毒と薬の相殺堂

urada shuro

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第六章

なにもかも。(1)

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 いつの間にか、五月は過ぎ去っていた。
 六月といえば、「雨」や「湿気」のイメージがある。しかし、今日はまだそれらを感じることもなく、暑くも寒くもない心地のよい気候だ。水色のきれいな空が、窓から見える。

 土曜の正午すぎ、オレは三度目の投薬の日を迎え、相殺堂の白い部屋にいた。
 いつもの事前検査も無事に終わり、錠剤も飲み、ベッドで腕を出してその時を待つ。

 実は、二度目の投薬をした翌日、オレの爪はいきなり五ミリほど伸びていた。
「間違いなく、新薬の副作用だ」と、オレに爪切りを渡しながら社長は言った。

 新薬は、オレの身体に、確実に影響を与えているのだ。
 それなら、次は本作用の効果にも期待が持てる気がしてくる。

「今回も、また薬の量を増やします」

 君縞さんの言葉に、オレは顔を強張らせてうなずいた。
 社長がケースを開け、君縞さんに薬の入った瓶を渡す。君縞さんが注射器に薬を移し、瓶を社長に返した。それを、社長がケースにしまう……三度目だけど、やっぱりこの段階に入るとそわそわしてしまう。未だに、この緊迫した空気には慣れないな。

 その緊張が、一瞬にしてさらに張りつめた。君縞さんの身体が、突然びくんと跳ねたのだ。

「どうした?!」

 社長が、顔をしかめる。オレも同じように君縞さんを見た。

「な、なんか今、足元で動いたような……」

 注射器を持ったまま、君縞さんは目を白黒させている。マルカさんが、素早く床に這いつくばった。社長とオレも、おのおの床に視線を這わせる。

 な、なにそれ?! まさか変な虫じゃないよな? よりによって、こんなときに……?!
 いち早く反応したのはマルカさんだ。なにかを見つけたのか、鋭い眼光でベッドの下に潜り込む。数秒後、帰還した凄腕ハンターの手には、小さな白い生き物が握られていた。

「マルチュー!」

 オレと社長の声が揃う。社長は満面の笑みで小さな家族に駆け寄った。

「どうした、こんなとこで?! 俺に会いにきたのか? 可愛いやつめ!」

 マルチューは社長を気にも留めず、鼻先をあっちこっちに向けながらせわしなく動いている。
 疲労感丸出しの顔で、君縞さんがうなだれた。

「……鈍原さん? なんでこの子がまた、こんなところに?」
「なんだよ、俺が連れてきたんじゃねえぞ! マルチューが勝手に会いに来きたんだから仕方ねえだろうが。なあ、マルチュー」

 社長は君縞さんには一瞥もくれず、嬉しそうにマルチューの頭頂部を指先でいじっている。マルカさんは真顔で社長を見上げ、ひとつ息を吐いた。

「……社長。そういえば今朝、マルチューのケージを玄関に出していましたよね」
「おお、今日は天気がいいからな。あとで、掃除でもしてやろうと思って出しておいたんだ」
「不注意で、ケージが開いていたのではありませんか」
「んなわけあるか! 俺を疑うな、マルチューをホメろ! ケージを抜けてまで俺に会いに来るなんて、頭がいいなぁ、おまえは」

 社長はマルチューに唇を近付けた。それをかわすように、マルカさんが身をひるがえす。そのまま「とにかく、戻して来ます」と冷たく言い放ち、彼女は部屋を出て行った。
 社長が、大きく舌打ちをする。同時に、オレはほっと胸を撫で下ろした。

 あー、びっくりした。オレの苦手な「あの虫」じゃなくてよかったぁ……というか、一瞬、新薬になにかあったのかと思って焦ったよな。

 まったく……。オレは呆れた気持ちで、ドアを睨みつけている社長をちらっと見た。
 社長ってば、ケージ閉め忘れるなんて、うっかりしすぎなんじゃない? 投薬には直接関係ないにしろ、こういう日には毎回緊張感は持ってほしいよなあ。

 社長は鼻から息を抜いた後、オレの横――ベッドの上に腰かけてオレをじっと見据えた。

「おいおまえ、最近女抱いてるか?」
「え? 抱いてません……って、何ですか急に?! 急すぎて、うっかり答えちゃったじゃないですか! 急に、何の話?!」
「哲学の話だ!」
「はぃ?!」
「いいか。恐怖に勝るのは、性欲だけなんだ。おまえのその溜まった性欲を、エネルギーに変えろ。おまえは痛みに弱い。それを乗り越えるために、注射の針が刺さってる間中、Dカップのことだけ考えるんだ。治ったら、揉める。その一心で耐えろ。いいな!」
「えぇっ?! なんすか、それ……ま、まあ、性欲がエネルギー源になるっていうのは、なんとなくわかりますけど……なんで、D限定なんですか」
「なんだおまえ、貧乳派か?」
「や、オレは大きさはなんでも……てか別に、治っても揉めるとは限んなくないすか?」
「うるせえ! 揉むでも挟むでも、Dでもケツでもなんでもいい! そういう気持ちで立ち向かえ、っつーありがたいアドバイスだ! とにかく、俺の言うことを聞け!」

 オレは上目で天井を仰ぎ、小さく肩をすくめた。
 はぁ、疲れる。勝手にしゃべって、勝手に怒ないでよ。緊張を紛らわせるために、わざと下ネタを言ってくれてるんだと思いたいけど……それにしても今日は、全体的にどうにも締まりのない雰囲気だよなぁ。

「……あの……すみません。僕は、どうすれば……」

 ぼそりとつぶやかれた声に、オレははっとした。声の主、君縞さんのほうへ目を向けると、彼は戸惑いの色を浮かべた濁った眼でオレ達を見ていた。
 
 心の中で、反省する。緊張感がないのは、オレも同じだ。マルカさんがいないのをいいことに、つい調子に乗ってしゃべってしまった。

……いや、でも、オレらしいといえば、オレらしいのか……?
昔のオレなら、こんな会話が普通だったように思う。もしかして、オレはオレの感覚を取り戻しはじめているんだろうか。それならば、喜ばしいことかもしれないけど……。

「おお、すまん。君縞くんには聞くだけでもよおすような話だったな」

 社長が余計なことを言ったところで、マルカさんが戻って来た。
 少しだけ頬の赤い君縞さんが、姿勢を正し、オレの方へ向き直る。

「では、改めて……いいですか? 風音寺くん」

 オレはうなずき、腕を差し出した。
 マルカさんが、オレの身体に腕を回し、押さえつけてくる。ふっと、シャボンの匂いがした。手を洗ってきたのか、はたまた、別の香りなのか……刹那に胸がときめいたけれど、それは本当に一瞬だった。やっぱり、こんな緊張には性欲でも勝てないってこと……?!

 君縞さんが手にした注射針の先端が、いよいよオレに迫ってきた。

 今度こそ。今度こそ、オレを治してください―――――。

 目を閉じて、強く心に願う。

「……っ!」

 突き刺さる痛みに仰け反り、顎が上がる。
 感情のすべてを持っていかれそうになったとき、社長の「D!」という大声が耳に響いた。

 その瞬間。
 なんと驚くべきことに、オレの頭は「D」一色に染まってしまった。誰のものともつかない丸いふたつの膨らみが、脳内で魅惑的にゆれている。何故か、白い極小三角ビキニ着用だ。

 D、
 D、
 D、
 DDDDDDDDカップDカップDカップDカップDカップぅっ――……!!

「―――――――――――――――――――――――っ…… 」

 奥歯を噛みしめて、痛みをDで抑え込む。
 しばらくして、いつものように、君縞さんの「よく頑張りましたね」という労いが聞こえた。

 ゆっくりと、目を開ける。針はもう、腕から抜かれていた。
 痛かったけれど、今回は声を出さずに乗り切れたのだ。
 三度目だから、多少は痛みに慣れたのか? それともまさか、ホントにDのおかげで……?!

 思わず社長を見ると、「俺のおかげ!」と言わんばかりににやりとしていた。

 オレはうつむき、恥ずかしさで顔を赤くする。
 オ……オレ、そんなにおっぱい好きだったんだ。そりゃ、好きだよ。でも、あんな強烈な痛みすらすっ飛ばせるほど好きだなんて、好きのレベルがやばい。社長のひと言がきっかけとはいえ、あれほどきっちりアドバイスを実践できるなんて、おそらくオレには潜在的な……

 自己分析をしている最中、ふいに瞼が重くなった。
 ふらり、と上半身が揺れ、そのまま仰向けでベッドに倒れ込む。

「……風音寺さん?!」
「おい、どうした?!」

 マルカさんと、社長の叫び声が聞こえる。
 目の前が、暗くなっていく。

 それっきり、意識が遠のいていった。
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