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第1章:白銀の監獄
第1話:完璧という名の窒息
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天界第七層、至聖都市ルミナリス。そこは永遠の朝陽が降り注ぎ、塵一つ落ちていない白亜の都である。
「エルリエル様、おはようございます。今朝も神々しいばかりの輝きですね」
エルリエルが神殿の回廊を歩けば、行き交う天使たちは一様に足を止め、深く首を垂れる。彼はそれに対し、一ミリの狂いもない完璧な角度で微笑みを返した。
「おはよう。皆の祈りが、今日も清らかに響いていますね」
その声は涼やかで、慈愛に満ちていた。エルリエルの背に広がる六枚の翼は、混じりけのない純白。天界の法典をそのまま具現化したような彼を、人々は「聖人」「天界の模範」と呼んで憚らない。
だが、エルリエルの内側では、絶え間なく薄氷が軋むような音が響いていた。
(……ああ。今日も、完璧でいなければ。誰よりも正しく、一点の曇りもなくあらねばならない)
それは、祈りというよりは呪詛に近かった。
朝の礼拝、午前の政務、午後の貧民層への施し。そのすべてが分刻みのスケジュールで決まっており、彼に許されているのは「聖人」という役割を演じきることだけだ。わずかな感情の揺らぎも、人間的な迷いも、この白い世界では「不浄」と見なされる。
昼食の席でも、同僚の天使たちは彼を囲み、熱心に教えを請う。
「エルリエル様。先日の罪深き者の裁定、実に見事でした。情に流されず、法を遵守するあの姿勢……我々の鑑です」
「そうですよ。エルリエル様がいれば、この天界の秩序は永遠に保たれる。下界の低俗な感情になど絆されることはありませんよね?」
それは賞賛の形をとった、逃げ場のない包囲網だった。
エルリエルが少しでも食事を残せば「体調が悪いのか」と騒ぎ立てられ、少しでも眉を寄せれば「何か不浄なことが起きたのか」と問い詰められる。彼らの瞳にあるのは、エルリエルという個人への愛ではなく、「完璧な正解」を維持し続ける自動人形への執着だ。
彼がもしここで、「正しさに疲れた」と、あるいは「一人になりたい」と言い放ったらどうなるだろうか。おそらく、この神聖な大理石の床は驚愕でひび割れるに違いない。
「……ええ。私は常に、法と共にあります。それが私の存在意義ですから」
エルリエルは、自分でも驚くほど滑らかに、正しい言葉を選んだ。
心はひりひりと焼け付いている。だが、翼だけは眩いばかりの光を放ち続けている。
その日の夕刻。エルリエルは執務室の窓から、遠く下界へと続く「断罪の裂け目」を眺めていた。かつて、自分が法に基づいて追放した同胞たちが落ちていった場所だ。
その中には、かつて「友」と呼べるかもしれなかった、ある男の姿もあった。
規律を嘲笑い、自由を求めて闇に消えた、あの傲慢な男。
『あんたは、いつかその白さに塗りつぶされて消えるぜ』
追放される間際、男が残した呪いのような囁きが、今になって胸の奥で疼き始める。
あの時、男を断罪した自分の指先が、なぜか今も熱を持っているような気がしてならなかった。
その時、執務室の扉が激しくノックされた。
「エルリエル様! 大至急、最高評議会へお越しください! あなたに……重大な疑いがかかっております!」
部下の声は、かつての敬意を失い、隠しきれない興奮と攻撃性を孕んでいた。
エルリエルの心臓が、大きく跳ねた。
必死に守り続けてきたはずの「正しさ」が、音を立てて崩れようとしていた。
「エルリエル様、おはようございます。今朝も神々しいばかりの輝きですね」
エルリエルが神殿の回廊を歩けば、行き交う天使たちは一様に足を止め、深く首を垂れる。彼はそれに対し、一ミリの狂いもない完璧な角度で微笑みを返した。
「おはよう。皆の祈りが、今日も清らかに響いていますね」
その声は涼やかで、慈愛に満ちていた。エルリエルの背に広がる六枚の翼は、混じりけのない純白。天界の法典をそのまま具現化したような彼を、人々は「聖人」「天界の模範」と呼んで憚らない。
だが、エルリエルの内側では、絶え間なく薄氷が軋むような音が響いていた。
(……ああ。今日も、完璧でいなければ。誰よりも正しく、一点の曇りもなくあらねばならない)
それは、祈りというよりは呪詛に近かった。
朝の礼拝、午前の政務、午後の貧民層への施し。そのすべてが分刻みのスケジュールで決まっており、彼に許されているのは「聖人」という役割を演じきることだけだ。わずかな感情の揺らぎも、人間的な迷いも、この白い世界では「不浄」と見なされる。
昼食の席でも、同僚の天使たちは彼を囲み、熱心に教えを請う。
「エルリエル様。先日の罪深き者の裁定、実に見事でした。情に流されず、法を遵守するあの姿勢……我々の鑑です」
「そうですよ。エルリエル様がいれば、この天界の秩序は永遠に保たれる。下界の低俗な感情になど絆されることはありませんよね?」
それは賞賛の形をとった、逃げ場のない包囲網だった。
エルリエルが少しでも食事を残せば「体調が悪いのか」と騒ぎ立てられ、少しでも眉を寄せれば「何か不浄なことが起きたのか」と問い詰められる。彼らの瞳にあるのは、エルリエルという個人への愛ではなく、「完璧な正解」を維持し続ける自動人形への執着だ。
彼がもしここで、「正しさに疲れた」と、あるいは「一人になりたい」と言い放ったらどうなるだろうか。おそらく、この神聖な大理石の床は驚愕でひび割れるに違いない。
「……ええ。私は常に、法と共にあります。それが私の存在意義ですから」
エルリエルは、自分でも驚くほど滑らかに、正しい言葉を選んだ。
心はひりひりと焼け付いている。だが、翼だけは眩いばかりの光を放ち続けている。
その日の夕刻。エルリエルは執務室の窓から、遠く下界へと続く「断罪の裂け目」を眺めていた。かつて、自分が法に基づいて追放した同胞たちが落ちていった場所だ。
その中には、かつて「友」と呼べるかもしれなかった、ある男の姿もあった。
規律を嘲笑い、自由を求めて闇に消えた、あの傲慢な男。
『あんたは、いつかその白さに塗りつぶされて消えるぜ』
追放される間際、男が残した呪いのような囁きが、今になって胸の奥で疼き始める。
あの時、男を断罪した自分の指先が、なぜか今も熱を持っているような気がしてならなかった。
その時、執務室の扉が激しくノックされた。
「エルリエル様! 大至急、最高評議会へお越しください! あなたに……重大な疑いがかかっております!」
部下の声は、かつての敬意を失い、隠しきれない興奮と攻撃性を孕んでいた。
エルリエルの心臓が、大きく跳ねた。
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