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余章
第4話:動き出す日常
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セレスティアを乗せた白亜の馬車が遠ざかり、街道の彼方へと消えていく。巻き上がった土埃が落ち着くと、そこには突き抜けるような冬の青空と、刺すような静寂だけが残された。僕は掌の中に収まった銀のバッジを、体温が移るほど強く、そっと握りしめていた。
この小さな金属の塊には、かつて「本物のレリル」が不条理を耐え抜いて積み上げた功績と、僕がこれからこの世界で繋いでいく不確かな未来が、分かちがたく宿っているような気がしてならなかった。
「レリル。風が冷たくなってきた、中に入ろう。今日は疲れただろう」
不意に隣から響いたヨハンの声に、深く沈んでいた思考が引き戻される。彼を見上げると、そこには峻厳な領主の顔ではなく、一人の身内を案じるような柔らかな眼差しがあった。彼は冬の気配を含んだ鋭い風を遮るように、さりげなく僕の背に手を添え、温かな光が漏れる屋敷の方へと促した。
その日の夜。客間の暖炉では薪がパチパチと爆ぜ、心地よい熱を部屋中に振りまいている。夕食の席、揺れる火影を見つめながら、僕は今日授かった称号について改めてヨハンに報告した。
「なるほど……。形骸化した名誉ではなく、実利を伴うものを王太子と聖女は用意したということか」
「はい。お二人は今、今回の騒動の後始末に奔走しているようです。何か困ったことがあればいつでも力になると、仰ってくださいました」
「それは重畳だ。あの二人であれば、澱んでいた中央政治も、いずれあるべき清廉な姿へと変わっていくだろう」
ヨハンは満足そうに深く頷くと、ふと興味を惹かれたように身を乗り出した。
「ところでレリル。昨日お前が話していた、前の世界での『雪室』という技術についてだが、もう少し詳しく聞かせてもらえないか」
「僕は専門の農家ではないので、あくまで見聞きした知識でしかなくて申し訳ないのですが……。大量の雪を貯蔵して天然の冷蔵庫を作る、という仕組みでした。そうして冬の間中冷やし続けることで、春を迎える頃には驚くほど糖度の増した野菜ができるのだそうです。希少価値も上がり、高く売ることも可能になると聞きました」
ストルムベルク領は間もなく、すべてが白銀に閉ざされる厳冬期を迎える。この地の厳しい寒さが、単なる「耐えるべき苦難」ではなく「富を生む資源」に変わるかもしれない。思い出した前の世界の知恵が、自分を受け入れてくれたこの地の役に立つことを願わずにはいられなかった。
領主としての鋭い眼差しを取り戻したヨハンと議論を交わしていると、自分が単なる保護対象ではなく、この地の一員として認められつつある実感が、じわりと胸に広がっていくのを感じた。
それから、屋敷の時間は穏やかに、溶けるように流れていった。
しかし、季節の歩みとともにヨハンは目に見えて多忙になっていった。魔物被害を受けた箇所の修繕、そして間近に迫る厳冬への備え。早朝から屋敷を出入りする彼の背中を見送るたびに、僕は自分にできることはないかと模索し始めた。けれど、この世界の厳しい冬を越すための具体的な術を僕は知らない。何より、今の僕には彼らの力になれる「魔法」が使えなかった。
(そうだ、魔法……。今はもう、あの忌々しい魔法封じの首輪も外されているんだ)
もし、この身に眠る力を少しでも引き出すことができたなら、彼の負担をいくらか減らせるかもしれない。そう思い至ったとき、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
「……ルクシオさんにお願いできないかな」
その日の夜。執務の合間に僅かな休息をとっていたヨハンを訪ね、ルクシオに連絡を取ってもよいかと思いきって尋ねてみた。
「レリル。お前はこれまで、誰よりも過酷な道を歩んできたんだ。今は何も考えず、ゆっくりと羽を伸ばしていていい……と言いたいところだが。それではレリルの気が済まないのだろうな」
ヨハンは僕の性格を見透かしたように苦笑した。
「わかった。ルクシオが来ることになったら、すぐに客室を使えるよう手配しておこう」
「ありがとうございます。 いつも良くしていただいてばかりで、自分だけ何もせずにいるのは、どうしても落ち着かなくて。僕も何か、少しでも皆さんの役に立てるように頑張りたいんです」
翌日、僕は期待と少しの緊張を込めてルクシオへ手紙を書いた。……のだが、返信の封筒が届くよりも早く、ルクシオ本人が嵐のような足取りでストルムベルク領に姿を現した。
「いやあ、ちょうどよかった! これでしばらくは、あの口うるさい王太子から逃げ……ゲホン、ゴホン! しばらくここに滞在して、お前の魔法をじっくり指導してやろうじゃないか!」
今、はっきりと「逃げる」と言わなかっただろうか。嫌な予感というよりは、何か腐れ縁のような騒がしい気配を感じる。けれど、ルクシオの屈託のない笑顔を見る限り、それが決して悪い話ではないことも伝わってきた。
「連絡もなしに突然来るとは。……驚いたぞ。まだ部屋の準備が整っていない。案内は後でも構わないか?」
不意の訪問者に眉を寄せ、呆れ顔でヨハンが応対する。
「ああ、気にするな。むしろ、この北の英雄の屋敷で客室を使わせてもらえるなんて、魔導士としては最高の光栄だよ」
「……レリルもこの屋敷に住んでいるからな。教えを乞うにはその方が都合もいいだろう」
「へえ、レリルも屋敷に、ねぇ……。ふーん、仲は順調そうで何よりだ」
ルクシオのニヤニヤとした、すべてを見透かすような視線に、ヨハンは「ゴホン!」と殊更に大きな咳払いをして強引に話を逸らした。その耳が少しだけ赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。
「……それではレリル、俺はまだ片付けるべき仕事がある。一緒には行けないが、何か困ったことがあれば、いつでも私を呼んでくれ」
「わかりました。ヨハンも、お仕事頑張ってください。ルクシオさん、今日はよろしくお願いします!」
僕が居住まいを正し、丁寧に深く頭を下げると、ルクシオは「うわぁ」と妙な声を上げて居心地が悪そうに頭を掻いた。
「やっぱ、そのレリルの顔でそんな丁寧に頭を下げられると、どうにも落ち着かないなあ……。じゃあ、あの魔物討伐の日に僕と模擬戦をした場所でさっそく訓練といこうか。あそこなら思い切りやれるだろう。ついてきて」
この小さな金属の塊には、かつて「本物のレリル」が不条理を耐え抜いて積み上げた功績と、僕がこれからこの世界で繋いでいく不確かな未来が、分かちがたく宿っているような気がしてならなかった。
「レリル。風が冷たくなってきた、中に入ろう。今日は疲れただろう」
不意に隣から響いたヨハンの声に、深く沈んでいた思考が引き戻される。彼を見上げると、そこには峻厳な領主の顔ではなく、一人の身内を案じるような柔らかな眼差しがあった。彼は冬の気配を含んだ鋭い風を遮るように、さりげなく僕の背に手を添え、温かな光が漏れる屋敷の方へと促した。
その日の夜。客間の暖炉では薪がパチパチと爆ぜ、心地よい熱を部屋中に振りまいている。夕食の席、揺れる火影を見つめながら、僕は今日授かった称号について改めてヨハンに報告した。
「なるほど……。形骸化した名誉ではなく、実利を伴うものを王太子と聖女は用意したということか」
「はい。お二人は今、今回の騒動の後始末に奔走しているようです。何か困ったことがあればいつでも力になると、仰ってくださいました」
「それは重畳だ。あの二人であれば、澱んでいた中央政治も、いずれあるべき清廉な姿へと変わっていくだろう」
ヨハンは満足そうに深く頷くと、ふと興味を惹かれたように身を乗り出した。
「ところでレリル。昨日お前が話していた、前の世界での『雪室』という技術についてだが、もう少し詳しく聞かせてもらえないか」
「僕は専門の農家ではないので、あくまで見聞きした知識でしかなくて申し訳ないのですが……。大量の雪を貯蔵して天然の冷蔵庫を作る、という仕組みでした。そうして冬の間中冷やし続けることで、春を迎える頃には驚くほど糖度の増した野菜ができるのだそうです。希少価値も上がり、高く売ることも可能になると聞きました」
ストルムベルク領は間もなく、すべてが白銀に閉ざされる厳冬期を迎える。この地の厳しい寒さが、単なる「耐えるべき苦難」ではなく「富を生む資源」に変わるかもしれない。思い出した前の世界の知恵が、自分を受け入れてくれたこの地の役に立つことを願わずにはいられなかった。
領主としての鋭い眼差しを取り戻したヨハンと議論を交わしていると、自分が単なる保護対象ではなく、この地の一員として認められつつある実感が、じわりと胸に広がっていくのを感じた。
それから、屋敷の時間は穏やかに、溶けるように流れていった。
しかし、季節の歩みとともにヨハンは目に見えて多忙になっていった。魔物被害を受けた箇所の修繕、そして間近に迫る厳冬への備え。早朝から屋敷を出入りする彼の背中を見送るたびに、僕は自分にできることはないかと模索し始めた。けれど、この世界の厳しい冬を越すための具体的な術を僕は知らない。何より、今の僕には彼らの力になれる「魔法」が使えなかった。
(そうだ、魔法……。今はもう、あの忌々しい魔法封じの首輪も外されているんだ)
もし、この身に眠る力を少しでも引き出すことができたなら、彼の負担をいくらか減らせるかもしれない。そう思い至ったとき、脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
「……ルクシオさんにお願いできないかな」
その日の夜。執務の合間に僅かな休息をとっていたヨハンを訪ね、ルクシオに連絡を取ってもよいかと思いきって尋ねてみた。
「レリル。お前はこれまで、誰よりも過酷な道を歩んできたんだ。今は何も考えず、ゆっくりと羽を伸ばしていていい……と言いたいところだが。それではレリルの気が済まないのだろうな」
ヨハンは僕の性格を見透かしたように苦笑した。
「わかった。ルクシオが来ることになったら、すぐに客室を使えるよう手配しておこう」
「ありがとうございます。 いつも良くしていただいてばかりで、自分だけ何もせずにいるのは、どうしても落ち着かなくて。僕も何か、少しでも皆さんの役に立てるように頑張りたいんです」
翌日、僕は期待と少しの緊張を込めてルクシオへ手紙を書いた。……のだが、返信の封筒が届くよりも早く、ルクシオ本人が嵐のような足取りでストルムベルク領に姿を現した。
「いやあ、ちょうどよかった! これでしばらくは、あの口うるさい王太子から逃げ……ゲホン、ゴホン! しばらくここに滞在して、お前の魔法をじっくり指導してやろうじゃないか!」
今、はっきりと「逃げる」と言わなかっただろうか。嫌な予感というよりは、何か腐れ縁のような騒がしい気配を感じる。けれど、ルクシオの屈託のない笑顔を見る限り、それが決して悪い話ではないことも伝わってきた。
「連絡もなしに突然来るとは。……驚いたぞ。まだ部屋の準備が整っていない。案内は後でも構わないか?」
不意の訪問者に眉を寄せ、呆れ顔でヨハンが応対する。
「ああ、気にするな。むしろ、この北の英雄の屋敷で客室を使わせてもらえるなんて、魔導士としては最高の光栄だよ」
「……レリルもこの屋敷に住んでいるからな。教えを乞うにはその方が都合もいいだろう」
「へえ、レリルも屋敷に、ねぇ……。ふーん、仲は順調そうで何よりだ」
ルクシオのニヤニヤとした、すべてを見透かすような視線に、ヨハンは「ゴホン!」と殊更に大きな咳払いをして強引に話を逸らした。その耳が少しだけ赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。
「……それではレリル、俺はまだ片付けるべき仕事がある。一緒には行けないが、何か困ったことがあれば、いつでも私を呼んでくれ」
「わかりました。ヨハンも、お仕事頑張ってください。ルクシオさん、今日はよろしくお願いします!」
僕が居住まいを正し、丁寧に深く頭を下げると、ルクシオは「うわぁ」と妙な声を上げて居心地が悪そうに頭を掻いた。
「やっぱ、そのレリルの顔でそんな丁寧に頭を下げられると、どうにも落ち着かないなあ……。じゃあ、あの魔物討伐の日に僕と模擬戦をした場所でさっそく訓練といこうか。あそこなら思い切りやれるだろう。ついてきて」
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