逃げられるものならお好きにどうぞ。

小花衣いろは

文字の大きさ
171 / 190
変わらぬ執着と近づく悪意

4

しおりを挟む


「……仕方ないから、椿くんが思い出すまで、待っててあげる」
「……うん、ありがと」

 私の言葉に小さく目を瞠った椿くんだったけど、すぐにその目を細めて、優しい顔で微笑み返してくれた。

「それじゃあ、俺は店に戻るから。またね、お姉さん」
「うん。送ってくれてありがとう」
「お別れのキスでもしておく?」
「……しません」
「ちぇっ、振られちゃった」

 冗談めいた顔で笑っている椿くんにジト目を送りつつ、心の中に浮上した不安な気持ちを、つい本人に吐き出してしまう。

「……その台詞、他の女の子にも言ってるの?」
「え?」
「っ、ごめん、何でもない」

 今の椿くんは私と付き合っていた時の記憶がないんだから、そんなこと言っても仕方ないって分かってるんだけど……それでも、椿くんが他の女の子と平気でキスしたり、触れ合ったりしていると思うと、やっぱり嫌だなって思う。悲しくなる。……私、嫉妬してるんだ。

「……そうだなぁ」

 椿くんは視線を上に向けながら「うーん」と考え込む。

「お姉さんと出会う前なら、言ってたかも? でも今はさ、不思議とそういう気持ちにならないんだよね。何でだろ」
「……そんなの、私だって分かんないよ」

 そんなこと言われたら、記憶がなくても、椿くんの中に私を思う気持ちが残っているんじゃないかって……期待しちゃうじゃん。

「それじゃあ理由が分かったら、お姉さんにも教えてあげるね。それに、今はお姉さんのことを思い出すので忙しいからさ」

 フッと息を漏らすように優しく笑った椿くんの手が、私の頬に触れる。

「隙あり」

 私の額にそっと口づけた椿くんは、意地の悪い目で顔を覗き込んでくる。

「あれ? お姉さん、顔が赤いよ?」
「っ、キスはしないって言いました!」
「だって、お姉さんが寂しそうな顔してるから」
「さ、寂しくなんて……」

 図星を突かれたような気持ちになって、思わず口籠ってしまえば、椿くんはまた「うーん」と考え込むように声を漏らす。

「皇さんに、宣戦布告でもしておいた方がいいかな」
「え?」
「さっき皇さんに、俺には関係ないって言ったけど……それ、撤回するよ」
「……どうして?」
「だってお姉さんのそんな可愛い顔、誰にも見せたくないし。っていうか、お姉さんが他の男に笑いかけたり、触れ合ったり……そういうの想像するだけで、相手の男を殺したくなる」
「それって……」

 ――椿くんも、嫉妬してくれてるってこと? 殺すは、さすがに物騒すぎるけど……。

「だからさ。待っててくれるっていうなら、俺が思い出すまで、お姉さんは俺のことだけ見ててよ。余所見しちゃダメだからね?」

 私の髪をそっと撫でてくれる椿くんの手は、鼓膜を揺らす声は、記憶をなくす前と変わりないくらい、優しくて甘ったるい。艶やかな笑みに釘付けになっているうちに、椿くんは今度こそ背を向けて行ってしまった。
 額を手で押さえながら、ついさっき触れた熱の感触を思い出せば――胸の中が、じわじわと温かいもので満たされていく。

(……言われなくても、私はずっと、椿くんしか見てないよ)

 緩む口許をそのままに、小さくなっていく後ろ姿を見送っていれば、カツカツとヒールがアスファルトを叩く音が聞こえてくる。

「こんばんは」

 振り向けば、そこに立っていたのは、長い黒髪にスラリとした体躯の美しい女性だった。彼女と顔を合わせるのは、これが二度目になる。

「貴女は……」
「香月百合子さん、よね。そういえば名乗っていなかったけど、私は佐々木憂美よ。改めてよろしくね?」
「佐々木って、もしかして……」
「ふふ、妹がいつもお世話になっているみたいで」
「やっぱり、佐々木ちゃんのお姉さんなんですね」

 どこかで見たことがあると思っていたけど、佐々木ちゃんのお姉さんだったんだ。確かによく見れば、垂れ目なところなんかよく似ている。だけど……どうして憂美さんがこんな所にいるんだろう。

「さっき一緒にいたのって、椿よね?」
「え? ……はい、そうですけど……彼と知り合いなんですか?」
「えぇ。椿はね、一時期私が面倒を見てあげていたことがあるのよ」
「……面倒を、ですか」

 もしかして、と思ってはいたけれど……やっぱり憂美さん、椿くんと知り合いだったんだ。それに、憂美さんの口ぶりから察するに、ただの知り合いっていうわけではなさそう。
 それ以上言葉が出てこなくて黙り込んでしまえば、ニコリと笑った憂美さんが、一歩距離を詰めてきた。くるんと上を向いた睫毛の下から覗くブラウンの瞳は、私の片耳に向けられている。

「あら! そのピアス、とっても素敵ね。もしかして、椿とお揃いなのかしら?」
「はい、そうですけど……」
「そう、本当に仲が良いのね。……実はね、椿のピアスホール、昔私が開けてあげたのよ。でも、あの時の椿ったら、涙目で痛いって私に抱き着いて甘えてきてね。外ではカッコつけのくせに、実際は結構お子ちゃまよね」

 憂美さんは「ま、そんなところも可愛いんだけど」と付け加えながら、口許に手を添えてクスクスと笑っている。

 ――どうしよう。
 これ以上、憂美さんの口から椿くんの話を聞きたくない。

「……あの、私はこれで失礼しますね」

 胸がズキリと痛みを訴えている。何だか顔を上げられなくて、視線は地面に向けたまま、頭を下げてこの場を去ろうとした。
 だけど、憂美さんに引き止められてしまう。

「ちょっと待ってよ。せっかく訪ねてきたんだから、もう少し聞いてくれてもいいじゃない? 私と椿のこと」
「……すみませんが、遠慮させていただきます」
「あら、どうして?」
「私は、椿くんのことが好きなので。……過去の女性・・・・・との思い出話を聞いて、楽しい気分にはなれません」

 今の椿くんは記憶がない。
 だけど、それでも――今の椿くんの彼女は、私だから。

 顔を上げて、憂美さんの目を真っ直ぐに見つめる。
 元カノ……だったのかは分からないけど、それは過去の話であることをあえて強調して口にすれば、憂美さんはピクリと片眉を持ち上げた。怒らせてしまったかと思ったけど、憂美さんはニコリと笑みを浮かべる。

「……ふふ、確かにそうよねぇ。でも椿にとっては、本当に過去のことなのかしら」
「……失礼します」

 今度こそ、背を向けてこの場を立ち去るつもりだった。
 だけど耳に届いた言葉に、私は自ら足を止めてしまった。

「ねぇ、百合子さん。――椿を元に戻す方法、知りたくない?」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

Bravissima!

葉月 まい
恋愛
トラウマに悩む天才ピアニストと 俺様キャラの御曹司 かつ若きコンサートマスター 過去を乗り越え 互いに寄り添い いつしか最高のパートナーとなる 『Bravissima!俺の女神』 ゚・*:.。♡。.:*・゜゚・*:.。♡。.:*・゜ 過去のトラウマから舞台に立つのが怖い芽衣は如月フィルのコンマス、聖の伴奏ピアニストを務めることに。 互いの音に寄り添い、支え合い、いつしか芽衣は過去を乗り超えていく。 ✧♫•・*¨*•.♡。.:登場人物:.。♡.•*¨*・•♫✧ 木村 芽衣(22歳) …音大ピアノ科4年生 如月 聖(27歳) …ヴァイオリニスト・如月フィルコンサートマスター 高瀬 公平(27歳) …如月フィル事務局長

好きだから傍に居たい

麻沙綺
恋愛
前作「ヒ・ミ・ツ~許嫁は兄の親友~(旧:遠回りして気付いた想い)」の続編です。 突如として沸いた結婚話から学校でのいざこざ等です。 まぁ、見てやってください。 ※なろうさんにもあげてあります。

先生

藤谷 郁
恋愛
薫は28歳の会社員。 町の絵画教室で、穏やかで優しい先生と出会い、恋をした。 ひとまわりも年上の島先生。独身で、恋人もいないと噂されている。 だけど薫は恋愛初心者。 どうすればいいのかわからなくて…… ※他サイトに掲載した過去作品を転載(全年齢向けに改稿)

甘い年下、うざい元カレ

有山レイ
恋愛
会社のイベントで年上の OL が酔払い、若いインターンと一夜の関係になった。偶然、翌日には嫌いな元彼が突然現れた。

工場夜景

藤谷 郁
恋愛
結婚相談所で出会った彼は、港の製鉄所で働く年下の青年。年齢も年収も関係なく、顔立ちだけで選んだ相手だった――仕事一筋の堅物女、松平未樹。彼女は32歳の冬、初めての恋を経験する。

同期に恋して

美希みなみ
恋愛
近藤 千夏 27歳 STI株式会社 国内営業部事務  高遠 涼真 27歳 STI株式会社 国内営業部 同期入社の2人。 千夏はもう何年も同期の涼真に片思いをしている。しかし今の仲の良い同期の関係を壊せずにいて。 平凡な千夏と、いつも女の子に囲まれている涼真。 千夏は同期の関係を壊せるの? 「甘い罠に溺れたら」の登場人物が少しだけでてきます。全くストーリには影響がないのでこちらのお話だけでも読んで頂けるとうれしいです。

身代りの花嫁は25歳年上の海軍士官に溺愛される

絵麻
恋愛
 桐島花は父が病没後、継母義妹に虐げられて、使用人同然の生活を送っていた。  父の財産も尽きかけた頃、義妹に縁談が舞い込むが継母は花を嫁がせた。  理由は多額の結納金を手に入れるため。  相手は二十五歳も歳上の、海軍の大佐だという。  放り出すように、嫁がされた花を待っていたものは。  地味で冴えないと卑下された日々、花の真の力が時東邸で活かされる。  

友達婚~5年もあいつに片想い~

日下奈緒
恋愛
求人サイトの作成の仕事をしている梨衣は 同僚の大樹に5年も片想いしている 5年前にした 「お互い30歳になっても独身だったら結婚するか」 梨衣は今30歳 その約束を大樹は覚えているのか

処理中です...