教えてもらったの。……だから、私たちの『楽園』は、最初から砂の城だったんだよ。風が吹けば、こうして簡単に壊れてしまうような」

「黒瀬……! またあいつか! あいつが君をそそのかしたんだろ!」

「……いいえ。黒瀬くんは、ただ鏡を置いてくれただけ。そこに映った私の顔が、あまりに醜かったから……私は、その鏡を壊すんじゃなくて、城を捨てることにしたの」

 唯花は、自分の鞄から一冊のノートを取り出した。それは、安堂のために代わりにまとめていた講義のノートだった。彼女はそれを、迷うことなくゴミ箱へと落とした。

「……さよなら、安堂くん。もう、私のことは利用しないで」

 安堂はその場に立ち尽くした。 

 自分を肯定し、守ってくれるはずの防壁が、完全に、物理的にも精神的にも崩壊した。 

 周囲の生徒たちが、その光景を遠巻きに眺め、嘲笑や同情の視線を向けてくる。安堂がこれまで必死に維持しようとしていた「砂の城」は、今、完全に瓦解し、一粒の砂となって消え去った。

 教室の入り口。 

 黒瀬凪は、ポケットに手を突っ込み、その結末を眺めていた。 

 安堂が絶望に顔を歪め、唯花が虚無の瞳で歩き出す。   


 計画通りだ。 
 二人は今、本当の意味で「独り」になった。

「……満足?黒瀬くん」

 黒瀬の横を通り過ぎる際、唯花が足を止めずに呟いた。 

 その声は冷たく、けれどどこか黒瀬の魂を直接揺さぶるような響きを持っていた。

「……あぁ。最高の結末だよ」

 黒瀬は答えたが、その声は自分でも驚くほど乾いていた。 

 安堂という「アダム」を墜落させ、唯花という「イブ」から楽園を奪った。 

 荒野に立つ二人の間に、唯一の「理解者」として君臨しているはずの自分。    それなのに。   


 黒瀬の目に映る光景は、勝利の美酒に酔えるようなものではなかった。 

 砂の城が消えた後の荒野に、自分もまた、二人と同じ孤独な足跡を刻んでいることに気づいたからだ。

「……これで、終わりだ」

 黒瀬は自分に言い聞かせるように呟いた。 

 だが、安堂の瞳に宿った「狂気」の光と、唯花の背中に漂う「決別」の気配は、これが終わりではなく、さらに破滅的な嵐の序章であることを告げていた。
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