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奪われた××は戻らない
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しおりを挟む「お姉さん、びしょ濡れじゃん。風邪引いちゃうよ?」
「……」
「……ねぇお姉さん、今空いてる? ちょっと付き合ってほしいんだけど」
今まで何処に居たのとか、心配していたとか、無事でよかったとか。言いたいことはたくさんあったはずなのに、いざ椿くんを前にしたら、何の言葉も出てこない。
そっと手を掴まれ、導かれるままに連れてこられた場所は、艶めかしいネオンの光が輝くホテル街だった。そこまで来てようやく、私は口を開くことができた。だけど紡ぐ声は、自分の意思とは関係なく震えてしまう。
「ねぇ、椿くん……ふざけるのもいい加減にしてよ。私、すっごく心配してたんだよ」
「……やっぱり俺、お姉さんとどこかで会ったことあるっけ? んー、こんな綺麗なお姉さんと一度会ったら、忘れるはずないと思うんだけどなぁ。まぁ正直、俺のタイプではないんだけどね」
初めて会った日、ホテルで似たような台詞を言われたことを思い出しながら、胸の中を渦巻く不安に押しつぶされそうになる。
(椿くん、どうしちゃったの? 何だか、初めて出会った頃に戻ったみたいな……)
私の手を引きながらホテルに入った椿くんは、そのままエレベーターに乗り込んだ。最上階のボタンを押している。エレベーターを降りて、とりあえず黙って付いていけば、部屋に入った途端、椿くんの顔が近づいてきた。
「……何するの」
「何って……だって俺に付いてきてくれたってことは、そういうことが目的でしょ?」
口元を掌で覆ってガードしながら、斜め上にある椿くんの顔を睨み付ける。だけど椿くんはちっとも悪びれた様子なんてなくて、平然とした態度で再び顔を近づけてくる。
「……ねぇ、椿くん。覚えてる? 京都旅行に行った時、一緒に着物をきて神社に参拝に行ったこと」
「え?」
「あの時、一緒に絵馬を書いたでしょ? この前ね、その時の絵馬の写真を美代さんに見られてね、相変わらずのバカップルねって笑われちゃったんだよ。それに、この前新潟に行った時には、約束もしたよね。今回は行けなかったから、来年は一緒に花火を見に行こうって。それから…「あのさ」
椿くんなら絶対に知っているはずの思い出や約束を語っていれば、ひどく冷めた声に遮られてしまう。
「お姉さん、さっきから何言ってるの? 誰と勘違いしてるのか知らないけど、俺はそんなこと知らないよ」
「……」
目の前でニコリと笑っているのは、確かに、椿くんのはずなのに。
私の知っている、私がこれまで一緒に過ごして、たくさんの思い出を作ってきた椿くんとは、まるで別人みたいに思えて。
「……分かった。もういい」
椿くんの胸元を押して、距離をとる。
「っ、さようなら!」
わざと勢いよく扉を閉めて、部屋を出た。だけど椿くんは、引き止めてくれなかった。追いかけてくる気配もない。
「っ、ふっ……」
エレベーターに乗り込んだ瞬間、涙が溢れてくる。
椿くんが無事であればいいと、そう願っていた。だけど椿くんの中から、私の記憶が全部消えちゃうなんて……そんな未来、想像もしていなかった。
これからどうしたらいいのか、自分がどうしたいのか、何も分からなくて。だって私が何を言ったって、きっと今の椿くんには届かない。信じてもらえないだろうって、そんな確信があったから。
口許は弧を描いているのに、ひどく冷え切ったあの瞳に射抜かれた瞬間、私の中でギリギリで繋ぎとめていた虚勢の糸は、プツリと切れてしまったから。
“ずっと一緒にいる”って、そう約束したのに。
(椿くんの、嘘つき……)
だけど、信じてもらえるまで逃げずに彼に向き合う勇気も、彼の手を引っ張って連れ戻す度胸もなかった臆病な私は、ただただ心の中で、大好きな彼の名前を呼び続けることしかできなかった。
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