不香の花の行く道は

谷絵 ちぐり

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19歳 夏

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あの日雪成が家を出てまず最初に向かった先は父が勤めている会社だった。
最後に会った時は祖母の葬儀の時で、それ以来の親子の邂逅だったがそれは一時間にも満たない時間だった。
父はとっくに再婚しており子どももいるという。
家を出た、そう言うとなんとも言えない顔をした。

「大学は?」
「行かない」
「そうか…これまで通りお金は振り込むから」
「うん」

会社近くのコーヒースタンド、誰に見られるともわからない場所で話ができたのがほんのちょっぴり嬉しかった。
それだけで全てを許してしまおうと思うほどに。

「雪成、父さんは…弱い」
「…知ってる」
「母さんを愛してたんだ」
「うん」

母の命の代わりに生まれた自分、母はもういないのに母に生き写しのように成長していく。
父はそれを間近で見ることに耐えられなくなった、だから逃げた。
厄介なことから逃げるところは確かに親子なんだと思わせた。

「父さん、元気で」
「お前も」

別れの言葉としてはそれで充分だったと思う。


それから『collar』へ行った。
そこでのアルバイトは快適で辞めるのは惜しかったけれど、それも仕方ないと思っていた。
放課後ではなく朝から訪れた雪成に観月は驚いて、まじまじと雪成を見つめて口を開いた。

二階うえに住む?」
「……へ?」

雪成の口から間抜けな声がでて、観月はからからと笑った。
それからもう一年以上が過ぎた今でも雪成は店の二階に住み続けている。

一度だけ純が訪ねてきたが、観月があっさりと追い返した。

「ユキくん?だいぶ前に辞めちゃったよ」
「友だち?友だちなのに居場所知らないの?それって本当に友だちなの?」

店内に入れられない、とチョコレート色のドアの前で観月は仁王立ちしていたと後で客に聞いた。


ある日の閉店間際、オーナーが店のドアを開いて猫かなにか放り込むように一人の小さなオメガを放り込んだ。

「観月、頼む」

それだけ言うとまたドアを閉めた、大いに既視感のあるそれにぽかんとする雪成を置いて観月はそのオメガに駆け寄った。
公園で蹲っていたところをオーナーが拾ったらしい。
よれよれのTシャツに擦り切れたような赤みの残る頬、ハーフパンツから覗く膝小僧には乾いた血が張り付いていた。
これまでもオーナーが連れてきたオメガは何人もいたが、こんな年端もいかない子は初めてだ。

「ユキくん、上に連れていってお風呂入れてあげて。僕はご飯作るから」
「…あ、うん」

所在なげに立ち竦む小さなオメガに手を伸ばすと、彼はびくりと肩を揺らした。
しきりに腕を摩りキョロキョロと目線だけを動かし、足をもじもじと小刻みに動かしている。

「えっと、大丈夫だよ?」

今にも逃げ出しそうなそれに雪成はなんとか声をかけ、今度は怯むことなくその肩を抱いて階段を登らせた。


二階の浴室、小さなオメガは脱衣所でまたもうろうろと視線を泳がせギュッとTシャツの裾を握った。

「一人ではいれる?」
「…えっと、えっと」
「…ついでに僕も一緒に入っていいかな?」

こくりと頷いた小さなオメガ、雪成がシャツのボタンに手をかけるのを見てTシャツを脱いだ。
貧相な体、へこんだ腹に骨の浮いた脇腹、頭からシャワーをかけると鎖骨に湯が溜まっていった。
シャンプーは一度では泡立たず、三回洗った。
身体はタオルで洗った後に、たっぷりの泡で優しく手で洗ってやった。
あちこちにできた擦り傷に顔を顰めながらも小さなオメガは大人しく洗われていた。

「名前は?」
「…ポチとかコジロウとか…」
「え?」
「今日は、ルナって呼ばれたけど…ボクはポテトが好き」
「ポテト?」
「うん、公園の側の大きいお家の犬。白くてふわふわしてて、たまに柵から鼻出してるの。ポテトって呼ばれてたから、ボクもポテトがいい」

決して広くはない浴室、浴槽は二人で入ると湯が滝のように溢れた。
風呂上がり、店に戻ると店の入口で観月がオーナーと話していた。

「お風呂、気持ち良かった?」

振り返った観月にポテトは頷いてから、ぺこりと頭を下げた。
それからポテトは観月が作った野菜粥を食べて、ホットミルクを飲んで観月の部屋で眠った。

「観月さん、あの子…」
「あぁ、ユキくんはあの位の子がここに来るの初めてだったね。うん、大丈夫だよ。鴨井さんが上手くやってくれるから」
「初めてじゃないんですか?」
「うん、ああいう行き場のない子をね、鴨井さんは拾ってくるの」

そう言って観月は寂しそうに小さく笑って、おやすみと言った。


次の日、雪成が開店作業をしている時に坂口という女がやってきた。

「鴨井、私は生安でもなければここの管轄でもないんだよ」
「一般市民からしたらそんなもんわかんねぇよ」

店先で坂口と対峙したオーナーはそう言って火のついていない煙草を弄んだ。
刑事さんなんだよ、と観月は雪成に耳打ちする。
オーナーって何者?と雪成は首を傾げ、観月はくすくすと笑う。
そんな中、ポテトは観月と雪成に挟まれて居心地が悪そうにもぞもぞしていた。

「君、名前は?」
「…ポテト」
「そう、ポテト君ね?おばさんと行こうか」
「どこに?」
「ポテト君の未来を考えるところ」

そう言って坂口はポテトを連れて行った。
車に乗り込む時、小さく手を振るポテトに雪成は精一杯の笑顔を見せた。
ほわりと笑ったポテトの未来が健やかであればいい。

「さて、店開けるかー」

んーと伸びをした観月に続き、雪成もチョコレート色のドアに手をかけた。

「おい、お前の居場所はここなのか?」
「…え?」

振り返った先のオーナーは煙草に火をつけて、ふぅと煙を吐き出した。
基本的にオーナーは観月としか話をしない、こんな風に声をかけられたのは初対面以来だ。

「迷惑、ですか?」
「お前がいいなら好きなだけここにいればいい。ただ…お前は自由だろ?」

それだけ言うとオーナーは紫煙をくゆらせながら店脇の階段を登っていった。
ビルの谷間に吹く無機質な風、そこに夏草の匂いを感じてしまって雪成の目に涙が滲んだ。



※生安=生活安全課




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