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最終章
大丈夫(1)
しおりを挟む車を降りた途端、むっとした熱気がまとわりついてくる。一瞬で、クーラーの効いた車内が恋しくなった。
「あっつー……」
空高くから降り注ぐ強烈な真昼の日差しに、思わず顔をしかめる。明確に「夏」だと言い切れる季節になり、晴天が続くここ最近は、毎日がうだるような暑さだ。天気予報によれば、今日の最高気温は三十三度まで上がるらしい。
ここにあるのは――相殺堂の庭にあるのは、もう緑だけだった。塀に沿って置かれたプランターにも、花は咲いていない。元気のない葉が点々と取り残されているだけだ。
ピンクと、白。オレは満開のジギタリスを思い出しながら、頭を下げた。
「こんにちは、風音寺さん」
聞こえた声のほうへ、ふり返る。玄関先に、日傘をさしたマルカさんが立っていた。
「あれ、マルカさん! なにしてるんですか、暑いのに外で」
オレは車の鍵を閉め、手で日差しをさえぎりながら、マルカさんのもとへと向かった。マルカさんは、日傘をたたみはじめている。例にもれず、彼女は本日も白衣姿だ。
「今日は、風音寺さんがはじめて車でいらっしゃる日なので……気になって、ここで待っていました。無事に到着されて、なによりです」
「えっ、まじで? ありがとうございます、心配してもらって……でも暑いし、早く中に入ったほうがいいですよ。日焼けしちゃうし」
マルカさんの手で、玄関のドアが開かれた。どこかの部屋から漏れた冷気が、すっと流れ出してくる。
彼女のあとに続き、オレも相殺堂の廊下を進んだ。炎天下の庭とは違い、クーラーのない廊下でも涼しく感じる。
「道中、体調はいかがでしたか。久々の運転となれば、緊張もしたでしょう」
「いや、楽しかったですよ。最近、家の近所で練習はしてたんです。家族に同乗してもらって、家から一番近いファミレスまで行ってみたりとか。自分の車がないから、母親のを借りてるっていうのが、恥ずかしいっちゃ恥ずかしいですけどね。運転中、体調も問題なかったです」
「そうですか。それなら、よかったです。駐車、お上手でしたね。相殺堂の庭は前の道路が狭いですし、わりと停めにくいんですよ。しかも、今はわたしの車も置いてありますし……それなのに、一度切り返しただけできれいにおさめるなんて、お見事でした」
「えーっ、ホントにぃ? そこまで言われると、なんか照れるけど……オレ、結構バック得意なんですよ」
廊下の真ん中あたりまで歩いたところで、キッチンのドアが荒っぽく開いた。
そのドアは、今まさにオレの真横にある。突然のことに、オレの身体は小さく跳ねた。
現れたのは、裾の長い白衣を羽織った社長だ。眉をつり上げ、オレを睨みつけている。
「自惚れるな、クソガキ! 女に自らテクニックを自慢するなんざ、実力が伴ってねえ証だ。いいか。相手あっての行為だ、思い上がるんじゃねえ。みんながみんな、後背位が好きなわけじゃねえからな!」
「……はっ?! 後背ぃ……って、なんの話?!」
「とぼけるな! 性行為の話してたのは、おまえだろ!」
「車の話です!! 日常会話でマルカさんにそんな自慢してたら、オレ頭おかしいでしょ! ほんとに相変わらず……すぐそっちに持っていくの、やめてくださいよ!」
「あぁ?! どの口で、そんなこと言ってやがる! 俺と弓枝木を変な関係だと勘違いしてたのは、どこのどいつだ?!」
社長の手が、俺の頬をつねる。
「痛っ! は、放しっ……で、でも、あれはしょうがなくないすか? 誰も教えてくれなかったし、社長、マルカさんのこと苗字で呼んでるし、そもそも苗字も違うしっ……」
「しつっけえなあ! 前にも説明してやったじゃねーか。仕事上なれ合わねえように、あえて苗字で呼んでんだ。俺とこいつの母ちゃんは大昔に離婚してんだから、向こうに引き取られたこいつの苗字が俺と違ってもなんもおかしくねーだろ!」
オレにとって、それはあとから聞いた話だ。
それに、三回目の投薬の翌日、奥の部屋で見た光景が鮮烈だったんだもん。
相殺堂の奥の部屋で、薄暗い中、マルカさんが落ち込んだ社長を抱き締めていた。
それを見て、オレはてっきり、恋人同士だったんだと思い込んでしまったんだ。
でも、実際は親子愛。年頃の娘が、父親を抱き締めていたってことなんだよな。
言われてみれば、あの時のマルカさんは、母性ようなものが見て取れた気がしないでもないけど……
ただ、あれを目撃して、すぐに「あ、このふたり親子なんだ」とは思えなくない?
わが家に置きかえれば、奏が父さんを抱き締めるってことだぞ。そんなの、まず想像できないよ。よっぽど、なにかない限り、有り得ない光景でしょ。
まあ、社長とマルカさんの場合、その「よっぽど」が起きてしまったから、ああなったんだとは思うけどさぁ。
社長は「はん」と鼻を鳴らし、オレの頬から手を離した。腕を組み、顎と口角を上げる。
「だいたい、わざわざ言わなくても見りゃわかるだろーが。そっくりだろ、顔が!」
「似てません!」
「とにかく、おまえが俺の生殖活動に口出しする道理はない!」
「はあっ?! 誰もしてないです、そんなこと! また話が変わって」
――バシャン!
大きな音と共に、突然、上半身にぬるい水の塊がぶつかってきた。
オレは面食らい、頭のなかが「無」になる。それは目の前にいる社長も同様で、ずぶ濡れの顔で静止していた。
「聞くに堪えられません。不毛な言い争いは、時間の無駄です」
開け放たれた洗面所のドアの前に立つマルカさんが、吐き捨てる。手に持った大きなバケツからは、水が滴っていた。
「弓枝木、てめえ!」
「マルカさん、ひどい」
社長とオレの声が被る。
口を塞ぐように、今度はバスタオルが投げつけられた。
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