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宿 海の雫

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へぶしっとくしゃみをしながらディアドリは冷えた体を擦りながら線路沿いを歩く。
大きな鞄が重たくて代わる代わる持ち替えながら行く。
やがて駅舎が見えてきて、その周りには建物がひしめき合っているのがわかる。

「今日くらいは宿に泊まろう。それで明日からは職を探して、暫くは簡易宿泊所かな。住み込みの職があればいいけど・・・」

一人だからなんだか寂しくて自分自身に言い聞かせるように声に出す。

「がんばろ、一人でも大丈夫。生きていける」

前を向いて歩く。
冷たい風にまたへぶしっとくしゃみをしながら。


たどり着いた駅舎は遠目で見るよりも大きくて人が多くて思わず、うわぁーと声が漏れた。

「駅前の宿は高そうだな。どこか外れたとこの安いところで・・・」

また独り言をいいながら、駅から南に向かって歩く。
風で多少は乾いたとはいえ濡れネズミになってしまったのでそこここで視線を感じる。
早くどこか宿を見つけなければ。
周りの視線を振り切ってずんずんと歩く。
大きな鞄は胸の前で抱きしめて、だけど決してキョロキョロしてはいけない。
大通りを抜けて暫く行くと人もまばらになっていく。
視線だけで辺りを見渡し手頃な宿はないか、と探してみる。

「あった」

ツイてる、とディアドリは心底思った。
右も左もわからない初めての街で適当に歩いて小さな宿屋を見つけたのだ。
ここでやっていくとしてこれ以上ない良い始まりではないだろうか。
あの海の事はもう知らん、あれは忘れようとディアドリは宿に向けて歩く。
間口一軒の宿の看板は文字が薄くなっていて、じっと目を凝らさないとわからない。
『宿 海の雫』の年嵩の女将はカウンターに現れたディアドリを頭の先からつま先まで二度ほど往復した。

「・・・何歳?一人?」
「じゅっ十七で、もうすぐ十八歳になります!」

つい嘘をついてしまった。
救貧院なんかに送られてはたまらない。
ここに救貧院があるのか知らないけど、大きな街だからあるかもしれない。

「ふぅん。そんなちっさいのに?」
「・・・両親がその小柄だったので」
「金は?持ってんの?」
「はい!あります」

胸ポケットから財布を出して見せるとようやく女将は納得したように頷いた。

「風呂付き、風呂なし、飯付き、飯なし、どれ?」
「風呂付き、飯付きで!」

ディアドリの食いつきに女将は驚いたが、そこで初めて笑顔を見せた。
小さく微かなものだったが口の端が上がった。
背後の鍵棚から一本の鍵を出して言う。

「三階の手前の部屋ね。食事は降りといで」
「ありがとうございます」

ディアドリは丁寧に頭を下げて三階へと駆け上がった。
それを見送った女将は奥の厨房に向かって声をかけた。

「聞いた?飯付き、いつもより量を多めにしてやんな」
「あれどう見ても十七じゃないっしょ」
「まぁ、金はあるみたいだし・・・本人がそう言ってんならそうなんだろ」
「甘い!甘いよ、女将」

うるさいよ、と女将は厨房から顔を覗かせた男の額を小突いた。


31と書かれた部屋は一人用のベッドと小さな丸いテーブルと椅子が一脚。
クローゼットは無く、壁に打たれた杭にはハンガーがかけてあるだけだった。
小さな窓を開けると右手に遠く海が見える。

「こんなに離れてるのに海の匂いがする」

すごいなぁ、と思ったそばからくしゃみが出てディアドリはいそいそと浴室へ向かった。
浴室にはシャワーがあるのみだった。
贅沢は言ってられないな、とぬるいシャワーを浴びて海でゴワゴワになった髪を石鹸でわしゃわしゃ洗う。
髪が長いと幼く見られるだろうか、いっそ切ってしまおうか。
四隅が錆びている鏡の中の自分。
薄茶の髪にサファイアブルーの瞳。
母の瞳はもっと濃いサファイアブルーだった、そう父が言っていたのを思い出す。
ぶるぶると頭を振って父も朧気な母も追い出して、ディアドリは食事に向かった。


ごろごろと野菜の入ったスープのミルクの甘みが体をじんわりと温めていく。
丸いパンはもちもちとしていて、メインはミートボールだった。

「・・・ミートボール」
「違うよ、それは魚の身をすり潰して団子にしたもんだ」
「初めて食べます」

そう、と一言だけ言って女将はまたカウンターに戻っていった。
あの日食べ損ねたミートボール。
これは魚の団子で全然違う。
違うから、と言い聞かせて食べたそれはあっさりした魚の旨味が口に広がった。
うん、見た目がそうでも中身は全然違う。
ここでやっていける。
大丈夫大丈夫、と心に刻んでディアドリは食事を終えた。


「お世話になりました」

鍵を返却してディアドリは金を払う。
安くて美味しい食事が出て、ベッドは硬かったけどそんなのは慣れっこだから気にならなかった。
それより仄かに香ったシーツの海の匂いが気に入った。
良い宿だったな、とディアドリは笑顔だった。

「どっか行くとこあるの?」
「へ?」

なぜか渋面を作った女将に、ディアドリはさてなんと答えたものかと逡巡した。
けれど、上手い言い訳など思いつくはずもなく結局正直に答えた。

「・・・職を探そうかと」
「その後は?」
「えっと、簡易宿泊所があればそこに・・・」

そうかい、と女将は鍵を鍵棚にかけた。
なにか言いたげな顔にその先を待ったが何も無かったのでディアドリはそのまま宿を後にした。
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