毒と薬の相殺堂

urada shuro

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第五章

投薬日記(1)

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 オレはオレが、オレという個人特有の意識を保ち、オレとしての感覚を見失わず、オレの意思でオレのためにオレとして不自然ではない時間を費やして生きていたい。
 そうあるためにオレがオレにできることは、オレを愛しオレのことを考えオレの望むことを叶えてやれるような行動にでることだとオレは思う。それがオレの結論だ。



 そんなわけで、曇り空の木曜日。
 今日から、オレの闘いがはじまる。

 午後一時すぎ。
 荷物の入った大きめのバッグと不安を抱え、オレはマルカさんの迎えの車で相殺堂へとやってきた。車を降り、建物を見上げた途端、緊張が増す。

「来てしまったな」と感じた。自分で選択したのにも関わらず、恐怖はまだ拭えない。
 ジギタリスの花に一礼する。もはや見慣れた看護師コスプレのマルカさんに連れられ、廊下を進んだ。何度か訪れた一番奥の部屋ではなく、その手前のドアをマルカさんは開いた。

 白い壁に白い天井、ベージュの床。そこは、清潔感のある綺麗な部屋だった。オレには用途のわからない小型の機械もいくつか置いてあり、病院の処置室に似た印象を受ける。窓際のベッドの白いシーツには皺ひとつなく、たたまれた掛布団の折り目にずれもない。
 その隣にもうひとつベッドがあり、社長が腰かけていた。彼の側には、君縞さんも立っている。社長は立ち上がり、オレに歩み寄って肩を組んできた。

「よう、よく来たな。ママのおっぱいはしっかり吸ってきたか? 今日からしばらくは吸いたくても吸えねえんだから、ちゃんと我慢しろよ」
「す、吸いませんよ、そんなの!」

 早くも軽い疲労感を受け、背けた顔をしかめる。
 あー、嫌だ。立ち直ったらすぐコレか。あんなに拗ねてたくせに、お元気そうでなによりだ。まあ、オレも泣いてばっかだったけどさ。

「風音寺さんにはこれから、こちらの部屋で過ごしていただきます。その間、検査着を身に着けていただくのですが、着替えていただいてよろしいですか?」

 マルカさんが、カゴに入った薄い水色の検査着をオレの前に差し出した。

「え? 今? さっそく、ですか?」
「はい。ベッドも使っていただいて結構ですので、どうぞ、楽にしてください」
「は、はい……えっと……どっちのベッドを……」

 オレはきょろきょろと、ふたつのベッドを交互に見た。それを止めるように、社長が大きな手でオレの頭を掴む。そのまま、無理やり窓際のベッドのほうに顔を向けられた。

「こっちがおまえ。もうひとつは俺のだ。今日から毎晩、俺がここで一緒に寝てやるからな」
「えっ……?! オ、オレ、社長と同じ部屋で寝るんですか……?!」
「ははは! そうだろ、嬉しいだろ! このオレがわざわざ、見守ってやるんだからな!」
「あー……まじですか。でも、社長と二人きりなんて、緊張して眠れなさそうっていうか」
「ふふん。おまえは残念だろーが、オレたちふたりじゃねえ。マルチューも一緒だ!」

 社長はどこに隠してあったのか、突然マルチューのケージを取り出してオレに突き出した。
 これに慌てたのは、君縞さんだ。目を白黒させ、口をあんぐりと開ける。

「ちょ、鈍原さん?! いつの間にっ……ここに動物を持ち込まないで下さい! 仮にも、これから治療に使う場ですよ?!」
「ふざけんなこのチェリー坊や! マルチューは動物じゃねえ、家族だ! なあ、弓枝木」
「……家族ですが、わたしは君縞先生が正しいと思います。マルチューは戻してまいります」

 マルカさんは社長の手からケージを強引に奪い、それを持って部屋を出ていった。社長が「この裏切り者-っ!」と叫ぶ。

 ……なーんだろ、これ。まるで緊張感がないじゃない。
 オレとしては、人生がかかった決戦の場に来たつもりなんだけどなぁ……張りつめていた気持ちが緩むようで、いいんだか悪いんだか。オレは苦笑いを浮かべて着替えをはじめた。
 ぐちぐちと君縞さんにぼやいていた社長が、一息ついてこちらにふり返る。

「ところで、念のため聞くが……今日のこと、誰にも話してねえだろうな?」
「あ、はい。話してません。家族には、友達の家に泊まりに行くってうそついてきました」

 家族、というか、母親にしか話してないんだけど……しかも、話したのは今朝だった。母親が仕事に行く直前の忙しい時間に、前触れもなく打ち明けたのだ。

 気分転換を兼ねて、何日か友だちの家に泊まりに行きたいんだけど。

 オレのそんな突然すぎる外泊宣言に、母親はもちろん心配をした。しかし、体調がおかしくなって以来はじめて、自発的に外に出ようというオレの気持ちの変化を喜んでいるようにも見えた。
 しかも、「ちゃんとお友達にお礼をして」と、お金まで持たせてくれた。受け取るのは心苦しかったが、なんせオレは財政難だ。なにがあるかわからないし、念のためありがたくそれを借りてしまった。別れ際の母親の笑顔を思い出すと、今も胸がじわじわ痛む。

「ふん、陳腐なうそだな。ま、安心してろ。数日後には元気な姿でママのもとに帰してやるよ」
「当然です。そのために、オレはここにきたんですから。責任を持って、お願いします」

 社長は一瞬、目を見張った。すぐに顎と口角をあげ、オレを見下ろして、
「くっそ生意気な! 言うようになったじゃねえか。望むところだ、コノヤロウ!」
 と、外国アニメの悪者のような憎たらしい笑いを浮かべた。

 ちなみに、マルカさんと君縞さんも日曜まで相殺堂に泊まり込んでくれるらしい。マルカさんは無理にしろ、せめて君縞さんが同じ部屋で見守ってくれたらいいのに、とオレは密かに思った。
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