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父
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十六歳の誕生日、父が死んだ。
その日は小雪がちらちらと舞い散る寒い日で、勤め先の肉屋から売れ残りのミートボールをもらって帰った。
誕生日だからといってなにか祝うわけではないが、なんだかホクホクと喜びが込み上げる。
蓋付きのメスティンに入ったミートボールはまだ温かい。
それを胸に抱いて家路を走った。
築ウン十年のボロアパートは三階建てで、我が家は一階の真ん中の部屋だ。
坂道を登りきった所に建っているそこを目指して行く。
ポツポツと灯る街灯の下、我が家を見上げると光がこぼれている。
「っただいま!父さん、今日ねミートボールを・・・」
玄関などない我が家は開けるとすぐに室内が丸見えになる。
そこのちょうど中央、一番太い梁に父はぶら下がっていた。
だらりと飛び出た長い舌、こぼれ落ちそうな瞳、傷だらけの伸びた首。
かつて父であったそれ。
靴のまま室内に入り、そっと押してみるとゆらりとそれは回転した。
力なくぶら下がっている手とその指先には血が滲んでいた。
尻ポケットの封筒に視線が吸い寄せられる。
──弱い父さんでごめんな
──もう一人で生きていけるよな
たったニ行の別離の言葉。
弱い、その部分が滲んでいく。
その紙切れをたたんでポケットにしまう。
袖口で一度目を擦ってから室内を見渡した。
一番大きな鞄を納戸から出して使えそうな物をどんどん詰めていく。
下着、シャツ、ズボン、歯ブラシ、石鹸、父が後生大事にしていたタイピン。
タイピンは結婚する時に父が母から贈られたもの。
それを握りしめ腕を振り上げる。
叩きつけられたら気が晴れるだろうか。
それとも虚しくなるだけだろうか。
壁際のハンガーにかかったくたびれ擦り切れたねずみ色のコート。
自分にはまだ大きいそれに袖を通す。
同じねずみ色のマフラーをグルグルと首に巻いて大きめのキャスケットを被って、ハッと気づいた。
ミートボールはどこへいった?
キョロキョロと探すと、父だったものの足元に転がっていた。
汚物と吐瀉物にまみれたミートボール。
「もったいなかったな」
よいしょ、と大きな鞄を持って忘れ物はないかとゆっくりと室内を検分する。
箪笥の一番上の二重底から金を取り出してコートのポケットに突っ込んだら終いだ。
「さよなら。・・・父さん」
父の左手の薬指にはメッキの剥がれた銀色の指輪が鈍く光っている。
それまで持って行くのは酷だろうと思った。
肌身離さず嵌めていたそれ、地獄まで持っていけよ。
哀れな父さん、間抜けな父さん、ただ一つの愛を忘れられずに命を絶った父さん。
──ディアドリ、これはな母さんが父さんに似合うと言って贈ってくれたものなんだ
──お返しに父さんはこんなに大きなサファイアのペンダントを贈ったんだぞ
──母さんの瞳の色だ
──そして、お前の瞳の色
──母さんの白く細い首によく似合っててな
馬鹿な父さん、貧乏なのにサファイアなんて買えるわけないじゃないか。
タイピンに付いてるエメラルドだって色を似せた偽物だ。
そのペンダントもサファイアに見せかけたガラス玉だったんだろう?
落としただけで、どこかにぶつけただけで、踏みつけただけで壊れてしまうガラス玉。
そんなのとっくに粉々になってるよ。
欠片ひとつ残さず、思い出ひとつ残さずに粉々になってるよ。
玄関扉は開けたまま、部屋を出る。
空は暗く、雲は月を隠し星の瞬きまで覆い尽くしている。
坂道を転がるように走り出したその時、背後で甲高い悲鳴があがった。
あの声は誰だろう。
隣の婆か、上の部屋の姉さんか。
振り切るように走る。
荷物が重い、長いコートが足にまとわりつく。
それでも走る。
街外れの操車場に向かってひた走る。
貨物車両が並んでいる隙間を縫ってディアドリは歩く。
ジャリジャリとどうしても音を立ててしまう石に苛立ちながら、潜り込めそうな貨物車両を探す。
ガタガタギギィという音でどこかから駅員が飛んでくるのではないか、と不安になる。
口に咥えた懐中電灯で中を検めると麻袋が整然と並んでいた。
「乾燥とうもろこしか」
見渡すと奥に少しだけ隙間ができている。
いいかもしれない、ディアドリは乾燥とうもろこしの配置を変えてその隙間を囲った。
人一人が座れるくらいの空間。
そこに座って膝に顔を埋める。
麻袋に囲まれているおかげか思ったより寒くない。
この貨物はどこへ行くんだろう。
どこでもいい、ここではないどこか。
父も自分も、そして母も知らないどこかへ行きたい。
泣くもんか、涙はあの狭い部屋に置いてきた。
もうなにがあっても絶対に泣かない。
母に捨てられ、父に置いていかれ、これ以上に辛く悲しいことなんてあるもんか。
その日は小雪がちらちらと舞い散る寒い日で、勤め先の肉屋から売れ残りのミートボールをもらって帰った。
誕生日だからといってなにか祝うわけではないが、なんだかホクホクと喜びが込み上げる。
蓋付きのメスティンに入ったミートボールはまだ温かい。
それを胸に抱いて家路を走った。
築ウン十年のボロアパートは三階建てで、我が家は一階の真ん中の部屋だ。
坂道を登りきった所に建っているそこを目指して行く。
ポツポツと灯る街灯の下、我が家を見上げると光がこぼれている。
「っただいま!父さん、今日ねミートボールを・・・」
玄関などない我が家は開けるとすぐに室内が丸見えになる。
そこのちょうど中央、一番太い梁に父はぶら下がっていた。
だらりと飛び出た長い舌、こぼれ落ちそうな瞳、傷だらけの伸びた首。
かつて父であったそれ。
靴のまま室内に入り、そっと押してみるとゆらりとそれは回転した。
力なくぶら下がっている手とその指先には血が滲んでいた。
尻ポケットの封筒に視線が吸い寄せられる。
──弱い父さんでごめんな
──もう一人で生きていけるよな
たったニ行の別離の言葉。
弱い、その部分が滲んでいく。
その紙切れをたたんでポケットにしまう。
袖口で一度目を擦ってから室内を見渡した。
一番大きな鞄を納戸から出して使えそうな物をどんどん詰めていく。
下着、シャツ、ズボン、歯ブラシ、石鹸、父が後生大事にしていたタイピン。
タイピンは結婚する時に父が母から贈られたもの。
それを握りしめ腕を振り上げる。
叩きつけられたら気が晴れるだろうか。
それとも虚しくなるだけだろうか。
壁際のハンガーにかかったくたびれ擦り切れたねずみ色のコート。
自分にはまだ大きいそれに袖を通す。
同じねずみ色のマフラーをグルグルと首に巻いて大きめのキャスケットを被って、ハッと気づいた。
ミートボールはどこへいった?
キョロキョロと探すと、父だったものの足元に転がっていた。
汚物と吐瀉物にまみれたミートボール。
「もったいなかったな」
よいしょ、と大きな鞄を持って忘れ物はないかとゆっくりと室内を検分する。
箪笥の一番上の二重底から金を取り出してコートのポケットに突っ込んだら終いだ。
「さよなら。・・・父さん」
父の左手の薬指にはメッキの剥がれた銀色の指輪が鈍く光っている。
それまで持って行くのは酷だろうと思った。
肌身離さず嵌めていたそれ、地獄まで持っていけよ。
哀れな父さん、間抜けな父さん、ただ一つの愛を忘れられずに命を絶った父さん。
──ディアドリ、これはな母さんが父さんに似合うと言って贈ってくれたものなんだ
──お返しに父さんはこんなに大きなサファイアのペンダントを贈ったんだぞ
──母さんの瞳の色だ
──そして、お前の瞳の色
──母さんの白く細い首によく似合っててな
馬鹿な父さん、貧乏なのにサファイアなんて買えるわけないじゃないか。
タイピンに付いてるエメラルドだって色を似せた偽物だ。
そのペンダントもサファイアに見せかけたガラス玉だったんだろう?
落としただけで、どこかにぶつけただけで、踏みつけただけで壊れてしまうガラス玉。
そんなのとっくに粉々になってるよ。
欠片ひとつ残さず、思い出ひとつ残さずに粉々になってるよ。
玄関扉は開けたまま、部屋を出る。
空は暗く、雲は月を隠し星の瞬きまで覆い尽くしている。
坂道を転がるように走り出したその時、背後で甲高い悲鳴があがった。
あの声は誰だろう。
隣の婆か、上の部屋の姉さんか。
振り切るように走る。
荷物が重い、長いコートが足にまとわりつく。
それでも走る。
街外れの操車場に向かってひた走る。
貨物車両が並んでいる隙間を縫ってディアドリは歩く。
ジャリジャリとどうしても音を立ててしまう石に苛立ちながら、潜り込めそうな貨物車両を探す。
ガタガタギギィという音でどこかから駅員が飛んでくるのではないか、と不安になる。
口に咥えた懐中電灯で中を検めると麻袋が整然と並んでいた。
「乾燥とうもろこしか」
見渡すと奥に少しだけ隙間ができている。
いいかもしれない、ディアドリは乾燥とうもろこしの配置を変えてその隙間を囲った。
人一人が座れるくらいの空間。
そこに座って膝に顔を埋める。
麻袋に囲まれているおかげか思ったより寒くない。
この貨物はどこへ行くんだろう。
どこでもいい、ここではないどこか。
父も自分も、そして母も知らないどこかへ行きたい。
泣くもんか、涙はあの狭い部屋に置いてきた。
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